最終更新日 2025-08-02

秋月種朝

秋月種朝は筑前国人領主。大内氏に臣従し、古処山城防衛戦で大友・少弐連合軍を撃退。秋月氏の武威を高めた。彼の死後、秋月氏は一時滅亡するも、曾孫の種実が再興し最盛期を築いた。
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筑前国人領主・秋月種朝の生涯と時代

序章:戦国初期の筑前と秋月氏 ― 権力闘争の坩堝

日本の戦国時代は、中央の権威が失墜し、各地の武士たちが自らの実力をもって領土と権力を争った激動の時代である。その中でも九州北部は、周防国を本拠とする大内氏、豊後国を本拠とする大友氏、そして肥前国に勢力を保つ名族・少弐氏という三大勢力が複雑に鼎立し、覇権をめぐって絶え間ない抗争を繰り広げる、まさに権力闘争の坩堝であった 1 。秋月種朝(あきづき たねとも)は、まさしくこの時代、この地に生きた筑前国の国人領主である。彼の生涯を理解するためには、まず彼が率いた秋月氏の出自と、彼らが置かれた地政学的な環境を把握することが不可欠である。

秋月氏の淵源と地政学的要衝・古処山城

秋月氏は、その祖を大蔵氏に持つとされ、鎌倉時代初頭の建仁三年(1203年)、原田種雄が幕府より秋月庄(現在の福岡県朝倉市一帯)を賜り、秋月を名乗ったことに始まる 3 。以来、秋月氏はこの地を本拠として勢力を扶植してきた。

その力の源泉となったのが、本拠地としていた古処山城(こしょさんじょう)である。標高862メートルに及ぶ峻険な古処山に築かれたこの城は、天然の地形を最大限に利用した要害であった。『九州軍記』には「此の古処山の城は岩壁高く聳えて、雲幌四方に囲み、九折なる細道、一条を登る事十余町、然も岩角滑にして谷深し。是にわかに攻め落とすべき城にあらず」と記されており、いかに難攻不落の山城であったかがうかがえる 3 。この堅城の存在が、大国の狭間にありながらも秋月氏が一定の独立性を保ち、戦乱を生き抜くための物理的な支柱となった。

応仁の乱以降の九州北部における権力構造

室町時代後期、応仁の乱を経て幕府の権威が地に墜ちると、九州北部は大内氏、大友氏、少弐氏による熾烈な勢力争いの舞台と化した。周防の守護大名であった大内氏は、九州探題の職を背景に筑前・豊前への影響力を強め、大陸との交易路である博多の支配を狙っていた 1 。これに対し、豊後の大友氏は博多湾沿岸に複数の拠点を確保し、立花城などを築いて大内氏の進出を強く牽制した 6 。一方、かつて九州で権勢を誇った少弐氏は、大内氏の圧迫を受けながらも、なお再起を期して抵抗を続けていた 1

秋月氏の本拠地である筑前国東部は、まさにこれら大友氏と大内・少弐両氏の勢力が衝突する最前線に位置していた。このような地政学的条件は、秋月氏が常にいずれかの大勢力への従属か、あるいは敵対かの選択を迫られる宿命にあったことを意味する。彼らの歴史は、この地政学的な宿命の中で、いかにして自家の存続と勢力拡大を図るかという、絶え間ない戦略的判断の連続であった。秋月種朝の生涯は、こうした国人領主が持つ「自立した領主」としての一面と、「大勢力に従属する家臣」としての一面という、二重性の間で繰り広げられた苦闘と栄光の物語なのである。

第一章:秋月種朝の出自と家督相続 ― 激動の時代への登場

秋月種朝が歴史の表舞台に登場する背景には、父・種照の代から続く、乱世を生き抜くための周到な外交戦略があった。彼は父の路線を継承し、筑前国における秋月氏の地位を確固たるものとしていく。

父・十二代当主 秋月種照の時代

種朝の父は、秋月氏十二代当主の秋月種照(たねてる)である 3 。種照は、中央で応仁の乱(1467年〜1477年)が勃発すると、西軍の有力大名であった大内氏と連携し、山名宗全方として参戦した記録が残っている 3 。このことは、秋月氏がこの時期からすでに、九州における最大勢力の一つであった大内氏との関係を重視していたことを示している。

さらに種照は、文明九年(1477年)に本拠の古処山城をはじめ、領内の各砦を大規模に修復・新築している 3 。これは、終わりなき戦乱の時代に対応すべく、自領の防衛体制を強化しようとする明確な意図の表れであり、彼が時勢を的確に読んでいたことを物語る。

大内政弘への臣従と家督相続

応仁の乱が終結に近づくと、西軍の総帥として京都で戦っていた大内氏当主・大内政弘は、乱によって混乱した自領国の安定化を図るため、九州へと帰還した。彼はただちに筑前・豊前へ出兵し、乱に乗じて離反した勢力の鎮圧に着手する 8

