戦国時代の越中国(現在の富山県)にその名を刻む武将、神保長住(じんぼう ながずみ)。彼の生涯は、一般的に「親上杉派の父・長職に反発して追放され、織田信長に拾われるも、旧臣の裏切りによって富山城を奪われて失脚した悲運の人物」として語られることが多い 1 。しかし、この通説的な理解は、彼の生きた時代の複雑な力学を見過ごす危険性をはらんでいる。
当時の越中は、東に越後の上杉氏、西に加賀一向一揆、そして天下統一を目指す織田信長という三大勢力が激しく衝突する、まさに「境目の国」であった 3 。このような地政学的状況下で、一地方領主であった神保氏がいかにして存続を図り、そして滅亡へと向かったのか。その興亡の最終局面を一身に体現したのが、神保長住その人であった。
従来の研究では、長住の生涯は父・長職との対立を起点として描かれてきた。しかし、近年の歴史学者、特に久保尚文氏らの研究によって、この父子対立説は大きく見直され、神保家中の対立構造がより複雑なものであったことが明らかにされつつある 6 。
本報告書は、これらの最新研究の成果を基軸に据え、現存する一次史料を丹念に検証することで、神保長住の生涯を再構築する。彼が織田信長の越中経略において果たした戦略的役割、佐々成政との関係、そして失脚の真相を深く掘り下げ、単なる「悲劇の武将」という一面的な評価を超え、時代の転換点に翻弄されながらも、一族再興をかけて戦った武将としての実像に迫ることを目的とする。
神保長住の生涯を理解するためには、まず彼が背負った一族の歴史と、その権力基盤の形成過程を把握する必要がある。神保氏は、越中における中世後期から戦国時代にかけて、最も有力な武家の一つであった。
その出自は上野国多胡郡神保邑(現在の群馬県)に遡り、惟宗(これむね)姓を称したとされる 10 。南北朝時代、室町幕府の管領家である畠山氏が越中守護に任じられると、神保氏はその譜代家臣として越中に関与し始めた 10 。史料上の初見は嘉吉3年(1443年)で、神保国宗が越中守護代として射水郡・婦負郡の支配を担っていたことが確認できる 10 。以来、一族は射水郡放生津(ほうじょうづ、現在の射水市)を本拠地とし、越中西部に強固な地盤を築き上げた 10 。
神保氏の権勢が頂点に達したのは、15世紀末の神保長誠の時代である。長誠は、明応の政変(1493年)で将軍職を追われた足利義材(後の義稙)を放生津の居館に迎え入れ、事実上の亡命政権「越中公方」を樹立させた 12 。これは、神保氏が中央政局にも影響を及ぼし得るほどの勢力を有していたことを示している。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。長誠の子・慶宗は、主家である守護・畠山氏からの自立を画策し、加賀一向一揆と結ぶなど大胆な行動に出る 19 。これが主家の怒りを買い、永正17年(1520年)、畠山氏の要請を受けた越後守護代・長尾為景(上杉謙信の父)との新庄の戦いで慶宗は敗死 19 。神保宗家は壊滅的な打撃を受け、一時的に没落した。この敗北が、後の神保氏と越後長尾氏(上杉氏)との長きにわたる因縁の始まりとなる。
慶宗の死後、没落した神保家を再興し、越中最大の勢力にまで押し上げたのが、その子とされる神保長職(ながもと)であった 20 。彼の治世は、まさに上杉謙信との死闘の連続であり、その動向が息子・長住の運命を決定づけることになる。
長職の名が史料に現れる天文年間(1532年-1555年)、彼は神通川を越えて東方の新川郡へ進出。その拠点として富山城を築城(または大規模な改修)し、新川郡の守護代であった椎名氏との間で越中を二分する大規模な抗争(越中大乱)を繰り広げた 14 。この戦いを通じて、長職は常願寺川以西を勢力下に収め、神保家の権勢を飛躍的に拡大させた 20 。
