福屋隆兼は石見の国人で、毛利元就の義理の弟。毛利氏に仕え戦功を挙げるも、論功行賞への不満や石見銀山を巡る対立から離反。毛利軍に攻められ、子息隆任が討死し、福屋氏は滅亡した。
本報告書は、戦国時代に石見国(現在の島根県西部)で活動した国人領主、福屋隆兼(ふくや たかかね)の生涯を、現存する史料に基づき多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。隆兼は、当初は安芸の毛利氏に従いながらも、後に離反し滅亡に至った悲劇の武将として知られる。しかし、その行動の背景には、単なる個人の思惑を超えた、戦国期における地方権力の構造的課題と、巨大勢力の狭間で生きる国人領主の過酷な選択が存在した。本報告書では、福屋氏の出自から隆兼の登場、毛利氏との協調と対立、そして滅亡に至る詳細な経緯を追い、一族のその後の血脈の行方までを徹底的に調査・分析する。
戦国期の石見国は、西に周防・長門を支配する大内氏、東に出雲を本拠とする尼子氏という二大勢力に挟まれ、地政学的に極めて重要な緩衝地帯であった。さらに、世界有数の銀産出量を誇った石見銀山の存在は、この地の戦略的価値を一層高め、諸勢力による熾烈な争奪戦の舞台となった 1 。このような情勢下で、石見国では益田氏、吉見氏、三隅氏、周布氏、小笠原氏、そして福屋氏といった国人領主たちが割拠していた 3 。彼らは、外部勢力に対抗するため、あるいは相互の所領紛争を解決するために、婚姻関係や盟約を通じて緩やかな連合体を形成し、自立性を保とうと努めていた。福屋氏も、応永12年(1405年)の時点で益田氏らと神に誓う契約文書を交わすなど、古くから地域の有力領主として活動していたことが確認できる 4 。
しかし、この国人連合的な権力構造は、福屋氏の強みであると同時に、その存亡を左右する致命的な脆弱性を内包していた。福屋氏の権力は、石見の海岸部から山間部の小盆地に散在する大小の土豪層を寄せ集めることで成り立っていた 3 。これは、平時においては広範な影響力を行使できる基盤となったが、当主の決断が連合体の各構成員の利害と相反した場合や、より強力な外部勢力が介入した際には、その結束が容易に崩壊する危険性を常に孕んでいた。後に福屋隆兼が毛利氏に反旗を翻した際、これらの土豪層が次々と離反していった事実は、この構造的脆弱性が現実のものとなったことを示している 3 。隆兼の悲劇は、この国人領主特有の権力基盤のあり方と無縁ではなかったのである。
福屋氏の歴史は、鎌倉時代前期にまで遡る。石見国の有力な在庁官人であり御家人でもあった益田兼高の三男・兼広が、天福元年(1233年)に那賀郡阿登郷福屋郷の地頭職に補任され、その地名をとって「福屋」を称したのが始まりである 3 。石見西部に強大な勢力を誇った名門・益田氏の分家であるという事実は、福屋氏が石見国において高い家格を有していたことを示している。その出自を象徴するように、福屋氏の家紋は、益田氏一族に共通して用いられた「久」の字を配した「一文字に久文字」であった 7 。これは、益田氏本家や、同じく同族である三隅氏、周布氏との連帯意識を示すものであったと考えられる。
福屋氏の本拠地は、現在の島根県江津市と浜田市の境界に位置する本明山(標高417メートル)に築かれた本明城であった 8 。この城は、初代兼広によって天福2年(1234年)に築かれたと伝えられ、別名を乙明城(おとあけじょう)、音明城、あるいは福屋城とも呼ばれる 8 。城の構造は、全長約900メートルから1000メートルにも及ぶ長大な尾根上に、小さな曲輪を多数連ねた連郭式の山城である 10 。しかし、その縄張りは個々の曲輪が並列的に配置され、城全体としての求心性に欠けるなど、戦国末期の高度に発展した城郭(例えば、畝状竪堀群や横矢掛かりを駆使した同族の松山城)と比較すると、古式な様相を色濃く残していると評価されている 11 。これは、福屋氏が南北朝時代から続く伝統的な城郭の形態を、戦国時代に至るまで維持していたことを示唆している。なお、日常的な居住空間である居館は、本明山の北麓にあたる福田の地(現在の福田八幡宮周辺)に構えられていたと推測され、同地には現在も「土居」や「城ノ内」といった城郭関連の地名が残されている 11 。
