最終更新日 2025-06-09

稲富祐秀

稲富祐秀の研究:丹後の一色家臣から稲富流砲術の基礎構築まで

はじめに

戦国時代は、日本史上未曾有の変革期であり、鉄砲という新兵器の伝来とその急速な普及は、合戦の様相を一変させ、戦国大名たちの興亡にも大きな影響を与えました。この鉄砲技術の導入と発展の過程において、多くの技術者や武将がその役割を果たしましたが、本報告書では、丹後国の一色家家臣であり、忍木(弓木)城主であった稲富祐秀(いなとみ すけひで)という人物に焦点を当てます。

利用者の方が既に把握されている情報として、祐秀は一色家臣で丹後忍木城主、相模守と称し、佐々木少輔次郎義国に砲術を学び、創意工夫を加え、孫の稲富祐直に砲術を教え、稲富流砲術の基礎を築き上げたとされています。本報告書はこれらの情報を基点としつつ、現存する史料や研究成果を渉猟し、祐秀の出自、一色家臣としての活動、弓木城主としての役割、砲術の師である佐々木義国との関係、砲術への具体的な貢献、そして孫であり稲富流砲術の大成者として知られる稲富祐直へと繋がる系譜の中で、祐秀が果たした歴史的意義をより深く、多角的に明らかにすることを目的とします。

なお、稲富祐秀の諱(いみな)は直時(なおとき)であったとも伝えられており、史料によってはこの名で言及されることもあります。本報告書では、主に「祐秀」の呼称を用いますが、必要に応じて「直時」の名も併記します。

稲富祐秀は、その孫である稲富一夢(祐直)の輝かしい業績の影に隠れがちですが、祐直による稲富流砲術の大成は、まさに祐秀が築いた確固たる「基礎」の上に成り立っています。祐秀の先駆的な活動と、新技術に対する深い洞察力がなければ、祐直の才能が開花し、稲富流が全国に名を馳せることもなかったかもしれません。本報告書を通じて、この稲富流砲術の源流を辿り、祐秀の実像とその歴史的貢献に迫ります。

第一章:稲富祐秀の出自と一色氏家臣時代

一、稲富氏の系譜と丹後国における基盤

稲富氏の出自を辿ると、その本姓は平氏であり、桓武平氏維衡流、伊勢・伊賀を本拠地とした伊勢平氏一門の支流にあたるとされています 1 。元々は山田氏を称していましたが、丹後国に移り住んだ後に、その地の名を取って稲富姓を名乗るようになったと伝えられています。

稲富氏は、鎌倉時代には既に丹後国に弓木城(いみきじょう、別名:稲富城、忍木城)を築城し、以来、代々の当主がこの城を居城としてきました 1 。この事実は、稲富氏が丹後の地に深く根を下ろした在地領主であったことを示しており、弓木城は稲富氏の権力と生活の基盤であったと言えます。

伊勢平氏という由緒ある家系に連なるという意識は、戦国時代の動乱期において、稲富氏が一地方武士としての矜持を保ち、家名を高めようとする動機の一つとなった可能性があります。また、鎌倉時代から続く在地領主としての歴史は、自らの所領(一所懸命の地)を守り抜こうとする強い意志を育んだと考えられます。こうした背景が、後に鉄砲という新たな軍事技術を積極的に取り入れ、自家の存続と発展を図ろうとする姿勢に繋がったのかもしれません。

二、一色氏への仕官と当時の丹後情勢

室町時代に入り、足利将軍家の一門であり、室町幕府の四職の一つに数えられた名門・一色氏が丹後国の守護として入国すると、稲富氏はこれに従い、その家臣となりました 1 。稲富祐秀もこの流れの中で、一色義道(あるいはその父の代)に仕えていたと考えられます。

祐秀が活動した戦国中期の丹後国は、中央における織田信長の勢力拡大や、周辺の諸大名との複雑な関係性の中で、常に緊張を強いられる不安定な状況下にありました。一色氏自体も、かつては幕府の重職を歴任した名門でしたが、戦国時代に至っては徐々にその勢力に陰りが見え始めていました。このような主家の状況と、丹後国が直面していた軍事的脅威は、新たな軍事技術、特に当時最新兵器であった鉄砲への関心を高める土壌となったと推察されます。

