本報告書が対象とするのは、戦国時代から安土桃山時代にかけて伊勢国を拠点とした国人領主、神戸氏第7代当主・神戸具盛(かんべ とももり)である。彼は神戸氏第5代当主・長盛の子として生まれ、慶長5年(1600年)にその波乱の生涯を閉じた 1 。
歴史を紐解く上でまず留意すべきは、同名の祖父、すなわち神戸氏第4代当主・具盛(号は楽三、1551年没)の存在である 3 。この祖父は伊勢国司・北畠家から養子に入り、神戸氏の勢力を飛躍的に拡大させた名君であった。そのため、孫である7代具盛と区別するため、後世の史料、特に『勢州軍記』などでは「神戸友盛」という表記がしばしば用いられる 1 。この「友盛」という表記は、単なる通称や別名という以上に、偉大な祖父の影の下に生きた彼の歴史的立ち位置を象徴している。彼の生涯は、常に他者、すなわち祖父・楽三、天下人・織田信長、そして養子・信孝といった強大な存在との関係性の中で規定され、翻弄され続けた。本報告書では、この人物を特定するため、原則として「具盛(友盛)」と併記し、その複雑な生涯を多角的に解明する。
神戸氏は、桓武平氏の流れを汲むとされ、伊勢国鈴鹿郡を本拠とした関氏の庶流にあたる 6 。14世紀、関氏当主の関盛政が領地を子らに分与した際、長男・盛澄が神戸郷を領して神戸氏を名乗ったことに始まるとされる 6 。
神戸氏の歴史における大きな転機は、4代当主・具盛(楽三)の時代に訪れる。彼は南伊勢に絶大な権勢を誇った伊勢国司・北畠材親の子であり、子のなかった3代当主・為盛の養子として神戸家に入った 3 。これにより神戸氏は北畠家という強力な後ろ盾を得て、本家である関氏と並び称されるほどの勢力を築き上げるに至った 4 。この北畠氏との強固な血縁関係は、後の7代具盛(友盛)の代における政治的・軍事的判断に大きな影響を及ぼすことになる。
一族の本拠地は、当初の沢城(さわじょう、現在の鈴鹿市飯野寺家町)であったが、4代具盛の時代に新たに神戸城(現在の鈴鹿市神戸)が築城され、拠点はこちらに移された 9 。この神戸城が、本報告書の主人公である具盛(友盛)の生涯の舞台となる。
具盛(友盛)の生涯を理解するためには、彼を取り巻く複雑な人間関係の把握が不可欠である。以下の表は、彼の行動原理に深く関わった主要人物との関係を整理したものである。特に、妻の実家である蒲生氏、姉の嫁ぎ先である織田信包、そして運命を大きく左右することになる養子・織田信孝との関係は、彼の決断の背景を読み解く上で極めて重要となる。
関係性 |
人物名 |
備考 |
神戸家(当人) |
神戸具盛(友盛) |
第7代当主。本報告書の主題。 |
妻 |
蒲生定秀の娘 |
氏名不詳。六角氏との同盟のための政略結婚 1 。 |
娘 |
鈴与姫(竹子) |
織田信孝の正室。後に林十蔵、関一利に再嫁 1 。 |
父 |
神戸長盛 |
第5代当主 1 。 |
兄 |
神戸利盛 |
第6代当主。永禄2年(1559年)に23歳で急死 1 。 |
姉 |
織田信包室 |
織田信長の弟・信包に嫁ぐ。具盛の晩年の亡命先となる 1 。 |
祖父 |
神戸具盛(楽三) |
第4代当主。北畠材親の子。神戸氏中興の祖 3 。 |
養子 |
織田信孝 |
織田信長の三男。神戸氏第8代当主となる 6 。 |
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林与五郎(十蔵) |
信孝死後、娘婿となり神戸氏を継承するが、後に敗死 6 。 |
姻戚関係 |
蒲生定秀 |
舅。近江日野城主。六角氏重臣 1 。 |
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蒲生賢秀 |
義兄。定秀の子。具盛幽閉時の預かり主 1 。 |
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関盛信 |
義兄弟。妻が蒲生定秀の娘。神戸氏の本家筋 1 。 |
