最終更新日 2025-06-05

秋月種春

秋月種春は日向高鍋藩二代藩主。5歳で家督相続し、約47年間在位。藩政は「上方下方騒動」に揺れ、家臣団の対立に苦しんだ。幕府への軍役も果たした。
秋月種春

日向高鍋藩二代藩主 秋月種春公 詳細調査報告

1. はじめに

  • 秋月種春公の概要と本報告の目的
    本報告では、日向国高鍋藩の第二代藩主である秋月種春(あきづき たねはる)公について、現存する史料に基づき、その生涯、家督相続の背景、藩主としての治世、特に藩政を揺るがした「上方下方騒動(うえがたしもがたそうどう)」との関わり、そして人物像を詳細に解明することを目的とします。種春公の治世は、江戸時代初期における外様小藩の苦悩と葛藤を象徴するものであり、その実像に迫ることは、当時の地方政治史を理解する上で重要な意義を持つと考えられます。

2. 秋月種春公の生涯

  • 出自と家系
    秋月種春公は、慶長15年5月11日(1610年7月1日)に生を受け、万治2年10月15日(1659年11月29日)に50歳でその生涯を閉じました 1
    幼名については、史料により複数の名が伝えられています。「黒帽子(くろぼうし)」という名は、秋月種実 2 や秋月種茂 3 など、秋月家の他の人物にも見られるものであり、当時の武家における一般的な幼名であった可能性が考えられます 1 。一方で、『高鍋町の文化財 第八集』には、種春公の幼名を「種孝(たねたか)」と明記しており、慶長18年(1613年)、当時4歳であった種春(幼名「種孝」)が、祖父である初代藩主・秋月種長に伴われて江戸に赴き、大御所徳川家康並びに将軍秀忠に拝謁したとの記録も存在します 3 。これらの情報から、「黒帽子」が乳幼児期の呼び名で、「種孝」がそれに続く幼名であったか、あるいは諱の候補であった可能性も推察されます。Wikipediaの情報では「黒帽子(幼名)、種孝、種隣(改名)」とされており 1 、これが時系列的な変化を示唆しているとも考えられます。諱(いみな)は種春(たねはる)とされ、他に種孝(たねたか)、種隣(たねとも)とも称したと伝わります 1 。通称は三郎(さぶろう)であり 1 、これは養父であり祖父でもある秋月種長も用いた通称です 4 。戒名は、大洋院殿古巌宗帆大居士(たいよういんでんこがんそうはんだいこじ) 1 。官位は従五位下長門守に叙されていますが 1 、その正確な叙任年月日は現時点の資料からは特定できません。
    種春公の実父は、初代高鍋藩主・秋月種長の甥にあたる秋月種貞(あきづき たねさだ)です 1 。実母は、種長の娘であるオチョウ 1 。そして、種春公を養子としたのは、祖父であり高鍋藩初代藩主の秋月種長(あきづき たねなが)でした 1
    正室には、信濃国飯山藩主などを務めた佐久間勝之(さくま かつゆき)の娘を迎えています 1 。子女としては、嫡男で高鍋藩三代藩主となった秋月種信(あきづき たねのぶ、母は正室)、六条有縄(ろくじょう ありつな)に嫁いだ娘アグリ、半之丞(はんのじょう)、僧侶となった湛栄(たんえい)がおり、他にセンとカンという早世した子女がいたことが記録されています 1
