最終更新日 2025-07-29

福原則尚

富原則尚は播磨国佐用城主。織田信長の中国攻めに対し、毛利方として佐用城で抵抗。竹中半兵衛・黒田官兵衛率いる秀吉軍に攻められ落城。その最期は自害説と討ち死に説がある。

播磨の落日、佐用城の烽火:福原則尚の生涯と歴史的実像の徹底分析

序章:播磨の風雲と福原則尚 ― 忘れられた抵抗の烽火

天正五年(1577年)、織田信長の掲げる天下布武の旗印は、その勢力を西国へと拡大し、播磨国(現在の兵庫県南西部)は、畿内を席巻する織田氏と、中国地方に覇を唱える毛利氏という二大勢力が激突する角逐の最前線と化した。この激動の時代、播磨国佐用郡に位置する佐用城の主として、羽柴秀吉率いる織田の大軍に敢然と立ち向かい、その名を歴史に刻んだ一人の武将がいた。その名は、福原則尚(ふくはら のりひさ)。彼の存在は、織田・毛利の壮大な戦史のなかにあって、しばしば一地方豪族の局地的な抵抗として見過ごされがちである。

本報告書は、一般に「播磨の豪族、佐用城主。秀吉の中国侵攻軍に対し籠城して頑強に抵抗するも敗れ、自害した」と認識されている福原則尚の生涯について、その情報の裏付け、数多存在する異説の検証、そして人物像の多層性を徹底的に掘り下げ、分析することを目的とする。単に伝記を再話するに留まらず、錯綜する史料を解き明かし、一次史料と後世の軍記物、そして地域伝承を比較検討することで、一人の地方豪族の選択と運命を通じて、戦国末期における播磨の実像に迫る。

この分析を進めるにあたり、いくつかの核心的な問いが浮かび上がる。福原城主の名は、本当に「則尚」であったのか。彼の最期は、伝承に語られる壮絶な自害だったのか、それとも敵将の武功として記録された討ち死にだったのか。そして何よりも、なぜ彼は圧倒的な戦力差を前にして、恭順ではなく抵抗の道を選んだのか。これらの問いを解明する旅は、福原則尚という一人の武将の生涯を追うに留まらず、歴史がいかに記録され、記憶され、そして語り継がれていくのかという、より普遍的なテーマを探求する試みでもある。

第一章:福原氏の出自と西播磨における基盤

福原則尚の行動原理を理解するためには、まず彼が属した福原氏の出自と、その勢力基盤であった西播磨における地政学的な位置づけを把握する必要がある。福原氏は、決して無名の新興勢力ではなく、播磨国に深く根差した由緒ある一族であった。

1.1 赤松氏庶流としての権威

福原氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて播磨守護を務めた名門・赤松氏の一族であり、「赤松三十六家」にも数えられる有力な庶流であった 1 。その系譜は、南北朝時代の史料にも「赤松方の一族ニ福原□と申人」と見えるほど古く 1 、一説によれば、赤松氏の一族である上月景盛の孫、景行が福原氏を称したことに始まるとされる 4

この出自は、戦国時代において極めて重要な意味を持っていた。福原氏は、単なる在地領主ではなく、播磨国において伝統的な権威と広範なネットワークを持つ名門の一角を占めていたのである。このことは、彼らが単独で行動するのではなく、赤松一門という大きな枠組みの中で自らの立場を決定していたことを示唆している。

1.2 佐用郡の在地領主としての実態

福原氏が本拠とした佐用城(別名:福原城)は、播磨、美作、備前の三国が接する国境地帯に位置していた 5 。この地理的条件は、佐用城に平時における交通の要衝、そして戦時における軍事的な最前線という二つの顔を与えていた。

佐用城は単独で存在する城ではなく、東の利神城、西の上月城、南の高倉城といった城々と連携し、赤松氏が西播磨に展開する広域的な防衛ネットワーク、すなわち支城網の重要な一角を成していた 2 。この地政学的な位置づけを鑑みれば、福原氏の存在価値は、佐用郡一郡の支配に留まるものではなかったことが理解できる。彼らは、西から播磨に侵攻する勢力、具体的には毛利氏やその影響下にある備前の宇喜多氏に対する第一の防衛線を担う、戦略的に極めて重要な存在であった。したがって、福原氏の動向は、西播磨全体の軍事バランスに直接的な影響を及ぼすものであった。

