最終更新日 2025-07-11

福留儀重

長宗我部氏の忠勇なる隼人 ― 福留儀重の生涯とその実像

序章:土佐の童謡に詠われた武人 ― 記憶の中の「隼人様」

戦国時代の土佐に、一人の猛将がいた。その名は福留儀重(ふくとめ よししげ)。彼の人物像は、今日まで伝わる二つの鮮烈な記憶によって象徴される。一つは、主君である長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が発した禁酒令を、元親自身が破ろうとした際に、その酒樽を面前で叩き割り、主君の非を厳しく諫めたという「酒樽破り」の逸話である 1 。この行動は、彼の剛直な性格と、主君への揺るぎない忠義を物語る。

そしてもう一つは、土佐の子供たちの間で歌い継がれたという一節の童謡である。「蛇もハミもそちよれ、隼人様のお通りじゃ」 3 。蛇やマムシといった、土地の人々が古来より畏怖してきた存在すら道を譲るというこの歌は、彼の武威がいかに圧倒的であったかを端的に示している。通称である隼人佐(はやとのすけ)から、「隼人様」として親しまれ、その武名は武士階級に留まらず、民衆の記憶にまで深く刻み込まれていた。

これらの逸話は、福留儀重が単なる勇猛な武人であっただけでなく、主君にさえ臆することなく正義を貫く気骨と、民衆の心をも捉えるほどの強烈な存在感を併せ持っていたことを示唆している。しかし、これらの有名な逸話の背後には、彼の出自、偉大な父の存在、そして長宗我部家における福留一族の特殊な立場が複雑に絡み合っている。本報告書は、断片的に伝わる儀重の姿を再構成し、現存する資料を基にその生涯を徹底的に追跡することで、土佐の歴史に確かな足跡を残した一人の武将の実像に迫るものである。

第一章:福留一族と猛将たる父の遺産

福留儀重という人物を理解するためには、まず彼が生まれ育った環境、すなわち福留一族の歴史と、彼の生涯に絶大な影響を与えた父・親政の存在を紐解く必要がある。儀重の武勇も忠義も、この父から受け継いだ遺産の上に成り立っていた。

第一節:福留氏の出自と長宗我部家への仕官

福留氏の出自には、尾張国海東郡の助光城を本拠としていたという伝承が残されている。初代・儀光が源平合戦において平経盛に属し、讃岐屋島の戦いで敗れた後、土佐に流れ着き定住したとされる 6 。この伝承が事実であれば、福留氏は古くから土佐の地に根を張っていた武士の一族ということになる。

やがて彼らは長宗我部氏に仕えるようになり、儀重の祖父と推定される福留房吉(ふくとめ ふさよし)の代には、長宗我部国親(元親の父)の家臣として、その地位を確立していた 7 。弱小勢力であった長宗我部家が土佐国内で勢力を拡大していく過程において、福留一族は武をもって主家を支える重要な役割を担っていたのである。

第二節:父・福留親政 ― 「福留の荒切り」と称された武勇

儀重の父、福留親政(ちかまさ、別名:儀実)は、長宗我部家臣団の中でも並ぶ者のない猛将として、その名を四国に轟かせていた 7 。彼の武勇を象徴するのが、後世に「福留の荒切り」として語り継がれる数々の武功である。特に、永禄6年(1563年)、主君・元親が本山氏攻めで岡豊城を留守にした隙を突いて安芸国虎が攻め寄せた際、親政はこれを寡兵で迎撃し、見事に撃退した 7 。この戦いでの親政の獅子奮迅の働きは、『土佐物語』によれば「20人切り」、『元親記』では「37人切り」という驚異的な記録として伝えられている 7

この働きぶりは、主君・元親から絶大な信頼を勝ち取るに十分であった。元親は親政の功を讃え、自らの名から「親」の一字を与えて「親政」と名乗らせたほか、生涯にわたって21通もの感状を授与したと記録されている 6 。これは家臣としては破格の待遇であり、親政が長宗我部家の躍進においていかに不可欠な存在であったかを物語っている。

第三節:信親の傅役 ― 福留家に託された重責

福留親政が元親から得ていた信頼は、単なる武功に対する評価に留まらなかった。その証左として、親政が元親の嫡男であり、将来を嘱望されていた長宗我部信親(のぶちか)の「傅役(もりやく)」に任じられていたという事実がある 7

戦国時代における傅役とは、単に学問や武芸を教える師範ではない。主家の跡継ぎの側に常に付き従い、その人格形成から健康管理、そして身辺警護に至るまで、文字通りその全存在に責任を負う後見役である 11 。傅役の言動は嫡男の将来を左右し、ひいては家の未来そのものに影響を及ぼす。そのため、この役目には、武勇や知略はもとより、最も高い人格と忠誠心を備えた重臣中の重臣が選ばれるのが常であった。