  • 家督相続の経緯
    種春公の家督相続は、複雑な背景のもとに行われました。初代藩主である秋月種長には男子がおらず 4 、後継者問題は藩の将来を左右する喫緊の課題でした。このため種長は、慶長12年(1607年)、甥にあたる長野助盛(ながの すけもり、または長野鑑良(ながの あきよし)とも)の子である種貞を、自身の娘オチョウの婿養子として迎えました 4 。これにより、種貞が一旦は後継者と目されることになります。
    しかし、種貞は病弱を理由として慶長18年(1613年)に廃嫡されました 4 。この「病弱」とされる具体的な病状に関する詳細な記録は乏しいものの 6 、この廃嫡が種春公の擁立へと繋がる重要な転換点となりました。
    種貞の廃嫡に伴い、その嫡男であり、種長から見れば外孫にあたる種春公が後継者として指名されました 4 。特筆すべきは、種長が廃嫡とほぼ同時期の慶長18年(1613年)、当時まだ4歳であった種春公(幼名「種孝」)を伴って参勤し、江戸で大御所徳川家康および将軍秀忠に拝謁させている点です 3 。これは、種長が種春公への家督継承を確実なものとするための、極めて戦略的な行動であったと推察されます。江戸時代初期において、大名家の家督相続は幕府の承認が不可欠であり 8 、幼少の種春公を将軍に引き合わせることで、その正統性を内外に示し、将来の藩主としての地位を固める意図があったと考えられます。
    そして慶長19年(1614年)6月13日、初代藩主種長の死去に伴い、種春公はわずか5歳で家督を相続し、日向高鍋藩三万石の第二代藩主となったのです 1
  • 本セクションにおける考察(家督相続の深層)
    秋月種春公の家督相続の経緯を詳細に検討すると、単に父・種貞が病弱であったという理由だけでは説明しきれない、初代藩主・種長の深謀遠慮が見え隠れします。種長に男子がいなかったという事実は、後継者選定において極めて大きな制約となりました。甥である種貞を婿養子としたのは、秋月家の血筋を繋ぐための一時的な方策であった可能性が否定できません。種長の娘オチョウと種貞の間に、種長の直系の孫にあたる種春公が誕生したことで、種長にとってより望ましい後継者候補が現れたと考えることができます。
    種貞の「病弱」という廃嫡理由については、具体的な病状に関する記録が乏しいことから、必ずしも純粋な健康問題だけではなかった可能性も考慮すべきです。種長が、より直接的な血縁者である外孫の種春公に家督を継がせたいという強い意志を持ち、その政治的判断を正当化するための理由として「病弱」が用いられたという見方も成り立ちます。
    その強い意志を裏付けるのが、種春公がわずか4歳で徳川家康・秀忠に拝謁するという異例の措置です。これは、種長が種春公への継承を既成事実化し、幕府の承認を得るための周到な布石であったと考えられます。同時に、廃嫡された種貞や、その他の潜在的な反対勢力に対する牽制の意味合いも含まれていた可能性があります。この一連の流れは、戦国時代の遺風が残る江戸初期において、藩の存続と安定のため、藩主がいかに後継者問題に腐心したかを示す好個の事例と言えるでしょう。
  • 秋月種春公 略系譜および基本情報表

