最終更新日 2025-06-04

秋元長朝

秋元長朝は深谷上杉氏家臣から徳川家康に仕え、総社藩初代藩主。関ヶ原で功を挙げ、天狗岩堰開削で領地を開発。83歳で没し、秋元家の基礎を築いた。
秋元長朝

秋元長朝の生涯と事績:戦国末期から江戸初期を生きた武将の軌跡

序章:秋元長朝という人物

本報告は、日本の戦国時代末期から江戸時代初期という激動の転換期を生きた武将、秋元長朝(あきもと ながとも)の生涯とその事績について、現存する史料に基づき多角的に検証し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。秋元長朝は、はじめ深谷上杉氏に仕え、後に徳川家康の家臣となり、近世大名としての地位を確立した人物である。特に上野国総社藩主として、利根川からの大規模な用水路である天狗岩堰を開削し、領内の新田開発に多大な貢献を果たしたことで知られている 1 。本報告では、彼の出自から、戦国武将としての活動、徳川家臣としての立身、そして総社藩における藩政、さらには家族や関連史跡、後世の評価に至るまで、詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫る。

第一章:秋元長朝の出自と秋元氏

第一節:秋元氏の起源と家系

秋元氏の出自については、複数の伝承が存在する。最も有力とされるのは、下野国の名族である宇都宮氏の流れを汲むという説である。具体的には、鎌倉時代の武将、宇都宮頼綱の子である泰業が、13世紀前半に上総国周淮郡秋元荘(現在の千葉県君津市周辺)を領有し、そこを本貫としたことに始まるとされる 1 。そして、泰業から数えて7代後の師朝の代に、領地の名を冠して「秋元」の姓を称するようになったと伝えられている 4

この宇都宮氏流の説は、江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』にも記載されているが、一方で同書は、宇都宮頼綱の子に泰業の名が見えないことや、秋元氏代々の位牌を伝える天南寺の記録では源氏であるとされていることから、この説には疑義も呈している 9 。『藩翰譜』においても同様に天南寺の伝承として源氏説が紹介されており、これは秋元氏自身が複数の出自意識を持っていた可能性、あるいは後世になって特定の系譜を強調した可能性を示唆している。戦国時代から江戸初期にかけての武家にとって、自らの家系の権威付けは極めて重要であり、複数の由緒を背景に持つことは珍しくなかった。この出自の多層性は、秋元氏の歴史的背景の複雑さや、当時の武家が自らのアイデンティティをどのように認識し、外部に示していたかを探る上で興味深い点である。

第二節:父・秋元景朝と母・妙耕院

秋元長朝の父は、秋元景朝(かげとも)、別名として元景(げんけい)とも呼ばれる人物である 8 。景朝は秋元政朝の子として大永5年(1525年)に生まれた 8 。天文10年(1541年)、景朝は何らかの理由で本貫の地である上総国秋元荘を離れ、武蔵国深谷(現在の埼玉県深谷市)の深谷城主であった深谷上杉憲賢の家臣となり、上野台と瀧瀬の二村を拝領した 8 。景朝は深谷上杉氏の重臣として活躍し、岡谷加賀守、井草左衛門、上原出羽守と共に「深谷上杉氏四天王」の一人に数えられたという 8

長朝の母は妙耕院(みょうこういん)とされる 2 。彼女は当時の関東管領であった上杉憲政の養女であり、その実父は上杉氏の家臣であった古幡良家(ふるはた よしいえ)、通称を畑将監(はた しょうげん)といった人物であった 2 。一部史料では、景朝の正室を「春(光厳院殿心月等清大姉)」とし 16 、また、長朝が開基した光厳寺の寺名が母の法名「光厳院」に由来するともされている 17 。これらの情報から、妙耕院、春、光厳院は同一人物を指す可能性が高いと考えられる。この関東管領家との婚姻は、秋元氏の家格向上や、当時の複雑な政治状況下における地位の安定に少なからず影響を与えたものと推察される。戦国時代から江戸初期にかけての武家にとって、婚姻は単なる個人的な結びつきに留まらず、一族の存続と勢力拡大のための重要な戦略であった。