しかし、この急激な勢力拡大は、椎名氏の宗主である越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の警戒を招いた。永禄3年(1560年)、椎名氏の救援要請に応じた謙信が越中に出兵すると、長職は富山城を放棄して、より堅固な山城である増山城(現在の砺波市)へ退却 20 。さらに永禄5年(1562年)にも謙信の再侵攻を受け、能登畠山氏の仲介で降伏を余儀なくされた 20 。この敗北により、長職は上杉氏への従属を強いられ、神保家の外交方針は大きく転換せざるを得なくなった。
この一連の出来事は、単なる軍事的敗北に留まらなかった。長職は上杉氏に従属する一方で、甲斐の武田信玄や加賀・越中の一向一揆とも連携し、独立を保とうと画策した 20 。この複雑で危ういバランスの上に成り立つ外交政策は、必然的に神保家中に深刻な路線対立を引き起こした。家中は、上杉氏との協調を重視する親上杉派の重臣・小島職鎮(こじま もとしげ)と、伝統的に関係の深い一向一揆や、上杉氏の宿敵である武田氏との連携を主張する反上杉派の重臣・寺島職定(てらしま もとさだ)の二大派閥に分裂したのである 29 。巨大勢力に挟まれた地方豪族が生き残りをかけて繰り広げた長職の巧みな、しかし苦しい外交努力は、結果として自らの足元に火種を抱え込むことになり、この内部対立こそが、後の神保家分裂、そして長住の悲劇的な運命へと繋がる直接的な原因となった。
父・長職が築き上げた危うい均衡の上で、神保長住は歴史の表舞台に登場する。彼の家督継承の経緯と、父との関係については、近年の研究によって従来の通説が大きく覆されつつある。
長住は神保長職の嫡子と推定されており 1 、史料上では「長城(ながしろ、または、ながくに)」「長国(ながくに)」といった名で現れ、後に「長住」と改名した同一人物と見なすのが現在の有力説である 1 。家督継承の時期は、元亀2年(1571年)末、父・長職が出家して「宗昌」と号し、長城(後の長住)と連名で八尾聞名寺に禁制を発給していることから、この時に隠居し家督を譲ったことが確認できる 6 。
ここで重要なのが、父子関係を巡る通説の是非である。従来、長住は武田信玄や一向一揆との連携を主張する反上杉派として、親上杉政策を維持しようとする父・長職や重臣・小島職鎮と対立し、追放されたとされてきた 1 。しかし、この「父子対立説」は、久保尚文氏らの研究によって根本的な見直しがなされている。
久保氏らの新説によれば、永禄11年(1568年)頃に長職と対立し、反上杉の旗幟を鮮明にしたのは、嫡子の長住ではなく、神保氏の庶流(あるいは猶子)であった神保氏張(うじはる)であったという 6 。氏張は守山城を拠点とし、能登畠山氏や一向一揆と結んで宗家(長職)の上杉従属路線に反発したため、長職によって知行を没収されている 33 。この説は、従来、父子対立の最大の根拠とされてきた織田信長宛の上杉謙信書状の年次比定が、永禄11年から12年に修正されたことによっても、その信憑性を高めている 6 。
この研究の進展は、神保家中の権力闘争の構図を大きく塗り替える。それは、単純な「父対子」の対立ではなく、「親上杉路線を取らざるを得ない宗家(長職・長住)」と「それに反発する反上杉派の庶流(氏張)および家臣団(寺島職定ら)」という、より複雑で多層的な対立構造であったと理解すべきである。長住は父から家督を継承した時点で、すでに家中は分裂状態にあり、親上杉派の重臣・小島職鎮らに依存しなければ家をまとめられない、極めて困難な状況に置かれていたと推測される。彼が後に織田信長に活路を見出すのは、この親上杉派が主導権を握る家中からの脱却と、自らの手による神保家再興を目指した動きであったと解釈できるのである。
家督を継承した長住(当時は長国)であったが、分裂した家中を立て直すことはできず、神保家の衰退は決定的であった。天正4年(1576年)9月、上杉謙信による越中総攻撃を受け、神保氏の本拠であった増山城はついに落城。長住は越中における全ての地盤を失い、流浪の身となった 6 。