稲富祐秀は「相模守」を称したとされています(ユーザー提供情報)。これは武士が朝廷の官職名を自称する官途名乗りであり、当時の武家社会において自らの家格や社会的地位を示すため広く行われていた慣習です。主家である一色氏の勢力が不安定化する中で、祐秀のような家臣が、鉄砲術という新たな技能を習得し、自らの武門としての価値を高め、ひいては主家の軍事力強化に貢献しようと考えるのは自然な流れであったと言えるでしょう。祐秀が砲術の世界に足を踏み入れた背景には、こうした個人的な向上心と、主家に対する忠誠心、そして何よりも自らが拠って立つ丹後の地と一族を守り抜こうとする強い意志があったと考えられます。

第二章:弓木城主としての稲富祐秀

一、丹後国弓木城の概要と戦略的重要性

稲富祐秀の活動拠点であった弓木城(ゆみきじょう)は、忍木城(おしきじょう)、忌木城(いみきじょう)などとも表記され、丹後国与謝郡(現在の京都府与謝郡与謝野町弓木)に位置していました。前述の通り、この城は鎌倉時代以来、稲富氏が代々居城としてきた、一族にとって象徴的な場所です 1

弓木城は、標高約50メートルから59メートルの丘陵上に築かれた中世の山城であり、主郭を中心に複数の曲輪、堀、土塁といった防御施設を備えていました。その立地は、平野部から阿蘇海に向けて舌状に突き出した丘陵の先端にあり、眼下に広がる平野や内海を一望できる、戦略的に極めて重要な場所でした。このような地勢は、敵の侵攻を早期に察知し、迎撃する上で有利であったと考えられます。

さらに、弓木城の所在地である丹後半島基部は、古代より大陸や朝鮮半島からの文化・文物・情報が日本海を経て畿内中央部へと伝播するルート上にあったと指摘されています。この地理的条件は、稲富氏にとって、新しい情報や技術に触れる機会を比較的容易にもたらした可能性があります。鉄砲という新兵器に関する情報も、こうしたルートを通じて比較的早い段階で丹後の地にもたらされ、祐秀のような先進的な武将の関心を引いたのかもしれません。

表1:弓木城の概要

項目

内容

主な典拠

城名

弓木城(忍木城、忌木城、稲富城)

所在地

丹後国与謝郡(現:京都府与謝郡与謝野町弓木)

城主

稲富氏、一色義定(一時)

築城年(推定)

鎌倉時代(稲富氏による)

1

城郭構造

山城

標高(比高)

約59m(約55m)

主な遺構

曲輪、空堀、土塁、切岸

1

戦略的特徴

阿蘇海に突き出す丘陵上に立地、平野部を一望、交通の要衝に近接

特記事項

稲富流砲術の始祖・稲富祐秀、及びその孫・祐直(一夢)の拠点、一色氏終焉の地の一つ

この表に示されるように、弓木城は単なる居城ではなく、稲富氏の軍事力と経済力の源泉であり、また情報戦略上の拠点でもあったと考えられます。

二、城主としての活動(推定される範囲で)

稲富祐秀が弓木城主として具体的にどのような活動を行っていたかを詳細に記す史料は乏しいのが現状です。しかし、戦国時代の一般的な城主の役割に鑑みれば、彼は一色氏の家臣として、主家の軍事行動に兵を率いて参加したり、弓木城を中心とする所領の統治、年貢の徴収、治安維持などを行ったりしていたと推察されます。

特に重要なのは、弓木城が祐秀にとって、後に佐々木義国を招聘し、本格的に砲術を学ぶための経済的・人的基盤となったという点です。新たな技術を導入し、それを習得・研究するには、相応の財力と、師を招き入れるだけの安定した支配領域が必要でした。弓木城主としての祐秀の立場が、それを可能にしたと言えるでしょう。

