稲富一夢、本名稲富祐直は、戦国時代の激動から江戸時代初期にかけて、砲術家として、また武将としてその名を刻んだ稀有な人物である 1 。彼の名は「いなとみ いちむ」として広く知られ、鉄砲という当時の最先端兵器の運用技術において、他の追随を許さぬ境地に達していたと評される 2 。その技術は、単に個人的な武技に留まらず、一つの流派「稲富流」として確立され、徳川家康をはじめとする当代の有力大名たちにも大きな影響を与えた。
本報告書では、この稲富一夢の生涯を丹念に追い、彼が如何にして一代の砲術家としての地位を築き上げたのか、そして彼が創始した稲富流砲術が持つ革新性とその具体的な内容、さらには彼の人生における重要な転機、特に細川ガラシャ事件とそれに続く徳川家康による庇護が、彼の経歴にどのような影響を及ぼしたのかを明らかにする。また、稲富一夢の卓越した技術と名声が、同時代の武将や大名たちにどのように評価され、受け入れられていったのかについても、現存する資料に基づき、詳細に検証していく。
表1:稲富一夢 略年表
年代(西暦) |
出来事 |
典拠 |
天文21年(1552年) |
丹後国忌木城主・稲富直秀の子として誕生(天文20年/1551年説あり) |
2 |
不明 |
祖父・稲富直時より砲術を学ぶ |
2 |
不明 |
一色氏に仕官 |
2 |
不明 |
細川忠興に仕官 |
2 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦い。大坂細川屋敷にてガラシャ夫人自害の際、屋敷を退去 |
2 |
慶長5年(1600年)以降 |
細川忠興の怒りを買い追われるも、徳川家康に庇護される |
2 |
慶長9年(1604年) |
徳川家康・秀忠に招かれ、砲術の秘訣を伝授 |
4 |
慶長年間 |
近江国友鍛冶集団の組織化に尽力 |
2 |
慶長15年(1610年) |
再び徳川家康・秀忠に招かれ、砲術の秘訣を伝授 |
4 |
不明 |
松平忠吉(徳川家康四男)、徳川義直(尾張藩祖)に仕える |
2 |
慶長16年2月6日(1611年3月20日) |
死去。享年60(数え年) |
2 |
この年表は、稲富一夢の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものである。彼の経歴を概観することで、戦国武将としての遍歴と、専門技能を持つ人物が如何に時代の荒波を乗り越え、その価値を認められていったかを理解する一助となるであろう。特に、仕官先の変遷は、当時の武士の生き様と、鉄砲という新たな技術が持つ戦略的重要性を物語っている。
稲富一夢は、幼名を直家、後に祐直と称し、伊賀守を名乗った。入道してからは一夢、あるいは理斎と号したことが知られている 1 。彼の生年は天文21年(1552年)とされ 4 、丹後国与謝郡忌木(現在の京都府与謝野町)の城主であった稲富玄蕃允直秀の子として生を受けた 2 。稲富家は、丹後国の守護大名であった一色氏の譜代の家臣であり、祐直もまた、その家督を継いで一色義道(あるいは義定とも伝えられる)に仕えることとなる 2 。
祐直の砲術における卓越した才能の源泉は、その祖父である稲富相模守直時(文献によっては祐秀とも記される 7 )に遡る 2 。直時は、鉄砲術の達人として知られた近江の佐々木少輔次郎義国(庄符次郎とも呼ばれる 9 )からその術理を授かったとされている。この佐々木義国なる人物の経歴については諸説あり、一説には大陸(明国)に渡って砲術を習得したとも 3 、また別の説では種子島に伝来した鉄砲術を甲州武田信玄の家臣を通じて学んだとも伝えられている 9 。
