稲葉良通(稲葉一鉄)に関する調査報告
序章:稲葉良通(一鉄)とは
稲葉良通(いなば よしみち)、号を一鉄(いってつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した美濃国出身の武将である 1 。その生涯は、土岐氏、斎藤氏、織田氏、そして豊臣氏と、目まぐるしく変わる権力者の下で、武功を重ね、激動の時代を生き抜いたものであった 1 。特に、安藤守就、氏家直元と共に「西美濃三人衆」と称され、その筆頭として美濃国の政治・軍事状況に大きな影響を与えたことは特筆される 1 。後世においては、「頑固一徹」という言葉の語源になったという説が広く知られるほど、その剛直な性格が記憶されている 1 。良通が複数の主君に仕えながらも、それぞれの政権で重要な地位を保ち得た背景には、単なる武勇のみならず、時勢を的確に読む洞察力、交渉力、そして彼自身が持つ武将としての高い価値が認められていたことがうかがえる。これは、彼の巧みな処世術と、戦国時代特有の流動的な主従関係を象徴していると言えよう。
稲葉良通の生没年については諸説存在する。生年に関しては、永正12年(1515年)とする説 1 が有力視されるが、永正3年(1506年)説 2 や永正13年(1516年)説 2 も見られる。没年については、天正16年(1588年)とする記録 2 と、より具体的に天正16年11月19日(西暦では1589年1月5日)に没したとする記録 1 があり、享年は74歳であったとされる 1 。本報告では、複数の資料で支持され、具体的な日付まで言及のある永正12年(1515年)生、天正16年11月19日(1589年1月5日)没を主軸としつつ、異説の存在にも留意する。
第一章:出自と家督相続
稲葉氏のルーツと良通の誕生
稲葉氏の出自については、いくつかの伝承が残されている。一つは、伊予国の名族である河野氏の一族、稲葉通貞(どうてい、号は塩塵)が美濃国に流れて土豪となったとする説である 1 。また、西美濃三人衆の一人である安藤氏と同族で、伊賀氏の末裔とする説も存在する 1 。江戸時代の大名家としての稲葉氏は、元来伊予国で越智氏を称していたが、寛正5年(1464年)に美濃へ移り、守護の土岐成頼に仕え、後に稲葉と改姓したという記録もある 4 。これらの複数の説が存在することは、戦国時代の武家の出自の流動性や、後世における家系顕彰の過程で、より権威ある家系との結びつきが語られるようになった可能性を示唆している。
稲葉良通は、永正12年(1515年)、美濃の国人領主であった稲葉通則(みちのり)の六男(末子とも)として、美濃国池田郡本郷城で生まれたとされる 1 。幼名は彦六と伝えられる 2 。母については、国枝正助の娘 1 、あるいは一色義遠の娘 5 といった説があり、確定していない。
父兄の戦死と家督相続の経緯
良通は幼少期に仏門に入り、美濃国長良の崇福寺で禅僧となり、甲斐の名僧・快川紹喜(かいせんじょうき)の下で学んだとされている 1 。法名は宗哲と称した 9 。しかし、大永5年(1525年)、父・通則と五人の兄全員が、近江国の浅井亮政との牧田の戦いで戦死するという悲劇に見舞われる 1 。この時、稲葉家の男子は幼い良通のみとなり、彼は還俗して家督を継承することとなった。時に11歳であったという 10 。家督相続にあたっては、祖父の稲葉通貞(塩塵)と叔父の稲葉忠通の後見を受けたとされる 1 。父と兄全員を一度に失うという衝撃的な経験と、若くして一家の命運を担うことになった事実は、良通の強靭な精神力や現実的な判断力を養う上で、計り知れない影響を与えたと考えられる。また、僧侶としての教育は、後の彼の教養や人間観の形成にも寄与した可能性が指摘できる。
第二章:斎藤氏家臣としての道
土岐氏から斎藤道三へ