第三節:秋元長朝の生誕と基本情報

秋元長朝は、天文15年(1546年)に生まれた 1 。その出生地は、父・景朝が深谷上杉氏に仕えていた武蔵国深谷(現在の埼玉県深谷市)であるとされる 9 。このことは、江戸時代後期の地誌である『新編武蔵風土記稿』の榛沢郡深谷城の条や、同書の上野台村(現在の深谷市)秋元陣屋に関する記述からも裏付けられる 9 。長朝が武蔵国深谷で生まれ育ったという事実は、彼が初期に仕えた深谷上杉氏との強い結びつきを物語っており、この地域的基盤が後の関東における彼の活動や、徳川家康による関東入府後の登用に影響した可能性が考えられる。

長朝の幼名は孫三郎、後に孫四郎と称し、官位は越中守であった 2 。彼は寛永5年(1628年)8月29日に83歳でその生涯を閉じた 1

第四節:秋元氏の家紋

秋元氏の家紋は「秋元瓜(あきもとうり)」として知られている 22 。これは、上野国館林藩主となった秋元氏の定紋(じょうもん、公式の家紋)であったことに由来する。その図案は、五つの瓜(木瓜紋の一種である五瓜)を円形に配し、その中央に唐花(からはな、中国風の花の文様)を据えたものである 22 。木瓜紋は日本の五大家紋の一つにも数えられ、多くの武家で使用された紋章である 7

表1:秋元氏主要系図(長朝中心)

関係

氏名

備考

祖父

秋元政朝

秋元景朝(元景)

深谷上杉氏四天王の一人

妙耕院(春、光厳院とも)

上杉憲政養女、古幡良家(畑将監)娘

本人

秋元長朝(越中守)

本報告の中心人物

正室

氏名不詳

史料に具体的な記載なし

側室

心窓院殿華月芳永大姉(氏名不詳)

寛永7年(1630年)没、元景寺に墓あり

側室

成(おえん)

淀君伝説と関連付けられるが詳細は不明

長男

秋元泰朝(但馬守)

室は大河内秀綱娘。甲斐国谷村藩主

孫(泰朝の子)

秋元富朝(越中守)

長女

小笠原氏某室

嫁ぎ先の小笠原氏の人物名は史料からは特定困難

次女

渋川氏某室

嫁ぎ先の渋川氏の人物名は史料からは特定困難

(出典: 2 に基づく)

第二章:戦国乱世における活動

第一節:深谷上杉氏への仕官

秋元長朝は、父・景朝と共に、武蔵国北部の有力国衆であった深谷上杉氏に仕えた 1 。当時の深谷上杉氏の当主は上杉憲盛であった。父・景朝が「深谷上杉氏四天王」の一人と称されたのに対し、長朝もまた若くして頭角を現し、「三宿老」の一人に数えられたと伝えられている 3 。ただし、「三宿老」という呼称は史料に見られるものの、具体的な役職名や権限については、現存する史料からは詳細を明らかにすることは難しい 3 。その後、憲盛の子(あるいは後継者)である上杉氏憲の代にも引き続き仕えた 2

戦国時代末期の関東地方は、小田原の後北条氏、越後の上杉謙信、そして甲斐の武田信玄といった大大名の勢力が複雑に絡み合い、中小の国衆や領主は常に厳しい選択を迫られる状況にあった。秋元長朝が仕えた深谷上杉氏もまた、これらの大勢力の間で翻弄される存在であった。

第二節:後北条氏との関係と小田原征伐

深谷上杉氏は、関東における上杉氏の勢力が後退し、後北条氏が台頭する中で、やがてその後北条氏に服属することになる。これに伴い、秋元長朝も後北条氏の支配下に入った 6

