福原助就
福原助就の生涯は、戦国末期の播磨国で織田・毛利の狭間に消えた武将の悲劇。高倉山城主として奮戦も、秀吉の大軍に敗れ討死。彼の死は、福原一族滅亡と西播磨平定の礎となった。
播磨国人・福原助就の実像 ― 織田・毛利の狭間で消えた生涯
序章:天正五年の播磨国 ― 嵐の前の西国
天正5年(1577年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。中央で天下統一事業を推し進める織田信長は、その視線を西国、すなわち中国地方の雄・毛利輝元へと向け、両者の対立はもはや避けられない状況にあった。この巨大な権力同士の衝突の最前線となるのが、播磨国であった。本報告書は、この激動の時代、播磨の片隅で歴史の奔流に飲み込まれていった一人の武将、福原助就(ふくはら すけなり)の生涯を徹底的に追跡し、天下統一というマクロな歴史の潮流が、ミクロな地域社会に如何なる影響を及ぼしたかを解明するものである。
当時の播磨国は、政治的な空白地帯と化していた。かつて播磨・備前・美作の三国守護として権勢を誇った赤松氏は、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で宗家が没落して以来、その権威を大きく失墜させていた 1 。戦国時代を通じて赤松氏は再興を果たすものの、往時の支配力はすでになく、国内は赤松庶流や有力な在地領主(国人)たちが割拠する、極めて流動的な状態にあった 2 。
このような状況下で、東から織田、西から毛利という二大勢力の圧力が播磨に及ぶ。天正4年(1576年)、織田信長が支援する石山本願寺を救援するため、毛利水軍が織田水軍を摂津国木津川河口で破った戦いは、両勢力の対決を決定的なものとした 3 。播磨の国人たちは、自領と一族の存続を賭け、織田に付くか、毛利に与するかという厳しい選択を迫られた。彼らの動揺は、単なる日和見主義ではなく、守護という伝統的権威が機能不全に陥った中での、必死の自己防衛策であった。旧来の西国における秩序維持者である毛利への期待感と、新興勢力である織田への警戒感から、西播磨の国人の多くは毛利方への加担を選択した。
福原助就が歴史の表舞台に登場する佐用郡周辺は、播磨・美作・備前の三国が国境を接する、まさに戦略上の要衝であった 4 。この地理的条件こそが、彼とその一族を、織田信長の中国方面軍司令官・羽柴秀吉による侵攻の最初の標的とし、その運命を決定づけることになるのである。
第一部:福原助就とは何者か ― 史料に見る人物像の探求
福原助就は、戦国時代の播磨国に生きた武将であるが、その生涯に関する記録は断片的であり、しばしば錯綜している。本章では、諸史料に残された彼の姿を丹念に拾い上げ、その人物像の輪郭を可能な限り正確に捉えることを試みる。
第一章:伝承と記録の断片
福原助就に関する情報は、後世の軍記物や地誌に散見される。通称は主膳(しゅぜん)と伝えられ、播磨国佐用郡に位置する高倉山城の城主であったとされる 6 。
彼の出自については、『三日月町史』に「もとは龍田氏」であったという記述が見られる 6 。これが事実であれば、助就は福原一族の血筋ではなく、婚姻によってその一員となった人物、すなわち他家から婿として迎えられたことを示唆している。
この婚姻関係こそが、助就の人物像を考察する上で最も錯綜した点である。彼が誰の婿であったかについては、史料によって記述が分かれている。一つは、福原氏の本城である福原城(佐用城)の城主・福原則尚(ふくはら のりなお)の「妹婿」、つまり義理の弟にあたるという説である 6 。一方で、則尚の「娘婿」であったとする説も有力である 7 。この続柄の違いは、助就の福原一族内での世代や立場を理解する上で重要な意味を持つが、現存する史料からは断定が難しい。
これらの錯綜した情報を整理するため、以下に各史料の記述を比較した表を提示する。
【表1】福原助就に関する諸史料の記述比較
史料・文献名 |
通称・官途名 |
居城 |
福原則尚との続柄 |
最期に関する記述 |
備考 |
『三日月町史』 6 |
主膳 |
高倉山城 |
妹婿 |
天正5年11月、秀吉に攻められ討死。 |
もとは龍田氏。 |
『上月町史』 9 |
主膳 |
高倉山城 |
妹婿 |
天正5年11月26日の激戦で自刃。 |
|
『黒田家譜』 6 |
(助就) |
福原城 |
(直接の言及なし) |