この時、父・種照の方針を受け継いだ種朝は、大内政弘に謁見し、恭順の意を示すために太刀を献上した 8 。この行為は、単なる贈答以上の重要な政治的意味を持っていた。それは、大内氏の九州における覇権を公に認め、その麾下に入ることを表明する儀礼であった。強大な勢力に武力で制圧される前に、自発的に臣従することで有利な関係を築き、同時に大内氏という強力な「後ろ盾」を得て、大友氏や他の国人領主からの圧力を牽制するという、二重の戦略的意図が込められていた。この極めて現実的な外交判断により、種朝は父の跡を継いで十三代当主となり、大内氏との同盟関係を基軸とする家の存続戦略を確固たるものとしたのである。

以下の表は、種朝とその前後における秋月氏の家督継承をまとめたものである。史料によって当主の名に揺れが見られるが、ここでは複数の記録を総合して整理する。

代数

当主名

生没年(判明分)

続柄

主要な事績

典拠資料

12代

秋月 種照(たねてる)

不明

種氏の子

応仁の乱で大内氏に属して参戦。領内の城砦を修復。

3

13代

秋月 種朝(たねとも)

不明 - 永正9年(1512年)?

種照の子

大内政弘に臣従。古処山城防衛戦で大友・少弐連合軍に大勝。

7

14代

秋月 種時(たねとき)

1490年 - 1531年

種朝の子

父の跡を継ぎ当主となる。

7

15代

秋月 文種(ふみたね)※

1512年 - 1557年

種時の子

大友宗麟に攻められ、古処山城で自刃。秋月氏一時滅亡。

8

16代

秋月 種実(たねざね)

1547年 - 1614年

文種の次男

毛利氏の支援を得て秋月家を再興。一族の最盛期を築く。

8

※十五代当主について、一部の系図では「種方(たねかた)」と記されることがあるが 7 、種時の子として家督を継ぎ、弘治三年(1557年)に大友軍との戦いで自刃したのは「文種」であるとする記録が複数存在する 8 。本報告書では、より具体的な事績が伝わる「文種」を十四代種時の後継者として記述する。

第二章:大内氏の麾下としての活動と勢力基盤の構築

大内氏への臣従を果たした種朝は、その麾下で活動することにより、自家の勢力基盤を巧みに強化していった。彼は軍事と文化の両面から、筑前における秋月氏の存在感を高めていく。

大内氏の尖兵としての役割 ― 肥前千葉氏内紛への介入

大内政弘は、臣従の意を示した種朝の忠誠と能力を試すかのように、早速軍事行動を命じた。当時、肥前の有力国人であった千葉氏が内紛状態に陥っており、政弘は種朝に大内方である千葉胤朝の支援を指示したのである 8

種朝はこの命令に従って肥前へ出陣した。これは、秋月氏が単に大内氏の支配下にある受動的な存在ではなく、その九州戦略において、実際に軍事力を展開する「尖兵」としての役割を期待されていたことを示している 8 。このような「奉公」は、大きな危険を伴う一方で、秋月氏にとって計り知れない利益をもたらす可能性を秘めていた。戦功を挙げれば、主君である大内氏から自領の支配権を正式に保障(所領安堵)されるだけでなく、新たな領地を与えられる(恩賞)可能性もあった。さらに、大内軍という後ろ盾を得ることで、宿敵である少弐氏などに対する軍事的優位を確保することにも繋がる。この肥前への介入は、リスクを伴う投資であると同時に、秋月氏自身の勢力拡大に向けた戦略的な一手であった。

文化的・宗教的活動 ― 種月山大竜禅寺の建立

種朝の活動は、軍事面に留まらなかった。文明十八年(1486年)、彼は本拠地である秋月の鳴門山に、種月山大竜禅寺を建立したと伝えられている [User Query]。戦国時代の領主による寺社の建立は、単なる個人的な信仰心の表明以上の、高度な政治的・社会的意図を含んでいた。

第一に、壮麗な寺院の建立は、領民に対して為政者としての威光と権威を示すための有効な手段であった。第二に、一族の菩提寺とすることで、家臣団の精神的な結束を固め、忠誠心を高める効果が期待できた。そして第三に、寺社は学問や文化の中心地としての機能も果たし、地域の求心力を高める役割を担った。種朝による大竜禅寺の建立は、彼が単なる武人ではなく、地域の秩序と文化を担う「領主」であることを内外に示すための、いわば「ソフトパワー」戦略であった。武力という「ハードパワー」のみに頼らない、より高度な統治技術を彼が有していたことの証左と言えるだろう。

