戦国時代の歴史を彩る数多の武将の中で、福島正成(くしま まさしげ)ほど、その実像が謎に包まれ、評価が定まっていない人物は稀である。今川家の重臣として「家中随一の猛将」と称され、遠江国(現在の静岡県西部)の要衝・高天神城主であったとされる一方で、その生涯の終わりについては全く異なる二つの伝承が存在する 1 。この情報の錯綜こそが、彼を歴史の表舞台から遠ざけ、確固たる評価を困難にしている最大の要因である。
本報告書で論じる福島正成を理解する上で、まず明確に区別すべきは、豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本槍に数えられる福島正則(ふくしま まさのり)との違いである 3 。正則が尾張出身で「ふくしま」と読むのに対し、本稿の正成は駿河・遠江を拠点とし、その姓は「くしま」と読むのが通説である 1 。史料によっては「九島」「久島」「櫛間」といった同音の別表記が用いられることも、この読みを裏付けている 2 。この混同は、福島正成の人物像をさらに曖昧にする一因となってきた。
本報告書は、この謎多き武将、福島正成の実像に迫ることを目的とする。具体的には、(1)出自と一族の背景、(2)彼の生涯を二分する「1521年戦死説」と「1536年敗死説」の徹底的な比較検討、(3)武将としての能力評価、そして(4)後世、特に後北条家を代表する名将・北条綱成の父としての影響という四つの柱を立て、錯綜した情報の中から、史料に基づいた客観的な人物像を再構築する。
議論の出発点として、福島正成をめぐる中心的な謎、すなわち二つの没年説がもたらす人物像の根本的な違いを以下の表に示す。この表は、読者が本論を通じて、なぜ二つの説が並立し、それぞれがどのような歴史的文脈を持つのかを理解するための一助となるだろう。
項目 |
1521年没説 |
1536年没説 |
説の概要 |
今川氏親の将として甲斐へ侵攻 |
花倉の乱で今川義元に敵対 |
生没年(伝) |
1492年~1521年 6 |
1492年~1536年 6 |
主な活動 |
今川氏の対武田方面軍司令官として甲斐国へ大規模な軍事侵攻を指揮 8 |
今川家の家督争いに介入し、外戚として自らの血を引く玄広恵探を擁立 1 |
死因 |
飯田河原・上条河原の戦いで武田信虎軍に敗れ、原虎胤らに討たれる 1 |
花倉の乱に敗北後、甲斐へ逃亡するも、今川義元と誼を通じた武田信虎に討たれる 1 |
関連する主要人物 |
今川氏親、武田信虎、原虎胤 |
今川義元、玄広恵探、寿桂尼、太原雪斎、武田信虎 |
根拠となる主な史料 |
『勝山記』、『王代記』、『高白斎記』など比較的同時代の記録(ただし「正成」の名は明記されず) 1 |
後代に成立した軍記物や系譜類 1 |
この二つの異なる物語は、福島正成が「甲斐統一を目指す武田信虎の前に立ちはだかった宿敵」であったのか、それとも「今川家の内紛に散った悲劇の将」であったのかという、根本的な問いを我々に投げかける。彼の歴史的評価が定まらないのは、単に情報が欠けているからではなく、これら二つの矛盾する物語が並立しているためである。後代の人々が、特に後北条家で大活躍した名将・北条綱成の出自を説明する必要に迫られた結果、今川家の有力武将であった「福島」の名が、これらの歴史的事件の当事者として結びつけられていった可能性が考えられる。したがって、福島正成の実像を探る作業は、彼自身の生涯を追うと同時に、後世の人々によって構築されていった「記憶の歴史」を解き明かす試みでもあるのだ。
福島正成が属した福島(くしま)氏の出自は、複数の説が伝えられており、明確な定説は存在しない。本姓を清和源氏とする説や、桓武平氏とする説が並立する 1 。また、美濃国大野郡福島郷(現在の岐阜県本巣市)を発祥とする摂津源氏山県氏の流れを汲む一族が、室町時代に遠江国へ移住し、今川氏に仕える際に福島(櫛間)氏を名乗ったとする説もある 4 。このように、その源流は判然とせず、一族の成り立ち自体が謎に包まれている。
