日本の戦国時代、越中の地を舞台に活躍した武将、神保長城(じんぼう ながしろ、または「ながくに」)。彼の名は、歴史の記録に確かに刻まれながらも、その生涯は深い霧に包まれている。利用者殿が事前に把握されていた「父・長職が兄・長住を追放した後に家督を継ぎ、後に長住に返還した」という概要は、この人物を巡る複雑な物語の一端に過ぎない 1 。本報告書は、この「幻影の武将」とも言うべき神保長城の実像を、現存する限りの史料と近年の研究成果を駆使し、多角的かつ徹底的に解明することを目的とする。
神保長城に関する研究が困難を極める最大の理由は、その存在を直接的に証明する一次史料が極めて乏しいという点にある。彼の名を明確に記した確実な同時代史料は、元亀二年(1571年)に父・長職(法号・宗昌)との連署で発給された「聞名寺禁制(もんみょうじきんぜい)」が、ほぼ唯一の存在である 1 。この一点の史料が、彼の存在をかろうじて現代に伝え、同時に彼を巡るあらゆる議論の出発点となっている。
この史料的制約の中から、近年、特に郷土史家の久保尚文氏をはじめとする研究者によって、一つの有力な説が提唱された。それは、「長城」とは兄とされる「神保長住(ながずみ)」が家督相続前後に名乗った名であり、長城と長住は同一人物である、というものである 2 。この「長城・長住同一人物説」は、神保長城という人物を理解する上で避けては通れない核心的な論点であり、本報告書においても中心的な考察対象となる。
本報告は、まず第一章で、長城が登場する前提となる時代背景、すなわち父・神保長職が率いた神保氏の栄光と苦難、そして越後の上杉謙信との激しい抗争と、それに伴う家中分裂の過程を概観する。続く第二章では、長城が歴史の表舞台に現れる家督相続の経緯と、彼の立場を唯一物語る史料「聞名寺禁制」を詳細に分析する。第三章では、神保氏の拠点・増山城の落城と、それに伴う長城の歴史からの退場、そして兄・長住の越中復帰から追放に至る神保宗家の終焉までを追跡する。第四章では、本報告の核心である「長城・長住同一人物説」を研究史的に考察し、肯定説、否定説双方の論拠を比較検討することで、その実像に迫る。最後に、これらの分析を総合し、神保長城という存在が越中戦国史において持つ歴史的意義を結論づける。
神保氏は、本姓を惟宗氏(これむねし)とし、室町幕府の管領家であった畠山氏の譜代家臣として、その歴史を歩み始めた名門である 5 。畠山氏が越中国、能登国、紀伊国などの守護職を得ると、神保氏はその守護代として各地に派遣され、特に越中においては射水郡放生津(ほうじょうづ、現・射水市)を本拠として根を張った 5 。応仁の乱では神保長誠(ながのぶ)が主君・畠山政長(まさなが)の腹心として活躍し、明応の政変で追われた将軍・足利義稙(よしたね)を放生津に迎えるなど、一時は中央政局にも影響を及ぼすほどの勢力を誇った 5 。しかし、長誠の子・慶宗(よしむね)の代に主家からの独立を画策した結果、越後守護代・長尾為景(ためかげ)と主君・畠山氏の連合軍に敗れ、一族は壊滅的な打撃を受けることとなる 5 。
神保長城の父である神保長職(ながもと)は、この没落した神保家を再興した「中興の祖」として評価される人物である 5 。長職は天文年間(1532年~1555年)に神保氏の惣領的地位を確立すると、旧来の本拠地である射水平野から東進し、天文12年(1543年)頃、神通川の東岸に富山城を築城した 7 。これは、越中東部の新川郡を支配する守護代・椎名氏への明確な挑戦であり、これ以降、両者は国人衆を巻き込み越中を二分する「越中大乱」と呼ばれる大規模な抗争を繰り広げた 7 。長職は一時期、常願寺川以西の越中西部をほぼ手中に収め、神保氏の最大版図を現出した 7 。
しかし、この急速な勢力拡大は、隣国・越後の龍、長尾景虎(後の上杉謙信)の警戒を招く。椎名氏からの救援要請を受けた謙信は、永禄3年(1560年)と永禄5年(1562年)の二度にわたり、大軍を率いて越中に侵攻した 12 。長職は富山城を放棄して、より堅固な山城である増山城(ますやまじょう、現・砺波市)に籠もって抵抗するも、謙信の圧倒的な軍事力の前に降伏を余儀なくされた 7 。この敗北により、神保氏は上杉氏への従属を受け入れざるを得なくなり、長職が一代で築き上げた栄光に大きな影が差すこととなった。
上杉氏への従属という現実は、神保家中に深刻な亀裂を生じさせた。外交方針を巡り、家中は二つの派閥に分裂し、激しい内部対立に陥ったのである。