この砲術伝来の経緯に見られる複数の可能性は、当時の日本における鉄砲技術の受容が決して単一の経路によらなかったことを示唆している。大陸からの直接的な影響と、種子島を経由した国内での伝播という、異なる技術的源流が存在した可能性が考えられるのである。このような多様な技術的背景は、稲富流が単なる既存技術の模倣に終わらず、独自の創意工夫を加えて発展していくための豊かな土壌を提供したと言えるかもしれない。祐直が後に大成する稲富流砲術の根底には、このような複雑かつ重層的な技術伝播の歴史が横たわっていたのである。
稲富祐直は、主家である一色氏の家臣として、早くから鉄砲隊を率いて戦陣に臨んだと推察される。特に、一色氏が織田信長と敵対関係に入った際には、祐直の率いる鉄砲隊がその威力を発揮し、織田軍を大いに苦しめたとの記録も残されている 3 。この時期の具体的な戦功に関する詳細な史料は乏しいものの、実戦における鉄砲の運用経験は、彼の砲術家としての技量を飛躍的に向上させたに違いない。
戦場での経験は、単に射撃技術を磨くだけでなく、鉄砲という兵器の戦術的な有効性、集団運用における利点や限界、さらには多様な戦闘状況への対応策などを実践的に学ぶ貴重な機会となったはずである。こうした実戦を通じて得られた知見こそが、後に彼が稲富流を創始するにあたり、その教えに現実的かつ効果的な要素を数多く盛り込むことを可能にした原動力と言えよう。理論と実践の融合は、稲富流を他の多くの砲術流派と一線を画すものとし、多くの武将から高い評価と支持を得る要因の一つとなったと考えられる。
稲富祐直は、祖父・直時から相伝された砲術の奥旨を基礎としつつ、そこに自身の創意工夫を大胆に加えることで、後世に名を残す「稲富流」(または「一夢流」とも称される)砲術を創始した 1 。彼は生来研究熱心な性質であったと見え、鉄砲術に関する探求と改良を絶えず重ね、その成果を数多くの砲術書としてまとめ上げたと伝えられている 3 。
特筆すべきは、丹後国宮津(現在の京都府宮津市)にある文殊菩薩の霊場として名高い智恩寺に参籠し、そこで得た夢想によって火薬の調合や射撃姿勢などに新たな着想を得て、流派の奥義を深めたという逸話である 6 。このような宗教的、あるいは精神的な体験を通じて技術革新がもたらされたとする伝承は、当時の武芸の世界では決して珍しいものではない。これは、武術の奥義が神仏からの啓示として語られることで、流派の権威を高め、門弟への指導における神秘性を付与する効果を意図した文化的背景を反映している可能性が考えられる。稲富流が単なる射撃技術の伝授に留まらず、精神修養を含む一種の「道」として体系化されていく上で、こうした精神的側面が影響を与えたことは想像に難くない。
稲富流砲術は、その実践性と先進性において、同時代の他の砲術流派とは一線を画す数々の特徴を有していた。
第一に、 照尺(照準器)の積極的な活用 が挙げられる。稲富流は、照尺を用いることで遠距離射撃の精度を格段に向上させることを重視した。現存する伝書には、照尺を用いた遠距離射撃法が図解と共に詳述されており 11 、これは当時の砲術において極めて先進的な試みであったと言える。
第二に、 合理的かつ精密な射手の姿勢の追究 である。伝書には、射手の正しい姿勢が裸形で描かれており 11 、如何に効率的かつ正確な射撃を行うかという点に深い関心が払われていたことが窺える。特に稲富流では、「膝射ち(跪あがり打ち)」と呼ばれる射法を主要なものとして採用していた 12 。
第三に、 大筒の運用における卓越した技術 である。稲富流は、三十匁筒を主力とし、時には八十匁筒といった大口径の鉄砲の扱いに長けていたと伝えられる 11 。これは、特に攻城戦などにおいて、高い破壊力を発揮することを企図した運用思想を反映しているものと考えられる。
第四に、 集団戦術への意識 である。稲富流の教えの中には、鉄砲組を運用する際、いわゆる三段撃ちにも通じる連続射撃の思想が見られる。具体的には、鉄砲組の人員を三分の一ずつに分け、第一隊が発砲し、残りの部隊が装填作業を行うことで、間断なく射撃を継続し、集団としての火力を最大限に発揮することを目指したと記されている 12 。
