本報告書は、戦国時代の大隅国を代表する国人領主、禰寝清年(ねじめ きよとし、1510-1559)の生涯を、彼を取り巻く南九州の複雑な政治情勢の中に位置づけ、その行動原理と歴史的役割を解明することを目的とする。禰寝清年は、島津宗家の家督争いに深く関与し、大隅半島の覇権を巡って周辺勢力としのぎを削った、戦国乱世における典型的な地方領主であった。本報告書では、単なる伝記的記述に留まらず、島津氏の権力闘争や周辺国人との合従連衡の中で、彼がいかにして一族の存続と勢力維持を図ったのかを、現存する史料に基づき多角的に分析する。
禰寝清年の事績を研究する上で注意すべき点がある。それは、しばしばその子である16代当主・重長(しげたけ)の功績と混同されて記述されることがあるという事実である 1 。これは、最終的に島津氏の家臣団に組み込まれ、近世に家史を編纂した小松氏(旧禰寝氏)が、一族の画期を築き、島津氏への帰順を決定した重長の功績を強調した結果生じた可能性がある。したがって、本報告書では、両者の活動時期を慎重に区別し、清年自身の行動として確証が得られるものを中心に論を展開することで、清年個人の実像に迫ることを目指す。
項目 |
詳細 |
典拠 |
氏名 |
禰寝 清年(ねじめ きよとし) |
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生没年 |
永正7年(1510年) - 永禄2年(1559年) |
1 |
時代 |
戦国時代 |
1 |
氏族 |
禰寝氏(建部姓、のち小松氏) |
4 |
地位 |
禰寝氏15代当主、大隅国根占領主 |
2 |
父 |
禰寝 重就(ねじめ しげなり) |
1 |
兄弟 |
重貞、天空夫人(島津勝久継室) |
1 |
妻 |
島津忠興(薩州家)の娘 |
1 |
子 |
重長、重共、重俊、弘祐 |
1 |
主君 |
(時期により変動)肝付氏に従属した時期あり |
1 |
禰寝氏は、平安時代後期にその起源を遡ることができる大隅国の古豪である 4 。その出自は、大宰府の在庁官人であった建部姓の一族とされ、現存する史料からも、後に南九州の覇者となる島津氏よりも古い歴史を持つことが明らかである 5 。一族に伝わる『禰寝文書』には、保安2年(1121年)の時点で、建部氏が大隅国権大掾(おおすみのくにのごんのだいじょう)の官職を持ち、本拠地である禰寝院南俣(ねじめいんみなみまた)を代々所領としてきたことが記されている 7 。
鎌倉時代に入ると、初代の禰寝清重が幕府の御家人となり、地頭職に任じられて以来、大隅半島南部を拠点とする有力な武家として確固たる地位を築いた 4 。後世、一族は平重盛の末裔を称するようになるが、これは江戸時代中期に島津藩内での家格向上を図るための政治的な意図によるものと考えられており、本来の出自は建部姓であったというのが通説である 5 。
禰寝氏の権力基盤は、その本拠地である禰寝院の地政学的な重要性に支えられていた。大隅半島の南端に位置する禰寝院南俣(現在の鹿児島県南大隅町根占周辺)および北俣(同錦江町大根占周辺)は、薩摩半島や琉球、さらには中国大陸へとつながる海上交通の要衝であった 3 。
特に根占港は古くから交易の拠点として栄え、戦国時代には南蛮船も渡来した記録が残る 10 。領内には海外との交易に従事する人々が居住する「唐人町」が存在したとも伝えられており 11 、対外交易がもたらす富が、禰寝氏の経済的基盤を形成していたことがうかがえる。この経済的自立性は、単に土地からの収益に依存する他の多くの国人領主とは一線を画す、禰寝氏の大きな特徴であった。この交易領主としての性格が、後の清年の柔軟かつ大胆な外交戦略を可能にする源泉となったのである。
禰寝清年が家督を継承したのは16世紀前半、享禄2年(1529年)には当主として活動していた記録が見られる 3 。彼が率いることになった禰寝氏は、すでに大隅半島において無視できない独立勢力としての地位を確立していた。父・重就の代には、同じく大隅の有力国人である肝付氏との間で合戦を経験するなど 12 、武力によって自領を防衛する能力も有していた。