福屋氏は、那賀郡中部を本領としながら、邑智郡の一部や邇摩郡にも所領を有し、石見国中部に広範な勢力圏を築いていた 3 。南北朝の内乱期には南朝方として北朝方と戦った記録も残り 11 、戦国時代には江の川下流域の松山城(江津市松川町)方面へも進出するなど、石見の有力国人として確固たる地位を占めていた 3 。
福屋隆兼は、福屋正兼の長子として生まれ、福屋氏の第十二代当主となった人物である 8 。彼の生没年は詳らかではないが、その活動時期は16世紀中頃、まさに戦国時代の動乱が最も激しかった時代にあたる。隆兼の生涯を理解する上で極めて重要なのが、彼の築いた婚姻関係である。隆兼の妻は、安芸国(現在の広島県西部)の有力国人であった吉川国経(きっかわ くにつね)の娘であった 13 。
この婚姻が持つ意味は大きい。なぜなら、この妻の姉妹こそが、後に中国地方の覇者となる毛利元就の正室・妙玖(みょうきゅう)であったからである 13 。この縁戚関係により、福屋隆兼は毛利元就の義理の弟、そして元就の息子たち、すなわち毛利隆元、吉川元春、小早川隆景から見れば義理の叔父という、毛利家の中枢と極めて近しい立場に立つことになった。
表1:福屋氏・吉川氏・毛利氏の縁戚関係
家 |
人物 |
関係 |
益田氏 |
益田兼高 |
- |
┣ 福屋氏 |
┣ 福屋兼広(初代) |
兼高の三男 |
┃ |
┃ (中略) |
|
┃ |
┗ 福屋隆兼(十二代) |
妻は吉川国経の娘 |
┃ |
┣ 福屋彦太郎(嫡男) |
隆兼の子 |
┃ |
┗ 福屋隆任(次男) |
隆兼の子 |
吉川氏 |
吉川国経 |
- |
┣ |
┣ 娘(名不詳) |
福屋隆兼の正室 |
┗ |
┗ 妙玖 |
毛利元就の正室 |
毛利氏 |
毛利元就 |
妻は妙玖 |
┣ |
┣ 毛利隆元 |
元就の長男 |
┣ |
┣ 吉川元春 |
元就の次男(吉川家を継承) |
┗ |
┗ 小早川隆景 |
元就の三男 |
この婚姻は、当初、福屋氏の政治的地位を安定させる上で絶大な効果を発揮した。安芸・石見にまたがる広域的な国人ネットワークに組み込まれ、新興勢力である毛利氏との強固なパイプを持つことは、他の国人衆に対して大きな優位性をもたらしたはずである。しかし、この密接な関係は、諸刃の剣でもあった。毛利元就が勢力を拡大し、次男の元春が吉川氏の家督を継承して「毛利両川体制」が確立されると、福屋氏は否応なく毛利家の広域支配体制の一翼に組み込まれることになった。協力関係にある間は強固な紐帯となるこの関係も、一度利害が対立すれば、その裏切りは単なる政治的敵対行為ではなく、「身内からの裏切り」として、より深刻に受け止められる運命にあった。隆兼の離反に対し、毛利氏が単なる鎮圧ではなく一族の「滅亡」という徹底的な手段をもって臨んだ背景には、この近しすぎた姻戚関係がもたらした、元就や元春の個人的な怒りや、他の国人衆への見せしめという政治的意図が、通常以上に強く働いた可能性は否定できない。この吉川氏との婚姻こそが、隆兼の栄光と悲劇の両方を規定する重要な鍵となったのである。