福島氏が歴史の表舞台に明確に登場するのは、駿河の戦国大名・今川氏の家臣としてである。特に今川氏親の時代、福島氏は今川家の遠江支配における先鋒として重用された 4 。その象徴的な役割が、遠江の最重要拠点であった高天神城の城主(または城代)としての地位である 2 。高天神城の城史を伝える年表には、文明3年(1471年)に福島上総介正成が城主となったとの記録が見られるが、これは後世の編纂による可能性も否定できない 15 。いずれにせよ、福島氏が高天神城を拠点に、今川家の遠江方面における軍事力を担っていたことは広く認められている。
この福島氏の役割は、単なる一城主に留まるものではなかった。今川氏にとって遠江支配は、在地国人衆を服属させていく過程であり、そのためには強力な軍事拠点と、それを預かる信頼篤い方面司令官が必要であった。福島氏は、その「遠江方面軍司令官」とも言うべき役割を担い、甲斐への侵攻(1521年説)や花倉の乱における遠江国人衆への働きかけ(1536年説)など、単なる城主の権限を越えた広範な軍事・外交上の裁量権を有していたと考えられる 8 。この強大な権力こそが、後に今川宗家との間に緊張を生み、一族の運命を左右する家督争いへ深く関与していく伏線となったのである。
福島正成の経歴を語る上で、避けて通れないのが「福島助春(くしま すけはる)」という人物の存在である。確実な史料とされる『大福寺文書』には、永正10年(1513年)より以前に「福島助左衛門尉助春」が「土方(ひじかた)の城」、すなわち高天神城に入っていたことが記録されている 18 。これにより、16世紀初頭に福島助春が高天神城に在城していたことは、歴史的事実として確認できる。
問題は、この助春と正成との関係である。これについては、大きく分けて二つの説が存在する。
一つは 同一人物説 である。助春と正成は同一人物であり、名乗りが時期や状況によって異なっていたとする見方である 1 。この説に立つ場合、後に詳述する花倉の乱において、今川氏親の側室(玄広恵探の母)が「福島助春の娘」とされる記録と整合し、正成が「外祖父」として恵探を擁立した動機が極めて明確になる 10 。
もう一つは 別人(同族)説 である。助春と正成は、親子や兄弟といった関係の、同族内の別人と考える見方である 1 。この場合、高天神城を拠点とする福島一族の有力者として、助春が基礎を築き、正成がその後を継いだ、あるいは共同で遠江方面を統括していたという可能性が考えられる。
史料上、『大福寺文書』には「助春」の名が見える一方で、「正成」の名は確認できない。逆に、花倉の乱に関する記録では「福島越前守」(正成と同一視されることが多い)が登場する 10 。この史料上の名前の不一致が、両者の関係性を複雑にし、福島正成という人物像を一層捉えにくくしているのである。
福島正成の生涯を終えた時期として伝えられる最初の説が、大永元年(1521年)の甲斐侵攻における戦死である。この出来事は「福島乱入事件」とも呼ばれ、若き武田信虎の武名を高め、後の武田信玄誕生の逸話とも結びついている。
大永元年(1521年)、今川氏親は、家臣である福島正成(とされる将)に命じ、甲斐国(現在の山梨県)への大規模な侵攻を開始させた 9 。『勝山記』などの記録によれば、その軍勢は1万5千に及んだとされ、今川家が総力を挙げた軍事行動であったことが窺える 8 。この侵攻の背景には、当時、甲斐国内の統一事業を強力に推し進めていた武田信虎の台頭があった。今川氏にとって、隣国・甲斐における武田氏の強大化は、自国の安全保障を直接脅かす脅威であり、その勢いを削ぐための先制的な戦略であったと考えられる 26 。
福島率いる今川軍は、富士川沿いを北上し、甲斐国内へ侵入。当初は破竹の勢いで進軍し、甲斐西部の国人・大井氏の拠点であった富田城を攻略するなど、戦局を優位に進めた 1 。やがて今川軍は甲府盆地へと迫り、武田氏の本拠地である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を窺う位置にまで到達した 28 。
