最終更新日 2025-07-11

福原資保

福原資保の生涯:戦国乱世から徳川の世へ、一族を導いた知将の実像

本報告書は、日本の戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将、福原資保(ふくはら すけやす)の生涯を、その出自、功績、そして歴史的文脈における位置付けに至るまで、多角的に分析し、その実像に迫るものです。

【表1:福原資保 略年表】

年代

主な出来事

石高

元亀2年(1571年)

福原資孝の次男として生誕

-

慶長3年(1598年)

兄・資広の養子となり家督を相続

2,610石

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦いで東軍に属し、大田原城を防衛

2,910石 (+300石)

慶長19年(1614年)

大坂冬の陣に従軍(本多正信隊)

2,910石

慶長20年(1615年)

大坂夏の陣で首級32を挙げる武功

3,910石 (+1,000石)

元和7年(1621年)

大坂城番に任命される

3,910石

時期不明

新墾田地の開発などにより加増

最終的に4,500石

寛永10年(1633年)

12月24日、死去(享年63)

4,500石

序論:乱世を生き抜いた那須衆、福原資保の実像

福原資保という武将は、一般的に「那須七党の一員であり、関ヶ原の戦いや大坂の陣で功績を挙げて徳川幕府の旗本となった人物」として知られています。この理解は決して間違いではありませんが、彼の生涯の重要性を捉えるには、あまりにも表層的と言わざるを得ません。

本報告書では、この一般的な評価から一歩踏み込み、福原資保の生涯を、戦国という旧秩序が崩壊し、徳川による泰平の世という新秩序が形成される巨大な時代の転換期を、下野国の一地方武将がいかにして生き抜き、自らの一族を大身旗本、すなわち交代寄合という特権的な地位へと導いたか、という生存戦略の成功例として深く掘り下げていきます。彼の人生の軌跡は、単なる個人の武勇や才覚の物語に留まりません。それは、彼が背負った一族の伝統、主家や周辺豪族との複雑な関係、そして何よりも天下の情勢を的確に見極める卓越した政治的嗅覚が織りなす、壮大な歴史叙事詩なのです。本報告を通じて、福原資保という一人の武将の生涯から、時代の変革期における地方武士団の苦悩と栄光を浮き彫りにすることを目的とします。

第一章:福原氏の出自と那須七党における位置付け

福原資保の行動原理と成功の背景を理解するためには、まず彼が属した福原氏の歴史的背景と、那須地方におけるその特殊な地位を把握することが不可欠です。

第一節:那須与一の兄を祖とする名門

福原氏は、単なる那須氏の家臣や庶流という言葉では語り尽くせない、特別な家格を持つ一族でした。その起源は平安時代末期の源平合戦にまで遡り、屋島の戦いにおける「扇の的」の逸話で名高い那須与一宗隆(資隆)の実兄、福原四郎久隆を始祖としています 1 。これは、福原氏が那須宗家とほぼ時を同じくして成立した、極めて由緒正しい家柄であることを意味します。

その関係性の深さは、代々那須宗家から養子を迎えるなど、血縁的な交流を密に行い続けたことからも窺えます 1 。戦国時代において、このような由緒や家格は、単なる名誉以上の意味を持ちました。それは、他の豪族との交渉や主家内での発言力において、目には見えない強力な「政治的資本」として機能したのです。福原資保が後に徳川家康から高い評価を得るに至る素地には、彼個人の能力に加え、彼が相続した「福原氏」という歴史的権威が背景にあったことは想像に難くありません。彼の成功は、彼が生まれながらにして有していたこの歴史的・社会的な資産と無関係ではなかったのです。

第二節:那須七党(那須衆)という連合体

福原氏が根を下ろした下野国那須郡は、那須氏を宗家としながらも、一枚岩の支配体制ではありませんでした。この地は、宗家の那須氏に加え、福原氏、蘆野氏、伊王野氏、千本氏、そして重臣である大関氏、大田原氏といった有力な一族によって構成される「那須七党(那須衆)」と呼ばれる武士団連合体によって統治されていました 4