第三章:永正四年の古処山城防衛戦 ― 秋月氏、武威を天下に示す

秋月種朝の名を不朽のものとしたのが、永正四年(1507年)に繰り広げられた古処山城防衛戦である。この戦いは、秋月氏の歴史における画期となっただけでなく、戦国時代の政治力学を象徴する事件でもあった。

合戦の背景 ― 中央政局と連動する九州の動乱

この戦いの引き金は、遠く京都で引かれた。永正四年(1507年)、室町幕府の管領であった細川政元が家臣によって暗殺されるという大事件(永正の錯乱)が起こり、中央政局は一気に流動化した 12

この機を逃さず、秋月氏の主君である大内氏当主・大内義興(政弘の子)は、かつて政変で追放されていた前将軍・足利義稙を擁立し、将軍職に復帰させるという大義名分を掲げて、大軍を率いて京都へ向けて上洛を開始した 12 。これにより、九州における大内氏の軍事力は一時的に手薄になり、巨大な権力の空白が生じることになった。

少弐・筑紫・大友連合軍の侵攻

大内氏の主力が畿内に向かったという情報は、長年その圧迫に苦しんできた勢力にとって、千載一遇の好機であった。大内氏の宿敵であった肥前の少弐氏、筑前の筑紫氏、そして豊後の大友氏は、この機を逃さず同盟を結び、連合軍を組織した 12 。彼らの目標は、大内氏の筑前における最重要拠点の一つであり、かねてより目の上の瘤であった秋月氏の殲滅に定められた。やがて連合軍の大軍が、古処山城へと殺到したのである。

古処山城の激闘と輝かしい勝利

主君不在という最大の危機に直面した秋月種朝であったが、彼は動じなかった。連合軍の圧倒的な兵力に対し、種朝は難攻不落の古処山城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せた 12

種朝は、峻険な地形という地の利を最大限に活用し、巧みな防衛戦術を展開した。詳細は史料に乏しいものの、彼は数に勝る連合軍の猛攻をことごとく凌ぎきった。そして、守るだけではなく、機を見て城から打って出て反撃に転じ、連合軍を散々に打ち破ったと伝えられる 12 。この戦いで秋月軍が討ち取った敵兵は二千余人にのぼり、結果は種朝の圧倒的な大勝利に終わった 12

この一戦は、秋月種朝の武将としての評価を決定づけた。主君・大内義興の上洛という「中央の出来事」が、九州における権力バランスを崩し、秋月氏への侵攻という「地方の軍事衝突」を直接引き起こした。この因果関係は、戦国時代が中央と地方の情勢が密接に連動していた時代であったことを如実に物語っている。種朝にとって、主君の不在は最大の危機であったが、彼はそれを独力で乗り越えることで、自らの軍事的能力と秋月氏の存在価値を天下に示す最大の好機へと転換させたのである。この勝利は、単に領地を守ったという以上の戦略的価値を持っていた。第一に、秋月氏の武威と古処山城の難攻不落ぶりを九州全土に知らしめ、敵対勢力による安易な侵攻を躊躇させる強力な抑止力となった。第二に、主君の留守を見事に守り切ったことで、大内家中における秋月氏の評価と信頼は絶大なものとなり、その後の発言力を大きく高めることに繋がった。この永正四年の勝利こそ、秋月氏を筑前の一国人から、誰もが無視できない有力勢力へと押し上げた、輝かしい金字塔であった。

第四章:晩年と死、そして次代への継承

永正四年の大勝利により、秋月種朝は筑前における大内方の重鎮として、その地位を不動のものとした。大内義興が京都での任務を終えて山口に帰国する永正十五年(1518年)までの間、秋月氏は比較的安定した時期を享受したと推測される。しかし、英雄の晩年と死については、史料が錯綜しており、明確な姿を捉えることは難しい。

種朝の死 ― 史料の錯綜と解釈

秋月種朝の没年に関しては、確固たる一次史料が不足しているため、いくつかの説が存在する。その中で、一つの有力な説として挙げられるのが「永正九年(1512年)戦死説」である 9 。この説によれば、種朝は1507年の大勝利から5年後に何らかの戦闘で命を落とし、その跡を子の種時が継いだとされる。

この説は、種朝の子である秋月種時(1490年生まれ)が22歳で家督を継ぐという点で、年代的に不自然さはない 9 。1507年以降も九州北部では局地的な戦闘が続いており、種朝がそのいずれかで戦死した可能性は十分に考えられる。しかし、これを直接的に証明する記録は確認されておらず、死因が戦死であったか、あるいは病死であったかも定かではない。

したがって、本報告書としては、複数の情報を総合し、秋月種朝は永正四年(1507年)の古処山城防衛戦でその武名を最高潮に高め、その後、永正年間(1504年〜1521年)のうちに没し、子の種時が後を継いだと結論付けるのが最も蓋然性が高いと判断する。没年を永正九年(1512年)とする説は、あくまで有力な候補の一つとして留め置くのが、学術的に誠実な態度であろう。

