秋田俊季は秋田実季の子で、常陸宍戸藩主、後に陸奥三春藩初代藩主。大坂の陣で初陣。父との不和や幕府の公役をこなし、秋田家を近世大名として存続させた。
本報告書は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将、秋田俊季(あきた としすえ)の生涯と事績について、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とします。秋田俊季は、慶長3年(1598年)に生まれ、慶安2年(1649年)に没した人物で、常陸国宍戸藩主、後に陸奥国三春藩の初代藩主を務めました 1 。
本報告書を作成するにあたり、ご依頼者様が秋田俊季の父である秋田実季(さねすえ)について、檜山安東家9代当主、愛季の嫡男であり、南部家や戸沢家と抗争し、関ヶ原合戦での不手際により秋田領を追われたといった概要をご存知であることを前提としております。本報告書では、ご依頼の通り、秋田俊季本人に焦点を当て、その生涯と事績を明らかにします。ただし、父・実季の生涯は俊季の人生に大きな影響を与えたため、背景情報として適宜言及いたします。
秋田俊季の生涯を理解するためには、まず彼が属した秋田氏の背景と、父・実季の事績、そして俊季自身の家督相続に至る経緯を把握する必要があります。
秋田氏の祖先とされる安東氏は、安倍貞任の末裔を称し、鎌倉時代には津軽の十三湊(とさみなと)を拠点として日本海交易に従事し、蝦夷沙汰(えぞさた:蝦夷地に関する管轄権)を担うなど、時には「日の本将軍」と称されるほどの勢力を誇った名門でした 2 。しかし、戦国時代に入ると、安東氏は雄物川河口部を本拠とする湊安東氏(上国家)と、米代川河口部の檜山城(秋田県能代市)を本拠とする檜山安東氏(下国家)に分裂していましたが、俊季の祖父にあたる安東愛季(ちかすえ)の代になって両家は統合されました 2 。愛季は知勇に優れた武将として知られ、安東氏を戦国大名へと発展させたと評価されています 5 。
両安東氏の統合は、実質的には檜山安東氏による湊安東氏の吸収という側面があり、これが後の湊合戦の一因となったと考えられます 4 。この内部対立の火種は、実季の代における家臣団の対立にも影響を与えた可能性が指摘されています 2 。また、愛季による勢力拡大は、必然的に南部氏や戸沢氏といった周辺勢力との緊張を高め、実季の代における度重なる抗争の直接的な原因となりました 2 。
秋田実季(天正4年/1576年~万治2年/1660年)は、父・愛季が天正15年(1587年)に病死したため、わずか12歳で家督を継ぎました 2 。若くして当主となった実季の生涯は波乱に満ちたものであり、その動向は息子・俊季の人生にも大きな影響を及ぼしました。
家督を継いだ直後の天正15年(1587年)から天正17年(1589年)にかけて、実季は家督継承に不満を抱いた一族の安東通季(豊島通季)による反乱(湊合戦)に直面します。通季は、旧湊安東氏系の勢力の復権を掲げ、内陸部の戸沢氏や小野寺氏、北奥の南部氏など、日本海沿岸の海港確保を望む諸勢力と連携しました 2 。実季は苦戦を強いられ、一時は居城の檜山城に籠城する事態となりましたが、由利郡の国人衆である由利十二頭などの支援を得て、この反乱を鎮圧することに成功しました 2 。この湊合戦は、実季の武将としての力量を示すと同時に、統合後も残る安東家内部の不安定さや、周辺勢力との複雑な力関係を浮き彫りにするものでした。