福屋隆兼が家督を継いだ頃、中国地方の勢力図は大きく変動していた。当初、福屋氏は他の多くの国人衆と同様に、大内氏と尼子氏という二大勢力の間で巧みな外交を展開し、自家の存続を図っていた。天文9年(1540年)、尼子晴久が毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)に大軍を率いて侵攻した際には、隆兼は尼子方に与して参陣している。しかし、この戦いで尼子軍が大敗を喫すると、他の多くの国人衆と共に大内方へと転じている 14 。この動きは、特定の勢力に殉じるのではなく、時々の情勢を見極めて有利な側に付くという、戦国期国人領主の典型的な生き残り戦略であった。
大きな転機となったのが、天文24年(1555年)の厳島の戦いである。この戦いで毛利元就が陶晴賢を討ち破り、大内氏が事実上滅亡すると、中国地方のパワーバランスは毛利氏優位へと一気に傾いた。この情勢変化を的確に捉えた隆兼は、毛利氏への接近を強めていく。同年、隆兼は毛利方として、同じ石見国人の矢懸城主・永安兼政の討伐に参加し、その功績によって永安氏の旧領七ヶ所を与えられるなど、毛利氏から恩賞を得ている 14 。
毛利氏の麾下における隆兼の活動が最も顕著であったのが、永禄元年(1558年)から始まる温湯城(ぬくゆじょう)攻めである。温湯城は、石見東部の邑智郡を本拠とし、尼子方に属する有力国人・小笠原長雄の居城であった。毛利氏にとって、石見銀山への影響力を強め、石見国全域を平定するためには、小笠原氏の打倒が不可欠な課題であった。この戦いにおいて、福屋隆兼は吉川元春、益田藤兼といった毛利軍の中核をなす武将たちと共に、小笠原氏の所領へ侵攻し、温湯城を包囲した 15 。一連の戦役を通じて、隆兼は毛利氏の石見平定に大きく貢献し、毛利体制下で重要な役割を担う有力な国人領主としての地位を確立したかに見えた。
毛利方として輝かしい戦功を挙げた福屋隆兼であったが、その関係は長くは続かなかった。温湯城攻めからわずか数年後、彼は毛利氏に反旗を翻すことになる。その背景には、個人的な不満から、より構造的な問題まで、複数の要因が複雑に絡み合っていた。
第一の直接的な原因は、温湯城攻め後の論功行賞に対する強い不満であった。永禄2年(1559年)、毛利元就は降伏した小笠原長雄の罪を許し、その所領の一部を安堵した。この中には、福屋氏が長年獲得を望んでいたであろう波積(はづみ)の所領などが含まれていた 3 。一方で、隆兼には代替地として邇摩郡内の土地が与えられたものの、長年にわたる宿敵であり、多大な犠牲を払って攻略した小笠原氏が優遇されたと感じた隆兼にとって、この処遇は到底納得できるものではなかった 14 。これは、毛利氏に対する不信感を抱かせる直接的な引き金となった。
第二に、毛利氏との信頼関係が揺らぐ中で、隆兼は水面下で敵対勢力である尼子氏との接触を始めていた。永禄4年(1561年)7月、元就は隆兼の忠誠を試すためか、あるいは単なる慣例としてか、次男の次郎(一説に隆任)を人質として差し出すよう要求した 14 。しかし、この時すでに隆兼は尼子義久と密約を交わしており、次郎を尼子方へ人質として送ることを約束していたのである 14 。人質の提出を拒否し、敵方と通じるという行為は、もはや後戻りのできない決定的な敵対行動であった。