元親が親政を信親の傅役に任命したという事実は、福留家が長宗我部家臣団の中で極めて特殊かつ重要な地位を占めていたことを示している。それは、福留家が「武」によって主家を支えるだけでなく、「徳」によって次代の主君を育むという、家の根幹に関わる重責を託されていたことを意味する。

この父と信親との特別な関係は、その子である儀重の精神形成にも決定的な影響を与えたことは想像に難くない。儀重にとって信親は、単なる主君の嫡男ではなかった。父がその育成に心血を注ぎ、自らも幼少期から共に育ったであろう、守るべき特別な存在であった。儀重の信親に対する忠誠心は、家臣としての一般的な忠義を超え、父から子へと受け継がれた、福留家としての「信親様をお護りする」という宿命的な責務であった可能性が高い。この強固な絆と世襲された責任感こそが、後の戸次川の戦いにおける儀重の悲劇的な最期を理解する上で、不可欠な鍵となるのである。


表1:福留儀重をめぐる主要人物

人物名

生没年

関係性

長宗我部家における役割・特記事項

福留 儀重

1549年 - 1587年

本報告書の主題

親政の子。通称は隼人佐。父譲りの武勇で知られ、童謡にも歌われる。主君・元親を諫めた逸話を持つ。戸次川の戦いで戦死 1

福留 親政

1511年 - 1577年

儀重の父

通称は飛騨守。「福留の荒切り」と称された猛将。元親から絶大な信頼を得て、嫡男・信親の傅役を務めた。伊予侵攻作戦中に戦死 6

福留 政親

生没年不詳

儀重の子

通称は半右衛門。父・儀重の死後、長宗我部家に仕える。主家改易後は他家に仕え、家名を存続させた 13

長宗我部 元親

1539年 - 1599年

儀重の主君

土佐の戦国大名。「土佐の出来人」と称され、四国統一を目前にするも秀吉に降伏。儀重の諫言を受け入れた 2

長宗我部 信親

1565年 - 1587年

儀重が仕えた元親の嫡男

文武両道に優れた元親待望の嫡男。父・親政が傅役を務めた。戸次川の戦いで儀重と共に戦死。彼の死が元親と長宗我部家の運命を暗転させた 17


第二章:隼人様、一人の武将の台頭

偉大な父・親政の武名と信頼を背景に、福留儀重は長宗我部家の中核を担う武将として、その才能を開花させていく。父とはまた異なる形で、彼の武勇は土佐の地に深く刻み込まれることとなる。

第一節:四国統一戦での武功

天文18年(1549年)、福留儀重は猛将・親政の長男として生を受けた 3 。天正5年(1577年)に父・親政が伊予の戦場で討ち死にすると 6 、儀重は福留家の家督を継ぎ、長宗我部元親が進める四国統一事業の第一線で活躍することになる。

彼は父から受け継いだ土佐田辺島城(現在の高知市大津乙)の城主として、長宗我部軍の主力部隊を率いて各地を転戦した 3 。現存する記録は限られているものの、『長宗我部元親軍記』などの史料には、彼が土佐国内の「久万城攻め」「神森城攻め」「吉良城攻め」といった重要な合戦に参加し、武功を挙げたことが記されている 4 。これらの戦いは、長宗我部氏が土佐を平定し、四国全土へと覇権を拡大していく上で極めて重要な戦役であった。儀重はこれらの戦いを通じて着実に戦歴を重ね、父に劣らぬ武将としての評価を不動のものとしていったのである。

第二節:童謡「蛇もハミもそちよれ」の深層

福留儀重の武勇を何よりも雄弁に物語るのが、土佐の民衆、それも子供たちの間でさえ歌われたという一編の童謡である。「蛇もハミ(まむし)もそちよれ、隼人様のお通りじゃ」 3 。この短い一節は、単に彼が恐れられていたという事実以上に、遥かに深い意味合いを含んでいる。

この歌の真価を理解するためには、当時の土佐における「蛇」や「ハミ(マムシ)」がどのような存在であったかを知る必要がある。土佐の豊かな自然、特に山深く険しい地形や無数の河川は、古来より人々の信仰と畏怖の対象であった。その中で蛇は、単なる危険な生物ではなく、淵や滝に棲まう龍神の化身や、人々に福をもたらす「福蛇」、あるいは一度怒らせれば祟りをなす恐ろしい神霊として認識されていた 19 。蛇神信仰は古神道に由来する土着の信仰であり、土地の根源的な力と分かちがたく結びついていたのである 21