第五に、 鉄砲自体の構造に関する特徴 も指摘できる。稲富流で用いられた鉄砲は、銃身が比較的肉薄で、用心鉄(トリガーガード)が「猿渡り」と呼ばれる長い形状をしていたなどの特徴があったとされる 11 。また、撃発機構には平カラクリが採用されていたことが確認されている 14 。
第六に、 厳格な軍律の存在 である。鉄砲組の兵士に対しては、敵を討ち取ったとしてもその首級を取ることを禁じ、いかなる状況下においても鉄砲を手放してはならないなど、厳格な規律が定められていた 12 。これは、鉄砲隊という専門部隊の特性を維持し、その戦闘能力を最大限に活用するための措置であった。
表2:稲富流砲術の主要な特徴
特徴項目 |
内容 |
典拠 |
照準法 |
照尺を用いた精密な遠距離照準 |
11 |
射撃姿勢 |
裸形図解による合理的姿勢の追求、「膝射ち」の重視 |
11 |
得意とする鉄砲 |
三十匁筒、八十匁筒などの大口径砲 |
11 |
集団運用 |
三段撃ちの思想に通じる連続射撃による火力の最大化 |
12 |
鉄砲構造 |
猿渡り(長い用心鉄)、平カラクリ(撃発機構) |
11 |
火薬調合 |
夢想による啓示を得たとされる秘伝の配合 |
6 |
精神性・武道性 |
智恩寺参籠の逸話に見られる精神修養の重視、単なる技術に留まらない「道」としての体系化の試み |
6 |
この表は、稲富流砲術の技術的側面と思想的側面を一覧化したものである。これにより、その独自性と先進性が明確になり、他の流派との比較検討を行う上での一助となるであろう。
稲富祐直は、その砲術に関する深い知見と実践的な経験を後世に伝えるため、数多くの伝書を著した。その代表的なものとして『一流一返之書』が挙げられ 1 、彼が遺した伝書は総数で25巻にも及ぶと言われている 11 。これらの著作活動は、彼の砲術家としての学識の深さと、その知識を体系的に整理し、普及させようとする強い意志の表れである。
現存が確認されている『稲富流鉄砲秘伝書』には、鉄砲の起源に始まり、射撃を行う上での心構え、使用する鉄砲の種類に応じた射撃方法や適切な姿勢、弾丸の種類とその重量(玉目)に応じた鉄砲の仕様、さらには火薬原料の配合法、照準具の詳細な説明に至るまで、砲術に関する多岐にわたる内容が詳細に記されている 15 。
また、京都大学に所蔵されている『稲富流砲術秘伝授書』と題された伝書群には、「二十五相絵図」や「三十二相絵図」といった射撃姿勢を図示したものや、「極意目当之書」(照準の極意)、「極意裏星之書」(秘伝の照準点に関する記述か)といった具体的な射撃技術論、「火矢薬ノ書」、「鉄砲薬秘方書」といった火薬の調合や特殊弾に関する記述などが含まれており、稲富流の技術体系が極めて広範かつ深奥なものであったことを物語っている 16 。
これらの伝書群は、日本における砲術書の最初期に成立したものと目されており、鉄砲術が単なる個人の技芸から、理論と実践を備えた体系的な武術として確立されていく過程を具体的に示す、極めて貴重な歴史史料であると言える 6 。祐直が多数の伝書を作成し、図解を多用して技術を視覚的にも分かりやすく伝えようとしたことは、稲富流を単なる個人的技能の伝承に終わらせず、客観的かつ体系化された知識システムとして確立しようとする明確な意図の表れである。これにより、流派の正統性と権威性を高め、広範な地域の多様な弟子への教育を可能にしたのである。このような体系化された教本は、流派の維持と発展、さらには他の流派との差別化に大きく貢献し、稲富流が全国的に普及する重要な一因となった。そして、これらの詳細な記録は、後世の研究者にとって、当時の砲術技術を理解するための比類なき一次情報源となっている。