この連合体の最大の特徴は、各氏が非常に強い独立性を保持していた点にあります 4 。彼らは宗家の家臣団の一員でありながら、時には主家の意向に背くことも辞さない、自立した領主としての一面も持ち合わせていました。この構造は、那須家中の政治力学を常に複雑で緊張感に満ちたものにしていました。しかし、この「独立性」は、見方を変えれば、各々が自らの判断で政治行動を取る自由度が高いことをも意味します。天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、福原資保が那須宗家や他の七党の動向に必ずしも縛られず、いち早く「東軍に与する」という独自の、そして最善の決断を下すことができた背景には、この那須衆の伝統的な気風が大きく影響していたと考えられます。緩やかな連合体という構造が、結果的に資保に政治的な決断の余地を与え、一族を存続・発展させる道を開いたのです。

第二章:福原資保の生誕と複雑な家督相続

福原資保の人生は、その始まりからして、平穏なものではありませんでした。彼の家督相続は、一族の将来を左右する極めて繊細な問題を孕んでいました。

第一節:資孝の子、資広の養子として

福原資保は、元亀2年(1571年)、福原資孝の次男として生を受けました 6 。父である資孝は、那須家中で権勢を誇った大田原資清の次男であり、大関高増や大田原綱清を兄弟に持つ有力な武将でした 7 。この血筋は、資保に強力な縁戚関係をもたらしました。

天正18年(1590年)、父・資孝は家督を嫡男であった資保の兄・資広に譲り、隠居の身となります。しかし、そのわずか翌年、当主となったばかりの資広が病によってこの世を去るという悲劇に見舞われます 8 。この予期せぬ事態を受け、一族の跡継ぎとして白羽の矢が立ったのが、次男の資保でした。

しかし、彼の家督継承は単純なものではありませんでした。資保は、亡き兄・資広の「養子」となる形式を採って家を継いだのです 6 。そして慶長3年(1598年)11月、正式に下野国那須郡福原の地、2,610石の所領と家督を相続しました 6 。なぜ、次男が単純に家を継ぐのではなく、わざわざ「亡兄の養子」という手続きを踏んだのでしょうか。これは、当時の武家社会の慣習と法秩序を深く理解した、極めて計算された措置であったと分析できます。家督は父から嫡男へと継承されるのが正統であり、一度家督を継いだ資広の跡は、その直系(この場合は養子)が継ぐのが最も筋の通った形となります。この法的な手続きを踏むことで、家中に起こりうる相続を巡る不満や異論の芽を摘み、対外的にも(当時は豊臣政権、そしてその後の徳川家に対しても)家督の正統性を疑われるリスクを回避したのです。この複雑な相続形式は、福原氏の家督継承における断絶や混乱を防ぎ、資保の当主としての地位を盤石にするための、深慮遠謀であったと言えるでしょう。

第二節:父・資孝による後見

若き資保の家督相続にあたり、重要な役割を果たしたのが、隠居していた父・資孝の存在です。資孝は、資保が当主となると、その後見人として再び政治の表舞台に立ちました 8 。この事実は、資保の当主就任が、家中を完全に掌握し、統率するためには、経験豊富な父の政治力と権威による支えを必要とする、デリケートなものであったことを物語っています。父子の連携によって、福原氏は当主交代という危機を乗り越え、来るべき新たな時代に備えることができたのです。

第三章:天下分け目の決断 ― 関ヶ原の戦いと徳川への帰順

豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康を中心に大きく動き始めます。この激動の中で、福原資保は一族の命運を賭けた重大な決断を下しました。

第一節:徳川家康への早期接近

福原氏の巧みな処世術は、資保の代に始まったものではありませんでした。秀吉の死後、父・資孝の代から、すでに次代の覇者として徳川家康への接近を図っていました 1 。その具体的な行動として、一族の者(保通という名が伝わる)を人質として家康のもとへ送るなど、来るべき時に備えて布石を打っていたのです 1 。この先見の明ともいえる早期の帰順工作が、関ヶ原の戦いにおける資保の行動の確固たる基盤となりました。

