日本の戦国時代、数多の武将が覇を競う中で、信濃国(現在の長野県)の一角に、古くからの名門としてその名を刻む一族がいた。禰津氏である。本報告書で詳述する禰津元直(ねづ もとなお)は、この一族が最も激しい時代の荒波に揉まれた時期に当主として、あるいは一族の長老として、その舵取りを担った人物である。彼の生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた禰津一族の歴史的背景と、その特異な立ち位置を把握することが不可欠である。一族が長年にわたり培ってきた独自の政治的・文化的資産こそが、元直の、そして一族の運命を大きく左右することになるからである。
禰津氏は、その源流を信濃の古代豪族である滋野氏に持つ 1 。滋野氏は清和源氏を称し、平安時代から信濃国小県郡を中心に勢力を張った有力な氏族であった 1 。やがて滋野氏は三つの主要な家に分かれ、それぞれが本拠地の名を冠するようになる。すなわち、海野(うんの)氏、望月(もちづき)氏、そして禰津氏であり、この三家は「滋野三家」と総称され、東信濃に広大な武士団を形成した 2 。
この三家の中では、海野氏が嫡流とされ、代々の当主は「小太郎」を名乗ったと伝わる。これに対し、次男家と位置づけられた禰津氏は「小次郎」を通称としたとされ、これは一族内における格式の高さを示すものであった 5 。彼らの本拠地は、その名の通り信濃国小県郡禰津(現在の長野県東御市祢津)であり、烏帽子岳の南麓に広がるこの地に、居館である「古御館(ふるみたち)」や、戦時の拠点となる禰津城を構えていた 5 。禰津城は、山麓に位置し本城と考えられている「下の城」と、詰城としての機能を持つ山頂の「上の城」からなる複合的な山城であり、その遺構からは土塁や堀切、石積みなどが確認され、一帯を支配した豪族の権威を今に伝えている 6 。その勢力圏は本拠地周辺に留まらず、支城や関連施設が点在していたことから、東信濃の広範囲に影響力を及ぼしていたことが窺える 14 。
禰津氏の特筆すべき点は、滋野一族という出自に加えて、もう一つの有力なネットワークに属していたことである。それが、信濃国一之宮である諏訪大社を奉じる武士団「諏訪神党(すわしんとう)」との深い関係であった。禰津氏は古くから婚姻関係などを通じて諏訪氏と強い結びつきを持ち、諏訪氏の猶子(ゆうし、養子の一種)となることで、神党の一員としての資格を得ていた 5 。その証として、一族の者はしばしば「神平(じんぺい、しんぺい)」という通称を用いており、これは滋野氏の一員であると同時に、諏訪神党の一員でもあるという二重のアイデンティティを示している 5 。
この二重の属籍は、単なる血縁や信仰の問題に留まらなかった。それは、複雑な情勢が渦巻く信濃において、一族が生き残るための極めて高度な外交的資産として機能したのである。一方の勢力(滋野氏)が危機に瀕した際に、もう一方の勢力(諏訪氏)との繋がりを利用して難を逃れるという、柔軟な立ち回りを可能にした。この戦略的な立ち位置が、後に禰津元直の代で一族の存亡を分ける決定的な役割を果たすことになる。
さらに、禰津氏は武威だけでなく、特殊な文化的技能を持つ一族としても知られていた。それが「鷹狩り(放鷹術)」である 19 。禰津氏の鷹匠は「東国無双」と称されるほどの高い技術を誇り、その伝統は江戸幕府まで続く日本最大の鷹匠流派「根津・諏訪流鷹術」の中興の祖として名を残すほどであった 17 。戦国時代において、鷹狩りは単なる権力者の趣味や娯楽ではなかった。優れた鷹は貴重な贈答品として外交の場で重用され、また、その技術は軍事的な偵察活動にも応用されうるものであった。この特殊技能は、禰津氏が他の国衆とは一線を画す文化的・政治的な資本となり、時の権力者たちから重んじられる一因となったのである。