つまり、童謡に登場する「蛇」や「ハミ」は、人々にとって日常的な恐怖の象徴であると同時に、人知を超えた超自然的な存在、土地の古き神々そのものであった。その神々に対して「そちよれ(そこを退け)」と命じるこの歌は、儀重の武威が、もはや人間社会の序列を超越し、自然界の秩序、ひいては神霊の世界にまで及ぶほどの圧倒的な力として民衆の目に映っていたことを示している。彼の存在は、単なる一人の優れた武将から、土地に根差す畏怖の対象すら道を譲る「伝説」へと昇華していた。この童謡は、福留儀重という武人が、土佐の風土と人々の心性の中に、いかに深く、そして特異な存在として刻み込まれていたかの証左に他ならない。

第三章:忠義の諫言 ― 酒樽破りの逸話

福留儀重の人物像を武勇の側面からだけでなく、その内面的な気骨と忠義の篤さから描き出す上で、有名な「酒樽破り」の逸話は欠かすことができない。この逸話は、彼の剛直さを示すと同時に、主君・元親との間にあった特別な信頼関係を浮き彫りにする。

第一節:逸話の詳述

『土佐物語』などに伝えられる逸話の経緯は、以下の通りである。ある時、主君・長宗我部元親は、酒を好み気性の荒い者が多い土佐武士の風紀を引き締め、職務の怠慢を防ぐ目的からか、領内に禁酒令を発布した 1 。これは、領民から武士に至るまで、全ての者に対して飲酒と酒の売買を禁じる厳しい法令であった。

ところが、あろうことか禁令を発布した元親自身が、密かに城内へと酒樽を運び込ませ、隠れて飲もうと試みた 1 。その現場に偶然通りかかったのが、福留儀重であった。儀重は、主君の命令で運ばれている酒樽を見るや、憤然として元親の従者を殴り倒し、その場で酒樽を槍か刀で叩き割ってしまったという 1

そして儀重はその足で元親の元へ赴くと、主君を一喝し、厳しくこう諌めたと伝えられる。「諸人の鑑となるべき殿が、民には厳しく酒を禁じながら、自らが法を破って密かに飲もうとは、道理にかないません。これでは天下の道は立ちませぬ」 1 。この烈々たる諫言に対し、元親は儀重を罰するどころか、深く恥じ入って自らの非を認め、程なくして禁酒令を撤回したのである 1

第二節:逸話の多角的分析

この一連の出来事は、いくつかの側面から分析することで、その重要性がより明確になる。

まず、儀重の行動は、武士の徳目において最高度の忠義とされる「諫言(かんげん)」の実践である。主君の過ちを、自らの命の危険を顧みずに正そうとする行為は、単なる追従よりも遥かに価値ある忠誠の証とされた。酒樽を砕き、主君を一喝するという過激な手段は、通常であれば「君主への反逆」と見なされ、その場で手討ちにされても文句は言えないほどの無礼な行いであった。

それにもかかわらず元親がこの諫言を受け入れたという事実は、二人の間に極めて強固な信頼関係が存在したことを何よりも雄弁に物語っている。元親は、儀重の行動が私心や野心から出たものではなく、ただひたすらに長宗我部家の将来を憂う、純粋で曇りのない忠誠心の発露であると理解していた。だからこそ、彼は儀重の言葉に耳を傾け、自らの過ちを正すことができたのである。

さらに、この行動の背景には、第一章で述べた「傅役の家」という福留家の立場が深く関わっている。儀重の諫言は、単なる一個人の家臣としての発言に留まらない。父・親政が次代の当主・信親の傅役であったという事実を踏まえれば、儀重にとって現当主である元親の権威や徳義が失墜することは、そのまま信親が受け継ぐべき統治基盤そのものを揺るがす一大事であった。彼の行動は、「殿、あなた様の行いは、信親様の鑑(かがみ)となるべきものです。その行いが曇れば、長宗我部家の未来も曇ります」という、一族の未来を背負う者としての悲痛な叫びであったと解釈できる。それは、個人的な剛直さから来る行動であると同時に、主家の安泰を願う極めて高度な政治的判断に基づいた、忠義の極致であったと言えよう。

第四章:最後の出陣 ― 戸次川の悲劇

長宗我部家の興隆期をその武勇と忠義で支え続けた福留儀重。しかし彼の生涯は、皮肉にも長宗我部家が没落へと向かう序章となった、悲劇的な戦いの中で幕を閉じることとなる。