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げとして小田原征伐が開始されると、関東の諸大名・国衆は大きな岐路に立たされた。長朝の主君である上杉氏憲は、後北条氏の本拠地である小田原城に籠城することを選択した。この際、長朝は氏憲に従って小田原城に入ることはせず、深谷城の留守を預かり、その守備にあたった 2

豊臣方の大軍が関東各地の北条方の城を次々と攻略する中、深谷城もまた前田利家や浅野長政といった豊臣軍の攻撃に晒された。長朝は奮戦し、城をよく持ちこたえたと伝えられるが、本城である小田原城が豊臣方に開城すると、深谷城もこれ以上の抵抗は無益と判断した。長朝は、重臣の杉田因幡らと謀り、城と城下の領民を無益な戦火から守るために開城し、豊臣方に降伏した 2 。この深谷城開城における長朝の決断は、単に力尽きて降伏したのではなく、被害を最小限に抑え、領民の安全を優先した戦略的判断であったと評価できる。武将としての勇猛さだけでなく、領主としての責任感や状況判断能力の高さを示すものであり、この行動が後の新しい支配者からの評価にも繋がった可能性が考えられる。

第三章:徳川家康への臣従と近世大名への道

第一節:徳川家康への臣従

小田原征伐により後北条氏が滅亡し、関東の支配体制が大きく変動する中、秋元長朝は新たな道を模索することになる。後北条氏滅亡後、長朝はしばらくの間、武蔵国で隠棲していたと伝えられる 2 。しかし、文禄元年(1592年)、徳川四天王の一人である井伊直政の推挙を受け、関東に入部した徳川家康の家臣となった 2

家康に仕えた当初の長朝の所領については、いくつかの記録がある。井伊直政の配下として上野国碓氷郡内に4000石を与えられたとする説 2 、あるいは上野国総社において4000石 3 、または500石 4 を与えられたとする説などである。これらの記録には差異が見られるが、『秋元家系図』の年表( 18 )によれば、文禄元年に500石を新たに給され、慶長5年の関ヶ原の戦いの功績により上野国総社1万石に転封されたとあり、これが最も整合性の高い情報と考えられる。

第二節:関ヶ原の戦いにおける功績

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下の形勢は徳川家康と石田三成を中心とする勢力との間で急速に緊迫化し、関ヶ原の戦いへと至る。この天下分け目の戦いにおいて、秋元長朝は徳川方として重要な役割を果たした。

まず、会津の上杉景勝が家康に対して不穏な動きを見せると、家康は景勝に詰問の使者を派遣することを決定した。この重要な任務に、秋元長朝が抜擢されたのである 1 。長朝がかつて関東管領上杉氏の旧臣であったという縁が、この人選の背景にあったとされる 3

関ヶ原の戦いが勃発すると、長朝自身は美濃国関ヶ原での本戦には直接参加しなかった。その代わりに、家康の主力部隊が西上する間、関東における対上杉氏の守備隊に属し、下総国栗橋(現在の茨城県古河市)の関所を守備して、会津の上杉景勝軍の南下を牽制する役割を担った 1

そして関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、長朝は再び家康の命を受け、会津の上杉景勝のもとへ赴いた。そして、景勝に対して徳川方への降伏を説得し、これを受け入れさせることに成功した 1

これらの対上杉交渉における一連の功績は、家康から高く評価された。その結果、長朝は6000石を加増され、先の所領と合わせて合計1万石となり、上野国総社(現在の群馬県前橋市総社町)に転封され、ここに総社藩が立藩し、長朝はその初代藩主として大名の列に加わることとなった 1 。長朝が井伊直政の推挙を得て家康に仕え、その後、特に関東の旧勢力である上杉氏との交渉という困難な任務を成功させたことは、彼の外交能力と忠誠心が高く評価された証左であり、家康の信頼を勝ち得る上で決定的な役割を果たしたと言えよう。