(黒田勢に)討たれる。 |
則尚と混同して「福原城主」としている可能性。 |
城郭サイトA 7 |
主膳助就 |
高倉山城 |
娘婿 |
激戦のすえ敗れ討死。 |
赤松則尚の娘婿と明記。 |
城郭サイトB 8 |
助就 |
高倉山城 |
妹婿 |
敗走中に平塚為広に討ち取られる。 |
|
系図資料 10 |
主膳助就 |
高倉山城 |
娘婿 (則高の娘) |
(記載なし) |
則尚(則高)の娘の婿と記載。 |
第二章:実在性をめぐる考察
福原助就に関する情報の錯綜は、彼の歴史上の位置づけがマイナーであったことの証左ともいえるが、一方でその実在性をめぐるいくつかの興味深い論点を提供している。
第一に、黒田家の公式記録である『黒田家譜』の記述である。この史料では、助就を「福原城主」としており、高倉山城主ではなく福原氏の本城の主として認識していた節がある 6 。これは、攻撃側である織田方から見れば、福原一族の当主である則尚と、支城を守る助就の区別が明確でなく、「福原の城主」という大きな枠で捉えられていた可能性を示している。このことから、史料によっては則尚と助就の事績が混同されているのではないかという推測が成り立つ。
第二に、この混同説をさらに進め、助就が則尚と同一人物であったのではないか、という説も存在する。しかし、複数の地誌が両者を別人として明確に区別して記述していることから、この可能性は低いと考えられる。
より説得力のある考察は、『三日月町史』が言及する「下村文書」という羽柴秀吉の書状に見える「福原城主の弟」という人物を助就に比定する見方である 6 。もし助就が則尚の「妹婿」であったならば、彼は義理の「弟」にあたる。この書状の記述は、助就が単なる支城の将ではなく、福原一族において当主・則尚に次ぐ重要な立場にあったことを示す間接的な証拠となりうる。
生没年については、天文17年(1548年)に生まれ、天正5年11月27日(西暦1578年1月5日)に没したという説が一部で紹介されている 12 。しかし、この生年に関する一次史料は確認されておらず、後世の編纂物による可能性が高い点には留意が必要である。
福原助就に関する情報の錯綜は、彼個人の問題に留まらない。それは、戦国末期の地方豪族における「家」のあり方を映し出している。血縁者だけでなく、龍田氏出身とされる助就のような有能な人物を婚姻によって一族に取り込み、重要な軍事拠点の守りを任せるという戦略は、当時の国人領主にとって現実的な防衛策であった。中央の記録者から見て彼らの関係性が曖昧に映ったのは、地方の複雑な人間関係よりも、「福原一族」という敵対勢力として一括りに認識していた結果であり、中央から見た地方の解像度の低さを示しているといえるだろう。
第二部:西播磨の雄、福原一族
福原助就がその命を賭して守ろうとした福原一族とは、どのような存在だったのか。本章では、その出自と戦国末期における立場を掘り下げ、助就の戦いが一族の存亡を賭けたものであったことを明らかにする。
第一章:赤松庶流としての系譜
播磨福原氏は、その源流を辿ると村上源氏の名門・赤松氏に行き着く。具体的には、播磨守護・赤松氏の有力な庶流であった上月(こうづき)氏から分かれた一族とされる 13 。伝承によれば、上月景盛の孫にあたる景行が、佐用郡福原の地名を苗字とし、福原氏を称したのがその始まりであるという 13 。
彼らの本拠地は、その名が示す通り福原城であった。この城は別名を佐用城ともいい、南北朝時代の元弘年間(1331年~1334年)に赤松一族の佐用範家によって築かれ、その後、福原氏が継承したと伝えられている 14 。佐用川に面した標高110mほどの丘陵上に築かれた平山城であり、この地域の政治・軍事の中心として機能していた 15 。
第二章:戦国末期の福原氏当主・福原則尚
織田軍侵攻時の福原氏当主は、福原則尚であった。通称は藤馬允(とうまのじょう)や左京進などと伝わる 10 。彼は、播磨の国人たちが織田と毛利のいずれに与するかという選択を迫られる中、西の大国である毛利氏およびその同盟者である備前の宇喜多直家に従い、織田に抵抗する道を選んだ 8 。これは、地理的に毛利・宇喜多勢力圏に近かった西播磨の多くの国人たちの動向と軌を一にするものであり、彼らにとっては自然な選択であった。赤松庶流という旧来の名門意識を持ちつつも、現実的な軍事力を持つ毛利氏の庇護下に入ることで、織田という未知の巨大権力に対抗しようとしたのである。