稲富祐直の卓越した砲術の技量と、体系化されたその教えは、当代一流の大名や武将たちを強く惹きつけた。彼から直接、鉄砲の指南や奥義の伝授を受けた人物には、天下人となった徳川家康をはじめ、その子である二代将軍徳川秀忠、家康の四男で勇将として知られた松平忠吉、奥州の独眼竜伊達政宗、紀州藩主で砲術「天下一」と称された浅野幸長 17 、徳川四天王の一人井伊直政といった、錚々たる顔ぶれが名を連ねている 4 。
特に徳川家康は、稲富流の技術と知識が失われることを深く惜しみ、後述する細川家追放の際には祐直を庇護し、側近に置いて鉄砲に関する様々な話を聞いたと伝えられている 4 。慶長9年(1604年)と慶長15年(1610年)の二度にわたり、祐直は家康と秀忠に招かれ、将軍家の前で砲術の秘訣を披露し、伝授している 4 。また、福岡藩の初代藩主である黒田長政も稲富一夢に師事し、免許皆伝を得ており、その際に授けられた伝書が「長政公御鉄砲書」として現存している 20 。
表3:稲富一夢に師事した主要人物
人物名 |
身分・役職など |
典拠 |
徳川家康 |
江戸幕府初代将軍 |
4 |
徳川秀忠 |
江戸幕府二代将軍 |
4 |
松平忠吉 |
徳川家康四男、武蔵忍藩主・尾張清洲藩主 |
4 |
伊達政宗 |
仙台藩初代藩主 |
4 |
浅野幸長 |
紀州藩初代藩主、砲術「天下一」と称される |
4 |
井伊直政 |
徳川四天王、彦根藩初代藩主 |
18 |
黒田長政 |
福岡藩初代藩主 |
20 |
岡本半介 |
兵学者 |
4 |
この表に示されるように、稲富一夢の技術と名声が当時の最高権力者層にまで及んでいたという事実は、彼の砲術が持つ戦略的価値の高さを物語っている。徳川家康や伊達政宗といった当代屈指の戦略家たちが、こぞって稲富一夢に師事した背景には、鉄砲とその運用技術を自軍の軍事力強化における極めて重要な要素と認識し、その効果を最大限に引き出すための専門知識と体系的な訓練方法を渇望していたという事情があった。稲富一夢のような専門家は、大名家にとって軍事力強化の鍵を握る存在であり、彼の流派が広範に受け入れられたのは、こうした大名たちの強いニーズに応えるものであったからに他ならない。これは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、軍事技術が急速に専門化・高度化していった時代の潮流を象徴する出来事と言えよう。
稲富流砲術は、これらの著名な弟子たちを通じて、あるいは直接的な指導によって、米沢藩 13 や岡山藩(藩主池田輝政が稲富流を得意とする藤岡六左衛門を召し抱えたと記録される 23 )など、全国各地の藩へと広まっていった。さらに、祐直自身が幕府の鉄砲方として活動したこともあり 6 、その影響力は武家社会の広範囲に及んだのである。
一色氏が滅亡した後、稲富祐直は丹後国を領有することになった細川忠興に仕えることとなった 2 。一説には、豊臣秀吉が祐直の砲術の技量を高く評価し、忠興に推挙したことがきっかけであったとも伝えられている 24 。
祐直と忠興の関係を物語る逸話として、狩りに関する話が残されている。忠興は狩猟を大変好み、祐直は鉄砲の名手として常にこれに随行していた。ある時、忠興は祐直の獲物が常に自分よりも少ないことに気づき、その理由を尋ねた。すると祐直は、「主君である殿よりも多くの獲物を獲ることは、臣下としてあるまじき行為と心得ております。また、私の狙いは鳥獣を無駄に傷つけぬよう急所を正確に射抜くことにあり、そのように仕留めた獲物は弾が体を貫通し、勢い余って遠くまで飛んで行ってしまうことがございます。一方、殿の撃ち方は獲物をむやみに傷つけるため、かえって遠くまで飛ばずにその場に落ちることが多いのでございましょう」といった趣旨の返答をしたという。これを聞いた忠興は、祐直の卓越した銃法の精妙さと、主君への深い心遣いに感服したと伝えられている 25 。