しかし、彼は一族再興の夢を捨てなかった。京に上った長住は、天正5年(1577年)2月25日付で京都の清水寺に寄進を行い、「帰国武運長久」を祈願している 6 。この史料は、彼が越中への復帰を強く望んでいたことを示すと同時に、この頃から中央の新たな権力者である織田信長に庇護されるようになったことを示唆している 6 。
そして天正6年(1578年)3月、越後の「龍」上杉謙信が急死する 6 。北陸の勢力図を根底から揺るがすこの大事件は、流浪の長住にとってまさに千載一遇の好機となった。
天下統一を目前にする織田信長は、上杉家の後継者争い(御館の乱)に乗じて、北陸方面への本格的な侵攻を開始する。その越中経略において、信長は極めて巧みな戦略を用いた。彼は、越中の旧名門・神保家の正嫡である長住を、その先鋒として抜擢したのである。信長は長住を二条御新造に召し出し、黄金百枚と志々良(絹織物)百端を下賜 37 。さらに佐々長穐(さっさ ながあき、成政の一族)らの兵を与え、飛騨国経由で越中へと送り込んだ 4 。
信長が長住を起用した背景には、冷徹な戦略的計算があった。単に大軍を送り込む侵略では、在地勢力の強い抵抗が予想される。そこで、越中の元領主である長住を「神輿」として担ぎ上げ、織田軍の侵攻を「旧主の領地回復を支援する」という大義名分で正当化したのである 39 。この戦略は見事に功を奏し、上杉方についていた斎藤信利、小谷六右衛門、二宮長恒といった越中の国人衆は、次々と旧主の家系である長住、すなわち織田方へと鞍替えしていった 6 。長住は、信長の越中平定における、在地勢力を切り崩すための極めて重要な「駒」であり、彼の存在そのものが戦略的価値を持っていた。こうして織田軍は、最小限の兵力で、越中西南部を効率的に制圧することに成功したのである。
織田信長の後援を得て越中へ帰還した神保長住は、束の間の栄光を掴む。しかし、それは織田政権という巨大な権力構造の中で、より大きな歯車に組み込まれていく序章に過ぎなかった。
天正6年(1578年)9月、長住は斎藤利治が率いる美濃・尾張からの織田本隊と合流し、上杉・椎名連合軍と月岡野(現在の富山市)で激突した。この「月岡野の戦い」で織田軍は大勝を収め 6 、長住は勢いに乗って神保氏ゆかりの富山城を奪還。ここに彼は、追放からわずか2年で、再び越中の領主として返り咲いたのである 22 。
しかし、長住による支配は、あくまで織田軍の軍事力を背景としたものであった。信長は越中支配を盤石なものとするため、天正9年(1581年)、腹心の部将である佐々成政を事実上の越中守護として派遣する 35 。これにより、長住は成政の指揮下に編入され、越中における軍事・行政の主導権は完全に成政へと移行した 35 。
この長住と成政の関係は、織田政権が地方の在地領主(国衆)を支配下に組み込んでいく過程の典型例と言える。まず、在地に影響力を持つ国衆(長住)を「案内役」や「旗頭」として先行させ、現地の地ならしを行わせる。そして、ある程度平定が進んだ段階で、信長直臣の「取次(とりつぎ)」(方面軍司令官)である成政を送り込み、直接支配体制へと移行させるのである。長住は自らの手で故郷を回復したかに見えたが、その実態は、織田政権という巨大なシステムの一環に組み込まれたに過ぎなかった。名目上の富山城主でありながら実権を失ったこの状況が、彼の最後の悲劇の引き金となる。
人物名 |
長住との関係 |
主要な拠点 |
時期(目安) |
所属・立場 |
主要な行動・特記事項 |
典拠 |
神保長住 |
本人 |
増山城→富山城 |
〜天正4年 |
神保氏当主(反上杉) |
家督継承後、上杉謙信に敗れ越中を失う。 |
6 |
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(牢人) |
天正5年〜6年 |
織田信長に仕える |
京都で再起を図り、信長の支援を得る。 |
6 |
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富山城 |
天正6年〜10年 |
織田方(佐々成政配下) |