ここで、読者の混乱を避けるため、戦国時代に活躍した他の「福原氏」との区別を明確にしておく必要がある。第一に、安芸国を本拠とし、毛利元就の孫・福原広俊が継いで毛利一門に次ぐ重臣となった大江姓の安芸福原氏とは、全く別の系統である 19 。第二に、石田三成の妹婿(または縁者)とされ、豊臣政権下で頭角を現し、最終的に豊後国府内城12万石の大名にまでなった福原長堯(直高)とも、直接の関係はない 20 。一部の資料では、この長堯が播磨福原氏の出身で則尚の弟であるという説も紹介されているが、「詳らかではない」とされており、通説では否定されている 13 。本報告書で扱うのは、あくまで播磨の在地領主であった赤松系の福原氏である。
第三部:秀吉、播磨を席巻す ― 高倉山城の攻防
天正5年(1577年)末、播磨の情勢は一気に緊迫する。福原助就の運命を決定づけた西播磨における一連の戦闘を、時系列に沿って詳細に再現する。
第一章:中国攻めの序盤戦
天正5年10月、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、中国方面軍の総大将として播磨国に入った 3 。秀吉軍の先鋒部隊を実質的に指揮したのは、播磨の地理と人脈に精通した黒田官兵衛(小寺孝高)と、天才軍師として名高い竹中半兵衛であった 5 。彼らの当面の主目標は、毛利方の赤松政範が守る上月城の攻略にあった。福原城と高倉山城への攻撃は、その前哨戦として、上月城攻略の拠点確保と背後の安全を確保する目的で実施された、極めて戦略的な作戦であった 5 。
この一連の戦いは、驚くべき速さで展開した。その迅速かつ連鎖的な戦局の推移を理解するため、以下の時系列表を参照されたい。
【表2】天正5年(1577年)末 西播磨攻防戦 時系列表
年月日(和暦) |
年月日(西暦) |
出来事 |
主要人物(織田方) |
主要人物(反織田方) |
典拠 |
天正5年10月 |
1577年11月 |
羽柴秀吉、播磨国に入る。 |
秀吉、官兵衛 |
(播磨国人衆) |
3 |
天正5年11月26/27日 |
1578年1月4/5日 |
高倉山城が攻撃され落城。福原助就、戦死または自刃。 |
秀吉、官兵衛、半兵衛、平塚為広 |
福原助就 |
8 |
天正5年11月27日夜 |
1578年1月5日夜 |
秀吉軍、上月城を包囲開始。 |
秀吉、官兵衛、山中鹿之助 |
赤松政範 |
29 |
天正5年12月1日 |
1578年1月9日 |
福原城が落城。福原則尚、福円寺にて自刃。 |
秀吉、官兵衛、半兵衛 |
福原則尚 |
13 |
天正5年12月3日 |
1578年1月11日 |
上月城が落城。赤松政範、自刃。 |
秀吉 |
赤松政範 |
4 |
天正5年12月以降 |
1578年1月以降 |
秀吉、上月城を尼子勝久らに与える。高倉山城は拠点化。 |
秀吉、尼子勝久、山中鹿之助 |
(毛利輝元) |
4 |
第二章:高倉山城、落城
時系列表が示す通り、戦端はまず福原助就が守る高倉山城で開かれた。天正5年11月26日(一説に27日)、黒田官兵衛・竹中半兵衛率いる羽柴軍の先鋒部隊が、高倉山城に殺到した 8 。
高倉山城は、標高320mの山上に築かれた典型的な山城であり、本丸を中心に複数の郭と空堀で構成されていた 7 。福原助就は城兵を率いてこの城に籠もり、激しく抵抗したと伝えられる。しかし、秀吉が動員した3万ともいわれる大軍の前に、一地方豪族の兵力では抗すべくもなかった 8 。激戦の末、高倉山城はわずか一日で落城した 7 。
城を枕に討死した、あるいは自刃したとの説もあるが 9 、より具体的な伝承として、助就は落城後に城を脱出し、本城にいる義兄(または舅)の則尚と合流すべく落ち延びようとしたというものがある。しかし、その敗走の途中、羽柴方の武将・平塚為広によって発見され、討ち取られたとされている 8 。この平塚為広は、後に関ヶ原の戦いで大谷吉継の家臣として壮絶な最期を遂げることで知られる人物であり、福原助就を討ち取った武功は、彼のキャリアの初期を飾るものであったのかもしれない。
第三章:福原一族の終焉
助就が守る高倉山城への攻撃と並行して、秀吉軍は福原氏の本拠地である福原城にも猛攻を加えていた 18 。この二つの城への攻撃は、相互の連携を断ち、地域一帯を効率的に制圧するための、完全に連動した作戦であった。