子・十四代種時と孫・十五代文種への継承

種朝の跡を継いだのは、子の十四代当主・秋月種時(1490年〜1531年)であった 7 。種時は父が築いた安定基盤を引き継いだが、享禄四年(1531年)に42歳で死去。家督はその子である十五代当主・秋月文種(1512年〜1557年)に継承された 9

しかし、文種の時代になると、秋月氏を取り巻く環境は激変する。天文二十年(1551年)、主家であった大内氏が重臣・陶晴賢の謀反によって事実上滅亡(大寧寺の変)。九州の勢力図は再び塗り替えられ、大内氏という巨大な防波堤を失った秋月氏は、勢力を回復した大友宗麟の強大な軍事力と直接対峙せざるを得なくなった。

その結果、弘治三年(1557年)、大友宗麟が率いる大軍の前に古処山城はついに陥落。秋月文種は嫡男の晴種と共に城中で自刃し、ここに秋月氏は一時的に滅亡の憂き目に遭うのである 8 。種朝の輝かしい勝利から、わずか50年後の悲劇であった。この劇的な栄枯盛衰は、一個人の能力だけでは抗うことのできない、戦国時代の非情さと無常観を色濃く反映している。秋月氏の運命は、常に上位権力である大内氏の盛衰と直結しており、その庇護を失った時、大友氏という荒波に飲み込まれることになった。種朝の成功は、あくまで「大内氏の安定」という前提条件の上に成り立っていたのである。

結論:次代へと繋いだもの ― 国人領主・秋月種朝の歴史的評価

秋月種朝は、戦国時代初期の九州北部という、極めて複雑で危険な政治環境の中、卓越した戦略眼と軍事的能力を発揮して一族の危機を乗り越え、その地位を飛躍的に高めた優れた国人領主であった。

彼の功績は、第一に、大内氏という巨大勢力との関係を巧みに利用し、従属と自立のバランスを取りながら、自家の存続と発展の盤石な基盤を築いた点にある。第二に、永正四年の古処山城防衛戦において、主君不在という絶体絶命の状況下で独力で大軍を撃退するという輝かしい勝利を収め、秋月氏の武名と古処山城の威信を九州全土に知らしめた点にある。彼の生涯は、大国の狭間で生きる国人領主の典型的な姿を示すと同時に、中央政局の動向が地方の勢力争いにいかに直接的な影響を与えたかを物語る、貴重な歴史的事例と言えよう。

彼の死から半世紀後、孫・文種の代で秋月氏は一時滅亡の悲運に見舞われる。しかし、物語はそこで終わらなかった。文種の子、すなわち種朝の曾孫にあたる秋月種実は、忠臣たちに守られて毛利氏のもとへ落ち延び、後に見事に秋月家を再興し、一族の最盛期を築き上げた 8 。この再興が可能であった背景には、種朝が築き上げた無形の遺産があったと考えられる。彼が確立した「筑前の勇将・秋月」という武威と領主としての名声、そして彼が育んだ家臣団との固い結束が、滅亡の淵から一族を救い出し、次代の栄光へと繋がる礎となったのである。

その意味で、秋月種朝は、後の秋月氏の最盛期を準備した、影の立役者として再評価されるべき人物である。彼の生涯は、華々しい天下人たちの歴史の陰に隠れがちではあるが、戦国という時代を動かした無数の地方領主たちの、現実的で力強い生き様を我々に伝えてくれる。

引用文献

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  2. 3 大内持世の北九州平定 http://miyako-museum.jp/digest/pdf/toyotsu/4-3-3-3.pdf
  3. 青春の城下町 - //邪馬台国大研究// http://inoues.net/club/akiduki/akiduki3.html
  4. 秋月の歴史 - 朝倉市 https://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1682732592417/index.html
  5. 「大内義興」乱世の北九州・中国の覇権を確立。管領代として幕政にもかかわった西国最大の大名 https://sengoku-his.com/811
  6. No.557 戦国時代の博多展9 “筑前表錯乱” 1550年代の動乱 | 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/557/index02.html
  7. 秋月の歴史 http://www.snk.or.jp/cda/tanbou/amagi/amagihp/akituki/4nenpyou/nenpyou/4nenpyou.htm
  8. 武家家伝_秋月氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akizuki.html
  9. 秋月種時 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E7%A8%AE%E6%99%82
  10. 秋月文種 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%96%87%E7%A8%AE
  11. 秋月種実 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E7%A8%AE%E5%AE%9F
  12. 秋月家から見た九州の歴史 - シニアネット久留米 http://snk.or.jp/cda/akiduki.pdf
  13. 大内義興 史上最強、最大、最高の西国の覇者 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/ouchi-yoshioki/