続柄

氏名

生没年(または関連年)

備考

実父

秋月種貞

生年不詳 - 慶長18年(1613年)廃嫡

初代藩主種長の甥、婿養子

実母

オチョウ

生没年不詳

初代藩主種長の娘

養父(祖父)

秋月種長

永禄10年(1567年) - 慶長19年(1614年)

日向高鍋藩初代藩主

本人

秋月種春

慶長15年(1610年) - 万治2年(1659年)

日向高鍋藩二代藩主

正室

佐久間勝之の娘

生没年不詳

長男

秋月種信

寛永8年(1631年) - 元禄12年(1699年)

日向高鍋藩三代藩主

3. 高鍋藩二代藩主としての治世

  • 藩主就任初期の状況
    秋月種春公は、わずか5歳で家督を相続しました。当時の幕府の規定では、幼少の藩主は成人するまで領地へ下向(国入り)することが許されなかったため、種春公も15歳になるまで高鍋へ赴くことができませんでした 1 。寛永元年(1624年)、15歳で初めて高鍋に入封するまでの約10年間(史料によっては12年間との記述もあり 3 )、藩政は江戸の藩邸からの指示と、在国していた家臣たちによって運営されました。しかし、藩主不在という状況は、藩内に権力闘争の温床を生み出し、後の混乱の遠因となったと考えられます。
  • 「上方下方騒動」- 長期にわたる藩政の混乱
    種春公の治世は、実に47年間に及びましたが、そのほぼ全期間を通じて、藩内は「上方下方騒動」と呼ばれる深刻な家臣団の対立によって揺れ動きました 1 。この騒動は、種春公の藩主としての指導力や藩政運営に大きな影響を与え続けた、彼の治世を語る上で避けて通れない出来事です。
  • 騒動の原因と背景:白井一族の専横と藩財政
    騒動の直接的な原因は、藩主種春公が幼少であり、かつ江戸に留め置かれたことを利用した家老の白井権之助種盛(しらい たねもり)とその嫡子・又左衛門種重(たねしげ)親子による藩政の壟断でした 1 。白井種盛は、秋月氏の譜代家臣である内田実久の六男であり、その権勢は藩内で大きなものでした 10
    背景には、高鍋藩の厳しい財政状況がありました。慶長年間頃の高鍋藩は、豊臣秀吉による九州征伐後の減封に加え、文禄・慶長の役、関ヶ原の戦い、大坂の陣といった度重なる戦役への出兵により、財政が極度に逼迫していました 9 。そのため、元和2年(1616年)には藩士の知行を半減する「借り上げ」を断行し、さらに種春公の舅である佐久間勝之の勧告を受け、知行の3分の1を追加で借り上げるという厳しい措置が取られました 9 。これらの財政再建策は、家臣たちの間に大きな不満を蓄積させることになりました。
    そして寛永3年(1626年)、白井種重が実施した知行借り上げが、白井一派に有利な不公平なものであったことが、反対派の不満を爆発させる直接的な引き金となったのです 9
  • 主要な事件と藩士の動向
    白井一派の専横は、初代藩主種長の死後直後から始まっていました。種盛は藩命と偽り、種春公の実父である種貞の附家老であった坂田五郎左衛門を殺害(慶長19年10月) 9 。さらに、その討手となった自身の甥である内田吉左衛門をも旧悪露見を理由に切腹させ(元和2年)、種長の父・種実の娘婿である板浪清左衛門長常とその一族36名を討ち取る(元和3年)など、反対勢力を徹底的に排除し、藩の実権を掌握していきました 9
    これにより、藩内は白井種重を中心とする「上方(うえがた)」派と、坂田五郎左衛門の一族である坂田大学(さかただいがく)を中心とする反白井派である「下方(しもがた)」派に分裂し、対立が激化しました 9 。坂田大学は白井種重の暗殺を計画しますが、同志であった秋月兵部の密告により失敗に終わります 9
    寛永3年(1626年)4月には、白井邸での白井派の集まりにおいて、坂田派からの内通者とされた秋月兵部が殺害される事件が発生し、これを坂田派の襲撃と誤認した白井派内部で同士討ちが起こり、死者が出る事態となりました。同様の同士討ちは入江三左衛門の邸でも発生しています 9 。事態を憂慮した白井種重は、同年5月16日、坂田大学に切腹を命じ、大学は妻の父である財津五左衛門らに喉を斬らせるという悲劇的な最期を遂げました 9
    この後も藩内の混乱は収まらず、板浪長常の養子である板浪帯刀の殺害、家老の内田頼母や秋月蔵人の脱藩、武藤右兵衛らの出奔、そして坂田大学の一族同類530人もの逃亡(その多くは殺害されたと伝えられています)など、藩士の流出と粛清が相次ぎました 9 。これにより、高鍋藩の藩政はさらに混乱し、貴重な人材も多数失われることになりました。
  • 種春公の治世における騒動の影響と対応