1.3 主家・赤松七条家との関係

戦国時代の佐用郡において、福原氏を含む在地領主たちの盟主的な存在であったのが、西播磨の要衝・上月城を本拠とする赤松七条家であった。福原氏と赤松七条家との関係は深く、室町時代中期には赤松七条満弘の重臣として福原若狭入道なる人物が活躍した記録も残っており、両家が古くから密接な主従、あるいは同盟関係にあったことがうかがえる 1

この関係性は、天正五年(1577年)の羽柴秀吉による播磨侵攻に際して、福原氏の行動を決定づける最も重要な要因となった。当時、上月城主であった赤松政範は、明確に毛利方として織田信長への抵抗姿勢を示していた 8 。この主家、あるいは盟主である赤松政範の決定に、福原氏が追随したと考えるのが最も自然な解釈である。事実、秀吉軍は福原城を攻略した後、間髪入れずにその矛先を上月城へと向けている 1 。この一連の軍事行動は、福原城攻めが独立した戦いではなく、上月城攻略の前哨戦として位置づけられていたことを明確に物語っている。福原則尚の抵抗と滅亡は、上月城、そして赤松七条家の運命と不可分に結びついていたのである。

第二章:天正播磨攻めの背景 ― 織田か毛利か、運命の選択

天正五年(1577年)10月、羽柴秀吉率いる織田軍が播磨に入国したことで、この地の豪族たちは否応なく重大な選択を迫られることになった。畿内から破竹の勢いで西進する織田につくか、中国地方に強大な勢力を持つ毛利を頼るか。この選択が、一族の存亡を左右する時代の大きな岐路であった。

2.1 播磨国衆の分裂

当時の播磨国は、守護赤松氏の権威が失墜した後、多くの国衆が郡単位で割拠する半独立状態にあった 11 。彼らは、東の織田、西の毛利という二大勢力の間で、巧みにバランスを保ちながら自領の安泰を図っていた。

秀吉が播磨入りすると、中播磨の御着城主・小寺政職をはじめ、多くの国衆がその勢威を恐れて織田方への恭順の意を示した 11 。秀吉はこれを足がかりに、毛利方の拠点であった西播磨の上月城や福原城を攻略し、一時は播磨のほぼ全域を勢力下に置いたかに見えた 11 。しかし、この平穏は長くは続かなかった。翌天正六年(1578年)2月、東播磨に絶大な影響力を持つ三木城主・別所長治が突如として織田から離反し、毛利方へと寝返ったのである 11 。この別所氏の離反は、播磨の情勢を一変させた。織田方についていた国衆たちが次々と同調し、播磨は織田と毛利の全面対決の場へと変貌した。福原氏の抵抗は、まさにこの播磨全体が揺れ動く大きな文脈の中で起こった出来事であった。

2.2 福原氏が毛利方を選択した論理

福原氏がなぜ織田への恭順ではなく、毛利方について抵抗する道を選んだのか。その理由を直接的に示す史料は現存しない。しかし、当時の状況証拠を積み重ねることで、その選択が単なる無謀な反抗ではなく、彼らなりの合理的な判断に基づいていた可能性が浮かび上がってくる。

第一に、前章で詳述した通り、盟主である上月城の赤松政範が毛利方を選択したことが最大の理由と考えられる 8 。主家や同盟者との連携を無視して単独で織田方に寝返ることは、中世以来の主従関係や地域の秩序を根底から覆す行為であり、容易な決断ではなかった。

第二に、地政学的な要因である。福原氏の領地である佐用は、毛利方の備前国を支配する宇喜多直家の勢力圏と直接境を接していた 6 。もし福原氏が織田方につけば、西から宇喜多軍の即時侵攻を招くことは必至であった。遠方にあって実態のつかめぬ織田信長よりも、目前に迫る軍事的脅威である毛利・宇喜多連合との協調を選択する方が、領地と一族を守るためには現実的な判断であった可能性が高い。

第三に、別所長治の離反理由から類推できる、名門としてのプライドの問題である 11 。別所氏が離反した一因として、赤松氏庶流という名門意識から、出自の低い羽柴秀吉の麾下に入ることを潔しとしなかった点が指摘されている 11 。同じく赤松一門である福原氏にも、同様の感情があったことは想像に難くない。秀吉が提示したであろう播磨の支配体制に対する不信感も、彼らを毛利方へと傾かせた一因であったかもしれない。