この逸話は、祐直の射撃技術の高さを示すと同時に、彼が主君である忠興に対して細やかな配慮を怠らない、武士としての心得をわきまえた人物であったことを示唆している。専門技能を持つ者が主君に受け入れられ、重用されるためには、単に技術が優れているだけでなく、こうした主従関係における処世の術も必要であった。この逸話は、祐直が細川家において一定の評価と信頼を得ていたことを窺わせるが、後に起こるガラシャ事件における忠興の激しい怒りを考えると、両者の関係が常に順風満帆であったわけではなく、複雑さや潜在的な緊張感を内包していた可能性も否定できない。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発する直前、石田三成を中心とする西軍方は、諸大名の妻子を人質として大坂城内に収容しようと画策した。その標的の一人が、細川忠興の夫人であり、熱心なキリシタンとしても知られるガラシャ(玉子)であった。7月、西軍の兵が大坂玉造の細川屋敷を包囲し、ガラシャに人質となるよう強要したが、彼女はこれを毅然として拒絶し、家臣の手によって介錯され、壮絶な最期を遂げた 26 。
この時、細川屋敷の守備を任されていた稲富祐直は、ガラシャ夫人に殉じることなく、屋敷から退去したとされている 2 。主君不在の屋敷を守りきれなかったこと、あるいは主君の妻を見捨てたと見なされたこの行動は、後に戦場から帰還した細川忠興の凄まじい怒りを買うことになった。忠興は「草の根を分けても祐直を探し出し、処断せよ」と厳命したと伝えられており 5 、祐直は一転して追われる身となったのである。
祐直がガラシャに殉じなかった理由については、史料上明確な記述がなく、様々な解釈の余地がある。単に臆病風に吹かれた、あるいは自己保身に走ったという見方も可能であるが、一方で、当時の状況を考慮すると、別の側面も浮かび上がってくる。ある記録によれば、ガラシャ自身が家臣たちに対し、「討手が屋敷内に踏み込む前に、速やかに逃れてほしい」と諭し、彼らを退去させたとされている 24 。もしこの記述が事実であるならば、祐直の行動はガラシャの意向に沿ったものであった可能性や、あるいは混乱の中で貴重な砲術の知識と技術を失うことを避けるための、戦略的な判断であったという見方も成り立つかもしれない。
しかし、理由の如何に関わらず、この一件は忠興の逆鱗に触れるには十分な事態であった。忠興は短気な性格で知られ、些細なことで家臣を手討ちにすることもあったという逸話が残るほどである 27 。祐直にとって、このガラシャ事件は人生における最大の危機であり、彼の武将としてのキャリアを根底から揺るがす重大な転換点となった。
細川忠興の厳しい追及を逃れた稲富祐直は、徳川家康方の将である井伊直政や、家康の四男にあたる松平忠吉らに助けを求めた 5 。最終的に、彼の運命を大きく左右したのは、天下人たる徳川家康その人であった。家康は、稲富流砲術の卓越した技術と、祐直が持つ深い知識が戦乱の中で失われることを惜しみ、激怒する忠興を宥め、祐直を助命したと伝えられている 2 。
この家康による庇護は、祐直にとってまさに起死回生の一手であった。家康が忠興の強い怒りを抑えてまで祐直を助命したのは、単なる個人的な温情からではなく、祐直の持つ砲術の知識と技術が、天下統一後の徳川幕府の軍事体制を構築する上で、極めて戦略的な価値を持つと判断したためであろう 4 。この一件は、専門技術が個人の運命を左右するだけでなく、時には大名間の政治的な力関係にも影響を与えうることを示す好例と言える。