その後、実季は豊臣政権下で巧みな外交手腕を発揮します。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、続く奥州仕置によって出羽国内の所領約5万2440石(ただし実高は15万石に及んだとも言われます)の安堵を受けました 2 。この際、旧領の3分の1にあたる約2万6000石は太閤蔵入地として設定されましたが、実季はその代官に任じられています 2 。この太閤蔵入地の設定は、蔵米輸送や運上収益よりも、むしろ秋田杉の運上を目的としたものと考えられています 2 。実季は本拠を雄物川河口の土崎湊に築いた湊城に移し、名字を安東から秋田へと改めました 2 。また、文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵にも参陣しています 2 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、実季は東軍に属し、主に小野寺義道と戦いました 2 。しかし、この戦いにおける秋田氏の行動や、最上義光との連携の不手際などが原因となり、戦後、最上義光から「実季が裏では小野寺方と通じている」といった讒言を徳川家康に受けることになります 2 。この讒言の背景には、秋田氏の勢力拡大を恐れた戸沢氏の厭戦的な態度や、最上氏と上杉氏との戦前交渉における秋田氏側の動き、さらには軍事指揮権に関する最上義光と実季ら諸大名との認識の齟齬があったとされています 2 。
実季は家康に対して弁明し、嫌疑を晴らすことに成功したとされますが、結果として慶長7年(1602年)、家康の命により常陸国宍戸5万石へ減転封となりました 2 。これは、常陸国の大名であった佐竹氏の秋田・仙北への入部に伴うものでしたが、同時に太閤蔵入地は没収され、実質的な減封となりました 2 。この処遇に対し、実季は不満を抱いたとも推測され、一時姓を伊駒と改めたこともありました(後に秋田姓に復しています) 2 。関ヶ原の戦い後の論功行賞を巡っては、最上家臣の坂光秀と実季が戦陣参加の時期について論争した記録も残っています 15 。
常陸宍戸藩主となった実季ですが、寛永7年(1630年)、幕府の忌諱に触れ、突如伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられました 1 。この背景には、嫡男である俊季との不和や、旧檜山系と旧湊系による家臣間の対立があったのではないかとする見解もありますが、詳細は不明です 2 。実季はその後約30年にわたり伊勢朝熊の永松寺草庵で蟄居生活を送り、万治2年(1660年)11月29日に85歳でその生涯を閉じました 2 。伊勢朝熊での蟄居中、実季は和歌や文筆、茶道に親しみ、また薬の調合にも関心を持ち、「万金丹」を制作したという逸話も残っています 2 。男鹿半島・大潟ジオパーク公式サイトのブログには、実季に仕えた侍女の日記に、実季が故郷秋田への帰郷を強く願っていた様子が記されていたという伝承が紹介されています 19 。
秋田俊季は、慶長3年(1598年)、父・実季がまだ秋田領を支配していた時期に、山城国(現在の京都府南部)で生まれました 1 。母は細川幽斎の孫にあたる細川昭元の娘・円光院です 1 。幼名を東太郎と称しました 1 。母方の細川家は室町幕府の管領を輩出した名門であり、この血縁は後の俊季の人生に少なからぬ影響を与えたと考えられます。円光院は、父・昭元が没落した後、母方の縁により豊臣秀吉の側室である淀殿に扶養されたとも伝えられています 20 。
俊季は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣に父・実季と共に従軍し、夏の陣では天王寺口の戦いに参加しています 1 。これが俊季にとっての初陣であり、武将としての経験を積む機会となりました。元和元年(1615年)4月26日には、従五位下伊豆守に叙任されています 1 。その後も、元和2年(1616年)の日光山普請手伝い、元和3年(1617年)の徳川秀忠上洛への供奉、元和4年(1618年)の秀忠の日光山詣でへの随行など、幕府の公役を忠実に務めました 1 。元和5年(1619年)4月2日には河内守に任じられましたが、この頃から父・実季との間に確執が生じ始めたと記録されています 1 。