これに対し、武田信虎は国人衆の離反などもあって劣勢に立たされ、動員できた兵力はわずか2千程度であったと伝えられる 26 。圧倒的な兵力差にもかかわらず、信虎は決戦を選択。甲府の西を流れる荒川を挟んで両軍は対峙し、10月16日に飯田河原で最初の激突が起こる(飯田河原の戦い) 27 。さらに11月23日には、その上流にあたる上条河原で雌雄を決する大会戦が行われた(上条河原の戦い) 11 。後世の軍記物には、信虎が荒川の水を堰き止め、油断して渡河する今川軍を鉄砲水で混乱に陥れたといった劇的な戦術が描かれているが、これは伝説の域を出ない 29 。しかし、寡兵の武田軍が地の利を活かし、奮戦したことは確かであろう。
上条河原での激戦は、武田方の大勝利に終わった。この戦いで今川軍は壊滅的な打撃を受け、総大将であった福島正成は、武田家の勇将・原虎胤(あるいはその父・友胤)によって討ち取られたとされる 1 。この劇的な勝利は、武田信虎の甲斐国内における支配権を決定的なものにした。
この戦いの最中、信虎の正室・大井夫人が避難先の要害山城で一人の男子を出産したという逸話は特に有名である。敵将を討ち取った勝利にちなんで「勝千代」と名付けられたこの赤子こそ、後の武田信玄その人である 28 。福島正成の死は、結果として、戦国時代を代表する巨星の誕生を彩る劇的なエピソードの一部として語り継がれることになった。この戦いは単なる一合戦に留まらず、今川家の対武田戦略の頓挫と、武田家が甲斐統一を成し遂げ、次なる対外膨張(信濃侵攻)への道を開くという、地政学的な転換点となったのである。
この1521年戦死説は、劇的な物語性に富む一方で、史料的な裏付けには慎重な検討を要する。本説の根拠とされる『高白斎記』『勝山記』『王代記』といった比較的信頼性の高い同時代の記録を精査すると、確かに今川軍が甲斐に侵攻し、「福島一門」「久島衆」「駿河福島衆」などが武田信虎に大敗を喫した事実は確認できる 11 。
しかし、これらの一次史料には、敗死した大将が「福島正成」という個人名であったとは、どこにも明記されていない 1 。飯田河原・上条河原で戦死した今川方の大将を「福島正成」と特定するのは、主に後世に編纂された『甲陽軍鑑』などの軍記物や諸家の系譜類である。したがって、「福島一門の誰かが戦死した」ことは事実だとしても、それが「正成」本人であったと断定するには、史料的な根拠が十分とは言えない。この説の確実性には、大きな疑問符が付くことを指摘せねばならない。
福島正成の死に関するもう一つの有力な説が、1521年の甲斐侵攻から15年後、天文5年(1536年)に今川家内部で勃発した家督相続争い「花倉の乱」に敗れて死に至った、というものである。
天文5年(1536年)3月17日、今川家当主であった今川氏輝と、その弟で後継者と目されていた彦五郎が、同日に相次いで急死するという異常事態が発生した 10 。これにより、今川家の家督は空位となり、後継者を巡る深刻な対立が引き起こされた。これが「花倉の乱」である。
対立の構図は、二人の異母兄弟を軸に形成された。一方は、氏輝らの母であり、今川家の家政に絶大な影響力を持っていた正室・寿桂尼の子、栴岳承芳(せんがくしょうほう、後の今川義元)。彼は僧籍にあったが、正室の子という血筋の正統性を持っていた 34 。もう一方は、氏親の側室であった福島氏の娘から生まれた、承芳の異母兄にあたる玄広恵探(げんこうえたん)であった 34 。
この家督争いにおいて、玄広恵探を強力に後援したのが、彼の母方の一族である福島氏であった。福島正成(あるいは福島越前守と同一視される人物)は、一族の長としてこの動きを主導した 10 。彼の動機は、単に血縁者を支持するという忠誠心に留まらなかった可能性が高い。もし玄広恵探を当主に据えることができれば、福島氏は「当主の外戚」という絶大な権力を手中に収め、今川家中の主導権を握ることができる。これは、遠江方面で強大な勢力基盤を築いてきた福島氏にとって、一族の権勢を最大化する千載一遇の好機と映ったであろう 17 。
事態を憂慮した寿桂尼は、福島越前守と面会して説得を試みたが、交渉は決裂 10 。福島氏の決意は固く、ここに武力衝突は避けられないものとなった。この決起は、単なる反乱ではなく、今川家の権力構造が「駿河中心の譜代家臣団」と「遠江を基盤とする方面軍」という二重構造になっていたことの現れであり、後者が前者にその覇権を賭けて挑んだ政変未遂事件と捉えることができる。