第一節:戦いの背景 ― 豊臣政権下の長宗我部家

天正13年(1585年)、四国統一を目前にしていた長宗我部元親の前に、天下人・豊臣秀吉の大軍が立ちはだかった。圧倒的な兵力差の前に元親は降伏を余儀なくされ、土佐一国のみを安堵されるという形で決着した 16 。これにより、かつての四国の覇者は豊臣政権下の一大名という立場となり、秀吉の天下統一事業に組み込まれていく。

そして翌天正14年(1586年)、九州の雄・島津氏を討伐すべく「九州平定」が開始されると、長宗我部軍は豊臣軍の先陣部隊として豊後国へ出陣するよう命じられた 3 。この四国連合軍の軍監(総司令官)として秀吉が派遣したのは、仙石秀久であった。仙石はかつて四国で元親と戦い、手痛い敗北を喫した過去があり、両者の間には拭い難い遺恨があった可能性が指摘されている 18 。この不協和音は、やがて起こる悲劇の遠因となる。

第二節:戸次川合戦の惨敗

天正14年12月12日(西暦1587年1月20日)、豊後国戸次川(現在の名は大野川)の河畔にて、島津家久率いる精強な島津軍と、仙石秀久、長宗我部元親・信親父子、十河存保らを擁する豊臣先遣隊が対峙した 10

大友氏の鶴賀城が島津軍に包囲され、その救援に向かった豊臣軍であったが、軍議において作戦方針は対立する。歴戦の将である元親は、敵の戦力を的確に見抜き、秀吉本隊の到着を待つべきだと慎重策を強く主張した。しかし、軍監としての功を焦る仙石秀久はこれを一蹴し、無謀ともいえる即時渡河攻撃を強行したのである 17

この軽率な判断が、壊滅的な結果を招いた。豊臣軍は、島津軍が最も得意とするお家芸の戦術「釣り野伏せ」の罠にまんまと誘い込まれた。偽りの退却を見せる敵部隊に釣られて深追いした先陣の仙石隊が、伏兵による三方からの猛攻を受けて真っ先に敗走。総司令官の部隊が崩れたことで豊臣軍は統制を失い、全軍がパニックに陥って壊滅状態となった 17

第三節:福留儀重の最期

この大混乱の中、長宗我部軍3,000は敵中に孤立し、島津軍の猛攻を一身に受けることとなった 17 。元親は辛うじて戦場を離脱できたものの、嫡男・信親は敵の大軍に包囲され、奮戦の末に壮絶な討ち死を遂げた。享年22であった 17

そして、福留儀重もまた、この地獄の戦場で信親と運命を共にした 3 。享年38 1 。『長宗我部元親軍記』には、彼の最期について、より具体的で胸を打つ情景が記されている。それによれば、儀重は乱戦の中で主君・元親が無事に戦場を離脱したことを見届けると、元親の方角に向かって暇乞いの礼をし、もはやこれまでと覚悟を決めると、一人敵陣の奥深くへと突入し、壮絶な戦死を遂げたという 4

この最期の行動は、単なる自暴自棄な玉砕とは一線を画す。そこには、儀重の武士としての死生観と、福留家に課せられた責任の全てが凝縮されている。まず、主君・元親の生存を確認することで、家臣としての最低限の責務を果たした。しかし、本来であれば命に代えても守るべき存在であった嫡男・信親を失ってしまった以上、傅役の家系に連なる者として、自分だけが生き永らえることは許されない。その強烈な責任感が、彼を死地へと向かわせたのである。

福留儀重の死は、父・親政から受け継いだ「信親の守護者」という役割の、最も悲劇的で、しかし最も忠実な完遂であった。彼は、信親を守りきれなかった責任を、自らの命をもって果たしたのだ。彼の生涯は、主家の跡継ぎである信親の傅役であった父に始まり、その信親と共に戦場で散ることで終わった。ここに、福留儀重という一人の忠勇なる武将の物語は、悲劇的ながらも完結するのである。

第五章:後世への遺産と記憶

戸次川の戦いでその生涯を閉じた福留儀重。しかし、彼の血脈と、彼とその父が築き上げた武勇の記憶は、主家が滅びた後も形を変えて土佐の地に受け継がれていくこととなる。

第一節:息子・福留政親の道

儀重には、福留政親(まさちか)という息子がいた 3 。父・儀重が戸次川で戦死した時、政親はまだ11歳ほどの少年であったと伝えられている 5 。父と祖父が仕えた長宗我部家は、信親の死をきっかけに歯車が狂い始め、関ヶ原の戦いで西軍に与したことで改易の憂き目に遭う。