弓木城は、祐秀の孫である稲富祐直の時代、天正年間(1573年~1592年)に織田信長の命を受けた細川藤孝・忠興親子による丹後侵攻の際には、一色義定(義道の後継者)が籠城し、祐直ら稲富一族もこれに加わって激しく抵抗したことが知られています 1 。この戦いでは、弓木城の堅固な守りと稲富流鉄砲隊の活躍により、細川軍は容易に城を攻略できなかったと伝えられています 1 。祐秀の時代には、まだ鉄砲が合戦の主力兵器とまでは言えなかったかもしれませんが、城の防衛力をいかに高めるかという課題は、城主にとって常に念頭にあったはずです。祐秀による砲術の導入は、単なる個人的な武芸への関心に留まらず、この弓木城の防衛力を強化するという、城主としての現実的かつ喫緊の必要性に基づいていた可能性が極めて高いと考えられます。

第三章:稲富祐秀と砲術の導入

一、砲術の師・佐々木義国

稲富祐秀が砲術を学ぶ上で師事した人物として、佐々木庄符次郎(あるいは少輔次郎)義国(ささき よしくに)の名が複数の史料で一致して伝えられています。この佐々木義国こそが、祐秀に鉄砲の技術と知識を伝授し、後の稲富流砲術の源流となる知識をもたらしたキーパーソンです。

稲富流の伝書などによると、佐々木義国は「渡唐して鉄砲の術を学んだ」あるいは「明国に渡って砲術を習得した」とされています 2 。しかし、この渡唐説に関しては、その真実性を疑わしいとする研究者の見解も存在します。戦国時代から江戸時代初期にかけて成立した武術の流派において、その流派の権威を高めるために、中国やインドなど海外にその起源を求めるという伝承が付加されることは珍しくありませんでした。佐々木義国の渡唐説も、そうした類の一つであった可能性は否定できません。

義国が実際に明国へ渡ったか否かは別として、彼が当時の日本において高度な鉄砲術を身につけていた人物であったことは確かでしょう。鉄砲が種子島に伝来(天文12年、1543年)して以降、その製法や射撃術は驚くべき速さで日本各地に広まっていきました。義国も、こうした国内における鉄砲技術の普及の過程で、いずれかの流派や技術者集団から砲術を習得し、それを独自のレベルにまで高めた人物であったと考えられます。

稲富祐秀は、この佐々木義国を丹後国の自らの居城である弓木城に招き入れ、数年にわたって腰を据えて砲術の指導を受け、その術理を修めたとされています。そして、天文23年(1554年)、祐秀は義国から砲術の印可(免許皆伝に類するもの)を授けられたと稲富流の伝書には記されています 2 。この天文23年という年は、稲富流砲術の歴史において、その実質的な起点を示す重要な年号と言えるでしょう。

この師弟関係と伝授の事実を裏付ける可能性のある史料として、国立公文書館には『鉄炮書』と題された伝書が所蔵されています。この伝書は、「入唐して砲術を学んだ佐々木義国が稲富直時(祐秀)に与えた秘伝書」であると解説されており 2 、祐秀と義国の間の知識伝達が具体的な形として存在したことを示唆しています。

佐々木義国の「渡唐説」の真偽は確定できませんが、稲富祐秀が特定の師を選び、その人物を自領に招いてまで体系的に砲術を学ぼうとしたという事実は、当時の武将としては極めて先進的な行動であったと言えます。これは、祐秀が鉄砲を単なる新しい武器としてだけでなく、一つの専門的な「術」として捉え、その奥義を深く追求しようとしていた意識の高さを示しているのではないでしょうか。このような探求心と実践的な行動力が、後の稲富流砲術の発展に繋がる最初の大きな一歩となったのです。

二、祐秀による砲術への創意工夫

稲富祐秀は、佐々木義国から学んだ砲術に、さらに「創意を加えた」とされています(ユーザー提供情報)。この「創意工夫」こそが、単なる技術の受け売りではなく、稲富流独自の砲術へと発展していく萌芽であったと考えられます。