戦国時代の信濃は、守護であった小笠原氏の権威が衰え、村上氏、諏訪氏、そして甲斐国(現在の山梨県)から勢力を伸ばす武田氏といった諸勢力がしのぎを削る、まさに群雄割拠の様相を呈していた。この激動の時代に、禰津氏の当主として歴史の表舞台に登場するのが禰津元直である。彼の名は、信濃の勢力図を塗り替える一大決戦「海野平の戦い」において、敗者として、そして稀有な生存者として記録されることになる。
史料によれば、禰津元直は明応4年(1495年)に生まれ、天正3年(1575年)に没したとされる 21 。父については、禰津覚直(かくちょく)とする説 23 と、禰津親直(ちかなお)とする説 21 があり、系図によって記述が異なる。官途名は宮内大輔(くないたいふ)を称した 21 。
元直には複数の子がいたことが確認されている。長男の勝直(かつなお)は早世したとされ、次男の政直(まさなお)が出家して松鴎軒常安(しょうおうけんじょうあん)と号し、家督を継いだ 22 。三男に信忠(のぶただ)、そして娘の一人は後に甲斐の武田晴信(信玄)の側室となり、「禰津御寮人(ねづごりょうにん)」と呼ばれた 22 。彼ら一族の関係は、後の家督継承や他家との関係を理解する上で重要であるため、以下に整理する。
【表1:禰津元直 関係人物・系図(主要人物)】
関係 |
人物名 |
読み |
備考 |
父 |
禰津親直 / 覚直 |
ねづ ちかなお / かくちょく |
史料により異なる 23 。 |
本人 |
禰津元直 |
ねづ もとなお |
官途は宮内大輔。本報告書の中心人物 21 。 |
子(長男) |
禰津勝直 |
ねづ かつなお |
早世したとされる 23 。 |
子(次男) |
禰津政直(常安) |
ねづ まさなお(じょうあん) |
家督を継承。松鴎軒と号す。鷹匠としても著名 20 。 |
子(三男) |
禰津信忠 |
ねづ のぶただ |
長篠の戦いで討死した説あり。その子が後に家督を継ぐ 21 。 |
子(娘) |
禰津御寮人 |
ねづ ごりょうにん |
武田信玄の側室。武田信清の母 25 。 |
孫(政直の子) |
禰津月直 |
ねづ つきなお |
長篠の戦いで討死した説あり 20 。 |
孫(信忠の子) |
禰津昌綱(信光) |
ねづ まさつな(のぶみつ) |
月直の死後、本家の家督を継承 20 。 |
天文10年(1541年)5月、甲斐の戦国大名・武田信虎は、信濃への本格的な侵攻を開始した。信虎は、北信濃に勢力を張る村上義清、そして諏訪郡の領主である諏訪頼重と手を組み、連合軍を結成。その矛先は、滋野三家が支配する小県郡に向けられた 22 。
滋野三家の宗家である海野棟綱は、この強大な連合軍に対抗すべく兵を挙げた。禰津元直も、滋野一族の一員として海野方について戦った 10 。しかし、武田・村上・諏訪の連合軍の兵力は圧倒的であり、海野軍は「海野平」と呼ばれる主戦場で壊滅的な敗北を喫した 10 。この敗戦により、宗家の海野棟綱と、その一族で後に名を馳せる真田幸隆(当時は幸綱)は、本拠地を追われ、上野国(現在の群馬県)へと亡命するに至った 10 。元直の子である政直も、この時、幸隆らと行動を共にして上野へ落ち延びたとされる 10 。
滋野一族が存亡の危機に瀕する中、禰津元直の運命は他の者たちと一線を画した。彼は、敵方であるはずの諏訪頼重の「取り成し」によって武田氏に降伏することを許され、さらに所領の安堵まで勝ち取ったのである 10 。これは、前述した禰津氏が持つ「諏訪神党」としての人脈が、絶体絶命の状況下で最大限に機能した結果に他ならない。一族の滅亡か存続かを分けた、まさに決定的な瞬間であった。