これらの要因は、単独ではなく複合的に作用したと考えられる。福原氏の選択は、「時代の流れを読めなかった」という単純な評価で片付けられるべきではない。それは、主家への忠誠、目前の軍事的脅威、そして一族の誇りという、彼らが置かれた状況下で考えうる最善の道を模索した結果であった。その選択の先に待っていたのが、秀吉の大軍との絶望的な戦いであった。

第三章:佐用城の攻防 ― 両兵衛を苦しめた智将

天正五年(1577年)11月、播磨平定に乗り出した羽柴秀吉は、その緒戦として西播磨の抵抗拠点、佐用城へと狙いを定めた。この戦いは、後に天下人の軍師として名を馳せる二人の天才、竹中半兵衛と黒田官兵衛が本格的に共同作戦を展開した、最初期の重要な戦いの一つとして記録されている。

3.1 秀吉軍の侵攻と布陣

秀吉は、天正5年11月27日、自軍の頭脳というべき竹中半兵衛重治と黒田官兵衛孝高(当時は小寺姓)に佐用城の攻略を命じた 1 。秀吉が、播磨に数多ある城の一つに過ぎない佐用城に対し、これほど高名な両将を投入したという事実は、この城が持つ戦略的な重要性と、城主・福原氏の抵抗が容易ならざるものであることを予期していた証左と言える。この戦いは、両兵衛の軍略が初めて連携して発揮された場としても、歴史的に注目される 6

3.2 籠城戦の激闘

福原方は、数で圧倒的に勝る秀吉軍に対し、単に城に籠もるだけの消極的な防戦に終始しなかった。彼らは果敢にも城外へ討って出て、激しい戦闘を繰り広げた。秀吉自身が後に記した書状(下村文書所収)によれば、この緒戦で城方・攻め方双方に多くの死傷者が出たことが記されており、戦いの激しさを物語っている 1

後世の軍記物である『播州佐用軍記』は、この攻防戦の様子をより具体的に伝えている。それによれば、竹中・黒田の両隊は福原方の巧みな防衛戦術の前に攻めあぐみ、苦戦を強いられたという 12 。戦局が動いたのは、蜂須賀正勝(小六)の部隊が増援として到着してからであった。蜂須賀隊は城の搦手(裏手)に回り込み、そこから大量の鉄砲を撃ちかけることで城兵の注意を引きつけた。その隙に、大手(正面)から黒田隊などが攻勢をかけ、ついに城を陥落させたとされる 12

この戦いぶりから、城主であった福原則尚(あるいは助就)が、優れた指揮官であったことがうかがえる。在地には彼が「頭脳明晰」であったとの伝承も残っており 5 、地形を熟知し、寡兵ながらも巧みな戦術で両兵衛率いる大軍を翻弄したその手腕は、高く評価されるべきであろう。佐用城の戦いは、単なる物量による殲滅戦ではなく、戦術的な駆け引きが繰り広げられた、質の高い攻城戦であった。

3.3 落城とその後

激戦の末、佐用城はついに落城した。その結末は凄惨を極めた。秀吉の書状は、城兵を「ことごとく討ち果たした」と記し 1 、在地伝承には城内にいた者は女子供に至るまで皆殺しにされたという話も伝わっている 7

この佐用城における徹底的な殲滅戦は、単に抵抗勢力を排除するという軍事的目的だけに留まらなかった可能性が高い。それは、この後に控える主目標・上月城の攻略、さらには播磨国内の未だ態度を決めかねている他の国衆に対する、強烈な示威行為であったと考えられる。すなわち、「織田に逆らう者の末路はこうなる」という恐怖を植え付けることによる心理戦の一環であった。福原氏の抵抗が激しく、秀吉軍に多大な損害を与えたからこそ、その報復もまた苛烈を極めたのである。佐用城の悲劇は、その後の三木城における「干殺し」や鳥取城の兵糧攻めといった、秀吉の容赦ない中国攻めの戦術を予告するものであった。佐用城を平定した秀吉軍は、休む間もなく次の標的である上月城へと軍を進めた 1