助命された祐直は、その後、徳川家康に仕え、幕府の鉄砲方として重用されることとなった。さらに、家康の九男であり、後に尾張徳川家の初代藩主となる徳川義直にも仕え、その卓越した砲術を伝授した 2 。家康の庇護は、祐直にとって、その類稀なる技術が中央でさらに発展し、より広範に普及する機会を与えるものとなった。また、この出来事は、徳川家が有能な人材を登用するにあたり、その出自や過去の経緯に必ずしも固執せず、実力主義的な側面を持っていたことを示すものとも解釈できる。
徳川幕府に仕えることになった稲富祐直は、砲術の指導や実演に留まらず、日本の鉄砲生産の中心地であった近江国友村の鉄砲鍛冶集団の組織化にも深く関与し、幕府の兵器生産体制の整備に大きく貢献したとされている 2 。
祐直が国友鍛冶の組織化に関わったという事実は、彼が単なる射手や砲術の指導者であるだけでなく、鉄砲という兵器そのものの生産プロセスに対しても深い理解と関心を持っていたことを示唆している。高品質な鉄砲の安定的な供給は、砲術の発展と軍事力の維持にとって不可欠な要素であり、祐直はその戦略的重要性を十分に認識していたのであろう。彼の尽力により、国友鍛冶は幕府のいわば公式な兵器工場(工廠)としての役割を強化し、日本の鉄砲生産技術の向上と、ある程度の規格化に貢献した可能性がある。これは、稲富流砲術の普及と実用性を支える重要な基盤ともなり、日本の兵器史においても看過できない功績と言えるだろう。
稲富祐直の射撃技術は、同時代の人々から「神業」と称され、その卓越ぶりを伝える数々の逸話が残されている。その中でも特に有名なのが、百七日間にも及ぶ断食修行を行い、精神を極限まで集中させた状態で、針にぶら下げた極小の虱(しらみ)を撃ち抜いたというものである 3 。また、家の中にいて鳥のさえずりが聞こえると、その音だけを頼りに鳥のいる方向と位置を正確に予測し、姿を見ることなくこれを撃ち落としたとも伝えられている 3 。
さらに、彼の射程距離と命中精度についても驚くべき話が残っており、八丁(約870メートル)以内であれば、どのような的であっても百発百中であったと言われている 3 。手ぬぐいで目隠しをした状態でも、寸分違わず的を射抜いたという逸話もある 4 。
これらの逸話は、文字通りの事実として受け取るべきかについては慎重な検討が必要であるが、むしろ祐直の人間離れした技術を象徴的に表現し、伝説として語り継がれることで、彼の技量の高さを際立たせていると解釈すべきであろう。しかし、こうした逸話が生まれ、広く語り継がれたこと自体が、彼がいかに同時代の人々から驚異的な技術の持ち主として認識され、畏敬の念を抱かれていたかを如実に示している。また、精神修養を通じて技を極めるという姿勢は、武士道における理想的な武人の姿とも重なり、彼の評価を一層高める要因となったと考えられる。これらの伝説は、稲富流砲術の名声を高め、多くの門弟を惹きつける上で効果的であったことは想像に難くなく、後世における稲富一夢の英雄的なイメージ形成にも大きな影響を与えたと言える。
稲富祐直は、その卓越した射撃技術だけでなく、並外れた身体能力の持ち主としても知られていた。合戦の際には、通常一領である具足(鎧)を二枚重ねて着用した状態でも、戦場を自在に動き回ることができたことから、「二領具足」の異名を取ったと伝えられている 3 。
この「二領具足」の逸話は、祐直が単に射撃技術に優れた専門家であるだけでなく、過酷な戦場での活動に耐えうる強靭な肉体と、優れた運動能力を兼ね備えた武人であったことを強調している。鉄砲、特に彼が得意とした大筒の運搬や操作には相当な体力が要求されるため、この逸話は彼の砲術家としての優れた資質を裏付けるものとも解釈できる。技術と武勇を兼ね備えた人物像は、戦国時代において理想的な武士の一形態であり、祐直が多方面から高い評価を得る要因の一つとなったであろう。