この出来事は、単に禰津氏の外交手腕を示すだけではない。武田・諏訪連合軍が、敵対した禰津元直を滅ぼさずに旧領に留め置いたことは、単なる温情ではなく、後の信濃平定を見据えた高度な戦略的判断、すなわち「布石」であったと考えられる。武田信虎の主目的は、敵対勢力の中核である海野氏を排除し、信濃への影響力を確保することにあった。宗家の海野氏と有力な一門である真田氏を追放したことで、その目的は達成された。その上で、元直を「諏訪氏の猶子」という形で自陣営に組み込み、旧領に留まらせることで、武田氏は小県郡に直接的な影響力を持つ足がかりを得たのである。事実、この「布石」は、後に武田家の家督を継いだ晴信(信玄)の代に大きな意味を持つことになる。信玄は、この禰津氏を介して、追放されていた真田幸隆を武田家臣として呼び戻し、かつての主君であった村上義清を攻略するための先兵として活用することに成功するのである 21 。元直の所領安堵は、武田氏の巧みな信濃統治戦略の、まさに序章を飾る出来事だったのである。
海野平の戦いを経て、禰津元直と禰津一族は、甲斐武田氏の支配下で新たな道を歩むことになった。天文10年(1541年)6月、武田家では信虎が嫡男の晴信(後の信玄)によって甲斐から追放されるという政変が起こる。新たな当主となった晴信は、父の信濃侵攻策を継承しつつも、より巧みな戦略でその支配を盤石なものにしていく。この過程で、禰津元直は武田家臣団の中で重要な地位を占めるに至る。
武田晴信の支配下に入った禰津元直が、その忠誠を形で示すために行った最も重要な政治的行為が、娘を晴信の側室として差し出すことであった 20 。これは、単なる婚姻関係に留まらず、禰津氏が武田氏の「親類衆」に準ずる特別な地位を得て、その支配体制に深く組み込まれることを意味した。この娘は「禰津御寮人」と呼ばれ、後に武田信清(武田信玄の七男)の生母となったと伝えられている 25 。
この禰津御寮人を巡っては、非常に興味深い説が存在する。それは、彼女が実は武田勝頼の生母である「諏訪御料人」と同一人物である、という説である 22 。諏訪御料人は、晴信が滅ぼした諏訪頼重の娘であり、彼女を側室に迎えるにあたって、武田家臣団の中には強い反対論があったという 30 。そこで、敵将の娘という立場を和らげるため、一旦、同盟関係にある禰津元直の養女という形をとり、武田家に輿入れしたのではないか、という推測である。
この説の真偽は定かではないが、仮に事実であったとすれば、武田信玄の国衆統治術の巧みさを象徴する事例と言える。信玄は、滅ぼした諏訪氏の血筋を、友好関係を築いた禰津氏の養女とすることで、一度に複数の政治的効果を狙ったことになる。第一に、諏訪家の血を武田家に取り込むことで、諏訪地方の支配の正統性を確保する。第二に、禰津氏には「当主の養父」という名誉を与えて厚遇を示し、その忠誠心をさらに強固なものにする。そして第三に、両氏の旧領における支配を安定させる。これは、単なる政略結婚を超え、征服地の有力者を巧みに取り込み、新たな支配体制の礎とする、信玄の高度な政治手腕を物語っている。
禰津元直は、武田氏の信濃侵攻において、現地の地理や人脈に精通した「信濃先方衆(しなのさきかたしゅう)」の一員として、軍事面でも重要な役割を果たした。特に、かつて共に上野へ落ち延びた真田幸隆が武田方に帰参してからは、その与力として行動を共にすることが多かった。
天文20年(1551年)、武田軍は北信濃の雄・村上義清の拠点である戸石城(といしじょう)の攻略に乗り出すが、二度にわたる攻撃に失敗し、大きな損害を出していた(戸石崩れ) 32 。この難攻不落の城を攻略するにあたり、真田幸隆が調略を駆使して城を内部から切り崩したことは有名だが、この時、禰津元直も幸隆に従い、軍功を挙げたとされる 21 。この功績により、元直は海野平の戦いで失った旧領を完全に回復したと見られている 22 。
元直の活躍の場は信濃に留まらなかった。武田氏が上野国への進出を本格化させると、元直も真田幸隆と共に上野へ出陣し、永禄6年(1563年)の岩櫃城(いわびつじょう)攻めなどで活躍した 21 。その功を賞され、1500石を加増されたという史料も存在する 21 。