第四章:「則尚」と「助就」― 城主の最期を巡る二つの物語

佐用城の戦いにおける最大の謎であり、本報告書の核心部分となるのが、城主の「名前」と「最期」を巡る史料上の重大な矛盾である。在地に根付いた「自害説」と、勝者側の記録に残る「討ち死に説」。これら二つの異なる物語を比較分析することは、歴史的実像に迫る上で不可欠な作業である。

4.1 自害説 ― 悲劇の英雄「福原則尚」の物語

在地伝承や『播州佐用軍記』といった後世の編纂物で広く語られているのが、城主「福原則尚」の悲劇的な自害の物語である 12 。この説によれば、則尚は最後まで頑強に抵抗したものの、衆寡敵せず敗北を悟る。彼は潔く自らの手で城に火を放つと、一族の菩提寺である高尾山円福寺へと退き、そこで一族郎党五十余名と共に静かに腹を切り、果てたとされる 3

この物語は、佐用町の円福寺や、城跡に則尚の首を祀るために建立された福原霊社といった、地域に残る史跡や伝承と強く結びついている 1 。その内容は英雄譚としての性格が強く、敗者の「滅びの美学」を色濃く反映している。自らの意志で死を選ぶという行為は、単なる敗北を、信義に殉じた主体的な「殉教」へと昇華させる。この物語は、敗れた城主の名誉を保ち、地域の記憶の中で彼を「悲劇の英雄」として神格化する機能を果たしてきた。後世、福原霊社が「頭痛の神様」として信仰を集めるようになったのも 1 、こうした英雄視と無関係ではないだろう。

4.2 討ち死に説 ― 『黒田家譜』が記す「福原助就」

一方、全く異なる最期を伝えるのが、黒田家の公式史書である『黒田家譜』である 14 。この史料によれば、佐用城主の名は「福原主膳助就(すけなり)」であり、彼は福原則尚とは別人として描かれている 2

『黒田家譜』の記述では、黒田官兵衛が兵法で言う「囲師必闕(いしひっけつ)」の策、すなわち包囲の一方を開けて敵の逃げ道を作り、そこに伏兵を置く戦術を用いたとされる 16 。この策に嵌った助就は城から脱出を図るが、待ち伏せていた秀吉配下の武将・平塚為広(当時は三郎兵衛)によって乱戦の中で討ち取られたと記されている 1 。平塚為広はこの手柄によって秀吉に仕えることになったとも伝わり 18 、この物語は彼の立身出世のきっかけとして重要な意味を持っている。

この「討ち死に説」の典拠である『黒田家譜』は、貞享四年(1687年)に成立したものであり、客観的な歴史記録というよりは、黒田家とその家臣団の武功を後世に顕彰する目的で編纂された史書である。したがって、この物語の主眼は、討たれた福原助就の悲劇ではなく、彼を討ち取った平塚為広の武功と、その主君である黒田官兵衛の優れた軍略を称えることにある。

4.3 異説の比較分析と歴史的実像へのアプローチ

「則尚」と「助就」、自害と討ち死に。これらの矛盾をどう解釈すべきか。まず、名前の問題についてはいくつかの可能性が考えられる。則尚と助就が同一人物であり、一方が通称で他方が諱(いみな)であった可能性。あるいは、記録の過程で誤って伝えられた可能性。また、則尚が城主で、助就はその弟、あるいは義弟(『三日月町史』には則尚の妹婿との伝承も見える 15 )であり、秀吉の書状に見える「城主の弟」 1 が助就にあたるという別人説も存在する。しかし、『三日月町史』所収の系図自体が「全く確証はない」と断じているように 1 、いずれも決定的な証拠を欠いている。

重要なのは、「則尚」と「助就」のどちらが正しいかという二元論的な問いに性急な答えを出すことではない。むしろ、この「解けない謎」そのものが、歴史がいかにして形成されるかを示す貴重な事例であると捉えるべきである。すなわち、我々の前には二つの異なる物語(ナラティブ)が並立している。一つは、**「地域が記憶し、語り継ごうとした物語(則尚の自害)」 であり、もう一つは 「勝者が記録し、顕彰しようとした物語(助就の討ち死に)」**である。この二つの異なる視点から描かれた物語が両方存在している状態こそが、福原城主の死に関する、我々が知りうる「歴史的実像」なのである。