第三の、そして最も根源的な原因は、石見銀山を巡る毛利氏の国家戦略と、福屋氏のような国人領主の在地における利害との構造的な衝突であった。毛利氏にとって、石見平定の最大の目的は、莫大な富を生み出す石見銀山を完全に掌握することにあった 1 。毛利氏が降伏した小笠原氏を懐柔したのは、銀山への輸送路や周辺地域を安定的に支配するための戦略的判断であり、それは国人衆の個々の利害よりも、領国全体の経営戦略を優先する戦国大名としての論理であった 3 。この毛利氏の戦略は、結果として、江の川流域への東進を目指していた福屋氏の勢力拡大の道を阻む形となった 3 。隆兼は、毛利氏への協力を通じて自家の勢力拡大を期待したが、毛利氏にとって隆兼は石見平定のための「駒」の一つに過ぎず、平定後は銀山支配に最適化された領国再編の対象となった。ここに、「国人領主の論理」と「戦国大名の論理」の埋めがたい溝が生じたのである。隆兼の離反は、単なる個人的な不満の爆発ではなく、毛利氏が中央集権的な戦国大名へと変質していく過程で、自立性を重んじる地方国人が必然的に直面する構造的な圧力の結果であり、戦国時代における国人領主の悲劇的な立場を象徴する事件であったと言えよう。
永禄4年(1561年)、毛利氏の主力軍が九州で豊後の大友宗麟と対峙している戦略的空白を突いて、福屋隆兼はついに公然と反旗を翻した 14 。手始めに、毛利方の吉川経安が守る福光城(邇摩郡)を攻撃し、毛利氏への敵対姿勢を鮮明にした 10 。
しかし、百戦錬磨の毛利元就の対応は迅速かつ的確であった。九州戦線から一部の兵力を引き抜くと、直ちに福屋氏討伐の軍を編成した。永禄5年(1562年)2月、毛利軍は福屋氏の勢力圏における東の重要拠点、川上(かわのぼり)の松山城へ攻撃を開始した 10 。この城を守っていたのは、隆兼の子息・福屋隆任(たかとう)であった 13 。隆任は激しく抵抗したものの、毛利軍の猛攻の前に城はあえなく落城、隆任は城と運命を共にし、討死を遂げた 13 。
この松山城の陥落と、後継者である息子の死は、福屋氏にとって致命的な打撃となった。主力を失い、戦略的拠点を奪われた隆兼は、完全に戦意を喪失した。本拠地・本明城での籠城戦を断念し、再起を期して城に火を放つと、夜陰に乗じて出雲方面へと逃亡した 7 。これにより、鎌倉時代の天福元年から約330年にわたり石見国に栄えた名門国人・福屋氏は、歴史の表舞台からその姿を消すこととなったのである 10 。
本拠地を捨てて逃亡した福屋隆兼のその後の足取りについては、いくつかの伝説が伝えられている。それらによれば、隆兼はまず頼みとしていた尼子氏のもとへ落ち延びようとしたが、すでに勢いを失っていた尼子氏に受け入れを拒まれ、次いで畿内へ向かい、大和の松永久秀を頼った。最終的には四国へ渡り、阿波国(現在の徳島県)の蜂須賀氏に客分として迎えられ、彼の地で生涯を終えたというものである 22 。滅亡した悲劇の当主が、遠国で安住の地を見出したというこの物語は、後世の人々の同情を誘い、広く語り継がれてきた。
驚くべきことに、この伝説を裏付けるかのような記録が、一次史料の中に存在する。徳島大学附属図書館が所蔵する、徳島藩士各家の系譜をまとめた『蜂須賀家家臣成立書并系図』には、「福屋太郎右衛門隆兼」という人物が蜂須賀家に仕え、五百石の知行を与えられていたことが明確に記されているのである 24 。この記録だけを見れば、伝説は史実であったかのように思われる。
しかし、この史料を丹念に読み解くと、衝撃的な事実が浮かび上がる。阿波の福屋隆兼の出自を記した箇所には、彼の父は尼子氏の家臣であった立原源太兵衛尉久綱(たちはら ひさつな)であり、母が「石見国福屋隆兼の娘」であったと記されている 28 。つまり、蜂須賀家に仕えたのは、石見を追われた福屋隆兼本人ではなく、彼の娘が立原久綱に嫁いで生んだ子、すなわち隆兼の「外孫」にあたる人物だったのである。この人物は、当初「里村隆兼」と名乗っていたが、後に母方の名跡を継承し、「福屋隆兼」と改姓したとされている 24 。滅亡した母方の名門の名を後世に伝えようとしたのであろう。