一方の派閥は、当主・長職と、家中の実権を握る重臣・小島職鎮(こじま もとしげ)らを中心とする 親上杉派 であった 3 。彼らは、強大な上杉氏の力を背景にすることで、かろうじて家の存続を図ろうとする現実的な路線を選択した。
これに対し、長職の嫡男・神保長住(ながずみ)を中心とする一派は、上杉氏と敵対する甲斐の武田信玄や、越中・加賀に強大な勢力を持つ一向一揆と連携し、上杉からの完全な独立を目指す 反上杉派 を形成した 3 。
この神保家中の内紛は、単なる一族内の路線対立に留まるものではなかった。当時の越中は、西から勢力を伸ばす武田・一向一揆勢力と、それを阻む東の上杉勢力が激突する、まさに「境目(さかいめ)」の地であった 13 。このような地勢的条件下において、地方の国人領主である神保氏の内部対立は、必然的に外部の巨大勢力の代理戦争という様相を呈した。長職と長住の父子の対立は、そのまま上杉謙信と武田信玄の越中における覇権争いの縮図だったのである。神保長城が歴史の表舞台に登場するのは、こうした外部勢力の思惑が複雑に絡み合い、一地方勢力が自らの意思だけでは進路を決定できない、戦国時代後期の厳しい国際環境の真っただ中であった。
親上杉路線を維持しようとする父・長職や重臣・小島職鎮と、反上杉を掲げる嫡男・長住との対立は、ついに破局を迎える。永禄11年(1568年)頃、この内紛に上杉謙信が軍事介入を行い、反上杉派であった長住らは鎮圧された 3 。結果、長住は越中を追われる形で出奔し、京に上って織田信長を頼ることになる 1 。
この嫡男の追放という異常事態を受け、父・長職は、次男とされる神保長城を後継者として指名し、家督を譲ったと見られている 1 。これが、謎多き武将・長城が歴史の表舞台に姿を現す直接のきっかけであった。彼は、兄の失脚という波乱の中で、分裂した神保家の命運を託されたのである。
神保長城という人物が確かに実在したことを証明する、最も信頼性の高い史料が、元亀二年(1571年)十二月の日付で、婦負郡八尾(やつお)の有力寺院である聞名寺に発給された禁制(きんぜい)である 1 。この禁制は、寺の領域内での軍勢による乱暴狼藉や放火などを禁じ、寺院の不可侵権(不入権)を保障する内容を持つ。この文書の最大の特徴は、その署名形式にある。
表1:元亀二年十二月付 神保宗昌・長城連署禁制(聞名寺文書)
項目 |
内容 |
史料名 |
聞名寺文書所収 神保宗昌・長城連署禁制 |
年月日 |
元亀二年(1571年)十二月日 |
差出人 |
宗昌(花押)、長城(花押) |
宛所 |
聞名寺 |
内容(要約) |
聞名寺の寺内において、軍勢による乱暴狼藉、放火、理不尽な要求をすることを固く禁じる。もし違反する者がいれば、速やかに厳罰に処す。 |
特記事項 |
差出人として、既に出家して「宗昌」と名乗っていた父・長職と、「長城」が連署(共同で署名)し、それぞれが花押(署名代わりのサイン)を据えている 2 。 |
この禁制は、単なる行政文書以上の、極めて高度な政治的意味合いを持っていた。当時、神保家は親上杉派と反上杉派に分裂し、権力基盤は著しく不安定であった 5 。このような状況下で、親上杉派の筆頭である隠居した父・宗昌(長職)と、その後継者である長城が連名で公式文書を発給する行為は、内外に対する強力な政治的メッセージであった。すなわち、この禁制は、第一に「追放された長住ではなく、長城こそが神保家の正統な後継者である」こと、第二に「新体制も父・宗昌の親上杉路線を継承する」こと、そして第三に「領内の有力寺院である聞名寺の権益は新体制下でも完全に保障される」ことを、公式に宣言するものであった。この一枚の文書から、当時の神保家が抱えていた権力基盤の脆弱性と、それを糊塗し、分裂した家中を結束させようとする必死の試みが透けて見えるのである。
こうして家督を継いだ長城であったが、その立場は極めて不安定なものであった。神保家中の実権は、長年にわたり親上杉路線を主導してきた重臣・小島職鎮によって完全に掌握されていたと見られている 5 。職鎮は、神保家が上杉謙信に敗北した後、いち早く親上杉派に転向し、反対派を排除して家中の主導権を確立した人物である 16 。
したがって、長城の立場は、職鎮ら親上杉派の家臣団によって擁立された「傀儡(かいらい)の当主」に過ぎなかった可能性が極めて高い。彼の治世における具体的な政治的・軍事的活動が一切伝わっていないのは、彼自身に実権がなかったことの証左と言えよう。