    秋月種春公は、その生涯を通じてこの「上方下方騒動」に悩まされ続けたと記録されています 1 。『高鍋町の文化財 第八集』には「性格の弱い一面もあったが」との記述があり 3 、この性格が騒動の長期化に影響した可能性も否定できません。
    藩主として、この深刻な内部対立に対して種春公自身がどのような具体的な対応を取り、騒動の鎮圧や裁定に関与したかを示す史料は乏しく、藩主としての指導力を十分に発揮できたかについては疑問が残ります。
    「上方下方騒動」の最終的な収束は、種春公の死後、三代藩主となった長男・種信の代になってからでした。種信は、藩内に深く根を張っていた白井一派の勢力を徐々に削ぎ、最終的に寛文6年(1666年)に白井権之助(種重の嫡子)を追放することで、約40年にも及んだ藩の混乱に終止符を打ったのです 1
  • その他の藩政
    長期にわたる内紛に苦慮する一方で、種春公は藩主としての務めも果たしていました。
  • 幕府への奉公: 外様小藩として、幕府からの要求に応じることは極めて重要でした。大坂冬の陣(慶長19年)の際には種春公はまだ5歳であり直接の出陣は考えにくいものの、高鍋藩として何らかの形で関与した可能性があります 3 。その後、寛永9年(1632年)の加藤忠広改易に伴う肥後への出兵、寛永14年(1637年)の島原の乱への出兵など、幕府の命に応じて兵を派遣しています 3 。また、寛永20年(1643年)には江戸城下の防火体制の一翼を担う大名火消にも任命されています 13 。これらの軍役や公務は、藩財政をさらに圧迫する要因ともなりましたが、幕府への忠誠を示す上で不可欠なものでした。
  • 文化政策: 種春公は、狩野尚信門下の絵師であった安田義成(やすだ よしなり、初代安田李仲)を高鍋藩に招いています 3 。安田家はその後、代々高鍋藩の御用絵師を務めることになります。ただし、一部史料に安田義成の招聘年を寛文7年(1667年)とするものがありますが 14 、これは種春公の没年(万治2年・1659年)と矛盾します。安田義成が種春公とその子・種信の二代に仕えたとの記録があることから 3 、種春公の治世中に招聘され、寛文7年という年は、種信の代における何らかの画業に関連する記録である可能性が高いと考えられます。
  • 領内統治(災害など): 藩政においては、領内の安定も重要な課題でした。種春公の治世中、高鍋城下では寛永10年(1633年)に104戸、慶安3年(1650年)には140戸を焼失するという大規模な火災に見舞われています 12 。これらの災害への対応も、藩政の重要な課題であったと推察されます。また、具体的な時期や詳細は不明ながら、領内の神社の宮殿を改造したとの記録もあり 15 、領内の宗教施設の維持管理にも関与していたことが窺えます。検地、法整備、産業振興といった分野における種春公の具体的な治績については、現時点の提供資料からは特定できる情報が限定的です。
  • 本セクションにおける考察(藩政運営の困難性)
    秋月種春公の治世を振り返ると、藩主の若年および江戸在府という状況が、いかに藩の権力構造に歪みを生じさせ、一度発生した内部対立がいかに根深いものとなるかを示しています。種春公が5歳で家督を相続し、15歳で初めて高鍋に入封するまでの間、藩政は実質的に家老などの重臣に委ねられていました。この権力の空白期間が、白井氏による権力掌握と専横を許す土壌となったと言えるでしょう。
    不公平な知行借上は、藩の財政難という客観的な状況に加え、白井氏の私的利益追求という疑念を家臣たちに抱かせ、不満を決定的なものにしました。そして、坂田大学の殺害など、一度血を見る抗争が始まると、相互不信と報復の連鎖が生まれ、騒動は容易には収束しませんでした。500人以上の藩士が出奔または殺害されたという「上方下方騒動」の規模は、高鍋藩の統治機能に深刻な打撃を与えたことは想像に難くありません。
    種春公が成人し高鍋に入封した後も騒動が鎮静化しなかったのは、白井氏の権力が既に藩内に深く根を張っていたこと、そして、史料に「性格の弱い一面もあった」と記される種春公自身が 3 、この複雑で深刻な状況を打開するための強力な指導力を発揮することが困難であったことを示唆しています。度重なる幕府からの軍役や領内での災害も、藩財政の逼迫を招き、藩政運営を一層難しくしたと考えられます。
    最終的に騒動が収束したのは、次代の種信の治世においてであり、これは世代交代による権力構造の変化や、種信の異なる統治能力によるものであった可能性が考えられます。「上方下方騒動」は、単なる家臣同士の勢力争いという範疇を超え、藩主の統治基盤そのものを揺るがす深刻な事態であったと言えるでしょう。
  • 上方下方騒動 主要関連年表