越中へ帰還し富山城主となるが、実権は成政へ。 |
23 |
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(追放) |
天正10年〜 |
消息不明 |
富山城幽閉事件の責任を問われ失脚。 |
6 |
神保長職 |
父 |
増山城 |
〜元亀2年 |
神保氏当主(親上杉) |
謙信に敗北後、上杉氏に従属。家中の親上杉派を重用。 |
20 |
神保氏張 |
同族(庶流) |
守山城 |
永禄11年頃〜 |
反上杉(能登畠山・一向一揆と連携) |
宗家の長職と対立。 |
33 |
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守山城 |
天正6年〜 |
織田方 |
謙信死後、信長に接近。長住と共に越中平定に協力。 |
33 |
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(佐々成政配下) |
天正9年〜 |
織田方→徳川家臣 |
成政の与力となり、後に家康に仕え旗本となる。 |
33 |
上杉謙信 |
敵対者 |
春日山城 |
〜天正6年 |
越後国主 |
越中に再三侵攻し、神保氏を従属させ、長住を追放。 |
4 |
織田信長 |
主君・利用者 |
安土城 |
天正5年〜10年 |
天下人 |
謙信死後、長住を越中攻略の先鋒として利用。 |
6 |
佐々成政 |
上官 |
富山城 |
天正9年〜 |
織田家臣(越中守護) |
長住の上官として越中に入国。長住失脚後、越中を完全掌握。 |
41 |
小島職鎮 |
旧臣・裏切者 |
日宮城 |
永禄年間 |
神保家臣(親上杉派) |
家中の実権を掌握。長職没後は上杉家臣となる。 |
26 |
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(上杉方) |
天正10年 |
上杉家臣 |
上杉方と通じ、長住を富山城に幽閉するクーデターを実行。 |
6 |
天正10年(1582年)3月、神保長住の運命を決定づける事件が勃発する。織田軍の主力が柴田勝家、前田利家、佐々成政らの指揮の下、上杉方の最後の拠点である魚津城を包囲している最中のことであった 45 。
この織田軍主力が不在となった隙を突き、かつて長住の父・長職の代から親上杉派として家中の実権を握り、その後は上杉家臣となっていた小島職鎮、そして神保覚広(信包)、唐人親広といった神保旧臣たちが蜂起。上杉景勝と内通し、手薄となっていた富山城を急襲したのである 6 。城主である長住はなすすべもなく捕らえられ、自らの居城に幽閉されるという屈辱を味わった 6 。
このクーデターは、単なる旧臣の裏切りという側面だけでは捉えきれない。これは、魚津城で窮地に立たされていた上杉方が、織田軍の背後を攪乱するために仕掛けた、高度な軍事作戦であった 48 。上杉方は、神保旧臣らに対し「太田の領有と越中支配の委任」といった破格の条件を提示して蜂起を促しており、組織的な謀略であったことがうかがえる 6 。
長住は間もなく、魚津城攻めから転進してきた柴田勝家・佐々成政らの反攻によって救出された 6 。しかし、この事件は彼の運命に致命的な影響を与えた。織田政権にとって、方面軍の拠点を一時的にせよ奪われたという事実は、長住の統治能力に対する決定的な不信感を生んだ。この失態の責任を問われ、長住は越中支配の任を解かれ、追放処分となったのである 6 。
この事件は、佐々成政にとって、越中一国支配を完成させるための絶好の口実となった。長住という在地勢力の旗頭を排除することで、成政は名実ともに越中の唯一の支配者となり、富山城を自らの本拠として大規模な改修に着手する 42 。織田政権の直接支配体制が確立した以上、在地勢力である長住の存在はもはや不要であり、むしろ潜在的な不安定要因と見なされた可能性が高い。彼は、織田信長の越中平定という大事業の中でその歴史的役割を終え、非情にも切り捨てられたのである。神保氏による越中支配の夢は、ここに完全に潰えた。