ここで注目すべきは、小島職鎮の行動原理である。彼は長職の老臣でありながら、主君の嫡男である長住を排除し、次男の長城を立てた。さらに後年、織田信長の支援を得て正統な後継者として帰還した長住を、再び裏切り幽閉している 16 。この一見すると矛盾した行動は、彼の忠誠が「神保家の当主」という個人ではなく、「親上杉路線」という政策そのものに向けられていたことを示唆している。職鎮にとって、神保家が越中で存続するための唯一の道は上杉への従属であり、それに反する者(反上杉派の長住)は、たとえ主君の子であろうと排除すべき対象であった。長城は、その「親上杉路線」を維持するための象徴として、政治的に都合の良い存在だったのである。これは、戦国時代の主従関係が、単なる人間的な信頼関係だけでなく、時にはより冷徹な政治的利害によって規定されていたことを示す好例と言える。
長城が家督を継承した後も、神保家中の反上杉の気運は燻り続けていた。元亀3年(1572年)頃には、神保家中の「増山衆」が一向一揆勢力と結び、富山城に入城するなど、越中の情勢は再び緊迫の度を増していく 2 。これは、当主である長城(あるいは彼を擁する小島職鎮ら)の統制が、家中に完全には及んでいなかったことを示している。
この越中の不穏な動きに対し、ついに上杉謙信が動く。天正4年(1576年)、謙信は宿敵であった能登畠山氏を打倒すべく七尾城へと大軍を進めるが、その途上、背後の憂いを断つために、反抗的な神保氏の本拠・増山城へと矛先を向けたのである 1 。
越中三大山城の一つに数えられる堅城・増山城も、天下にその名を轟かせた上杉軍の猛攻の前には持ちこたえられなかった。同年、増山城は落城し、越中における神保氏の独立勢力としての歴史は、ここに事実上の終焉を迎えた 1 。
この増山城の落城を最後に、神保長城の名は、確実な史料の上から完全に姿を消す。彼のその後の消息については、いくつかの説が存在するものの、いずれも確証を欠いている 1 。
第一に、落城の際に城と運命を共にし、討死したとする説。
第二に、城を脱出して落ち延びたものの、その後の行方は不明となったとする説。
いずれにせよ、元亀二年の禁制に名を記してからわずか5年で、彼は歴史の表舞台から忽然と消え去った。彼が「幻影の武将」と呼ばれる最大の所以である。
長城の消息が途絶えた2年後の天正6年(1578年)、上杉謙信が急死するという激震が北陸を襲う。これを千載一遇の好機と捉えたのが、天下布武を進める織田信長であった。信長は、かねてより庇護していた神保長住に兵を与え、織田軍の先鋒として越中へ侵攻させた 3 。
上杉家の後継者争い(御館の乱)で混乱する隙を突き、長住は織田軍の圧倒的な支援を背景に快進撃を続け、かつての神保氏の拠点であった富山城を奪還し、城主として返り咲くことに成功する 3 。
しかし、その栄光もまた束の間であった。天正10年(1582年)、武田氏滅亡の報に動揺した上杉方に与した旧臣・小島職鎮らが反乱を起こし、長住は富山城内で身柄を拘束され、幽閉されるという屈辱を味わう 2 。この反乱は、柴田勝家ら織田軍の反攻によって直ちに鎮圧されたものの、信長は一連の失態を犯した長住の器量を完全に見限り、彼を越中から追放するという厳しい処分を下した 2 。
この追放劇により、越中守護代として栄華を誇った神保宗家は、名実ともに滅亡した。長住もまた、兄の長城と同様に、その後の消息は歴史の闇の中へと消えていったのである 2 。
神保長城という人物の生涯を追う上で、避けて通れないのが「彼はそもそも実在したのか」という根本的な問いである。この問いに一つの明快な解答を示したのが、郷土史家・久保尚文氏による「同一人物説」である。
久保氏が提唱した説は、従来、神保長職の子として「長住」「長城」「長国」という複数の人物がいたとされてきたが、これらはすべて同一人物であり、一人の武将が時期に応じて名乗りを変えたものである、とする画期的なものであった 2 。
この説によれば、人物の変遷は 長城 → 長国(ながくに) → 長住 という流れで整理される。すなわち、元亀2年(1571年)に父から家督を譲られた際には「長城」と名乗り、その後、反上杉色を強める中で「長国」と改名、そして上杉謙信に敗れ、織田信長の下で再起を図る段階で、心機一転「長住」と名乗りを変えた、というものである 2 。
この説の最大の論拠は、史料の連続性にある。長城、長国、長住という三人の人物が同時に活動したことを示す史料は存在せず、それぞれの名が登場する時期が時系列的にきれいに連続している。このことから、彼らを別人とするよりも、一人の人物の異なる時期の記録と見なす方が、はるかに合理的であると主張する。