年月

主要な出来事

関連人物

備考

慶長19年(1614年)6月

初代藩主・秋月種長死去、種春(5歳)が家督相続

秋月種長、秋月種春

慶長19年(1614年)10月

白井種盛、藩命と偽り坂田五郎左衛門を殺害

白井種盛、坂田五郎左衛門、内田吉左衛門

白井氏による専横の始まり

元和2年(1616年)

白井種盛、内田吉左衛門を切腹させる。藩士の知行半減(借り上げ)実施

白井種盛、内田吉左衛門

元和3年(1617年)

白井種盛、板浪清左衛門長常一族を討つ

白井種盛、板浪清左衛門長常

寛永元年(1624年)8月

種春(15歳)、初めて高鍋に入封

秋月種春

寛永3年(1626年)

白井種重による不公平な知行借り上げ。坂田大学ら反発、種重暗殺計画(失敗)。白井邸等で同士討ち発生。

白井種重、坂田大学、秋月蔵人、秋月兵部

上方派と下方派の対立激化

寛永3年(1626年)5月16日

坂田大学、白井種重の命により殺害される

坂田大学、白井種重、財津五左衛門

寛永3年~4年(1626~7年)

板浪帯刀殺害。内田頼母、秋月蔵人ら脱藩

板浪帯刀、内田頼母、秋月蔵人

藩士の流出続く

寛永20年(1643年)

武藤右兵衛、入江三左衛門、秋月太郎左衛門ら出奔。坂田大学一派530人逃亡(多くは殺害)

藩政の混乱極まる

万治2年(1659年)10月15日

二代藩主・秋月種春死去。長男・種信が三代藩主となる

秋月種春、秋月種信

寛文元年(1661年)

種信、検地を実施。白井派の竹原仁右衛門らが出奔

秋月種信

種信による白井派勢力削減の開始

寛文3年(1663年)1月

白井種重、謀反の風聞。間もなく死去

白井種重

寛文4年(1664年)

河野七郎兵衛浪人、中元寺軍兵衛切腹。竜雲寺住職天雪追放。木村図書ら脱藩。種信、白井権之助を家老に任命

秋月種信、白井権之助(種重嫡子)

白井派への圧力と懐柔

寛文5年(1665年)

坂田大学の甥・坂田宮内を家老に任命。白井権之助を家老罷免

秋月種信、坂田宮内、白井権之助

寛文6年(1666年)

泥谷権之丞成敗。白井権之助追放

秋月種信、泥谷権之丞、白井権之助

上方下方騒動、実質的に終結

4. 秋月種春公の人物像

  • 史料に見る性格や評価
    秋月種春公の人物像を伝える直接的な史料は多くありませんが、断片的な記述からその一端を窺い知ることができます。『高鍋町の文化財 第八集』には、「性格の弱い一面もあったが、幼少にして相続したため治世は長く四十七年にも及んだ」との評価が記されています 3 。この「性格の弱さ」という評は、彼の治世の大部分を覆った「上方下方騒動」という未曾有の藩内対立を、藩主として主体的に収拾できなかった点に起因するのかもしれません。
    しかしながら、種春公が5歳という幼さで家督を継ぎ、その後、大坂冬の陣への(藩としての)関与、加藤忠広改易に伴う肥後への出兵、島原の乱への出兵といった幕府からの軍役をこなしつつ 3 、47年間という長期にわたり藩主の座を維持したことは、単に「性格が弱い」という一言では片付けられない、一定の忍耐力や状況への対応能力があったことを示唆しているとも考えられます。藩政が極度に混乱する中で、藩そのものが改易されることなく存続したという事実は、見方を変えれば、困難な状況下での彼の統治の結果とも言えるかもしれません。
    また、絵師である安田義成を藩に招聘したとされることから 3 、文化的な側面に関心を持っていた可能性も窺えます。騒乱の中にあっても、文化の振興に意を配する余裕、あるいはそれを求める心があったのかもしれません。
  • 逸話、趣味、信仰など
    種春公の個人的な趣味や信仰に関する具体的な情報は、現時点の提供資料からは乏しいと言わざるを得ません。逸話としては、やはり「上方下方騒動」における藩内の混乱や、幕府への奉公といった藩主としての公的な活動が中心となります。これらの出来事の渦中にあった種春公が、どのような思いで日々を過ごし、何を心の慰めにしていたのか、その内面を伝える史料の発見が待たれます。
  • 本セクションにおける考察(人物像の多面性)
    秋月種春公の人物像を評価する際には、彼が置かれた特異な状況を十分に考慮する必要があります。幼少で藩主となり、成人するまで領国を離れて江戸で過ごし、ようやく帰国した際には既に藩内に対立の火種が燻っていたという現実は、藩主としてのリーダーシップを発揮する上で極めて困難な環境であったと言えます。「性格の弱さ」という評価は、結果として騒動を収拾できなかったことに対する後世の見方である可能性があり、実際の人物像はより多面的であったと考えるべきでしょう。
    幕府からの度重なる軍役命令には的確に対応しており 3 、これは藩主としての責任を果たそうとする意志の表れと見ることができます。また、文化的な施策として絵師を招聘したことは、騒乱の中にも藩の安定や文化の振興を願う意識があったことを示唆しているかもしれません。
    したがって、種春公の人物像は、「弱い」と一面的に断じるのではなく、時代の制約と藩が直面した未曾有の困難の中で、可能な範囲で藩主としての役割を果たし、結果として藩を次代に繋いだ人物として捉え直す視点も必要ではないでしょうか。彼の苦悩と努力は、江戸初期の外様小藩の藩主が背負った重圧を物語っていると言えるでしょう。