この事実は、歴史研究における一次史料の重要性と、伝説が形成されるプロセスを如実に示している。「福屋隆兼」という共通の名前が、時代を経て二人の異なる人物の事績を混同させ、「滅亡した当主が生き延びていた」という、より劇的な物語を生み出す原因となったと考えられる。この発見は、石見の福屋隆兼本人の最期が、伝説のように安住の地を得たものではなく、おそらくは逃亡の果てに失意のうちに終わったであろうことを強く示唆している。
福屋隆兼の生涯は、戦国時代という激動の時代において、一個の国人領主が自立を保ち続けることの困難さを象徴している。彼は、益田氏の分家という高い家格、吉川氏との婚姻による広域ネットワーク、そして地域の土豪層を束ねる盟主としての地位を駆使して、自家の勢力を維持・拡大しようと試みた。しかし、毛利氏という、より強大で中央集権的な統一権力の前に、国人領主の論理に基づく彼の戦略は通用しなかった。
毛利氏への離反という彼の最後の決断は、結果として一族を滅亡に導いたことから、短慮な裏切りであったと評価することも可能である。しかし、その背景には、戦国大名が推し進める領国再編の中で、自らの存在価値が切り下げられ、伝統的な権益が侵されていくことへの、国人領主としての最後の抵抗であったという側面も見逃すことはできない。彼の決断は、勝者である毛利氏の史観から見れば単なる「反逆」として記録される。だが、その行動原理を、当時の政治構造や経済的背景、そして彼が置かれた個人的な立場から多角的に分析する時、我々は戦国という時代が地方の小領主に強いた、過酷で非情な選択の実態に、より深く迫ることができるのである。福屋隆兼の悲劇は、彼一人のものではなく、時代の大きな奔流に飲み込まれていった無数の国人領主たちの栄光と苦悩を、今に伝えている。
年代 (西暦) |
福屋隆兼・福屋氏の動向 |
毛利氏の動向 |
尼子氏・その他勢力の動向 |
天文9年 (1540) |
尼子方に与し、吉田郡山城攻めに参加するが敗北。後に大内方へ転じる 14 。 |
尼子晴久の大軍を吉田郡山城で撃退(吉田郡山城の戦い)。 |
尼子晴久が安芸に大軍を侵攻させるも大敗。 |
天文24年 (1555) |
毛利方として永安兼政を討伐。恩賞として所領を得る 14 。 |
厳島の戦いで陶晴賢を破り、大内氏を事実上滅亡させる。 |
大内義長が陶氏に擁立される。 |
弘治2年 (1556) |
毛利氏に従い、石見東部への進出を強める。 |
石見銀山の掌握を目指し、石見への介入を本格化させる。 |
尼子氏が山吹城を攻略し、一時的に石見銀山を奪取する 1 。 |
永禄元年 (1558) |
吉川元春らと共に、尼子方の小笠原長雄が籠る温湯城を攻撃 15 。 |
吉川元春を主将とする軍を派遣し、石見平定作戦を推進。 |
小笠原長雄が温湯城で毛利軍に抵抗。 |
永禄2年 (1559) |
温湯城攻めでの論功行賞に不満を抱く 14 。 |
小笠原長雄を降伏させ、所領の一部を安堵。石見銀山への南からのルートを確保 1 。 |
小笠原長雄が毛利氏に降伏。 |
永禄4年 (1561) |
7月、毛利氏からの人質要求を拒否し、尼子氏と密約 14 。10月、毛利氏に反旗を翻し、福光城を攻撃 10 。 |
主力軍は九州で大友宗麟と対峙(門司城の戦い) 14 。 |
尼子義久が福屋隆兼と結ぶ。 |
永禄5年 (1562) |
2月、子・隆任が守る松山城が毛利軍に落とされ討死 10 。本明城を焼き、出雲へ逃亡。福屋氏滅亡 10 。 |
迅速に討伐軍を派遣。松山城、本明城を攻略し、福屋氏を滅ぼす。これにより石見国を完全に平定 4 。 |
福屋氏への救援は間に合わず。 |
慶長17年 (1612) |
- |
- |
阿波蜂須賀藩にて、隆兼の外孫にあたる里村(福屋)隆兼が死去 24 。 |