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織田信包 |
義弟。安濃津城主。具盛の姉婿 1 。 |
家臣 |
山路弾正 |
高岡城主。織田軍に頑強に抵抗した忠臣 16 。 |
神戸具盛(友盛)の人生は、平穏な僧侶としての道から始まる。彼は神戸氏第5代当主・長盛の次男として生まれたが、家督を継ぐ立場にはなく、若くして仏門に入り、土師(現在の三重県鈴鹿市土師町周辺)にあった福禅寺の住職を務めていた 1 。彼の人生が大きく転換したのは、永禄2年(1559年)のことである。兄であり、神戸氏第6代当主であった利盛が、武名の誉れ高かったにもかかわらず、23歳という若さで急逝したのである 1 。
史料には利盛の死因について具体的な記述はなく、「急死」とのみ記されているが、この突然の当主の死は神戸家に大きな衝撃を与えた。利盛には嗣子がおらず、家督を継ぐべき直系の男子が不在という危機的状況に陥った。この事態を受け、弟である具盛(友盛)が急遽還俗し、神戸氏の家督を継承することとなった 1 。これは彼自身の意図せざる、まさに予期せぬ家督相続であり、彼の人生はここから激動の渦中へと投げ込まれることになる。
具盛(友盛)が継承した神戸家は、決して安泰な状態ではなかった。むしろ、父・長盛や兄・利盛の時代の積極的な拡張政策が、深刻な負の遺産となって彼にのしかかっていた。祖父・楽三の代に強化された伊勢国司・北畠氏との関係を背景に、長盛・利盛は北伊勢から南近江へとたびたび出兵し、勢力圏の拡大を図っていた 1 。
しかし、この拡張路線は周辺勢力との間に深刻な軋轢を生んだ。特に、本来は本家筋にあたる関氏との関係は悪化し、また地理的に隣接する南近江の太守・六角氏からも強い圧迫を受ける状況にあった 1 。いわば、先代までの攻勢が裏目に出て、具盛(友盛)が家督を継いだ時には、神戸氏は四囲の敵に囲まれかねない孤立した状況に陥っていたのである。その証拠に、彼の家督相続直後から、中伊勢の長野工藤氏をはじめとする近隣勢力による侵攻が繰り返され、神戸領は絶え間ない戦火に晒されることとなった 1 。
仏門から突如として乱世の当主へと転身した具盛(友盛)であったが、彼はこの危機的状況に対し、驚くべき現実主義と戦略的思考をもって対処した。彼は単に武力に頼るだけでなく、巧みな外交手腕を発揮して領国の安定化を図ったのである。
まず彼が着手したのは、長年にわたり不和であった本家筋の関氏との関係修復であった 1 。そして、この和解をより強固なものにするため、彼は極めて戦略的な婚姻同盟を締結する。当時、南近江に強大な勢力を誇っていた六角氏の重臣で、日野城主であった蒲生定秀の娘たちを、具盛(友盛)自身と関氏当主・関盛信がそれぞれ正室として迎えたのである 1 。これにより、北伊勢の二大勢力である神戸氏と関氏は、蒲生氏を介して六角氏という強力な後ろ盾を得ることに成功した。これは、南から圧力をかける北畠氏、そして東からその勢力を伸ばしつつあった織田信長という二大勢力に対抗するための、地政学的に極めて高度な判断であった。先代の負の遺産を清算し、新たな政治的安定を模索する、彼の優れた危機管理能力が発揮された瞬間であった。
一方で、具盛(友盛)は外交一辺倒の当主ではなかった。武将としての才覚もまた、確かなものであった。永禄2年(1559年)、長野工藤氏が神戸氏の盟友であった浜田氏や赤堀氏を攻撃すると、具盛(友盛)は即座に兵を動かしてこれを支援し、長野勢を撃退して武名を上げた 1 。翌永禄3年(1560年)に長野勢が直接神戸領に侵攻してきた際にも、これを迎撃し、退けている 1 。このように、彼は武力と外交という両輪を巧みに操り、相続直後の危機的状況を乗り越え、疲弊した神戸氏の勢力を着実に回復させていったのである。
具盛(友盛)の巧みな采配によって一時的な安定を取り戻した神戸氏であったが、その平穏は長くは続かなかった。永禄10年(1567年)、美濃を平定した織田信長が、次なる目標である上洛を見据え、その背後を固めるべく伊勢国への本格的な侵攻を開始したのである 1 。