5. 晩年と死没

  • 没年、享年、死因
    秋月種春公は、万治2年10月15日(1659年11月29日)、江戸の藩邸にて病気のため逝去しました。享年は50歳でした 1 。その生涯の多くを藩内の混乱と共に過ごした種春公の死は、高鍋藩にとって一つの時代の終わりを意味しました。
  • 墓所と追善
    種春公の亡骸は、江戸の下谷(現在の東京都台東区)にあった広徳寺に葬られました 3 。そして翌年、後を継いだ長男の種信は、父・種春公の追善のため、領地である高鍋に大竜寺(だいりゅうじ)を建立し、種春公の遺髪を埋葬して碑を建てたと伝えられています 3
  • 本セクションにおける考察(死後の評価)
    種春公の死と、その後の息子・種信による手厚い追善供養は、単なる親子間の情愛の発露に留まらない、いくつかの歴史的意味合いを読み取ることができます。長きにわたる「上方下方騒動」は、藩主の権威を相対的に低下させ、家臣団の間に深い亀裂を残しました。種春公の死は、この混乱した時代の一つの区切りとなったと言えます。
    種信が高鍋に大竜寺を建立し、父の遺髪を祀った行為は、儒教的な価値観に基づく孝養の実践であると同時に、藩内に対して父の権威を改めて示し、自らの藩主としての継承の正当性を強化する意図があったと考えられます。また、騒動で疲弊した藩の結束を高め、新たな治世への期待を領民や家臣に抱かせるための象徴的な行為であったとも推察されます。父の困難な治世を間近で見てきた種信にとって、それは父祖への敬意を示すと共に、自らの代で藩を安定させ、発展させるという強い決意の表れでもあったのかもしれません。

6. まとめ

  • 秋月種春公の歴史的評価と意義
    日向高鍋藩二代藩主・秋月種春公の治世は、その複雑な家督相続の背景と、生涯を通じて続いた「上方下方騒動」という未曾有の藩内対立によって特徴づけられます。わずか5歳で藩主となり、成人するまで江戸での生活を余儀なくされ、帰国後も藩内の深刻な対立と、幕府からの度重なる要求に直面し続けました。
    史料には「性格の弱い一面もあった」との記述も見られますが 3 、47年間という長期にわたり藩主の座を維持し、藩自体を存続させたことは、困難な時代における小藩の統治の厳しさと、その中での彼の苦闘を物語っています。騒動の責任を全て種春公個人に帰するのは短絡的であり、当時の幕藩体制における外様小藩の立場、藩の財政状況、そして複雑に絡み合う家臣団の力関係といった、多角的な視点からの評価が不可欠です。
    種春公の治世は、直接的な成果という点では目覚ましいものが見えにくいかもしれませんが、彼の存在と統治があったからこそ、次代の三代藩主・種信による藩政改革と「上方下方騒動」の収拾への道筋がつけられたと位置づけることも可能です。彼の苦難に満ちた治世は、江戸時代初期における地方大名の統治の実態と、その中で藩を維持しようとした人々の努力を理解する上で、貴重な事例を提供していると言えるでしょう。秋月種春公に関するさらなる史料の発見と研究の深化が期待されます。

引用文献

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  3. www.town.takanabe.lg.jp https://www.town.takanabe.lg.jp/material/files/group/17/8_sennken.pdf
  4. 秋月種長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E7%A8%AE%E9%95%B7
  5. 秋月種長(あきづき・たねなが)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E7%A8%AE%E9%95%B7-1049108
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  7. 天然痘の恐ろしさと人々の祈り/池田流治痘術 - 武雄市 http://www.city.takeo.lg.jp/rekisi/kikaku/2021/densenbyou/pamphlet.pdf
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