以下の表は、これら二つの異説の特性を比較し、その構造を明確にしたものである。

属性

自害説

討ち死に説

城主の名前

福原則尚(ふくはら のりひさ)

福原助就(ふくはら すけなり)

主な典拠

在地伝承、『播州佐用軍記』など

『黒田家譜』

最期の状況

城に火を放ち、菩提寺の円福寺で一族と共に自刃

城から脱出を図り、乱戦の中で討ち死に

死に関わる人物

(なし、自決)

平塚為広(ひらつか ためひろ)

物語の主眼

敗者の名誉と滅びの美学

勝者(黒田家臣)の武功と手柄

物語の性格

悲劇的、英雄譚的、地域的

軍功記録的、政治的、中央的

この表が示すように、両説は単なる事実関係の違いに留まらず、その背景にある意図や性格において根本的に異なっている。この二重構造を理解することこそが、福原則尚という人物を深く知るための鍵となる。

第五章:二人の福原 ― 滅ぼされた者と栄達した者

福原則尚の生涯を調査する上で、しばしば混同され、また対比されるもう一人の重要な「福原氏」が存在する。豊臣政権下で大名にまで上り詰めた福原長堯(ながたか)である。彼の存在は、戦国乱世における一族の運命の多様性と皮肉を浮き彫りにする。

5.1 豊臣大名・福原長堯(直高)の存在

福原長堯は、則尚とは全く対照的な道を歩んだ人物である。彼は羽柴秀吉に早くから仕え、小姓頭としてキャリアを開始し、秀吉の側近として着実に地位を固めていった 19 。九州征伐や小田原征伐に従軍し、聚楽第行幸では石田三成や大谷吉継らと共に秀吉のすぐ側で供奉するという重責を担った 20 。最終的には豊後府内(現在の大分市)に12万石の所領を与えられる大名にまで出世した 21

さらに長堯は、豊臣政権の中枢を担った石田三成の妹を正室に迎えており、三成とは義兄弟の関係にあった 19 。この縁戚関係も、彼が文治派官僚として重用される一因となったことは間違いない 23 。秀吉に滅ぼされた則尚と、秀吉によって栄達を極めた長堯。同じ「福原」の名を持つ二人の運命は、まさに光と影のように対照的である。

5.2 則尚と長堯の関係性についての考察

では、この二人の関係はどのようなものであったのか。一部の系図、特に『三日月町史』に所収されている系図では、長堯(初名は直高)は則尚の弟であると記されている 1 。もしこれが事実であれば、兄は旧主への義理を貫いて滅び、弟は新たな覇者に仕えることで一族の名を存続させようとした、という劇的な物語が成立する。

しかし、この「兄弟説」には史料的な裏付けが極めて乏しい。当の『三日月町史』も「全く確証はない」と慎重な姿勢を崩しておらず 1 、長堯自身の出自もまた「不詳」とされる部分が多い 20 。彼が播磨福原氏の一族であることは複数の資料で示唆されているものの 19 、則尚との直接的な血縁関係を証明することは、現存する史料からは困難である。

したがって、両者を安易に兄弟と断定することは避け、あくまで「対照的な運命を辿った同族の可能性がある二人の人物」として、それぞれを個別に見るべきである。それでもなお、この二人の存在が示す歴史の皮肉は色褪せない。それは、時代の大きな転換期において、ある者は旧来の秩序や価値観に殉じ、またある者は新しい秩序に柔軟に適応して生き残るという、戦国乱世のダイナミズムと非情さを象徴する実例と言えよう。

5.3 関ヶ原、そして長堯の最期

参考として、栄達を極めた福原長堯のその後の運命にも触れておきたい。慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、長堯は義兄・石田三成への義理を立てて西軍に与した。彼は垣見一直らと共に東軍方の諸将が籠る大垣城の守将を務めたが、本戦での西軍壊滅の報を受け、徳川家康からの勧告に応じて開城した 4