信長はまず、重臣の滝川一益を先鋒として北伊勢に送り込んだ。織田の圧倒的な軍事力の前に、北伊勢の国人領主の多くは次々と降伏していった。しかし、六角氏との同盟関係にあった神戸氏は、信長への抵抗を選択する 16 。この抵抗の中核を担ったのが、神戸氏の支城である高岡城を守る宿老・山路弾正であった。彼は織田軍の猛攻に対し、城の地理的利を活かして頑強に抵抗し、その武勇を示した 1 。さらに、美濃方面の反織田勢力や甲斐の武田信玄と通じていた平田氏が織田軍の背後を脅かす動きを見せたこともあり、滝川一益率いる織田軍は一度、岐阜への撤退を余儀なくされた 1 。これは、具盛(友盛)率いる神戸氏が、単独ではなく周辺勢力との連携を視野に入れた広域的な防衛戦略を展開していたことを示唆している。
初戦で苦杯をなめた信長であったが、伊勢平定の意志を揺るがせることはなかった。翌永禄11年(1568年)2月、信長は自ら4万ともいわれる大軍を率いて再び伊勢に侵攻し、抵抗の拠点であった高岡城を包囲した 16 。
この圧倒的な兵力差を前に、もはや武力による抵抗は限界であった。ここで信長は、力による殲滅ではなく、外交による懐柔策を提示する。その条件とは、信長の三男である三七丸(さんしちまる、後の織田信孝)を具盛(友盛)の養嗣子として迎え入れることであった 1 。この養子縁組は、具盛(友盛)の一人娘である鈴与姫(すずよひめ、または竹子)を三七丸の正室とすることも含んでいた。しかし、この縁談には裏があった。鈴与姫は、元々、関係を修復した本家筋の関盛信の子・一利と婚約しており、彼を婿養子に迎える約束が交わされていたのである 12 。信長はこれを承知の上で、強引に破談させ、自らの子を送り込んだ。これは、婚姻関係を利用して相手の家を乗っ取る「押入聟(おしいりむこ)」と呼ばれる典型的な戦国の政略であり、神戸氏と関氏の不快を意に介さない、織田家による支配権掌握の明確な意志表示であった 12 。
一族の存亡を賭けた選択を迫られた具盛(友盛)は、この屈辱的な条件を呑み、和睦を受け入れた 6 。これにより神戸氏は織田家の支配下に組み込まれ、独立した国人領主としての歴史に事実上の終止符が打たれた。この決断は、一族の滅亡を避けるための、戦国末期の小領主が取りうるぎりぎりの生存戦略であった。武力で抗戦し名誉の戦死を遂げる道もあったが、具盛(友盛)は家の存続を最優先した。しかし、この苦渋の決断こそが、彼の後半生を決定づけるさらなる苦難の始まりとなるのであった。
和睦成立後、具盛(友盛)は織田家の部将という新たな立場で行動することになる。彼の降伏は周辺の国人にも影響を与え、具盛(友盛)の勧めもあって、関氏一族である国府氏、峯氏、鹿伏兎氏らも次々と信長に臣従した 1 。
具盛(友盛)が織田家の一員として果たした最も大きな功績は、永禄11年(1568年)9月の信長による六角氏攻略戦(観音寺城の戦い)においてであった。この時、六角氏の重臣であった義兄の蒲生賢秀は、居城である日野城に籠もり抵抗の姿勢を見せていた。そこに単身で乗り込み、説得にあたったのが具盛(友盛)であった 1 。かつて婚姻同盟を結んだ義兄に対し、織田家の圧倒的な力と時代の流れを説き、降伏を促したのである。この説得が功を奏し、蒲生賢秀は信長に降伏。これにより信長は、近江における大きな障害の一つを無血で取り除くことに成功した。この一件は、具盛(友盛)が持つ姻戚関係の広さと、その外交手腕が織田政権にとっても有用であったことを示している。
織田信孝を養子に迎え、織田政権下に組み込まれた神戸家であったが、その内情は平穏ではなかった。複数の史料が、具盛(友盛)が養子である信孝を「冷遇した」と一致して伝えている 6 。この「冷遇」が単なる養父と養子の個人的な不仲に起因するものであったとは考えにくい。その背景には、神戸氏の家名を乗っ取られ、実権を奪われることへの具盛(友盛)の根強い抵抗があった。