第三節:上野国総社藩の立藩と藩政

慶長6年(1601年)、秋元長朝は上野国総社藩の初代藩主となった 1 。総社は、かつて惣社長尾氏が蒼海城を拠点としていた地であり、戦国期には上杉氏、武田氏、織田氏、後北条氏の支配を受けるなど、戦略的にも重要な場所であった 29 。長朝の父・景朝がこの地に葬られていたこともあり、総社への入封は長朝自身の希望であったとも伝えられている 29

長朝は総社藩主となると、まず荒廃していたとされる蒼海城に代わり、植野勝山の地に新たに総社城を築城し、同時に城下町の整備に着手した 5 。総社城の完成は慶長7年(1602年)あるいは慶長15年(1610年)とされ、城下町の町割りも慶長15年頃には完了したと見られる 29 。家康が譜代の家臣である長朝を、上野国総社という戦略的要地に配置したことは、関東における徳川支配体制の強化と、依然として警戒対象であった北の上杉氏への牽制という意図があったと考えられ、総社城の築城もその一環であったと言える。

長朝の藩政における最大の功績として特筆されるのが、慶長9年(1604年)に開始された天狗岩堰(てんぐいわぜき)、別名「越中堀(えっちゅうぼり)」の開削である 1 。これは、利根川から水を引き込み、広大な不毛の地を水田化するという大規模な治水・灌漑事業であった。当時の総社領は水利に乏しく、農業生産性の向上が喫緊の課題であった。長朝は、隣接する白井藩主本多氏の許可を得て取水口を設け、3年間の年貢免除を約束して領民の協力を得てこの難事業に取り組んだ 29 。この用水路の完成により、総社藩の石高は大幅に増加し、領民の生活は安定した。この事業は、当時の代官であった伊奈忠次によってさらに延長され、最終的には2万7000石もの新田を生み出したと記録されている 1 。天狗岩堰の開削は、単なる農業振興に留まらず、総社藩の経済基盤の確立、領民の生活安定、そして秋元氏の藩主としての権威確立に繋がる多面的な意義を持っていた。武功だけでなく、民政における手腕も近世大名には不可欠であったことを示す好例である。この長朝の功績は後世まで語り継がれ、領民によって「力田遺愛碑(りきでんいあいひ)」が建立されるほど感謝された 17

天狗岩堰以外の具体的な藩政については詳細な記録が少ないものの、検地や法整備など、藩政の基礎確立に努めたと考えられる 21

第四節:大坂の陣における活躍

慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて起こった大坂冬の陣・夏の陣にも、秋元長朝は徳川方として従軍し、功を挙げたとされる 1 。具体的な戦功として、息子である秋元泰朝が大坂城の堀の埋め立てや豊臣方の残党狩りを行った記録が残っているが 38 、長朝自身の詳細な役割や具体的な功績については、現存する史料からは限定的である。しかし、徳川政権の安定に貢献したことは間違いないであろう。

第四章:秋元長朝の家族と晩年

第一節:正室と側室

秋元長朝の正室については、残念ながら現存する史料からはその氏名や出自を具体的に確認することができない 18 。これは当時の記録の限界であり、今後の研究によって新たな発見が期待される部分である。

側室については、いくつかの情報が伝えられている。まず、氏名は不詳ながら、その法名を心窓院殿華月芳永大姉といい、寛永7年(1630年)に亡くなった側室の墓が、前橋市の元景寺に存在する 3