さらに、清年の祖父である禰寝尊重(ただたか、忠清とも)は、和歌を通じて朝廷と直接的な関係を築き、官位を授かるほどの文化人でもあった 5 。これは、禰寝氏が守護である島津氏を介さずとも、中央の権威と結びつく独自のパイプを持っていたことを示唆している。清年は、こうした武力、経済力、そして文化的権威を背景に、南九州が動乱の渦に巻き込まれていく戦国乱世へと臨むことになったのである。
16世紀前半の南九州は、島津宗家の家督を巡る内紛によって、激しい動乱の時代にあった。禰寝清年は、この権力闘争の渦中に身を置き、一族の存亡を賭けた複雑な外交を展開することになる。
当時の島津氏は、宗家当主の相次ぐ早世によって著しく弱体化していた。この権力の空白を埋めるべく、有力な分家である薩州家(さっしゅうけ)の島津実久と、相州家(そうしゅうけ)の島津忠良・貴久親子が、宗家の家督を巡って激しく対立していた 3 。
大永6年(1526年)、相州家の島津忠良がクーデターを敢行し、14代当主であった島津勝久を隠居に追い込み、自らの子である貴久を勝久の養子として家督を継承させた 13 。しかし、その翌年には薩州家の実久がこの動きに反発して貴久を追放し、勝久を再び守護の座に復帰させるなど、情勢は二転三転し、南九州の国人領主たちは、いずれの陣営につくべきか、難しい選択を迫られていた 3 。
このような状況下で、禰寝清年の立場を極めて複雑かつ重要なものにしたのが、彼の婚姻政策であった。清年の正室は、薩州家の有力者であった島津忠興の娘である 1 。これは薩州家との強固な連携を示すものであった。一方で、清年の実妹である天空夫人は、宗家当主である島津勝久の継室(後妻)として嫁いでいた 1 。
この結果、清年は島津氏の主要な対立陣営である薩州家と宗家(勝久派)の双方に極めて近い姻戚関係を持つことになった。これは、彼に多方面からの情報をもたらすと同時に、どちらか一方に与すればもう一方との関係が悪化しかねない、危険な立場でもあった。しかし、見方を変えれば、各勢力間の調停役を担いうる、類まれなポジションにいたとも言える。
清年の行動は、単なる「仲裁」という言葉では説明できない、状況に応じた陣営の乗り換えという、戦国領主のリアリズムに貫かれている。
清年の一連の行動は、特定の個人への忠誠心ではなく、常に変化するパワーバランスを冷静に見極め、その時々で「禰寝家」にとって最も有利な選択肢を採るという、国人領主としての生存戦略そのものであった。彼の行動は、単なる仲裁の試みとその失敗というよりも、島津氏の内紛を自家の影響力維持・拡大の好機と捉えた、高度な政治的ギャンブルだったのである。
人物/勢力 |
関係性 |
備考 |
禰寝清年 |
(中心人物) |
禰寝氏15代当主 |
島津勝久 (宗家) |
義兄 (清年の妹・天空夫人が継室) |
当初は清年が庇護。後に清年は離反と再接近を繰り返す。 |
島津実久 (薩州家) |
義理の縁戚 (清年の妻が薩州家出身) |
薩州家当主。勝久を擁立し、貴久と対立。 |
島津貴久 (相州家) |
敵対 → 一時的同盟 → 敵対 |
相州家当主。勝久の養子となるが実久に追放され、後に実力で台頭。 |
肝付兼続 |
同盟・敵対 |
大隅の有力国人。当初は実久派、後に貴久派へ転向。 |
本田薫親 |
同盟 |
島津勝久の家老。天文10年の反貴久連合の中心人物。 |
北郷氏 |
同盟 |
島津氏分家。勝久を擁して貴久に対抗。 |
島津氏の内紛が続く中、大隅半島内でも国人領主間の勢力争いが激化していた。禰寝清年は、半島内の覇権を巡り、肝付氏や種子島氏といった周辺勢力と、時に結び、時に激しく衝突した。
大隅半島の二大勢力であった禰寝氏と肝付氏は、長年にわたり協力と対立を繰り返す複雑な関係にあった。史料によっては、清年の代に禰寝氏が肝付氏に「従属していた」と記されているものもあり 1 、これは軍事行動において肝付氏の指揮下に入ることがあったことを示唆している。事実、天文23年(1554年)に島津貴久が岩剣城を攻めた際には、肝付兼続が貴久に送った援軍に禰寝氏も参加しており 3 、この時点では協力関係にあったことが確認できる。
この両者の関係を象徴するのが、高隈城を巡る一件である。