その抵抗が最も具体的に現れたのが、信孝を迎えた後も、元々の約束であった関盛信の子・勝蔵(関一利)をも養子として迎え入れようとした画策である 1 。この行動は、織田家による一方的な家督乗っ取りに対する、具盛(友盛)の最後の組織的抵抗と解釈できる。その狙いは、第一に、神戸氏と本家筋である関氏との血縁的・政治的結合を維持し、織田家から来た信孝の権力を城内において相対化すること。第二に、信孝に万一のことがあった場合や、彼が織田姓に復して神戸家を去る事態に備え、神戸・関の血を引く後継者を確保しておくこと。そして第三に、国人領主としての誇りと、一族の血脈を守ろうとする必死の抵抗を示すことにあった。これは、巨大権力に屈しつつも、その中で自家のアイデンティティを保とうとする、したたかで粘り強い策謀であった。
しかし、この具盛(友盛)の「二枚舌」ともいえる画策は、情報網を張り巡らせていた織田信長の知るところとなった。信長は、自らの伊勢支配の根幹を揺るがしかねないこの動きに激怒。元亀2年(1571年)1月、信長の厳命により、具盛(友盛)夫妻は捕らえられ、神戸城から追放された 1 。
その身柄が預けられたのは、皮肉にも、かつて同盟の要であった義兄・蒲生賢秀であった 1 。具盛(友盛)は賢秀の居城である近江日野城(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に送られ、城下の西大路村・清源寺の北に賢秀が用意した屋敷に幽閉されることとなった 1 。これは事実上の隠居・蟄居を強制されたことを意味し、神戸氏の当主としての彼の権力は完全に剥奪された。この幽閉生活がどのようなものであったか、具体的な記録は乏しいが、一城の主から他家の庇護下にある「預人(あずかりにん)」へと転落した彼の無念は計り知れない。
具盛(友盛)の幽閉により、神戸家の家督と実権は名実ともに養子・織田信孝のものとなった 16 。元亀3年(1572年)、元服して神戸信孝を名乗った彼は、正式に神戸城主として領地を治め始める 16 。
この織田家による強引な家督簒奪に対し、最後まで抵抗の意志を示したのが、かつて織田軍を撃退した忠臣・山路弾正であった。彼は信孝の家督継承に激しく抗議したが、その忠義は受け入れられず、逆に謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれた 16 。
主君の幽閉と宿老の死は、神戸家臣団に大きな動揺と分裂をもたらした。具盛(友盛)に忠誠を誓う平野の伊東茂右衛門らは、山路弾正の旧領である高岡城に集結し、信孝から神戸城を奪還する計画を立てた。しかし、この計画は事前に露見し、関係者はことごとく殺害された 1 。この一連の粛清を経て、神戸家臣団は完全に再編された。『勢州兵乱記』などの記録によれば、この時、旧来の家臣のうち120名が浪人となり、残った480人が信孝に仕えることを選んだという 1 。これにより、神戸氏はその牙を抜かれ、完全に織田家の支配機構の一部として組み込まれることになったのである。
元亀2年(1571年)から始まった具盛(友盛)の幽閉生活は、約11年の長きにわたった。しかし、天正10年(1582年)、彼の運命は再び大きく動く。養子である織田信孝が、父・信長の四国平定計画における方面軍総大将に任命されたのである 24 。
信孝は四国への出陣にあたり、本拠地である神戸城の留守を固める必要があった。この時、白羽の矢が立ったのが、幽閉中の養父・具盛(友盛)であった。信孝は信長に願い出て具盛(友盛)を赦免させ、神戸城の留守居役(るすいやく)に任じたのである 1 。具盛(友盛)は長年の幽閉を解かれ、かつての居城・神戸城に近い沢城を隠居所として与えられた 1 。この赦免は、信長や信孝による温情や和解の証では決してない。それは、信孝が長期にわたり本拠を不在にする間、在地に旧来の影響力を持つ具盛(友盛)を留守居役という人質同然の立場に置くことで、家臣団の動揺を抑え、領国の安定を図るという、極めて政治的な計算に基づいた措置であった。具盛(友盛)は、またしても織田家の都合によって、歴史の表舞台に引き戻されることになった。