還俗し家督を継いだ稲葉良通は、当初、美濃守護であった土岐頼芸(とき よりのり)に仕えた 1 。しかし、天文11年(1542年)頃から本格化する斎藤道三による美濃国盗りの過程で、頼芸は道三によって追放される。この美濃国内の権力構造の激変期において、良通は道三に仕えることとなった 1 。主君の変遷は、良通がこの変動期を乗り越え、新たな権力者である道三にその実力を認められたことを示している。『武家事紀』などには、後に国を追われた土岐頼芸が武田氏の領内で保護されていた際、良通がその美濃帰還のために便宜を図ったという逸話も残されているが、その真偽は定かではない 11 。
西美濃三人衆としての台頭
斎藤道三、そしてその子・義龍(よしたつ)の時代を通じて、稲葉良通は、安藤守就(あんどう もりなり)、氏家直元(うじいえ なおもと、卜全(ぼくぜん)とも)と共に「西美濃三人衆」と称されるようになる 1 。特に良通は三人衆の筆頭と目され 1 、美濃国西部(西濃)において、彼らは共同して独立的な勢力を形成していた 2 。三人衆が連名で発給した書状も現存しており、彼らが重要な局面で共同歩調を取っていたことが窺える 13 。「三人衆」という呼称は、単なる個々の武将の集合体ではなく、美濃西部における一種の政治的・軍事的な共同体としての機能を有していたことを示唆する。彼らが連携することで、斎藤家内部での発言力を高め、また対外的にも一定の影響力を行使し得たと考えられる。
斎藤龍興との確執と織田信長への帰順
天文23年(1554年)の斎藤道三と嫡男・義龍との対立、そして弘治2年(1556年)の長良川の戦いにおいては、良通ら西美濃三人衆は義龍方に与した 7 。義龍は勝利したものの、永禄4年(1561年)に病死し、その子・龍興(たつおき)が後を継ぐ。しかし、龍興の時代になると、尾張国の織田信長による美濃侵攻が本格化する 7 。
永禄6年(1563年)、良通ら西美濃三人衆は、龍興の器量や政務を憂い、諫言を行ったが、龍興はこれを聞き入れなかったとされる 7 。この主君への諫言が容れられなかったことが、龍興との関係を悪化させ、斎藤家からの離反へと繋がる大きな要因となったと考えられる 7 。単なる個人的な不満に留まらず、主君の器量不足が家中の将来を危うくするという危機感が、彼らを新たな行動へと駆り立てたのであろう。
永禄10年(1567年)、稲葉良通、安藤守就、氏家直元の西美濃三人衆は、ついに斎藤龍興を見限り、織田信長に内通する 2 。彼らは人質を信長に差し出すことでその忠誠を示した 14 。三人衆の内応は、信長の美濃攻略を決定的なものとし、斎藤氏の本拠地であった稲葉山城(後の岐阜城)は陥落、龍興は伊勢へと逃亡した 14 。この三人衆の行動は、斎藤家の滅亡を早める大きなきっかけとなった 2 。信長は内応した三人衆に対し、それぞれの本領を安堵するとともに、杭瀬川以西の共同段銭(軍資金)徴収権などを認めたと伝えられる 12 。有力国人グループである三人衆が一斉に離反したことは、斎藤氏にとって致命的な打撃であり、信長にとっては美濃平定を大きく前進させるものであった。
第三章:織田信長の下での飛躍
信長の美濃平定への貢献
織田信長に仕えることとなった稲葉良通は、美濃国曽根城主としての地位を認められた 1 。信長の美濃平定直後から、その主要な軍事行動に積極的に参加していく。永禄11年(1568年)には、信長の上洛戦に従軍 7 。翌永禄12年(1569年)には、伊勢国における北畠具教(とものり)・具房(ともふさ)父子が籠城する大河内城(おかわちじょう)攻めにも加わった 7 。これらの重要な戦役に立て続けに従軍している事実は、良通ら西美濃三人衆が、旧斎藤家臣という立場を超えて、信長からその能力を高く評価され、信頼を得ていたことを示している。
主要な戦歴と武功
稲葉良通は、織田信長配下の武将として、各地の戦線で目覚ましい武功を挙げた。
これらの戦歴は、稲葉一鉄が織田軍の中核を担う武将として、信長から厚い信頼を寄せられていたことを示している。特に姉川の戦いでの徳川家康からの指名や、長篠の戦いでの信長による「今弁慶」という評価は、彼が織田家中のみならず、同盟軍の将からもその実力を認められていた証左である。
信長からの評価と逸話
稲葉一鉄と織田信長の関係は、単なる主従というだけでは語れない複雑な側面を持っていた。