この兼続の行動の背景には、島津氏の内紛に連動した、大隅半島全体の勢力図の再編があった。当初、島津実久(薩州家)を支持していた兼続は、薩摩本国で島津貴久(相州家)の優勢が明らかになるにつれて、自らの政治的立場が孤立することを恐れた。そこで、貴久方への支持に転じることを決断する。その「手土産」として、依然として旧来の勝久・実久派と見なされていた禰寝氏を牽制し、貴久への忠誠を示すために、かつて友好の証として与えた高隈城を奪回したのである 17 。この事件は、国人領主間の同盟がいかに脆弱で、より大きな権力の動向に左右されるかを如実に物語っている。清年にとっても、大隅における自家の立ち位置を再考させる大きな転機となったに違いない。
清年の野心は、大隅半島内にとどまらなかった。彼は海を越え、種子島・屋久島の支配にも乗り出そうとした。
天文12年(1543年)、ポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられた。この歴史的な事件の直後、禰寝氏と種子島氏の間で「禰寝戦争」と呼ばれる大規模な合戦が勃発する 1 。この戦争の発端は、種子島氏当主・種子島恵時とその弟・時述の間で起こった内紛であった。弟の時述が禰寝清年に支援を要請し、清年はこれを好機と捉え、海を渡って種子島へ大軍を派遣したのである 19 。
禰寝軍は種子島軍を破り、当主・恵時を屋久島へと追いやることに成功した。さらに清年は屋久島をも占領し、種子島氏の反撃に備えて城を築くなど、一時的に勢力圏を大きく拡大した 20 。この行動は、禰寝氏が相当な水軍力と渡海能力を有していたこと、そして海洋領主として勢力を拡大しようとする強い意志を持っていたことを示している。
しかし、この成功は長くは続かなかった。翌天文13年、追放された恵時は薩摩の島津貴久に助けを求めた。貴久の支援を受けた恵時は反撃に転じ、禰寝軍は敗走、屋久島奪還の試みは失敗に終わった 19 。最終的には、島津貴久の仲裁によって両氏は和解したとの記録もある 21 。
この禰寝戦争は、禰寝氏の海洋領主としての側面と、その勢力拡大の限界を同時に示す象徴的な事件であった。もはや大隅の一国人が独力で勢力図を大きく塗り替えることは困難であり、島津貴久という地域全体の覇者の承認なくしては領土問題が解決しない時代へと移行しつつあった。清年の挑戦は、独立国人領主として最後の大きな輝きの一つであったのかもしれない。
禰寝清年の政治的・軍事的活動を支えたのは、彼の領地が持つ独自の経済力であった。武力だけでなく、交易や産業振興を通じた富の蓄積が、禰寝氏の独立性を担保していた。
第一章で述べた通り、禰寝氏の本拠地・根占港は、南九州における海上交易の重要な拠点であった 10 。清年の子である重長の代には、明(中国)との貿易を盛んに行ったことが記録されているが 22 、その交易ルートやノウハウは、父である清年の時代、あるいはそれ以前から連綿と築かれていたと考えるのが自然である。
当時の日明貿易は、日本の銅や硫黄、刀剣などを輸出し、見返りとして銅銭(永楽通宝など)や生糸、陶磁器などを輸入する、莫大な利益を生む事業であった 24 。禰寝氏はこの交易に深く関与することで、領地の石高だけでは得られない巨万の富を築き、それを元手に兵を養い、武器を調達し、外交工作を展開する資金としていた。清年の柔軟な外交戦略は、この経済的優位性によって裏打ちされていたのである。
後世の記録では、温州みかんや、和蝋燭の原料となるハゼノキの栽培を日本で最初に始めたのは、清年の子・禰寝重長であるとされている 22 。これらの新たな作物は、禰寝氏が持つ独自の交易船を通じて中国大陸から苗木や栽培技術がもたらされたものであり 11 、一族の経済基盤をさらに豊かにした。
特にハゼノキから作られる木蝋は、照明用の高級品としてだけでなく、武士の髪を結う鬢付け油の原料としても需要が高く、後に薩摩藩全体の重要な財源へと成長していく 26 。これらの産業振興は重長の功績として伝えられているが、新たな事業の導入や試行錯誤には時間がかかることを考えれば、その基礎が父である清年の治世下で築かれた可能性は極めて高い。清年の時代は、禰寝氏が独立領主として、経済・産業面においても南九州の先進地域であったことを示している。
清年個人の文化的な活動に関する具体的な逸話は史料に乏しい。しかし、彼が育った禰寝家には、武を尊ぶだけでなく、文を重んじる家風があった。彼の祖父である禰寝尊重(忠清)は、文亀3年(1503年)に上洛し、後柏原天皇に和歌を献じてお褒めに預かり、官位を授けられるほどの、薩摩・大隅・日向を代表する優れた歌人であった 5 。