具体的な祐秀の「創意工夫」の内容を詳細に記した一次史料は、現在のところ確認されていません。しかし、孫の稲富祐直に関して、「祐秀から伝えられた一巻の書は(中略)直家(祐直)に至り、工夫を加えられ数十巻となり」という記述が見られます。この記述は、祐直が飛躍的に稲富流を発展させたことを示すものですが、その前提として、祐秀の段階でも何らかの独自の工夫や、あるいは教授法における改善、知識の整理といったものが行われ、それが「一巻の書」という形でまとめられていた可能性を示唆しています。この祐秀による初期の取り組みが、祐直によるさらなる発展と体系化のための重要な素地となったことは想像に難くありません。

祐秀が加えた「創意工夫」が具体的にどのようなものであったかについては、推測の域を出ませんが、戦国時代の砲術が実戦と密接に結びついていたことを考慮すると、以下のような実践的な側面での改良であった可能性が考えられます。

  1. 射撃技術の改善: より正確に、より迅速に射撃するための構え方、照準の合わせ方、引き金の引き方など、実戦的な射撃術の洗練。
  2. 火薬の調合: 天候や射程に応じた最適な火薬の配合比率の研究や、火薬の品質管理方法の改善。
  3. 鉄砲の運用方法: 集団での鉄砲運用法や、野戦・籠城戦など異なる戦闘状況に応じた効果的な戦術の開発。
  4. 教育・伝授方法の工夫: 弟子たちが効率的に技術を習得できるよう、教授法に独自の工夫を凝らした可能性。

これらの「創意工夫」は、必ずしも全てが伝書として明文化されていなくとも、祐秀から息子の直秀(早世)、そして孫の祐直へと、口伝や日々の稽古、実戦経験を通じて伝えられる中で、稲富流独自の技術的特徴の原型を形成していったと考えられます。祐直による稲富流砲術の体系化と大成は、この祐秀による初期の工夫という「種子」がなければ、決して成し得なかったでしょう。祐秀の貢献は、単に技術を導入しただけでなく、それを自らのものとして消化し、発展させるための最初の重要な一歩を踏み出した点にあると言えます。

第四章:稲富流砲術の基礎構築と継承

一、稲富流砲術の萌芽と祐秀の役割

稲富祐秀による佐々木義国からの砲術習得と、それに続く創意工夫は、後の日本有数の砲術流派となる「稲富流砲術」のまさに「基礎を築き上げた」と評価されています(ユーザー提供情報、)。祐秀の功績は、単に新しい技術を学んだという点に留まらず、それを自らのものとして咀嚼し、さらに次代へと伝達可能な形にし始めたという、流派形成における最初の、そして極めて重要なステップを担った点にあります。

戦国時代において、新たな武術や兵法が一個の「流派」として確立し、後世に名を残すためには、傑出した創始者の存在はもちろんのこと、その教えを忠実に受け継ぎ、さらに発展・体系化していく後継者の存在が不可欠でした。稲富祐秀は、この流派形成のプロセスにおいて、まさしく「創始」に近い、ごく初期の核を形成した人物と言えます。彼が佐々木義国から学んだ技術に独自の視点を加え、それを自らのものとして昇華させようとした努力がなければ、稲富の名を冠した砲術流派が後世に知られることもなかったかもしれません。

祐秀は、鉄砲という当時最新の軍事技術の重要性といち早く見抜き、それを丹後の地へともたらしました。そして、それを単なる個人の技として秘匿するのではなく、家伝の武術として継承していく道筋をつけたのです。この祐秀の先見性と行動力こそが、稲富流砲術という一つの文化遺産が生まれるための、最初の大きな原動力となったのです。

二、孫・稲富祐直への砲術伝授とその意義

稲富祐秀は、自らが修得し、創意を加えた砲術を、まず嫡子である稲富直秀(なおひで、祐政とも)に伝えました。しかし、この直秀は38歳という若さで早世してしまいます 4 。父を早くに亡くした直秀の嫡子、すなわち祐秀にとっては孫にあたる稲富直家(なおいえ、後の祐直、号は一夢)に対して、祐秀は直接、砲術の奥義を伝授することになりました 4