天正2年(1574年)、一鉄は家督を嫡男の貞通に譲る意思を固め、剃髪して「一鉄似斎」と号した。しかし、信長に無断で出家したことを咎められ、一時謹慎を命じられた。その後、信長がその近辺で馬の調練を行った際に挨拶に出向いたところ、和解が許されたという 1。この出来事は、信長が家臣の行動を厳しく管理していたことを示す一方で、最終的には一鉄のこれまでの功績や実力を認めていたことをうかがわせる。
天正10年(1582年)、武田氏を滅ぼした甲州征伐から凱旋した信長を、一鉄は自領である美濃国呂久(ろく)の渡しで饗応した。この時、一鉄は孫たちに能を演じさせて信長を歓待し、信長はこれに喜び、一鉄の嫡男・貞通の子(稲葉典通か)に自ら腰に差していた刀を授与したと『信長公記』は伝えている 1 。この饗応の逸話は、両者の間に一定の親密な関係があったことを示唆する。
また、『名将言行録』には、信長が一鉄に謀反の疑いをかけた際のエピソードが記されている。茶室に招かれた一鉄は、そこに掛けられていた韓退之の漢詩「左遷至藍関示姪孫湘」を淀みなく読み上げ、その意味を解説して信長を感嘆させた。感服した信長は、実は一鉄を暗殺するつもりで家臣に武器を持たせていたことを明かして謝罪した。これに対し一鉄は、「そうではないかと思っておりましたので、もし殺されるようならば一人でも道連れにしようと、私も懐に刀を忍ばせておりました」と応じたという 1 。この逸話は、一鉄の武勇と度胸、そして高い教養を同時に示すものとして興味深いが、『名将言行録』の記述は史実性の点で慎重な検討を要する点に留意が必要である 19 。
さらに、『武家事紀』などには、紀州征伐の際に信長が雑賀衆を説得しようとした時の逸話がある。最初に派遣された使者は殺害されてしまったが、次に一鉄が使者として赴くと、雑賀衆は降伏した。その理由を問われた雑賀衆は、「最初の使者は尊大で横柄であったため殺害したが、一鉄殿は威儀を正し、礼儀正しく、道理をわきまえ、武士としての気風も立派であったため、これに感じ入り降伏した」と答えたという 1 。この逸話は、一鉄が武勇だけでなく、優れた人格と交渉力を兼ね備えていたことを示している。
これらの逸話は、信長と一鉄の関係が、信頼と警戒、賞賛と厳格さが入り混じったものであったことを物語っている。一鉄は、信長の期待に応える武功を挙げつつも、その厳しい統制下で巧みに立ち回り、自らの地位を維持していったのである。また、武勇以外の教養や交渉力といった能力も、彼が重用された要因の一つであったと考えられる。
第四章:本能寺の変と激動の時代
家督相続と隠居、勢力拡大
天正7年(1579年)、稲葉一鉄は家督と本拠であった曽根城を嫡子の稲葉貞通に譲り、自身は美濃国清水城(しみずじょう)に隠居した 1 。しかし、隠居後もその影響力は衰えなかった。翌天正8年(1580年)、かつての同僚であった安藤守就が織田信長によって北方城(きたがたじょう)を追われ、武儀郡谷口に蟄居させられると、信長は守就の旧領を一鉄に与えた 1 。これにより、一鉄の勢力は西濃地域で最大のものとなり、西濃の多くの国人や武士が信長の命によって一鉄の与力(配下)とされたと考えられる 1 。これは、信長が西美濃の安定統治のために、実績と影響力を持つ一鉄を依然として重用し、彼を核として勢力を再編しようとした戦略の現れと見ることができる。
本能寺の変勃発(1582年)と美濃の動乱
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都本能寺において明智光秀に討たれるという衝撃的な事件(本能寺の変)が発生する。信長の死という中央における権力の空白は、美濃国にも大きな動揺をもたらした。一鉄は、美濃国内の国人衆に呼びかけ、信長の甥であり斎藤道三の孫でもある斎藤利堯(としたか)を岐阜城に擁立し、明智光秀に対して独立した勢力を保とうと画策した 7 。この動きは、後に羽柴秀吉から疑念を抱かれる一因となったとも伝えられるが 2 、一方で、混乱する領国内の秩序を維持し、自衛を図るための現実的な対応であったとも解釈できる。この行動は、一鉄が中央の動向に一方的に従うのではなく、まず自領と美濃全体の安定を最優先しようとする強い意志と、美濃国人としての自負を示している。