具盛(友盛)が留守居役として沢城に戻った矢先、日本の歴史を揺るがす大事件が起こる。天正10年(1582年)6月2日、信孝が四国渡海の準備を大坂・堺で進めている最中に、明智光秀が京都・本能寺で信長を討ったのである(本能寺の変)。これにより四国攻めは即時中止となり、織田政権は崩壊した 24 。
信長とその嫡男・信忠の死後、織田家の後継者を巡る争いが勃発する。信孝は、山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉と、織田家の主導権を巡って激しく対立した。当初は清洲会議で信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)の後見人となり優位に立ったかに見えたが、次第に秀吉の政治力に圧倒されていく 23 。最終的に、天正11年(1583年)、兄である織田信雄に攻められ、尾張国野間(現在の愛知県美浜町)の大御堂寺で自刃に追い込まれた。享年26であった 13 。
養子・信孝の死により、神戸家は再び激しい政争の渦に巻き込まれる。神戸城は信孝を攻め滅ぼした織田信雄の支配下に入り、その家老である林与五郎(正武)が新たな城主となった 6 。
主を失い、またも寄る辺を失ったかに見えた具盛(友盛)であったが、彼はここでも一族の家名を存続させるために行動を起こす。彼は、信孝の正室であった自身の娘・鈴与姫を、新しい城主である林与五郎の嫡子・十蔵に嫁がせたのである 1 。そして、林父子に神戸氏を名乗らせることで、神戸家の名跡を継承させようと図った 7 。これは、城主が誰であれ、自らの血筋をその城主家に繋ぎとめることで、「神戸」の名を残そうとする、彼の執念ともいえる家名維持工作であった。
しかし、この策もまた、中央の巨大な政治の奔流に呑み込まれてしまう。天正12年(1584年)、今度は織田信雄が羽柴秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いが勃発する。この戦いで信雄方に付いた神戸与五郎(林与五郎)父子は、秀吉方の蒲生氏郷らに攻められ、神戸城を追われて敗走した 6 。娘婿となった林十蔵は、この戦役中の加賀井合戦で戦死したと伝えられている 12 。具盛(友盛)による二度目の家名維持工作も、またしても失敗に終わったのである。
林氏が神戸城を追われた後、具盛(友盛)は三度、安住の地を失った。もはや自力で勢力を回復する術はなく、彼は最後の頼みの綱を求めることになる。それは、彼の姉が嫁いでいた織田信長の弟、織田信包(のぶかね)であった 1 。具盛(友盛)は、信包が城主を務める伊勢安濃津城(あのつじょう、現在の三重県津市)へと身を寄せた 1 。
信包は、兄・信長とは対照的に温厚な人物で、茶人としても知られていた文化人であった 27 。しかし、かつては北伊勢に武名を轟かせた一城の主が、義弟の庇護下で客将として暮らす晩年は、決して平穏な心境ではなかったであろう。彼が安濃津でどのような生活を送っていたのか、その具体的な様子を伝える史料は乏しい。ただ、織田家の政略に翻弄され、幽閉され、家臣を失い、そして家名維持の策も尽く失敗に終わった彼の胸中には、深い無念と諦念が渦巻いていたに違いない。
天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した慶長5年(1600年)10月26日、神戸具盛(友盛)は安濃津の地で客死した 1 。享年は不明である。彼の死をもって、伊勢国司・北畠家の血を引き、神戸氏5代当主となった長盛から続く神戸宗家の直系は、ここに完全に断絶した 6 。