しかし、彼の命は助からなかった。開城後、伊勢の朝熊山麓の寺院に向かう途中、刺客に襲われて殺害されたとも、寺に入った後に自刃したとも伝えられている 4 。秀吉への抵抗を選び非業の死を遂げた則尚(とされる人物)と、秀吉に従い栄華を極めた長堯。全く異なる道を歩んだかに見えた二人であったが、最終的にはどちらも時代の大きなうねりの中で命を落とすという、皮肉な結末を迎えたのである。この事実は、戦国から織豊、そして徳川へと至る時代の激しい変転の中で、個人の運命がいかに翻弄されたかを雄弁に物語っている。

結論:滅びの美学と地域的記憶の継承

播磨国佐用城主、福原則尚(あるいは福原助就)の生涯を徹底的に分析した結果、彼は単なる歴史の傍流に埋もれた一豪族ではなく、戦国末期の播磨の動乱を象徴する、多層的で示唆に富んだ人物像として浮かび上がってくる。

彼の歴史的評価は、まず第一に、織田信長による天下統一という巨大な歴史の奔流に対し、自らの信義と立場に殉じた西播磨の武将として位置づけられる。その抵抗は軍事的には短期間で終結したが、羽柴秀吉が誇る竹中半兵衛・黒田官兵衛という両軍師を以てしても容易に攻略できなかったという事実は、彼が寡兵を率いて大軍に立ち向かった、優れた指揮官であったことを示唆している。

彼の物語の最大の特徴は、その記録が二重構造となっている点にある。一つは、『黒田家譜』に代表される、勝者の視点から武功を記録しようとする「公式の歴史」。もう一つは、佐用という地域に根付き、敗者の名誉と悲劇を語り継ごうとする「記憶の歴史」である。城主の名、そして最期の瞬間に至るまで、この二つのナラティブは異なった物語を紡ぎ出す。この記録と記憶の相克こそが、福原則尚という人物を理解する上での本質的な鍵である。

そして最も重要なのは、彼の記憶が440年以上の時を超え、今なおその故郷に生き続けているという事実である。佐用城跡に今も残る土塁や空堀 6 。本丸跡に、則尚の首級を祀るために地域の人々によって建立されたと伝わる「福原霊社」(頭様) 1 。そして、彼の菩提寺である円福寺に所蔵される肖像画 1 。これらの有形無形の遺産は、地域社会が彼の存在を忘れず、その抵抗の物語を大切に守り継いできた何よりの証左である。

福原則尚の物語は、単なる過去の敗戦記録ではない。それは、大義に殉じた者の「滅びの美学」として、また、歴史の公式記録からはこぼれ落ちがちな人々の想いを伝える「地域的記憶」の結晶として、現代の我々に静かに語りかけている。彼の生涯を徹底的に追うことは、戦国史を彩る英雄たちだけでなく、名もなき多くの人々の無数の選択と葛藤の上に、現代が築かれているという自明の理を、改めて我々に認識させる意義深い試みなのである。

引用文献

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  6. 官兵衛ゆかりの西播磨 佐用の三城(上月城、福原城、利神城)と飛龍の滝 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10871054
  7. [第126回:福原城(二兵衛により落とされた)] by こにるのお城訪問記 https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-132.html
  8. 播磨 上月城(荒神山上月城。七条城。上月氏及び尼子再興軍の城) - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/blog/hyogo/harima_koudukijo/
  9. 武家家伝_宇野氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uno_k.html
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  16. 福原助就 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E5%8A%A9%E5%B0%B1
  17. 歴史の目的をめぐって 平塚為広 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-27-hiratsuka-tamehiro.html
  18. 平塚為広 | 垂井町観光協会 https://www.tarui-kanko.jp/docs/2015113000029/
  19. 福原長堯 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%A0%AF
  20. 福原長堯 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%A0%AF
  21. 福原長堯 Fukuhara Nagataka - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/fukuhara-nagataka
  22. 【家系図】関ケ原の敗者・石田三成のルーツ、家族、子孫まで一挙まとめ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/394
  23. 「石田三成襲撃事件」で襲撃は起きていない? 画策した7人の武将、そして家康はどうした? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10229
  24. 【兵庫県】福原城【佐用郡佐用町字福原】 – 山城攻城記 - サイト https://gosenzo.net/yamajiro/2021/09/20/%E3%80%90%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E3%80%91%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%80%90%E4%BD%90%E7%94%A8%E9%83%A1%E4%BD%90%E7%94%A8%E7%94%BA%E5%AD%97%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E3%80%91/