旧同僚・安藤守就との対立と旧領回復
本能寺の変による混乱に乗じ、かつて信長に追放されていた安藤守就が再起を図った。守就は明智光秀と連携し、子の定治(さだはる)と共に挙兵、旧領である北方城を奪還し、さらに一鉄方の本田城を攻撃した 7 。安藤守就が信長に追放された理由については、甲斐国の武田信玄に内通した罪によるとする説がある 22 。
一鉄はこれを迎え撃ち、激しい戦闘の末、安藤守就・定治父子を敗死させ、その一族を滅ぼした 7 。かつて西美濃三人衆として行動を共にした盟友との戦いは、戦国時代の過酷な現実を象徴している。守就の挙兵は、一鉄自身の勢力圏に対する直接的な脅威であり、これを徹底的に排除したことは、生き残りのためには非情な決断も辞さない一鉄の「一徹」な側面と、戦国武将としての冷徹な判断力を示している。
豊臣秀吉への臣従
本能寺の変後、織田家の後継者を巡る争いが激化する。清洲会議の結果、織田信孝(信長の三男)が美濃国を相続し岐阜城主となったが、信孝は羽柴秀吉と対立を深めていく。このような状況下で、稲葉一鉄は信孝ではなく、次第に台頭してきた秀吉に従うようになった 7 。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉方として柴田勝家方の不破家の西保城を攻撃したが、この時、敵対する織田信孝によって城下の村々を焼き討ちされるという被害も受けている 7 。翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも秀吉方として従軍し、戦功を挙げた 2 。この戦いの際には、秀吉から尾張国小口(おぐち)周辺の地域における采配(農民に対する指示や裁定など)を任されたという記録も残っており 24 、秀吉からの信頼を得ていたことがうかがえる。信長死後の混乱期において、織田家内部の勢力争いを見極め、最終的に新たな覇者となりつつあった秀吉に与したことは、一鉄の優れた政治的判断力を示しており、これが稲葉家の存続に繋がったと言えるだろう。
第五章:豊臣政権下における稲葉良通
秀吉の下での活動と晩年
羽柴秀吉が天下統一を進め、豊臣政権を確立すると、稲葉一鉄はその下で重臣として遇された。天正13年(1585年)、秀吉が関白に就任すると、一鉄は法印(ほういん)に叙せられ、「三位法印(さんみほういん)」と称した 1 。これは、豊臣政権下において彼が厚遇されていたことを示すものである。
天正15年(1587年)、九州の島津氏を平定(島津攻め)して凱旋した秀吉を、一鉄は西宮(現在の兵庫県西宮市)まで出迎え、その後、大坂城内の山里丸に設けられた茶室に招かれ、秀吉から茶の振る舞いを受けたと記録されている 1 。これは、秀吉との間に親密な関係が築かれていたことを示唆するエピソードである。これらの厚遇は、一鉄が単なる一武将としてではなく、織田信長時代からの経験豊富な長老として、豊臣政権内で一定の敬意を払われていたことを示している。武功のみならず、その人格や長年の経験が評価された結果であろう。
天正16年(1588年)11月19日(西暦では1589年1月5日)、稲葉一鉄は美濃国清水城にてその生涯を閉じた。享年74であった 1 。その墓所は、美濃国大野郡長良(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町)にある月桂院(げっけいいん)に設けられた 2 。月桂院の墓地には、一鉄夫妻と、その子である稲葉貞通の正室及び継室の墓とされる合計4基の五輪塔が現存している 26 。
茶の湯を通じた交流
前述の通り、稲葉一鉄が秀吉から大坂城山里丸の茶室に招かれたという事実は 1 、彼が茶の湯の心得を持っていたか、あるいはそのような文化的な社交の場にも招かれるだけの人物であったことを示唆している。また、一鉄は能にも造詣が深かったとされ、かつての居城であった曽根城址の華渓寺(かけいじ)には、一鉄が愛用したと伝えられる翁の能面が大垣市の文化財として収蔵されている 1 。