この説に立つならば、一人の武将の改名の背景には、その時々の政治的立場の表明と、不屈の再起への意志が込められていたと解釈できる。すなわち、「長城」は親上杉派の父から家督を譲られた後継者としての名。「長国」は上杉から離反し、一向一揆などと結んで独自の道を模索した時期の名。そして「長住」は、一度はすべてを失いながらも、織田信長という新たな後ろ盾を得て、過去を断ち切り越中復帰を果たすという強い決意を示した名であった、と考えられる。このように、改名の軌跡は、彼の波乱に満ちた生涯と政治的立場の変遷を雄弁に物語る、アイデンティティ再構築の過程そのものであったと見ることができる。
この「同一人物説」は、多くの状況証拠に裏付けられ、現在では有力な説として受け入れられているが、確定したわけではない。いくつかの反証となりうる疑問点も残されている。
その最大の謎は、織田信長の伝記である『信長公記』の記述である。天正7年(1579年)の条に、織田信長が「神保長城」から黒葦毛の馬を献上された、という一節が存在する 28 。同一人物説に従えば、この時期、彼はすでに「長住」と名乗って越中で活動しているはずである。なぜ、信長の公式記録とも言える史料に、古い名前である「長城」が記されているのか。
この点については、いくつかの可能性が考えられる。一つは、『信長公記』の筆者が、単に名前を誤記したか、あるいは古い情報のまま記録してしまったという可能性である。もう一つは、長住とは別に「長城」という人物が、弟として、あるいは一族の者として存命しており、兄とは別に信長に接近を図っていたという可能性である。この場合、長城と長住は別人ということになり、利用者殿が当初把握されていたような、兄弟間の権力移譲という伝統的な理解が妥当性を帯びてくる。
以上の考察から、神保長城の歴史的実像については、二つの異なる解釈が並立している状況にある。
結論A(同一人物説): 史料の連続性や改名の背景にある政治的文脈を重視するならば、長城は長住の若き日の名である可能性が最も高い。この場合、彼の生涯は、親上杉派の父との対立に始まり、家督継承、反上杉への転向、上杉謙信による敗北、そして織田信長の下での再起と最終的な没落という、一人の武将の波乱に満ちた一代記として、首尾一貫した物語として再構成される。
結論B(別人説): 聞名寺禁制と『信長公記』の記述を厳密に解釈するならば、長城は長住の弟として実在したと考えることも可能である。この場合、彼は父から家督を継いだものの、家臣に実権を奪われ、天正4年の増山城落城と共に歴史から姿を消した悲劇の若き当主であった、ということになる。そして、兄の長住は、弟の死後に全く別の経緯で越中に復帰を果たした、と解釈される。
本報告書としては、提示された証拠の総合的な評価から、 結論A(同一人物説)をより蓋然性の高い説 として位置づける。しかし、結論Bの可能性も、新たな史料が発見されない限り完全に否定することはできず、今後の研究の進展が待たれる、と留保付きで結論づけるのが最も学術的に誠実な態度であろう。
本報告書における神保長城に関する徹底的な調査の結果、彼の存在は、①兄・長住と同一人物であり、その名は波乱の生涯における一時期の名乗りであったとする有力な説、②長住の弟として家督を継ぐも、時代の奔流の中で夭折した悲劇の当主であったとする説、という二つの解釈に大別されることが明らかとなった。
どちらの説を採るにせよ、「神保長城」という名は、上杉、武田、そして織田という巨大勢力の狭間で翻弄され、激しい内部抗争の末に自壊していった越中守護代・神保氏の混迷と悲劇を、鮮烈に象徴する存在であることに変わりはない。彼の物語は、一個人の生涯に留まらず、戦国時代という激動の時代において、地方の小規模な勢力が、抗いがたい大きな歴史の力学の中でいかにして生き残りを図り、あるいは滅びていったかという普遍的な問いを我々に投げかける。
確実な史料の乏しさゆえに、その実像は今なお論争の只中にある。神保長城は、まさしく歴史の狭間にその姿を消した、越中戦国史が生んだ幻影なのである。
西暦/和暦 |
神保長城/長住の動向 |
神保長職の動向 |
小島職鎮の動向 |
上杉氏/織田氏の動向 |
越中における主要な出来事 |
1560年 |
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富山城を築き勢力を拡大。 |
長職の重臣として活動。 |
上杉謙信 、越中に初侵攻。 |
神保長職、富山城を放棄し増山城へ敗走後、降伏 14 。 |
永禄3年 |