第二節:大田原城防衛という戦略的任務

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、福原資保は一切の迷いなく東軍に属しました 6 。彼に与えられた任務は、会津の上杉景勝が徳川の本拠地である関東へ南下するのを阻止するため、下野国の要衝・大田原城を守備することでした 6 。この任務には、同じく東軍に与した皆川広照や服部正就といった武将たちも加わっていました。

一般的に関ヶ原の戦いといえば、美濃国での主戦場が注目されがちですが、家康にとって北からの上杉軍の脅威は、西の石田三成と並ぶ最重要課題でした。もし上杉軍が那須を突破して関東平野に侵入すれば、家康の本拠地である江戸が直接脅かされ、東西から挟撃されるという最悪の事態に陥ります。それゆえ、家康自らが修復を命じるほど、大田原城を中心とする下野国の防衛線は、徳川の天下取り戦略における「生命線」ともいえる極めて重要な拠点だったのです 10

福原資保がこの国家的な防衛任務の一翼を担ったという事実は、彼が家康から大きな信頼を寄せられていたことを明確に示しています。彼の役割は、単なる地方での小競り合いへの参加ではなく、徳川の戦略的後背地を死守するという、天下の帰趨を左右する枢要な貢献だったのです。この功績は正当に評価され、戦後、資保は那須郡において300石を加増され、その所領は2,910石となりました 9 。この恩賞は、彼の立身出世の第一歩であると同時に、徳川幕府内での信頼と評価を不動のものにするという、計り知れない価値を持つものでした。

第四章:徳川の臣として ― 大坂の陣での武功と旗本としての立身

関ヶ原の戦いを経て徳川の臣としての地位を固めた福原資保は、徳川の天下を盤石にするための最後の戦いである大坂の陣において、さらなる武功を挙げる機会を得ます。

第一節:本多正信隊への配属とその意味

慶長19年(1614年)に始まった大坂冬の陣において、福原資保は徳川家の重臣中の重臣、本多正信の指揮下に入って戦いました 6 。本多正信は、武勇一辺倒の猛将ではなく、家康から「友」とまで呼ばれ、その卓越した知略と政略で幕府創成期を支えた人物です 12 。そのような知将の部隊に組み込まれたという事実は、資保が単なる戦闘員として数えられていたのではなく、状況判断能力に長けた信頼できる武将として、幕府中枢から高く評価されていたことを強く示唆しています。これは、関ヶ原での戦略的任務の成功が、彼の評価を確固たるものにしていた証左と言えるでしょう。

第二節:夏の陣での武功と恩賞

翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、資保は目覚ましい働きを見せます。彼は奮戦の末、大坂方の兵の首を32も挙げるという、具体的かつ顕著な武功を立てました 6 。この功績は、彼の武人としての能力を改めて証明するものであり、泰平の世を目前にした最後の合戦において、徳川への忠誠を鮮烈に印象付けました。

これらの冬の陣・夏の陣における一連の功績により、資保は戦後、新たに1,000石という大幅な加増を受けました 1 。これにより、彼の知行は3,910石に達しました。

第三節:大身旗本・交代寄合への道

関ヶ原と大坂の陣という、徳川の世の成立を決定づけた二大決戦での功績は、福原資保と福原家の地位を飛躍的に向上させました。二度の戦功による加増に加え、領内での新田開発(新墾田地)などを着実に進めた結果、福原氏の知行高は最終的に4,500石という大身にまで達しました 1