主家を失った政親は浪人となるが、父祖譲りの武門の血は彼を再び武士の道へと導いた。彼はその後、伊予松山城主の加藤嘉明に仕え、次いで徳川譜代の重臣である井伊直孝に仕官したという記録が残っている 15 。そして、かつて父が豊臣方として戦った大坂の陣では、政親は徳川方の井伊隊の一員として参戦したとされる 15 。父・儀重が長宗我部家と運命を共にしたのとは対照的に、息子・政親は新たな主君を見出し、激動の時代を生き抜いて家名を後世に存続させた。その生涯は、主家を失った多くの戦国武将が辿った道を象徴しており、時代の大きな転換点を映し出している。

第二節:神としての福留親子 ― 隼人神社の創建

息子・政親が福留家の血脈を他国で繋いだ一方、儀重と父・親政の魂は、彼らが最も輝いた故郷・土佐の地に、神として祀られることになった。

儀重が城主であった土佐田辺島城の跡地、現在の高知市大津乙の国分川沿いの小高い丘の上には、父・福留親政と子・福留儀重の親子二代を祭神とする「隼人神社(正式名称:田邊島神社)」が建立された 3 。この地はかつて海に浮かぶ島であり、福留一族が拠点とした場所であった 26

この神社は、地域住民から篤い信仰を集め、特に太平洋戦争の時代には、福留親子のような武運にあやかろうと、出征する兵士の無事を祈願する人々が後を絶たなかったという 26 。武将が神として祀られる例は少なくないが、隼人神社が父子二代を共に祀っている点は特徴的である。「福留の荒切り」と恐れられた父・親政の武勇と、「隼人様」と童謡にまで歌われた子・儀重の武勇、そして二人を貫く長宗我部家への忠義が、分かちがたい一つの物語として地域の人々の記憶に刻まれ、崇敬の対象となったことを示している。

隼人神社の存在は、福留儀重という武将の記憶が、単に歴史書の中の記述として残るだけでなく、地域の信仰という生きた形で現代にまで継承されている何よりの証拠である。彼の魂は、今なお故郷の丘の上から、土佐の地を見守り続けているのである。

結論:武勇と忠義の体現者

福留儀重の生涯を総括すると、彼はまさしく戦国武士が理想とした「武」と「義」をその身に体現した人物であったと言える。

彼は、父・親政から「武」の勇猛さという血を色濃く受け継いだ。その武威は、土佐の民衆が「蛇もハミもそちよれ」と童謡に歌うほどの伝説へと昇華された。これは、彼の力が単なる物理的な強さではなく、土地の風土や人々の心性にまで影響を及ぼす、畏怖すべき存在として認識されていたことを物語る。

同時に、彼は「義」の武将でもあった。「酒樽破り」の逸話に見られるように、主君の過ちに対しては自らの命を懸けてでも諫める剛直さを持ち合わせていた。その行動の根底には、個人的な気骨だけでなく、父から受け継いだ次代の主君・信親への守護者としての、長宗我部家の未来を憂う深い責任感があった。彼の忠義は、盲目的な追従ではなく、主家を正しい道へ導こうとする、極めて高潔な精神の発露であった。

そして、豊後戸次川における壮絶な最期は、彼の武勇と忠義の生涯を締めくくるにふさわしいものであった。守るべき信親を失った時、彼は自らの命をもってその責務を全うした。その死は、長宗我部家の栄光と悲劇を一身に背負ったかのようであった。

福留儀重は、父の武勇を継ぎ、主君への忠義に殉じた。その名は、息子の政親によって血脈として受け継がれる一方、故郷土佐の隼人神社に神として祀られ、その記憶は歴史を超えて生き続けている。彼は、戦乱の世に咲いた、武勇と忠義という名の、猛々しくも美しい徒花であった。福留儀重は、数多いる戦国武将の中でも、その生き様と死に様をもって、武士の理想を鮮やかに示した、記憶されるべき人物の一人であると結論付ける。

引用文献

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  9. 福留親政 - 戦国の足跡を求めて...since2009 - FC2 http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/blog-entry-862.html
  10. 長宗我部信親は、なぜ戸次川で討たれたのか?華々しい最期に隠された“秀吉への訴え” https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10105
  11. 信長の基礎を作った父と傅役|千世(ちせ) - note https://note.com/chise2021/n/ndce9d6b1e042
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  23. 酒国土佐の歴史から読み解く「モテる真相!」 - とさぶし https://tosabushi.com/2018/12/7838/
  24. 戸次川古戦場 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4/
  25. 戸次川の戦い~長宗我部元親・信親の無念 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4552/image/0
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