この父子の不和は、実季の幕府からの処罰と俊季の家督相続へと繋がる重要な伏線となります。寛永7年(1630年)9月、父・実季が幕命により伊勢国朝熊へ蟄居を命じられ、領地を没収されると 1 、翌寛永8年(1631年)、俊季がその後を継ぎ、常陸国宍戸藩5万石の藩主となりました 1 。父が失脚したにもかかわらず俊季が家督を相続できた背景には、俊季自身の幕府への忠勤ぶりに加え、母・円光院が徳川秀忠の正室・崇源院の従姉妹であったことなど、幕府との良好な関係があったと考えられます 2 。これは、幕府が秋田家の存続を認めるにあたり、より恭順な当主を望んだ結果とも解釈でき、近世初期の大名家における幕府権力の影響力を示す一例と言えるでしょう。
寛永8年(1631年)に家督を継いだ秋田俊季は、常陸国宍戸(現在の茨城県笠間市)5万石の藩主となりました 1 。父・実季は宍戸入封の際、城郭らしい城郭もなく、屋敷構え程度であったことに不満を抱いていたと伝えられています 21 。そのため、俊季の時代には、宍戸城の本格的な建設、家臣屋敷の割り振り、城下町の整備(大田町、平町通り、紙漉町、肴町、大工町など町の形成)、そして菩提寺である高乾院や龍穏院の建立、その他の寺社の配置などが行われたと考えられています 21 。これらは新たな領地における藩体制の確立と、領国経営の基盤固めを意図したものでした。
宍戸藩時代の俊季の治績を具体的に示す史料として、「秋田俊季公分限帳」や寛永10年(1633年)付の「御知行渡方之覚」といった記録の存在が確認されています 23 。これらの史料は、俊季が宍戸藩において家臣団の再編成や知行制度の確立に努め、藩の統治基盤を固めようとしたことを示唆しています。
例えば、『江戸時代の友部地方・宍戸藩 秋田氏と松平氏』には、p.11に「秋田俊季公分限帳」が、p.7には寛永十年「御知行渡方之覚」を元に作成された「知行渡方(寛永10年)」の表が掲載されています 23 。また、『友部町史』にも同様の表や分限帳が掲載されており、寛永十年「御知行渡方之覚」の出典は東北大学付属図書館所蔵の「秋田家文書」とされています 23 。さらに『友部町百年史』のp.44-45には「御代宍戸ニ而分限帳」が掲載されています 23 。
これらの分限帳や知行割の記録を分析することで、俊季時代の宍戸藩の家臣団構成や統治体制の一端を垣間見ることができます。例えば、旧秋田領からの家臣と宍戸で新たに召し抱えられた家臣の比率、知行高の分布、家臣の階層などを知ることができれば、俊季の藩政運営の方針や、父・実季の時代からの変化、そして藩の安定化に向けた取り組みを具体的に考察する上で貴重な手がかりとなります。
表1:秋田俊季公分限帳に基づく宍戸藩家臣団構成(概要)
家臣の階層 |
人数 |
総石高 (推定) |
主要家臣名 (石高) (例) |
備考 |
上級家臣 |
(不明) |
(不明) |
(史料調査により追記) |
譜代の重臣や一門衆が中心であったと推測される。 |
中級家臣 |
(不明) |
(不明) |
(史料調査により追記) |
実務を担う層か。 |
下級家臣・足軽など |
(不明) |
(不明) |
(史料調査により追記) |
知行取の他に扶持米支給の者もいたと考えられる。 |
合計 |
(不明) |
5万石 |
|
分限帳の具体的な記載内容の分析により、より詳細な構成が明らかになる。 |
出典:『江戸時代の友部地方・宍戸藩 秋田氏と松平氏』、『友部町史』、『友部町百年史』掲載の分限帳情報を基に作成。詳細な数値は各史料の精査が必要。
表2:「寛永十年御知行渡方之覚」に基づく宍戸藩知行高配分(概要)
知行形態 |
家臣数 (推定) |
石高合計 (推定) |
特徴 |
知行取 |
(不明) |
(不明) |
領地を直接支配する形態。上級・中級家臣が中心か。 |
蔵米取 |
(不明) |
(不明) |
藩から米で禄を受ける形態。下級家臣や特殊技能を持つ者に多いか。 |
その他(扶持方) |
(不明) |
(不明) |
日当や食料を支給される形態。足軽や中間など。 |
合計 |
(不明) |
5万石 |
知行地の地理的分布や、家臣の出自による配分の違いなども分析対象となる。 |