この4,500石という石高は、一般的な旗本を大きく凌駕するものであり、小大名にも匹敵する規模でした。この石高とこれまでの功績により、福原氏は大名に準ずる格式を持ち、参勤交代の義務を負う代わりに領地に居住することが許される「交代寄合」という特別な家格を与えられました 1 。資保の立身出世は、関ヶ原での「戦略的価値」、大坂の陣での「政治的信頼」、そして具体的な「武功」という三つの要素が揃ったことによって成し遂げられたのです。彼は、武人としての能力と、政治的状況を的確に判断し行動する能力を兼ね備え、この両輪を巧みに噛み合わせることで、徳川幕府という新しい秩序の中で一族の地位を最大化することに成功したのです。

【表2:福原資保 知行高の変遷】

時期

事由

石高

典拠

慶長3年(1598年)

家督相続

2,610石

6

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦いの功績

2,910石(+300石)

9

大坂の陣後

大坂の陣の武功

3,910石(+1,000石)

1

最終

新墾田地開発など

4,500石

1

第五章:泰平の世における役割と晩年

大坂の陣が終結し、世が泰平となると、福原資保の役割も戦場の武将から幕府を支える行政官へと変化していきました。

第一節:大坂城番という重責

元和7年(1621年)、福原資保は幕府の重要役職である大坂城番に任命されます 6 。大坂城は、かつての豊臣氏の本拠地であり、その滅亡後は西国支配の拠点として、また潜在的な反乱分子を抑えるための要として、江戸城に次ぐ重要性を持つ城でした。その城の警備責任者である城番を任されることは、幕府からの絶大な信頼の証であり、旗本としては最高の名誉の一つでした。かつて敵として戦った城を、今度は徳川の臣として守るという立場は、時代の大きな変化と、その中で確固たる地位を築いた資保の成功を象徴しています。

第二節:本拠地の移転と佐久山陣屋

福原氏の本拠地は、豊臣秀吉の命により、資保の代に古くからの拠点であった片府田から佐久山へと移されていました 15 。江戸時代に入り、世の中が安定すると、資保はこの佐久山の地に陣屋を構え、ここを新たな福原氏の統治の中心としました 11 。戦乱の世の象徴である山城の「城」から、行政拠点としての意味合いが強い平地の「陣屋」へと本拠を移したことは、福原氏が戦国の気風を脱ぎ捨て、幕府の統治システムに完全に組み込まれた近世の領主へと変貌を遂げたことを示しています。

第三節:静かなる最期

数々の戦乱を駆け抜け、徳川幕府の重臣として重責を果たし、一族の安泰を確固たるものにした福原資保は、寛永10年12月24日(西暦1634年1月23日)、63年の生涯に幕を閉じました 6 。その死は、激動の時代を全力で生き、泰平の世に確かな礎を築いた武将の、穏やかな終焉であったと言えるでしょう。彼の官位は安芸守、雅楽頭と伝わっています 6

第六章:後世への遺産 ― 史跡として残る墓所と福原家の繁栄

福原資保がこの世を去った後も、彼が築いた礎は残り、一族の繁栄と彼の記憶を現代に伝えています。

第一節:市指定史跡「福原氏墓所」

福原資保の墓所は、父・資孝と同じく、栃木県大田原市佐久山にある実相院の境内にあります 16 。この墓所は、地域の歴史を物語る貴重な文化財として「福原氏墓所」の名称で大田原市の史跡に指定されており、今日まで大切に守られています 15

特筆すべきは、その墓所の中心に、福原氏の始祖である四郎久隆から資保に至るまでの歴代当主を祀る合祀碑が建てられていることです 15 。これは、資保が福原氏の長い歴史の中で、中興の祖として、あるいは近世福原家の事実上の創始者として、後世の一族からいかに重要な人物と見なされていたかを示す動かぬ証拠です。また、地元の大田原市那須与一伝承館が平成20年(2008年)に開催した特別企画展「交代寄合那須氏・福原氏と大田原」およびその図録 15 は、福原資保とその一族が地域史研究においても重要な対象であることを示しています。