もう一人、特に注目されるのが「成(おえん)」という名の側室に関する伝説である。これは、大坂夏の陣の後、豊臣秀吉の側室であった淀君が落城を逃れて長朝を頼り、長朝がこれを匿って側室とした(あるいは求婚した)というものである 3 。元景寺の墓所案内には、長朝の側室「成」の墓が、この淀君のものであると伝えられていると記されている 64 。この伝説は、史実としての確証は現在のところ見出されていないものの、なぜそのような話が生まれたのか、その背景を考察することは興味深い。大坂の陣という大きな歴史的事件と、地方の比較的小さな大名であった長朝を結びつけることで、長朝という人物に一種のロマンや重要性を付与しようとした民衆の意識が働いた可能性が考えられる。また、元景寺に実在する「側室・成」の墓が、この伝説の受け皿となった経緯も推察されるところである。いずれにせよ、史実と伝説は明確に区別して理解する必要がある。

第二節:子・秋元泰朝及びその他の子女

秋元長朝には、複数の子女がいたことが記録されている。

嫡男は秋元泰朝(やすとも)である 1 。泰朝は天正8年(1580年)に生まれ、父・長朝の隠居後に家督を相続し、後に甲斐国谷村藩(現在の山梨県都留市)の藩主となった。泰朝自身も、大坂の陣における大坂城の堀の埋め立てや豊臣方の残党狩り、さらには日光東照宮の造営奉行を務めるなど、徳川幕府のために多くの功績を挙げている 38

長朝には娘もいたことが確認されており、それぞれ小笠原氏と渋川氏の某人物に嫁いだと記録されている 2 。しかし、残念ながら、これらの娘たちの具体的な名前や、嫁ぎ先の小笠原氏・渋川氏の人物名、家系といった詳細については、現存する史料からは特定することが困難である 32 。これらの縁組は、徳川体制下における秋元家の安定と発展のための重要な戦略であったと考えられ、他の譜代大名との間にネットワークを形成し、幕政における発言力や情報収集能力を高めようとした可能性が推察される。具体的な嫁ぎ先が不明である点は、今後の研究における課題の一つと言えるだろう。

第三節:隠居と最期

秋元長朝は、元和8年(1622年)、嫡男である泰朝に家督を譲り、隠居生活に入った 1 。その後、寛永5年(1628年)8月29日、83歳という当時としては長寿を全うしてこの世を去った 1

長朝の法名は「江月院殿巨岳元誉大居士(こうげついん でんきょがくげんよだいこじ)」と伝えられている 2

第五章:秋元長朝に関する史跡と後世への影響

第一節:菩提寺と信仰

秋元長朝とその一族の信仰を伝える寺院は、主に群馬県前橋市と埼玉県深谷市に現存している。

  • 光厳寺(こうごんじ) (群馬県前橋市総社町総社):慶長6年(1601年)に総社藩主となった長朝が、徳蔵寺の亮應和尚を招いて開山した寺院である 2 。寺名は、秋元氏の姓、長朝の法名「江月院」、そして長朝の母の法名「光厳院」に由来するとされる 17 。秋元家はその後、甲斐国谷村、武蔵国川越、出羽国山形、上野国館林へと転封を重ねるが、光厳寺は一貫して秋元家代々の菩提寺であり続けた。長朝自身の墓所もこの光厳寺に隣接する宝塔山古墳の墳頂にある 2
  • 元誉寺(げんよじ) (埼玉県深谷市秋元町):長朝の父・景朝が永禄元年(1558年)に建立したと伝えられる秋元氏ゆかりの寺院である 11 。当初は金燈籠橋の近くにあったが、後に長朝の子・泰朝によって現在地に移されたという。景朝と長朝の墓(供養塔)も存在する 11
  • 元景寺(げんけいじ) (群馬県前橋市総社町総社):長朝が父・景朝(元景)の菩提を弔うために創建した寺院である 3 。この寺は、前述の淀君伝説とも深く関連付けられており、境内には淀君のものと伝わる墓(長朝の側室・成の墓)が存在するとされる 64