越中を追われた神保長住のその後の人生は、歴史の闇に包まれている。しかし、断片的に残された史料からは、故郷への復帰を願う彼の執念と、叶わなかった失意の晩年をうかがい知ることができる。
追放後、長住はなおも越中への帰還を諦めていなかった。そのことを示すのが、かつて彼の傘下にあったと思われる越中の国衆・菊池右衛門入道が、織田家の筆頭家老である柴田勝家に宛てた書状の存在である。高岡徹氏の研究によれば、この書状で菊池氏は、長住の赦免と越中への帰還の取り成しを勝家に必死に嘆願している 2 。しかし、織田政権の方針は固く、この願いが聞き入れられることはなかった。
長住に関する最後の確実な記録は、天正11年(1583年)8月のものとされる。彼は伊勢神宮の御師(おんし)を通じ、故郷・越中への還住を祈願している 6 。この記録を最後に、彼の消息は歴史上から完全に途絶える。その生没年もまた、詳らかではない 1 。
彼の最期を巡っては、いくつかの伝承が残されている。富山市長沢にある蓮華寺には、現在も「神保長住墓」と伝えられる五輪塔が存在する 53 。しかし、この石塔の銘文を詳細に検証すると、史実との矛盾点が浮かび上がる。銘文には長住の官途名が「安芸守」と刻まれているが、これは同族の神保氏張の官途名であり、長住の「越中守」とは異なる 53 。さらに、没年が「天正十年正月」とされているが、彼は同年3月の富山城事件の後も生存し、翌年には伊勢神宮に祈願しているため、これも事実に反する 53 。加えて、石塔の建立者である盤谷和尚の活動時期から、この塔が長住の死後200年以上経過した江戸時代の文化年間に建てられた供養塔であることが判明している 53 。したがって、この墓は長住本人のものではなく、後世の人々がその悲劇的な生涯を偲んで建立したものと考えられる。
結局、長住がどこで、どのようにその生涯を終えたのかは不明である。京都で客死した、あるいは越中のどこかの寺院でひっそりと亡くなったなど、様々な説が語られるのみであり、その最期は謎に包まれている 54 。
神保長住の生涯は、一見すると敗北と失意の連続である。父祖伝来の地を追われ、巨大権力に利用された末に捨てられるという、典型的な「敗者」の物語として映るかもしれない。しかし、彼の歴史的役割を、戦国末期の北陸という「境目」の力学の中に位置づけて再評価する時、その姿は異なる様相を帯びてくる。
第一に、長住は織田信長の越中平定において、不可欠な「尖兵」としての役割を果たした。上杉謙信の死という好機を捉えた信長にとって、越中の名門・神保家の正嫡である長住の存在は、軍事侵攻を正当化し、在地勢力を懐柔するための絶好のカードであった 22 。彼の帰還がなければ、越中の国人衆は容易に織田方になびかず、佐々成政による越中平定は、より多くの時間と犠牲を要したであろう。
第二に、彼の生涯は、守護代という室町時代以来の旧来の権威が、織田信長に代表される強力な中央集権体制に飲み込まれていく、時代の過渡期の悲劇を象徴している 56 。彼は没落した一族の再興という夢を、信長という新興の巨大権力に託した。しかし、その夢は、より大きな政治力学の中で翻弄され、彼自身がそのシステムを動かす主体となることは許されなかった。彼の失脚は、もはや在地領主が独立した勢力として存在し得ない時代の到来を告げるものであった。
結論として、神保長住は単なる無能な敗者でも、不運なだけの武将でもない。彼は、上杉、織田、一向一揆という巨大勢力の狭間で、自らの一族と領地を守り、再興するために必死に活路を見出そうと行動した、紛れもない「境目の国」の当事者であった。その束の間の成功と最終的な挫折の軌跡は、戦国末期の地方豪族が辿った過酷な運命を、我々に雄弁に物語っている。歴史の主役にはなれなかったかもしれないが、北陸の勢力図が塗り替えられる決定的な局面において、重要な役割を担った人物として、彼は再評価されるべき存在である。