永禄10年(1567年)、武田氏が上杉氏の重要拠点であった上野箕輪城を攻略すると、元直はその在番(城代の一員)に任じられた 8 。これは、彼が信濃だけでなく、上野方面の軍事・統治においても信玄から深く信頼されていたことを示すものである。さらに、この功績により、上州小鼻(こばな)の郷地を恩賞として与えられている 21 。
同年8月、信玄は家臣団に対し、忠誠を再確認させるため、生島足島(いくしまたるしま)神社へ起請文(きしょうもん、誓約書)を奉納させた。この「下之郷起請文」と呼ばれる一括文書の中に、禰津元直の名もはっきりと記されている 8 。これは、彼が武田家臣団の一員として完全に組み込まれ、その支配体制の中で確固たる地位を築いていたことを示す、動かぬ証拠と言えるだろう。
禰津元直の晩年から最期にかけての記録は、史料によって記述が異なり、いくつかの謎に包まれている。特に、家督を継いだとされる息子・政直(常安)との役割分担の曖昧さ、そして元直自身の最期を巡る説の相違は、禰津氏の歴史を読み解く上で重要な論点となる。これらの錯綜する情報を整理・分析することで、戦国期における国衆一族の統治の実態と、長篠の戦いが彼らにもたらした衝撃の大きさが浮かび上がってくる。
史料の中には、天文14年(1545年)頃、元直は家督を次男の政直に譲って隠居した、と記すものがある 22 。しかし、その記述とは裏腹に、それ以降の年代においても、前述の通り、永禄10年(1567年)の箕輪城在番など、元直自身の名で記録された活動が複数確認される 21 。一方で、家督を継いだはずの政直も、父と共に箕輪城代を務めたとされるなど 22 、武田家臣として活発に活動していたことが記録されている 20 。
この一見矛盾した状況は、単なる記録の誤りや混同として片付けるべきではない。むしろ、戦国期の国衆によく見られた「流動的な家督継承」と「父子による共同統治」の実態を反映している可能性が高い。戦国時代、当主の交代は、必ずしも前当主の完全な引退を意味しなかった。特に、外交交渉や一族の長老としての権威が求められる場面では、隠居したはずの父が依然として重要な役割を担い続けることは珍しくなかったのである。
元直は、武田氏への臣従を主導した経験豊富な人物であり、娘の入輿を通じて信玄との直接的な繋がりも持っていた。一方、息子の政直は、軍事の最前線で活躍する次世代のリーダーであった。この状況から、公式な家督は政直に譲りつつも、元直は「大殿」的な立場で後見し、外交や重要案件に関与し続けたと推測するのが自然であろう。例えば、箕輪城在番のような重要な役職には、政直だけでなく、元直の名声と経験が必要とされたのかもしれない。したがって、史料に見られる記述の揺れは、この父子の役割分担が外部から見て一義的でなかったことの証左であり、一族の総力を挙げて乱世に対応していた姿を映し出していると考えられる。
天正3年(1575年)5月、武田勝頼率いる武田軍と、織田信長・徳川家康連合軍が三河国長篠(現在の愛知県新城市)で激突した。この「長篠の戦い」は、武田軍が壊滅的な敗北を喫したことで知られるが、この戦いは禰津一族にとっても運命を大きく変える悲劇の舞台となった。しかし、この戦いで誰が命を落としたのかについては、史料によって記述が大きく異なり、元直の最期を巡る最大の謎となっている。
【表2:長篠の戦いにおける禰津一族の戦死者に関する諸説比較】
討死したとされる人物 |
主な出典・根拠 |
その説がもたらす影響・考察 |
禰津元直 |
『甲陽軍鑑』の一部記述、一部系図類、通説 18 |
この説に従うと、元直の没年は天正3年(1575年)となる。ユーザーが当初提示した概要もこの説に基づいている。 |
禰津信忠 (元直の三男) |
一部系図類 21 |
元直は既に隠居しており、息子の信忠が当主代理として出陣し戦死したとする見方。 |