数々の武功と伝説を残した稲富一夢(祐直)は、慶長16年2月6日(西暦1611年3月20日)、その生涯を閉じた 2 。享年は60歳(数え年)であった。徳川家康や尾張徳川家に仕え、その卓越した砲術の知識と技術を伝え続けた後のことであった。彼の死は、一つの時代の終わりを告げるとともに、彼が築き上げた砲術の伝統が次代へと受け継がれていく新たな始まりでもあった。
稲富祐直の死後も、彼が創始した稲富流砲術は、数多くの優れた弟子たちによって忠実に受け継がれ、江戸時代を通じて日本の主要な砲術流派の一つとしてその命脈を保ち続けた 18 。
特に、出羽米沢藩においては、稲富流が藩の公式な砲術として採用され、その主流を成した。その伝統は形を変えながらも現代にまで及び、米沢藩古式砲術保存会によって、その演武が披露されている記録がある 13 。これは、稲富流が単なる一過性の技術ではなく、長きにわたり実用性と教育的価値を認められていた証左と言える。
稲富一夢が編み出した照尺を用いた精密な射撃法や、裸形図を用いた合理的な射撃姿勢の指導、体系化された教授法、そして詳細かつ豊富な内容を持つ伝書の数々は、日本の砲術技術全体の発展に計り知れない貢献をした 6 。また、近江国友鍛冶との連携を通じて、鉄砲の品質向上やある程度の規格化にも影響を与えた可能性が指摘されており、これは日本の兵器史という観点からも重要な意義を持つ 4 。
稲富流が米沢藩など各地で長期間にわたり継承された背景には、その技術が実戦的で効果的であったことに加え、各藩の固有の事情や戦略的ニーズに合わせて、ある程度柔軟にその運用法が調整・適応された結果である可能性が考えられる。例えば、米沢藩では大筒を用いた重量感のある演武が特徴とされているが 22 、これは流派の核となる教えを堅守しつつも、地域ごとの特色や運用思想を取り入れて発展した姿を示唆している。このような適応性こそが、稲富流が単なる一過性の流行に終わることなく、江戸時代を通じて広範な影響力を持ち続けた要因の一つと考えられる。
稲富一夢(祐直)は、鉄砲という新たな兵器が戦国の様相を一変させた激動の時代に現れ、その運用技術を極限まで高め、単なる射撃術を超えた一つの「道」として体系化した、先駆的な人物であった。彼が生み出した稲富流砲術は、その革新性と実用性によって、徳川家康をはじめとする当代の最高権力者たちに深く認められ、江戸幕府における軍事技術の重要な基盤の一つとなるとともに、全国の諸藩へと広まっていった。その結果、日本の砲術史に不滅の功績を刻むこととなったのである。
彼の生涯は、決して平坦なものではなかった。特に細川ガラシャ事件に際しては、主君の怒りを買い、絶体絶命の危機に瀕した。しかし、その卓越した専門技術こそが彼を救い、再び歴史の表舞台へと押し上げた。この劇的な経緯は、戦国乱世から江戸初期という転換期において、専門技能を持つ者が如何に高い価値を有し、また時代の変化に巧みに対応していくしたたかさを持っていたかを示す好例と言える。
稲富一夢の名は、単に卓越した射手として記憶されるだけでなく、革新的な砲術流派の祖として、そして日本の軍事技術史における重要な変革者の一人として、後世に永く語り継がれるべきである 6 。
技術革新が社会構造や戦術思想を根底から揺るがし続ける現代において、稲富一夢の生涯と業績は、我々に多くの示唆を与えてくれる。彼は、当時最先端の軍事技術であった鉄砲を単に習得するに留まらず、それを深く研究し、独自の工夫を加えて体系化し、さらには教育システムを構築して広範な普及を図った。また、鉄砲の生産基盤である国友鍛冶との連携にも意を用いたことは、技術開発と生産現場の協調の重要性を示している。
彼の生き様は、専門技術の徹底的な追求、危機に直面した際の冷静な判断力と対応能力、そして何よりも時代の要請を的確に捉え、それに応える能力の重要性を、時を超えて我々に教えてくれる。稲富一夢という人物を通じて、我々は技術と人間、そして社会の関わりについて、改めて深く考察する機会を得ることができるのである。