この祖父から孫への直接的な技術伝授は、稲富流砲術の発展にとって極めて重要な意味を持ちました。もし、間に何代かの継承者が介在した場合、創始者に近い祐秀の持つ独自の工夫や砲術に対する思想が、伝言ゲームのように希薄化したり、変質したりする可能性も考えられます。しかし、祐秀から才能豊かな若き祐直へと直接、その精髄が注ぎ込まれたことにより、稲富流の初期の教えは純度を保ったまま次代へと受け継がれたのです。

稲富祐直は、祖父祐秀から受け継いだ砲術の基礎の上に、さらに天賦の才と不断の努力によって独自の工夫と鍛錬を重ねました。特に、丹後国宮津の智恩寺に参籠して夢想を得て、火薬の配合や発射姿勢などに新たな工夫を加えたという逸話は有名です 4 。こうして、祐秀が築いた確固たる基礎は、孫の祐直の類稀なる才能と情熱によって見事に開花し、稲富流砲術(一夢流とも呼ばれる)として大成されるに至りました。

稲富流砲術は、その卓越した技術と理論によって、やがて細川忠興、徳川家康、伊達政宗といった天下人や有力大名たちにも高く評価され、広く用いられる全国的な流派へと発展していきました 1 。その輝かしい歴史の源流を辿れば、まさしく稲富祐秀による先駆的な砲術導入と、孫への確実な技術継承という偉大な功績に行き着くのです。

息子の直秀の早世という、一見不幸な出来事が、結果として祐秀から祐直への直接的かつ濃密な技術と思想の伝承を可能にし、稲富流砲術の純度を高め、その後の飛躍的な発展に繋がったという側面は、歴史の皮肉とも言えるかもしれません。この祖父から孫への特別な絆が、一つの武術流派の運命を大きく左右したと言えるでしょう。

表2:稲富流砲術 関係者とその役割

人物名

砲術における役割・関係性

主な典拠

佐々木 少輔次郎 義国

稲富祐秀の砲術の師。祐秀に砲術を伝授し、印可を与えた。渡唐伝承がある。

稲富 祐秀(直時)

佐々木義国より砲術を習得。創意工夫を加え、稲富流砲術の「基礎を構築」。孫の祐直に伝授。

****

稲富 直秀(祐政)

祐秀の嫡子。祐秀より砲術を伝えられるも早世。

稲富 祐直(直家、一夢)

祐秀の孫。祖父祐秀より直接砲術を伝授される。独自の工夫と鍛錬により稲富流砲術を「確立・大成」。全国に名を馳せる。

4

この表は、稲富流砲術が佐々木義国から稲富祐秀へ、そして稲富祐直へと、師資相承によって発展していった系譜を明確に示しています。その中で、祐秀が果たした「基礎構築」という役割の重要性が際立ちます。

第五章:稲富祐秀の晩年と後世への影響

一、祐秀の没年と生涯

稲富祐秀の没年については、具体的な年は残念ながら史料からは明らかになっていません。しかし、享年は63歳であったと伝えられています。戦国時代という激動の時代にあって、63歳という年齢は比較的長寿であったと言えるかもしれません。

祐秀の生涯を振り返ると、彼は丹後国の一城主として、また一色氏の家臣として、戦国の世の荒波を乗り越え、自らの家と所領を守り抜こうとしました。そして何よりも、鉄砲という新たな軍事技術の将来性を見抜き、それを積極的に導入し、自らもその術理を探求した先駆的な武将であったと言えます。彼の人生は、地方の小領主が時代の変化にいかに対応し、生き残りを図ったかの一つの典型を示すものかもしれません。