禰津月直 (元直の孫、政直の子) |
複数の系図類、『断家譜』など 20 |
政直の嫡男が戦死したため、家督継承に大きな問題が生じたことを示唆する。現在、比較的有力な説の一つ。 |
禰津甚平是広 |
現地の墓碑伝承(東三河の史跡めぐり) 34 |
禰津一族の別の人物が戦死した可能性を示す。月直や信忠との関係は不明。 |
元直は隠居、子・孫が戦死 |
複数の史料を総合した解釈 20 |
元直は長篠の時点では生存・隠居。しかし、後継者である子(信忠)や孫(月直)をこの戦で失ったため、家督を甥の昌綱に譲らざるを得なくなったとする説。 |
このように、諸説は入り乱れている。元直自身が80歳という高齢で出陣し討死したとする説には疑問も残るが、完全に否定することもできない。一方で、息子や孫が戦死したという記録も複数存在する。
しかし、この論争の本質は「元直個人が死んだかどうか」という点に留まらない。より重要なのは、いずれの説を取るにせよ、この戦いで「禰津氏の次世代を担うべき指導者層が一挙に失われた」という事実である。元直の息子(信忠)や孫(月直)といった、本来であれば家督を継承するはずの直系の男子が、この戦いで命を落とした可能性は極めて高い。
これは、禰津氏が描いていたであろう家督継承プランが、根底から覆されたことを意味する。結果として、一族の血筋を絶やさないために、本家の家督は傍流である元直の甥・禰津昌綱(信光)に譲らざるを得なくなった 20 。このリーダーシップの断絶と混乱は、その後の禰津氏の求心力低下に直結したことは想像に難くない。特に、7年後に訪れる武田氏滅亡という未曾有の混乱期において、強力な指導者を欠いたことが、かつての同僚であった真田昌幸の後塵を拝し、その支配下に組み込まれていく遠因となったと考えられる 18 。したがって、長篠の戦いは、禰津氏にとって単なる一戦闘員の損失ではなく、一族の独立性を揺るがす致命的な「世代的敗北」であったと評価できるのである。
長篠の戦いで指導者層に深刻な打撃を受け、そして大黒柱であった武田信玄亡き後の武田家が衰退していく中で、禰津一族は新たな試練の時代を迎える。元直の時代が終わり、一族は分裂と再編を繰り返しながら、それぞれが新たな主君のもとで家名を存続させる道を模索していくことになる。
天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐によって、名門・武田氏は滅亡した。これにより、信濃国は主を失い、織田、上杉、北条、徳川といった周辺の大勢力が一斉に信濃の領有権を主張し、激しく争う未曾有の混乱状態に陥った。世に言う「天正壬午の乱」である。
この動乱の中で、信濃の国衆たちは生き残りをかけて、離合集散を繰り返した。禰津氏も例外ではなかった。長篠の悲劇の後、家督を継いでいた禰津昌綱は、当初、関東の北条氏直に属するなど、同じ小県郡で勢力を拡大しつつあった真田昌幸とは異なる動きを見せた 22 。しかし、巧みな戦略で上田を本拠に定めた真田昌幸は、小県郡の統一に着手し、同年10月には禰津氏を攻めた 35 。かつては同僚であり、時には与力として共に戦った真田氏であったが、この時には力関係が逆転しており、禰津氏は昌幸に降伏せざるを得なかった 22 。これ以降、禰津氏の本家筋は真田氏の家臣団に組み込まれ、その支配下で家名を保つこととなる 18 。
一方で、禰津一族の全ての者が真田氏の配下になったわけではなかった。元直の次男で、早くから家督を継いでいた禰津政直(常安)は、武田氏滅亡後、いち早く将来の覇者と目される徳川家康に臣従する道を選んだ 20 。