城主・福原則尚は、秀吉の本陣が置かれた高倉山への夜襲を試みるなど、果敢に抵抗したという 13 。しかし、支城である高倉山城が陥落し、助就が討たれたことで、則尚の抵抗も限界に達した。衆寡敵せず、全ての策が尽きたことを悟った則尚は、ついに最後の決断を下す。
天正5年12月1日、則尚は自ら城に火を放ち、燃え盛る福原城を後にした 13 。そして、福原家の菩提寺であった高雄山福円寺に入ると、一族郎党50余名と共に静かに自刃して果てた 13 。これにより、播磨の国人領主として続いた福原氏は、歴史の表舞台からその姿を消したのである。助就の死からわずか数日後のことであった。
第四部:歴史の奔流の中で
福原助就と福原一族の滅亡は、単なる一地方豪族の悲劇に終わらない。それは、その後の西播磨の歴史、ひいては織田・毛利両軍の戦局全体に大きな影響を与えた。彼らの死が、より大きな歴史の文脈の中でどのような意味を持ったのかを考察する。
第一章:拠点化される高倉山城
福原助就が命を懸けて守った高倉山城は、落城後、皮肉な運命を辿ることになる。城を攻略した羽柴秀吉は、その戦略的価値を即座に見抜き、次の主目標である上月城を攻めるための絶好の本陣として接収したのである 4 。助就の抵抗がなければ、秀吉は上月城攻略に際し、より困難な状況に陥っていた可能性があり、彼の敗北は結果的に秀吉の勝利に直接貢献してしまった。これは、個人の奮戦がより大きな戦略に飲み込まれていく戦国の無常を象徴する出来事であった。
上月城攻略後も、高倉山城の重要性は変わらなかった。羽柴秀吉の弟・秀長や、後に謀反を起こす荒木村重といった有力武将が一時的に駐屯する拠点となり、西播磨における織田方の支配を支える重要な役割を担い続けた 7 。助就の死は、文字通り次の戦いの「礎」となったのである。
第二章:上月城の悲劇と西播磨平定
福原助就・則尚という抵抗勢力を排除し、後顧の憂いを断った秀吉は、満を持して上月城への総攻撃を開始した。天正5年12月3日、上月城は陥落し、城主の赤松政範は自刃した 4 。この時、秀吉は城兵の降伏を許さず、女子供に至るまで200人以上を磔や串刺しにして処刑し、国境に見せしめとして晒したと伝えられており、その苛烈さを示している 4 。
その後、秀吉は上月城を、尼子氏の再興を悲願とする山中鹿之助(幸盛)・尼子勝久主従に与えた。しかし、翌天正6年(1578年)、毛利輝元が率いる6万の大軍が上月城を包囲する。秀吉は救援に向かうも、信長から播磨三木城に籠る別所長治の攻略を優先するよう命じられ、上月城を見捨てることを決断する。孤立無援となった尼子勝久は自刃し、捕らえられた山中鹿之助も護送中に殺害され、尼子再興の夢は完全に潰えた 7 。
福原助就らの戦いと死は、この播磨・備前・美作の国境地帯を巡る、織田・毛利の血で血を洗う熾烈な抗争の序曲であった。彼ら西播磨の反織田勢力が一掃されたことで、秀吉による播磨平定は大きく前進し、その後の鳥取城攻めや備中高松城の水攻めといった中国攻めの本格的な展開へと繋がっていったのである 3 。
終章:福原助就が映し出すもの
播磨の国人・福原助就の生涯を追跡する作業は、錯綜する史料との格闘であった。彼の出自、続柄、そして最期の瞬間に至るまで、その実像は歴史の霧の中にあり、判然としない部分が多い。しかし、その不明瞭さこそが、福原助就という人物の歴史的意義を物語っている。彼は、戦国時代の天下統一という巨大な変革の過程で、記録に名を留めることもなく消えていった無数の在地領主(国人)たちの一つの典型なのである。
彼の戦いは、個人的な武勇伝ではなく、旧来の地域秩序(守護・赤松体制)が崩壊し、新たな巨大権力(織田)が侵入してくる歴史の過渡期において、自らの一族と所領という共同体を守ろうとした在地領主の必死の抵抗であった。その選択は、結果として一族の滅亡という悲劇的な結末を迎える。
助就が命を懸けて守った高倉山城が、落城後ただちに敵の最重要拠点として利用されたという事実は、戦国時代の非情な現実と、個人の意志や武勇がいかに巨大な戦略の前に無力となりうるかを雄弁に物語っている。福原助就の短い生涯の探求は、我々に、歴史の教科書に登場する華々しい英雄たちの物語の陰に、名もなき無数の人々の抵抗と犠牲があったという、もう一つの戦国時代の真実を教えてくれるのである。
引用文献
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