このような文武両道の気風の中で育った清年が、単なる武辺一辺倒の人物であったとは考えにくい。彼の島津氏の内紛に対する巧みな立ち回りや、周辺勢力との柔軟な外交戦略の背景には、武力だけでなく、交易や文化交流を通じて得られる多角的な情報収集能力と、それを分析する知性があったことが示唆される。
権謀術数を駆使して大隅に勢力を張った禰寝清年であったが、彼の死と共に、禰寝氏が独立領主として君臨した時代もまた、終わりを告げることになる。
禰寝清年は、永禄2年(1559年)にその生涯を閉じた。享年50歳であった 1 。彼が没したこの時期は、島津貴久が薩摩・大隅の統一事業を着々と進め、大隅のもう一つの雄・肝付氏との全面対決が目前に迫っていた頃であった。清年は、独立した国人領主たちが割拠した時代の終わりを見届けるかのように、歴史の舞台から去った。
清年の跡は、嫡男の重長が継承した 3 。重長は当初、父の代からの関係を引き継ぎ、肝付氏と連携して島津氏の侵攻に抵抗した 22 。しかし、島津氏の圧倒的な軍事力の前に肝付氏の勢力が衰えると、重長は一族の存続のために大きな決断を下す。元亀4年(1573年)、重長は肝付氏を見限り、単独で島津義久(貴久の子)と和睦を結んだのである 22 。
この和睦は、父・清年が繰り広げた、独立を賭けた複雑な外交の最終的な帰結であった。もはや島津氏の力に単独で抗うことは不可能と判断し、その軍門に降ることで一族の安泰を図る道を選んだのである。これにより、禰寝氏は数百年にわたる独立領主としての歴史に幕を下ろし、戦国大名島津氏の家臣団の一員となった。
島津氏への従属は、禰寝氏のあり方を大きく変えた。重長の子・重張の代、文禄4年(1595年)に行われた豊臣秀吉による太閤検地を機に、禰寝氏は長年の本拠地であった大隅根占から、薩摩国吉利(現在の鹿児島県日置市)へと移封される 4 。これは、島津氏がかつての有力国人を本拠地から切り離し、その力を削いで完全に支配下に組み込むための政策の一環であった。
さらに時代が下ると、重張の子・重政が早世して清年以来の直系が断絶。跡継ぎとして島津本家から当主・島津家久の子が養子に入り、禰寝氏は事実上、島津氏の一門として組み込まれることになった 5 。江戸時代中期には、祖先と称した平重盛の「小松殿」という呼称にちなみ、家名を「小松」と改姓 5 。かつての大隅の独立領主は、薩摩藩の家老を輩出する名門家臣へと姿を変え、幕末には名家老・小松帯刀を出すに至るのである 33 。
禰寝清年の生涯に関する記録が断片的であるのは、歴史がしばしば勝者、この場合は最終的に南九州の覇者となった島津氏の視点から語られるためである。敗者や吸収された側の記録は、散逸したり、勝者に都合の良いように改変されたりすることが少なくない 34 。
清年とその子・重長の事績が混同されがちなのも 1 、この文脈で理解できる。近世に島津家臣・小松家として家史を編纂する際、島津氏への「反逆者」とも映りかねない清年の複雑な政治行動よりも、最終的に島津氏に帰順して家を存続させた「賢明な当主」である重長の功績を強調する方が、藩内での家の立場を正当化する上で都合が良かった可能性がある。したがって、我々が清年の実像に迫るには、残された断片的な記録の背後にある、勝者の論理を読み解き、独立を賭けて戦った国人領主の姿を再構築する作業が不可欠となる。
禰寝清年は、島津氏の宗家争いという未曾有の動乱期に、大隅の古豪・禰寝氏を率いた当主であった。彼は、複雑な姻戚関係と、交易に支えられた類まれな経済力を巧みに利用し、合従連衡を繰り返しながら、一族の独立と存続を賭けた。その生涯は、時に島津宗家を庇護し、時に敵対し、また肝付氏や種子島氏としのぎを削る、まさに戦国国人領主のダイナミズムそのものであった。
彼の試みは、最終的に息子・重長の代で島津氏への従属という形で終わりを告げる。しかし、それは単なる彼の敗北を意味するものではない。むしろ、清年の代における粘り強い外交と闘争があったからこそ、禰寝氏は滅亡の淵を免れ、近世大名島津氏の重臣・小松氏として家名を後世に繋ぐことができたのである。巨大な権力の波に翻弄されながらも、最後まで主体性を失わずに生き抜こうとした禰寝清年の生涯は、戦国乱世という時代を生きた、数多の地方領主たちの栄光と苦悩を、今に鮮やかに映し出している。