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1562年 |
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再び椎名氏を圧迫。 |
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謙信 、再度越中に侵攻。 |
長職、再び謙信に敗北し降伏 7 。 |
永禄5年 |
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1568年頃 |
長住 、父・長職や小島職鎮と対立し、越中を出奔。 織田信長 を頼る 3 。 |
親上杉路線を維持。 |
親上杉派の筆頭として家中を主導。 |
謙信 、軍事介入により長住ら反上杉派を鎮圧。 |
神保家中で内紛が激化。 |
永禄11年頃 |
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1571年 |
長城 として家督を継承。父・宗昌と連署で聞名寺に禁制を発給 1 。 |
出家し 宗昌 と号す。長城に家督を譲る。 |
長城を傀儡として擁立し、実権を掌握 5 。 |
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神保家の家督が長城に正式に継承される。 |
元亀2年 |
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1572年頃 |
長国 と改名した可能性(同一人物説による)。一向一揆と結び反上杉化 2 。 |
この頃没したと推定される 3 。 |
親上杉派として一揆勢と対立するも、日宮城で降伏 16 。 |
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加賀一向一揆が越中に侵攻。増山衆が一揆方として富山城に入る 20 。 |
元亀3年頃 |
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1576年 |
増山城落城後、消息不明となる 1 。 |
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謙信 、能登侵攻の途上、増山城を攻略 21 。 |
神保氏の本拠・増山城が落城。 |
天正4年 |
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1578年 |
長住 と改名。 信長 の支援を受け、越中に復帰。富山城を奪還 3 。 |
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謙信 、急死。 |
織田軍の支援で長住が越中の実権を回復。 |
天正6年 |
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1579年 |
(『信長公記』に「 長城 」が馬を献上したとの記録あり) 28 。 |
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信長 、勢力を拡大。 |
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天正7年 |
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1581年 |
佐々成政 の指揮下に入る 3 。 |
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佐々成政 が越中守護として入国。 |
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天正9年 |
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1582年 |
富山城にて 小島職鎮 らに幽閉される。救出後、 信長 により追放され、消息不明に 2 。 |
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上杉方と通じ、長住に対して反乱を起こす 16 。 |
柴田勝家 らが反乱を鎮圧。 |
神保宗家、事実上の滅亡。 |
天正10年 |
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