この選択は、禰津氏の一派に束の間の栄光をもたらした。天正18年(1590年)、家康が豊臣秀吉の命により関東へ移封されると、政直もこれに従い、上野国豊岡(現在の群馬県高崎市)に5000石の所領を与えられた 20 。そして慶長7年(1602年)、政直の子である根津信政(この頃から「禰津」を「根津」と改めたとされる)の代に、さらに5000石を加増され、合計1万石の大名となった。これにより、上野豊岡藩が立藩し、禰津氏は戦国時代を通じての悲願であった大名への昇進を果たしたのである 37 。これは、一族の歴史における頂点の一つであった。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。藩主となった信政は同年に没し、跡を継いだ子の政次も早世。養子として家督を継いだ弟の信直(吉直)も、寛永3年(1626年)に嗣子がないまま若くして死去した 37 。これにより、上野豊岡藩根津氏は無嗣断絶となり、わずか三代、20年余りで改易の憂き目に遭った 5 。
徳川直参として大名になる道が絶たれた一方で、真田氏の家臣となった本家筋の一族は、より堅実にその血脈を後世に伝えていく。関ヶ原の戦いを経て、真田家は信濃上田藩(後に松代藩)と上野沼田藩の大名として存続した。禰津氏の一族も、これらの藩の家臣として仕え、江戸時代を通じて家名を保った 5 。
特に、真田信之に仕えた禰津幸直(元直の孫、信忠の子)は、信之の近臣として重用され、その子孫は松代藩や支藩である沼田藩で家老や目付といった要職を務めた 5 。江戸時代に編纂された『松代藩史』には、禰津氏について「家中で腕にもっとも覚えあり」と記されており、武門の家としての評価を高く維持していたことが窺える 5 。
武田氏滅亡後、禰津一族が「真田家臣となる本家」と「徳川直臣となる分家」に分裂したことは、意図したかどうかにかかわらず、結果として一族全体が生き残るための巧みなリスク分散戦略として機能した。天正壬午の乱という、どの勢力が最終的な勝者になるか全く見通せない混沌とした状況下で、本家は地理的に近い真田氏に従属することでまず地域での存続を確保し、分家はより大きな視点で将来の覇者と目された徳川家康に直接仕えるというハイリスク・ハイリターンな賭けに出た。結果として、徳川に仕えた家系は一時的に大名となったものの断絶したが、真田に仕えた家系は藩の重臣として安定的に幕末まで存続した。もし一族全体がどちらか一方にのみ賭けていたら、共倒れになる危険性もあっただろう。この分裂は、戦国末期から近世への移行期における、国衆のしたたかな生き残り術の一類型として評価することができる。
禰津元直の生涯は、信濃国の一国衆が、武田信玄という傑出した戦国大名の台頭と、その後の激動の時代に如何に翻弄され、そして適応していったかの縮図であった。彼は、滋野三家という名門の出自、諏訪神党という独自の人脈、そして鷹狩りという特殊技能といった、一族が持つあらゆる資産を巧みに利用し、海野平の戦いにおける滅亡の危機を見事に乗り越えた。
武田氏の麾下に入ってからは、政略結婚と着実な軍功によって信玄の信頼を勝ち取り、信濃先方衆として確固たる地位を築いた。彼の最期や家督継承の実態には謎が残るものの、その行動と選択が、分裂しながらも近世まで続く禰津一族の礎を築いたことは間違いない。長篠の戦いでの悲劇は一族に大きな打撃を与えたが、それでもなお、複数の家系が異なる主君のもとで生き残ったという事実は、彼らが培ってきた生存戦略のしたたかさを物語っている。
禰津元直は、歴史の教科書に名を連ねるような派手な英雄ではない。しかし、彼は戦国という時代のリアリズムを体現した、粘り強く、思慮深く、そして戦略的な地方領主であった。その名は、講談や創作の世界で活躍する真田十勇士の一人、根津甚八のモデルとされるなど 20 、形を変えながらも後世に記憶され、信濃の古豪としての存在感を今に留めている。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国時代を大名や英雄の視点からだけでなく、その足元で必死に生き抜いた国衆たちの視点から捉え直す、貴重な機会を与えてくれるのである。