一方で、彼の終焉の地については異説も存在する。『近江蒲生郡志』によれば、具盛(友盛)は死後、かつて11年もの長きにわたり幽閉生活を送った地である、近江国日野の村井・上合谷(かみあいだに)に葬られたという伝承が記されている 1 。もしこれが事実であるとすれば、彼の波乱に満ちた生涯の終着点として、あまりにも象徴的な場所といえよう。
具盛(友盛)の直系は途絶えたが、神戸の家名そのものが歴史から消え去ったわけではなかった。ここで再び歴史の表舞台に登場するのが、偉大な祖父、4代当主・具盛(楽三)の血脈である。楽三の末子で高島氏を継いでいた高島政光の孫にあたる神戸政房(具盛(友盛)から見れば再従甥にあたる)が、主君であった蒲生氏の没落後、神戸姓に復して家名を再興したのである 3 。
そして、この神戸家を再興した政房の子・神戸良政こそが、伊勢国の戦国時代を詳細に記した貴重な軍記物『勢州軍記』の著者であった 3 。『勢州軍記』は単なる歴史書ではない。それは、一度は断絶した一族を再興した良政が、自らのルーツと先祖の名誉を後世に伝えるために著した、強い意志のこもった書物である。特に、織田信長側から書かれた『信長公記』など中央の史料では省略されがちな、神戸具盛(友盛)の武功や、織田家に対する抵抗、そしてその苦難に満ちた生涯を詳細に記述することは、良政にとって最大の執筆動機の一つであったと考えられる 32 。我々が今日、神戸具盛(友盛)の生涯を詳細に知ることができるのは、ひとえにこの神戸良政の執念の成果といっても過言ではない。
具盛(友盛)の苦難の生涯を象徴する存在として、最後に彼の娘・鈴与姫の人生に触れておきたい。彼女の生涯は、父の運命と軌を一にするように、戦国の政争に翻弄され続けたものであった 1 。
政略の道具として、その身を時代の波に委ねるしかなかった彼女の人生は、戦国時代を生きた多くの女性の悲劇を物語ると同時に、父・具盛(友盛)がいかに過酷な運命を辿ったかを如実に示している。
神戸具盛(友盛)の生涯を概観すると、巨大な時代のうねりの前に、一地方領主がいかに無力であったかを示す悲劇の物語として映る。予期せぬ家督相続に始まり、強大な織田家の圧力によって養子に家を乗っ取られ、長年の幽閉生活を強いられ、赦免後も翻弄され続け、最後は他家の庇護のもとで客死する。その経歴は、彼を「悲劇の当主」として位置づけるに十分である。
しかし、本報告書で詳述してきたように、彼は決して無力で無気力なだけの人物ではなかった。家督相続直後に見せた、婚姻同盟を軸とする巧みな外交戦略。織田信孝という「押入聟」に対して、関氏の子を重ねて養子に迎えようとした、最後の抵抗ともいえる策謀。そして信孝の死後、林氏、さらには娘の縁組を通して、二度、三度と神戸の家名を存続させようとした執念。これらは、彼がその時々の状況下で、家の存続という国人領主にとっての至上命題を達成するために、あらゆる手段を講じる「したたかな現実主義者」であったことを示している。
神戸具盛(友盛)の人生は、戦国時代の歴史が、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の英雄的行為だけで成り立っているのではないことを我々に教えてくれる。彼の生涯は、武力や華々しい功名だけでなく、忍耐、外交、婚姻、そして時には屈辱的な策謀をも駆使して、ただひたすらに「家」という共同体を守り抜こうとした、戦国末期の国人領主のリアルな姿を凝縮している。
彼は天下人にはなれなかった。しかし、その苦闘の生涯は、結果として神戸氏の血脈を(傍系ながら)未来に繋ぎ、子孫である神戸良政をして『勢州軍記』を執筆せしめた。この書物によって、神戸氏の歴史とアイデンティティは後世に伝えられることになったのである。彼の最大の功績は、武将としての勝利ではなく、その波乱の生涯そのものが一族再興の精神的な礎となった点にあるのかもしれない。神戸具盛(友盛)の軌跡を丹念に追うことは、織田・豊臣という中央集権化の巨大な波を、それに翻弄された地方の視点から理解するための、極めて貴重な事例研究といえるだろう。