天文5年5月25日、福島・恵探派は久能城で挙兵し、駿府の今川館を襲撃したが、守りが堅く失敗に終わる 10 。その後、彼らは方ノ上城(焼津市)や花倉城(藤枝市)に立てこもり抵抗を続けた 10 。しかし、義元派には太原雪斎という卓越した軍師がおり、さらに相模の後北条氏からの支援も得るなど、政治・軍事・外交のすべてにおいて優位に立っていた 10 。
6月10日、義元方の総攻撃により方ノ上城、次いで花倉城が陥落。恵探は逃亡の末に自刃し、乱は義元派の完全勝利に終わった 10 。この乱に敗れた福島正成は、今川領から追放され、かつて敵対した甲斐の武田信虎を頼って逃亡した。しかし、信虎は彼を捕縛し、殺害したと伝えられている 1 。
かつての宿敵であった信虎が、なぜ亡命してきた正成を殺害したのか。その理由は、当時の外交関係にあった。花倉の乱において、武田信虎は一貫して今川義元派を支持していたのである 38 。義元の姉妹が信虎の嫡男・晴信(後の信玄)に嫁いでおり、甲駿同盟が成立していた。
この状況下で、敵対派閥の首魁である福島正成が自領に逃げ込んできたことは、信虎にとって、今川新政権の当主となった義元への友好と忠誠を示す絶好の機会であった。正成の身柄を確保し、これを殺害して義元に引き渡すことは、甲駿同盟をより強固なものにするための、極めて合理的な政治的判断だったのである。福島正成は、今川家が守護大名から戦国大名へと完全に脱皮する過程で、旧来の有力被官勢力の象徴として排除される側の存在となり、その死は、今川義元時代の幕開けを告げる「生贄」としての意味合いを帯びることになった。
福島正成は、後世の編纂物において「家中随一の猛将」と評されることが多い 39 。しかし、彼の実像を評価する際には、この「猛将」という言葉が何を意味するのかを慎重に吟味する必要がある。
彼が総大将として指揮を執ったとされる主要な戦い、すなわち1521年の甲斐侵攻と1536年の花倉の乱は、いずれも決定的な敗北に終わっている。この事実だけを見れば、彼を優れた軍事指揮官と評価することは難しい。この矛盾から、彼の「猛将」という評価は、戦略・戦術といった大局的な指揮能力ではなく、彼個人の武勇や戦場における勇猛果敢な振る舞いに由来するものであった可能性が考えられる。戦国時代における「猛将」とは、個人的な武勇に優れ、敵から恐れられる存在であることが重要な評価基準であった 40 。その点において、甲斐侵攻で武田方を一時的に恐怖に陥れ、花倉の乱で義元派にとって最大の軍事的脅威となった正成は、紛れもなく「猛将」であったと言えるだろう 26 。
しかし、彼の勇猛さは、より大きな時代の変化の前に屈したと見ることもできる。戦国時代が中期に差し掛かると、勝敗を決する要因は、個人の武勇や部隊の突進力といった「武」の要素だけでなく、外交、諜報、兵站、策略といった総合的な「智」の要素へと移行していく。福島正成の軍事行動は、常に今川家内部の政争や、より大きな大名間の戦略の中に組み込まれていた 30 。1521年の戦いでは武田信虎の戦略の前に、1536年の乱では太原雪斎の知謀の前に、彼の「猛」は敗れ去った。
この意味で、福島正成は旧来型の「猛将」であり、その勇猛さゆえに、新時代の「智将」たちが張り巡らせた戦略の網にかかり、歴史の舞台から退場させられた人物と評価できるかもしれない。彼は、戦国前期から中期への時代の転換点を象徴する武将の一人であったと言えよう。
福島正成が歴史に残した最も確かな影響は、彼自身の功績よりも、彼の死が引き金となって生まれた、極めて逆説的な「遺産」にある。それは、彼の息子とされる人物が、敵国であった後北条家で大成し、戦国史に名を刻む名将となったことである。
福島正成の死後(1521年の甲斐侵攻で戦死したとする説が有力)、その遺児である勝千代(後の北条綱成)らは、今川家を離れ、隣国・相模の北条氏綱を頼って亡命したと伝えられる 6 。氏綱が彼らを快く受け入れ、庇護した背景には、単なる同情心だけでなく、有能な武将の血筋を取り込むことで自家の軍事力を強化しようとする、冷徹な戦略的判断があったと考えられる。今川家にとっては有力な家臣候補の流出であり、北条家にとっては計り知れない軍事力の獲得であった。