第二節:交代寄合福原家の礎

福原資保の生涯にわたる的確な判断と行動がなければ、福原家が幕末まで続く交代寄合旗本として存続することは、おそらく不可能だったでしょう。彼がいなければ、福原氏は他の多くの戦国豪族と同様に、時代の大きな波に呑まれ、改易や没落の道を辿っていた可能性も否定できません。資保が築いた礎の上に、福原家はその後の江戸時代を通じて、大名に準ずる格式を保ち続けたのです。

結論:地方武将から幕府の重臣へ ― 福原資保の生涯が示す生存戦略

福原資保の生涯を詳細に検証した結果、彼が単なる幸運に恵まれた武将ではなかったことが明らかになります。彼の成功は、以下の三つの要素が複合的に作用した必然の結果でした。

第一に、那須与一の兄を祖とする名門としての**「伝統的権威」**です。この由緒ある家格は、彼の行動に正統性を与え、徳川家のような新しい支配者からも敬意を払われる基盤となりました。

第二に、関ヶ原、大坂の陣という時代の大きな節目において、常に天下の趨勢を冷静に見極め、勝者の側につくという卓越した**「政治的判断力」**です。彼は、目先の利害や旧来のしがらみに囚われず、一族の長期的な存続という大局を見据えて行動しました。

そして第三に、大田原城防衛や大坂の陣での戦闘など、与えられた任務において期待以上の成果を上げる**「軍事的・実務的能力」**です。彼の功績は、言葉だけでなく具体的な結果によって裏付けられていました。

これら「伝統」「判断力」「実務能力」という三つの要素が、福原資保という人物の中で見事に融合した結果、彼は自らと一族の運命を切り開き、下野国の一地方武将から、徳川幕府の高級官僚たる大身旗本(交代寄合)へと、見事な社会的上昇を遂げたのです。彼の生涯は、戦国から江戸へという巨大な社会変革期を、一個人がいかにして生き抜き、成功を掴むことができるかを示す、普遍的な戦略と才覚の物語として、後世に多くの示唆を与え続けています。

引用文献

  1. 武家家伝_下野福原氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sim_huku.html
  2. 下野 福原城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/shimotsuke/fukuwara-jyo/
  3. 【(一) 那須氏の分知】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht020830
  4. 那須七騎とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E9%82%A3%E9%A0%88%E4%B8%83%E9%A8%8E
  5. 【(一) 那須七騎】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht021110
  6. 福原資保 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E8%B3%87%E4%BF%9D
  7. 下野戦国争乱記 那須の武将能力値 http://shimotsuke1000goku.g2.xrea.com/henkoun.htm
  8. 福原資孝 Fukuhara Suketaka | 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/fukuhara-suketaka
  9. 福原資保 (ふくはら すけやす) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12035763294.html
  10. 関東の城(大田原城) https://tenjikuroujin.sakura.ne.jp/t03castle02/020504/sub020504
  11. 佐久山氏の拠点、攻め取った福原氏28代の陣屋・佐久山城 [30日]長尾景虎が長尾の家督を継ぐ https://ameblo.jp/0123gogogo/entry-12718456002.html
  12. 本多正信の紹介 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/busho/honda/b-honda-nobu.html
  13. 本多正信は何をした人?「政敵を封殺する陰謀の数々で晩年の黒い家康を創出した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/masanobu-honda
  14. 福原家 http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/koutai/fukuhara.htm
  15. 福原氏墓所(ふくわらしぼしょ) 市指定史跡 | 大田原市 https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082777768/
  16. 福原資孝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E8%B3%87%E5%AD%9D
  17. 特別企画展 交代寄合那須氏・福原氏と大田原 - 日本の古本屋 https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=241329047
  18. 交代寄合那須氏・福原氏と大田原: 平成20年度特別企画展 - Google https://books.google.com/books/about/%E4%BA%A4%E4%BB%A3%E5%AF%84%E5%90%88%E9%82%A3%E9%A0%88%E6%B0%8F_%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E3%81%A8%E5%A4%A7%E7%94%B0.html?id=L-_kZwEACAAJ