これらの寺院は、秋元長朝とその一族の信仰のあり方を示すとともに、地域の歴史を物語る重要な史跡となっている。

第二節:関連城郭と館跡

秋元長朝の生涯は、いくつかの城郭や館跡とも深く結びついている。

  • 深谷城跡(埼玉県深谷市) :長朝が青年期に仕えた深谷上杉氏の本拠地であり、小田原征伐の際には長朝自身が守将として籠城した城である 2 。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』には、深谷城内に「秋元越中守曲輪」と呼ばれる区画があったことが記されており、長朝がこの城において重要な役割を担っていたことを示唆している 9
  • 総社城跡(群馬県前橋市総社町総社) :長朝が上野国総社藩主となった後、新たに築城した近世城郭である 17 。この城を中心に城下町が形成され、総社藩の政治経済の中心地となった。
  • 秋元氏館跡(埼玉県深谷市秋元町) :父・景朝の代から長朝が深谷上杉氏に仕えていた時代の館(陣屋)跡である 11 。この地は「金燈籠」の伝説とも関連付けられている。

これらの城郭や館跡は、秋元長朝の武将としての側面と、領主としての側面を今に伝える貴重な歴史遺産である。

第三節:その他の関連文化財と後世の評価

秋元長朝に関連する文化財としては、以下のものが特に重要である。

  • 力田遺愛碑(りきでんいあいひ) (光厳寺境内):天狗岩堰開削という長朝の最大の治績を称え、その恩恵を受けた領民たちが安永5年(1776年)に建立した石碑である 17 。この碑は、長朝の善政が単なる記録としてではなく、領民の感謝の記憶として後世まで伝えられたことを示す象徴的な存在である。また、総社を離れた後も秋元家が旧領民を支援した逸話や 17 、逆に領民が旧領主を慕い続けたことは、近世における領主と領民の関係性の一つの理想的な姿を示している。
  • 金燈籠(かねどうろう) (群馬県太田市・世良田東照宮に現存):長朝が徳川家康の霊を弔うために製作し、後に曾孫にあたる秋元喬知が元服祝いとして世良田東照宮に奉納したと伝えられる大きな銅製の燈籠である 12

秋元長朝の歴史的評価は、主にその藩政における卓越した手腕、特に天狗岩堰の開削による新田開発の成功に集約される 1 。この事業は、疲弊した領地を蘇らせ、民衆の生活を安定させるとともに、総社藩の財政基盤を確立した。また、徳川家康への忠勤に励み、関ヶ原の戦いや大坂の陣といった重要な局面で功績を挙げ、近世大名秋元家の基礎を築いた人物として位置づけられる。彼の生涯は、戦国時代の武士としての経験を活かしつつ、新たな江戸幕府体制下で領国経営に成功した、転換期の武将の典型例の一つと言えるだろう。

これらの史跡や文化財、そして伝説は、秋元長朝の生涯の異なる側面を多層的に物語っている。深谷時代の武将としての基盤形成、総社藩主としての卓越した治水・開発能力、そして一族の信仰のあり方など、これらを総合的に考察することで、長朝の人物像や秋元氏の歴史がより立体的に浮かび上がってくる。

終章:総括

秋元長朝は、戦国時代の終焉から江戸時代初期という、日本史における大きな転換点を生き抜いた武将であり、優れた藩政家であった。深谷上杉氏の家臣としてキャリアを開始し、後北条氏への従属、そして小田原征伐という激動の時代を経て、徳川家康に見出されてその家臣となった。関ヶ原の戦いでは、対上杉交渉という重要な役割を果たし、その功績によって上野国総社藩1万石の大名に取り立てられた。

総社藩主としては、何よりも天狗岩堰の開削という大規模な治水・灌漑事業を成功させ、領内の農業生産力を飛躍的に向上させた。この事業は、単に経済的な豊かさをもたらしただけでなく、領民の生活を安定させ、長朝に対する深い感謝と敬愛の念を後世まで残すことになった。「力田遺愛碑」はその象徴である。また、総社城の築城や城下町の整備も行い、近世総社の基礎を築いた。