出典:「秋田家文書」(東北大学付属図書館所蔵)所収の寛永十年「御知行渡方之覚」及び、『江戸時代の友部地方・宍戸藩 秋田氏と松平氏』、『友部町史』掲載の関連情報を基に作成。詳細な数値は原史料の精査が必要。
これらの表はあくまで現時点でのスニペット情報から想定される概要であり、実際の史料に基づく詳細な分析が待たれます。宍戸藩における俊季の具体的な治績や政策については、これらの基礎史料の解読・分析に加え、『茨城県史』や『笠間市史』といった地域史、さらには秋田氏に関する専門的な研究論文の調査が不可欠です 14 。
常陸国宍戸藩主であった秋田俊季は、正保2年(1645年)8月、5000石を加増され、陸奥国三春(現在の福島県田村郡三春町)5万5千石に転封となりました 1 。この加増転封は、俊季が宍戸藩主として幕府の信頼を得ていたこと、あるいは当時の幕府による対東北政策の一環であった可能性が考えられます。父・実季が改易に近い形で秋田領を追われたのとは対照的に、俊季の代で石高が増加しての移封となったことは注目されます。
しかし、俊季が三春藩初代藩主として采配を振るった期間は、残念ながら長くはありませんでした。慶安2年(1649年)1月3日、加番として勤番中であった大坂城内において、52歳で病死しました 1 。三春藩主となってからわずか3年半ほどのことであり、その間、実際に三春に滞在した期間も短かったとされています 50 。
それにもかかわらず、三春藩の藩政の基礎は、この初代藩主・俊季と、その後を継いだ2代藩主・盛季の時期に確立され、特に財政面での基盤が作られたと評価されています 51 。俊季自身が三春の地に長く留まれなかったことを考えると、宍戸藩での経験を持つ有能な家臣団が藩政の初期運営を担ったか、あるいは俊季が不在ながらも的確な指示を与えていた可能性などが考えられます。三春藩初期における具体的な検地の実施、城下町の整備、財政基盤確立のための政策などについては、提供された資料からは詳細が明らかではありませんが 1 、『三春町史』などの関連史料をさらに調査することで、その実態が明らかになることが期待されます。俊季の大坂城での客死は、当時の大名が担っていた重要な公務と、それに伴う身体的・精神的な負担の大きさを物語っています。
秋田俊季の家族構成は、当時の武家社会における婚姻の重要性や、他の大名家との関係構築の一端を示しています。
表3:秋田俊季の家族構成
続柄 |
氏名 |
生母 |
略歴・備考 |
出典 |
正室 |
永寿院 |
― |
常陸国土浦城主・松平信吉の娘。 |
1 |
長男 |
秋田盛季(もりすえ) |
永寿院 |
元和6年(1620年)宍戸城生まれ。幼名は久松、後に左近。三春藩2代藩主。父の死後、大坂城加番を引き継ぐ。弟・季久に5000石を分知。 |
47 |
次男 |
秋田季久(すえひさ) |
永寿院 |
兄・盛季より5000石を分知される。 |
47 |
長女 |
於ツウ (戒名など詳細不明) |
永寿院 |
早世。 |
49 |
次女 |
於ヒサ (戒名など詳細不明) |
永寿院 |
出羽新庄藩主・新庄直長の正室。 |
1 |
三女 |
於ヨ子 (戒名など詳細不明) |
永寿院 |
大和高取藩主・植村忠朝の正室。 |
1 |
三男 |
右近 (戒名など詳細不明) |
(不明) |
早世。 |
49 |
四女 |
於カメ (戒名など詳細不明) |
(不明) |
|
49 |
その他 |
男子(東太郎)、女子(於子々)、女子(於ツル)、男子(甚九郎)、女子(於イハ)、男子(次郎八) |
正寿院など |
これらは盛季の子女であり、俊季の子女としては上記が確認される。俊季の子として、他に次郎九郎(長門守、従五位下)と称した秋田季次、大蔵・隼人正と称した秋田季信、三平と称した秋田季長(初名季安)、帯刀と称した秋田季則(初名季満)、家臣荒木金右衛門高綱室となった娘などがいた記録もある。 |
11 |