氏綱の下で養育された勝千代は、元服に際して氏綱から「綱」の一字を拝領し、「北条綱成」と名乗ることを許された 45 。さらに氏綱の娘・大頂院を妻に迎え、北条一門衆という破格の待遇を得る 46 。
綱成は、その期待に応えて目覚ましい活躍を見せる。玉縄城主として北条家の重要拠点を守り、特に天文15年(1546年)の河越夜戦では、寡兵で大軍を打ち破るという奇跡的な勝利に大きく貢献した。彼は「地黄八幡(じきはちまん)」と染め抜かれた旗指物を掲げ、その勇猛さから北条家随一の猛将としてその名を天下に轟かせた 46 。父・正成の「猛将」としての血は、敵国・北条の地で、より大きな輝きを放つことになったのである。
近年、歴史研究者の黒田基樹氏によって、この通説に根本的な疑問を投げかける新説が提唱されている。それは、北条綱成の父は福島正成ではなく、大永5年(1525年)の白子原の戦いで戦死した「伊勢九郎」という人物である、という説である 1 。この人物は「櫛間九郎」とも伝えられ、「櫛間(くしま)」が福島(くしま)の同音異表記である可能性が高いこと、また「伊勢」の名乗りは、北条早雲(伊勢宗瑞)との特別な関係を示唆するものと推測されている。この説は、福島正成という人物の実在性や、綱成との親子関係を根底から揺るがすものであり、今後の研究が待たれる重要な論点である。
福島正成の血脈とされる玉縄北条氏は、綱成の子・氏繁、氏秀と続き、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡した後も、徳川家康に仕えて旗本として家名を存続させた 48 。
一方で、花倉の乱で没落したとされる今川家中の福島氏であるが、全員が粛清されたわけではなかった。乱後も今川家に留まり、義元の子・氏真の代まで三河方面の支配などで活躍した福島氏の一派も存在したことが確認されている 4 。これは、福島一族が一枚岩ではなく、乱に際して義元方に付いた者や、乱後に赦免された者がいたことを示唆している。
以下の系図は、今川家、福島家、後北条家の間に存在する複雑な血縁・姻戚関係、特に花倉の乱の対立構造と、福島正成から北条綱成への血脈(とされるもの)の流れを視覚的に整理したものである。
Mermaidによる血縁関係図
図1: 福島氏関連人物関係図
この図は、福島氏がなぜ玄広恵探を擁立したのかという「血の論理」と、今川家臣の息子が敵対する北条家の婿養子となり大出世を遂げるという、戦国時代ならではのドラマチックな運命の変転を雄弁に物語っている。福島正成の物語は、一個人の武勇や忠誠よりも、「家」の存続を最優先する戦国の非情な論理を体現していると言えるだろう。
本報告書では、戦国武将・福島正成(くしま まさしげ)をめぐる錯綜した情報を、史料に基づき多角的に検討してきた。その結果、彼の生涯が「1521年戦死説」と「1536年敗死説」という、全く異なる二つの物語として語られてきたことが明らかになった。この二元論は、同時代史料における個人名の欠如と、後世の軍記物や系譜類における編纂意図が複雑に絡み合った結果、生み出されたものである。
福島正成は、成功した武将とは言い難いかもしれない。彼が主導したとされる戦いは、いずれも敗北に終わっている。しかし、彼の生涯は、今川・武田・北条という三大名の思惑が交錯する中で翻弄されたものであり、個人の武勇だけでは生き残れない、戦国中期の流動的で過酷な時代状況を色濃く反映している。
彼の歴史的意義は、二重の側面から評価されるべきである。第一に、今川家の有力重臣として、その対外戦略(対武田)や内部抗争(花倉の乱)に深く関与した「当事者」としての意義。第二に、そしてより重要なのは、その死が引き金となり、息子とされる北条綱成が敵国・北条家へ移籍し、その全盛期を支える名将として大成したという、「血脈の源流」としての意義である。この二つの、ある意味で矛盾した意義を併せ持つ点にこそ、福島正成という武将の特異性と研究価値が存在する。
最終的に、福島正成は歴史の表舞台で輝かしい功績を残した英雄ではない。しかし、彼の存在と死が、周辺勢力のパワーバランスや、次代を担う名将の誕生に与えた影響は決して小さくない。彼は、歴史の狭間に消えた単なる敗者ではなく、戦国史の転換期における重要な結節点に位置した人物として、再評価されるべき存在である。