家族に目を向ければ、母・妙耕院が関東管領上杉憲政の養女であったことは、秋元氏の初期の地位形成に影響を与えた可能性があり、嫡男・泰朝への家督相続は近世大名秋元家の継続を確固たるものとした。娘たちを小笠原氏や渋川氏といった武家に嫁がせたことは、徳川体制下における家の安定と発展を目指した戦略であったと考えられる。

秋元長朝の生涯は、戦国武将としての武勇や知略、近世大名としての民政手腕、そして徳川家への忠誠心といった多様な側面を併せ持っていた。彼の事績は、単に一個人の成功物語に留まらず、戦国時代から江戸時代へと移行する社会の中で、武士がいかに生き残り、新たな秩序の中で地位を確立していったかを示す貴重な事例と言えるだろう。

本報告では、現存する史料に基づいて秋元長朝の生涯と事績を概観したが、なお解明すべき課題も残されている。例えば、正室の具体的な氏名や出自、娘たちの嫁ぎ先の詳細な家系、上杉氏に仕えていた時代の具体的な役職名や活動内容などについては、史料の制約から十分に明らかにできなかった。これらの点については、今後のさらなる史料の発見と研究の進展に期待したい。

表2:秋元長朝 略年表

和暦

西暦

年齢

主要な出来事

関連資料

天文15年

1546年

1歳

武蔵国深谷にて生まれる。父は秋元景朝、母は妙耕院(上杉憲政養女、古幡良家娘)。

1

永禄3年頃

1560年頃

15歳頃

(推定)父・景朝と共に深谷上杉憲盛に仕える。桶狭間の戦い(1560年)の年に15歳。

1

天正8年

1580年

35歳

嫡男・泰朝が生まれる。

18

天正10年

1582年

37歳

本能寺の変。

18

天正12年

1584年

39歳

小牧・長久手の戦い。

18

天正18年

1590年

45歳

小田原征伐。主君・上杉氏憲に従い、深谷城を守備。後に開城。

2

文禄元年

1592年

47歳

井伊直政の推挙により徳川家康に仕え、500石を給される。

2

慶長5年

1600年

55歳

関ヶ原の戦い。戦前・戦後に上杉景勝への使者を務める。対上杉の守備隊に属す。

2

慶長6年

1601年

56歳

関ヶ原の戦いの功により6000石を加増され、上野国総社1万石の大名となる(総社藩立藩)。

1

慶長7年

1602年

57歳

(推定)総社城築城開始。

29

慶長9年

1604年

59歳

利根川から引水する天狗岩堰(越中堀)の開削に着手。

1

慶長19年~元和元年

1614年~1615年

69歳~70歳

大坂冬の陣・夏の陣に従軍し、功を挙げる。

2

元和8年

1622年

77歳

嫡男・泰朝に家督を譲り隠居。

2

寛永5年

1628年

83歳

8月29日、死去。法名は江月院殿巨岳元誉大居士。

1

(出典:各関連資料に基づく)

引用文献

  1. 秋元長朝(あきもと ながとも)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A7%8B%E5%85%83%E9%95%B7%E6%9C%9D-1049178
  2. 秋元長朝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%85%83%E9%95%B7%E6%9C%9D
  3. 秋元長朝 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/AkimotoNagatomo.html
  4. 秋元氏(あきもとうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A7%8B%E5%85%83%E6%B0%8F-1142180
  5. 館林城の再建をめざす会 | 歴史・資料[徳川綱吉 1661-1680] http://w-concept.jp/tatebayashijou/data/akimoto_01.html
  6. 秋元家とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%A7%8B%E5%85%83%E5%AE%B6
  7. 秋元氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%85%83%E6%B0%8F
  8. 秋元景朝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%85%83%E6%99%AF%E6%9C%9D
  9. 秋元氏 - 姓氏家系メモ https://dynasty.miraheze.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%85%83%E6%B0%8F
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