俊季の正室である永寿院が松平家の出身であることは、秋田家が幕府との関係を強化しようとした意図の表れと考えられます。また、娘たちが新庄藩主や高取藩主といった他の大名家に嫁いでいることは、当時の武家社会における婚姻を通じた家格の維持や同盟関係の構築という側面を強く示しています。特に譜代大名や有力外様大名との縁組は、藩の安定にとって重要な意味を持っていました。
秋田俊季の人物像については、断片的な情報から推測するほかありません。父・実季との不和が伝えられており 1 、これは実季の持つ戦国武将としての気風と、幕府への恭順を重視し、近世大名として生きようとした俊季との間に、価値観や行動原理の相違があった可能性を示唆しています。俊季は、大坂の陣への従軍後、日光山普請の手伝いや将軍の上洛・日光詣でへの供奉など、幕府の公役を忠実にこなしており 1 、徳川秀忠や家光といった将軍に仕える中で、幕藩体制下における大名の在り方を体得していったと考えられます。
具体的な逸話に乏しく、詳細な人物像を再構築することは困難ですが 3 、父・実季が幕府の忌避に触れて蟄居させられた後も、俊季が家督を継ぎ、さらには加増移封された事実から、幕府からは忠実で安定した統治が期待できる人物と評価されていた可能性があります。
三春藩初代藩主としての俊季は、在任期間が短く、また三春に不在がちであったため、藩政における具体的な実績を詳細に語ることは難しいのが現状です 50 。しかし、俊季と二代藩主・盛季の時代に三春藩の藩政、特に財政面の基礎が築かれたという評価があることは注目に値します 51 。これは、俊季が宍戸藩で培った統治のノウハウが間接的に影響したか、あるいは俊季が登用・信頼した家臣団が有能であったことを示しているのかもしれません。
総じて、秋田俊季は、父・実季の波乱に満ちた生涯とは対照的に、幕府への恭順と堅実な藩運営を通じて秋田家を近世大名として存続させ、その後の三春藩の基礎を築いた過渡期の当主として位置づけることができるでしょう。
秋田俊季の生涯と事績を辿る上で、関連する史跡や史料は重要な手がかりとなります。
これらの史跡は、秋田俊季の統治の痕跡や、彼が生きた時代の面影を今に伝える貴重な文化遺産です。
秋田俊季に関する一次史料としては、特に宍戸藩時代の分限帳や知行割に関する記録が重要です。
これらの一次史料を詳細に分析することで、宍戸藩時代の家臣団構成や統治体制について、より具体的な知見を得ることが可能です。
二次史料としては、以下のものが挙げられます。
これらの史料や参考文献を総合的に検討することで、秋田俊季の人物像や事績について、より多角的な理解を深めることができます。
秋田俊季は、戦国時代の動乱期から江戸幕府による安定期へと移行する激動の時代を生きた武将です。父・実季が経験したような華々しい武功や、あるいは波乱に満ちた追放劇とは対照的に、俊季の生涯は幕府への恭順と堅実な藩政運営に特徴づけられると言えるでしょう。
父の失脚という困難な状況の中で家督を継承し、常陸国宍戸藩主として領国経営の基礎を固め、その後、陸奥国三春藩の初代藩主として新たな藩の立ち上げに臨みました。三春藩主としての期間は短く、大坂で客死するという不運に見舞われましたが、その短い期間にも藩政確立の礎を築いたとされています。
俊季の生涯は、近世初期における外様大名が、いかにして幕藩体制の中で家名を保ち、領国を経営していったかを示す一つの事例として捉えることができます。父・実季の戦国的な気風とは異なる、より近世的な大名としての生き方を選択し、幕府との協調を図りながら家の存続に努めた人物と言えるでしょう。
本報告書では、現時点での史料に基づいて秋田俊季の生涯と事績を概観しましたが、特に宍戸藩時代および三春藩初期の藩政に関する具体的な政策や、俊季自身の人物像をより深く掘り下げるためには、未公開史料の発掘や、現存史料のさらなる詳細な分析が不可欠です。今後の研究によって、秋田俊季という人物の歴史的評価がより明確になることが期待されます。
本報告書の作成にあたり、以下の主要な史料群を参照しました。詳細な個々の史料については、本文中の引用箇所をご参照ください。
以上