二、稲富流砲術の確立と祐秀の貢献の再評価

稲富祐秀の死後、彼が築いた砲術の基礎は、孫の稲富祐直によって見事に開花し、稲富流砲術は全国的な名声を得るに至りました。祐直は、主家である一色氏の滅亡後、細川忠興に仕え、慶長の役では朝鮮に渡って蔚山城の戦いで活躍しました 4 。関ヶ原の戦いの際には、細川ガラシャ夫人の警護を巡る一件で細川忠興の怒りを買い、一時は生命の危機に瀕しますが、その卓越した砲術の技量を惜しんだ徳川家康によって助命され、後に幕府の鉄砲方として重用されることになります 1

稲富流砲術は、祐直によってさらに洗練され、多くの伝書が作成されました。これらの伝書には、射手の姿勢を裸形で図解したり、照尺を用いた遠距離射撃法を順次図解したりするなど、極めて実践的かつ体系的な内容が含まれていたとされています。このような高度な教伝体系の源流を辿れば、やはり祐秀による初期の教えと、彼が残したとされる「一巻の書」に行き着くのではないでしょうか。

稲富祐秀は、孫の稲富一夢(祐直)ほどには、歴史の表舞台で華々しく活躍した人物ではないかもしれません。しかし、彼がいなければ、稲富祐直が学ぶべき「稲富の砲術」そのものが存在しなかった可能性が高いのです。祐秀の先見性、新技術への探求心、そしてそれを次代に伝えようとした努力がなければ、稲富流という一大砲術流派が日本の武術史にその名を刻むこともなかったでしょう。

祐秀の評価は、しばしば孫である祐直の輝かしい業績を通じて間接的になされることが多いですが、祐秀自身の行動力と技術に対する深い洞察力がなければ、稲富流という形で砲術が体系化され、後世の日本の軍事技術に大きな影響を与えることはありませんでした。歴史の転換期において、新たな技術の可能性を見抜き、それを取り入れ、発展の礎を築いた「触媒」としての役割を果たした人物として、稲富祐秀は再評価されるべきです。彼は、日本の砲術史における重要な先駆者の一人として、記憶されるべき存在と言えるでしょう。

おわりに

本報告書では、戦国時代の武将・稲富祐秀について、その出自、一色家臣としての活動、弓木城主としての役割、そして稲富流砲術の基礎構築に至るまでの経緯を、現存する史料と研究に基づいて考察してきました。

明らかになったのは、稲富祐秀が単なる丹後の一地方武将に留まらず、鉄砲という新兵器の重要性をいち早く認識し、その習得と改良に情熱を注いだ革新的な人物であったということです。彼は、弓木城主として地域の安定に努めるとともに、佐々木義国という師から砲術を学び、それに独自の創意工夫を加えました。この祐秀による基礎固めがなければ、孫の稲富祐直による稲富流砲術の大成はあり得なかったでしょう。祐秀は、まさに稲富流砲術の「源流」を創り出し、その流れを次代へと繋いだ先駆者として、日本の武術史・軍事史において特筆すべき存在です。

彼の生涯は、孫である稲富祐直の華々しい活躍の陰に隠れがちですが、祐秀の先見性と行動力こそが、後の稲富流の隆盛を準備したと言っても過言ではありません。一色家家臣、弓木城主としての側面、そして何よりも砲術の先駆者としての祐秀の歴史的意義は、今後さらに深く研究されるべきでしょう。

今後の研究課題としては、稲富祐秀が具体的にどのような「創意工夫」を砲術に加えたのか、その詳細を史料から探ること、また、同時代に勃興しつつあった他の砲術流派との比較研究を通じて、稲富流の初期の技術的特徴や独自性を明らかにすることなどが挙げられます。これらの探求は、戦国時代における鉄砲技術の受容と発展の様相を、より具体的に理解する上で貢献するものと期待されます。

引用文献

  1. 稲富氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%AF%8C%E6%B0%8F
  2. 鉄炮書 - 国立公文書館 デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/file/1236369
  3. 国立公文書館ニュース Vol.23 https://www.archives.go.jp/naj_news/23/special.html
  4. 稲富祐直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%AF%8C%E7%A5%90%E7%9B%B4