当時の武将たちにとって、茶の湯や能といった文化的素養は、単なる個人的な趣味に留まらず、他者とのコミュニケーションを図るための重要な手段であり、また自身のステータスを示すものでもあった。一鉄がこうした文化的な活動に関与していたことは、彼の多面的な人物像を浮き彫りにするとともに、当時の武家社会における文化の役割を反映していると言えるだろう。
第六章:人物像と逸話
「頑固一徹」の語源と良通の性格
稲葉良通を語る上で欠かせないのが、「頑固一徹」という言葉の語源であるという説である 3 。江戸時代末期に編纂された『名将言行録』には、「貞通(良通を指すか)人となり敢決強直。ゆえに世人、敢決強直なる人を呼びて一鉄という」との記述が見られる 1 。また、明治時代の国語辞書である大槻文彦の『言海』においても、「一徹者」の項目で稲葉一鉄の名に起因するという説が紹介されている 1 。
この「頑固さ」や「一徹さ」は、姉川の戦いの後、織田信長からの恩賞を固辞したとされる逸話 16 や、信長に謀反を疑われた際に少しも臆することなく堂々とした態度で対峙したとされる逸話 1 などにも現れているように解釈できる。しかし、これらの逸話からうかがえる「頑固一徹」さは、単に人の意見を聞かない強情さというよりも、自らの信念や義理を貫き通す精神的な強靭さ、あるいは一度決断したことを最後までやり遂げる不退転の意志の表れと捉えることもできる。このような性格が、激動の戦国時代を生き抜き、数々の困難を乗り越える上で、彼の強みとなった可能性も否定できない。
武勇と知略
稲葉一鉄は、その生涯を通じて数多くの戦場を経験し、卓越した武勇を発揮した。姉川の戦いでは織田軍の先陣を務め 1 、長篠の戦いではその奮戦ぶりから信長に「今弁慶」と賞賛されたことは既に述べた通りである 1 。生涯で80回余りの戦に臨み、ほとんど負けを知らなかったとも伝えられている 10 。
一方で、一鉄は単なる猛将ではなかったことを示す逸話も残されている。『武家事紀』などに記された話によれば、ある時、敵の間者が捕らえられて引き出された際、家臣たちは処刑を主張したが、一鉄はその間者が若いのを見て不憫に思い、縄を解かせ食事を与えた。そして、自分たち美濃の武将が領土と家名をいかに苦労して守っているかを語り聞かせ、自陣の様子を見せた上で金銭を与えて釈放した。後にその間者は一鉄の恩義に報いるため稲葉家の足軽となり、姉川の戦いで奮戦し戦死したという 1 。この逸話は、一鉄の武勇だけでなく、人心掌握術や人間的な情の深さをも示している。このような武勇と仁徳のバランス感覚が、家臣や領民からの信頼を得る上で重要な要素であったと考えられる。
医術の心得と文化的素養
稲葉一鉄は、武勇や知略に長けていただけではなく、医術や文化的な素養も持ち合わせていた。彼が医道に関心を寄せていたことは、『稲葉一鉄薬方覚書』という医学に関する覚書を遺していることからも明らかである 1 。さらに、正室の実家であった公家の三条西公条(さんじょうにし きんえだ)から、より専門的な薬方の知識を相伝されていたと伝えられている 1 。
また、前述の信長との逸話に見られるように、韓退之の漢詩を読み解くほどの漢学の素養があり 1 、能にも造詣が深かった 1 。戦国武将が医術や漢詩などの教養を身につけることは珍しいことではなかったが、一鉄が専門的な薬方を相伝されるほど深く医学に関わっていた点は注目に値する。これは、単なる嗜みを超え、実用的な知識として、また公家との繋がりを維持し、文化的な権威を高める手段として重要であった可能性がある。幼少期に崇福寺で快川紹喜に師事した経験も、彼の知的な側面を育む上で影響を与えたのかもしれない。
仁愛と人間味あふれる逸話
稲葉一鉄の人間的な温かさや仁愛の精神を伝える逸話もいくつか残されている。
『武家事紀』などによれば、一鉄は外出する際、常に小銭を入れた銭袋を腰に帯び、道で出会う僧侶や修験者に銭を与えていた。家臣がその理由を尋ねると、「我が家の祖である塩塵(稲葉通貞)は、飢えに苦しみながら諸国を遍歴した。一飯の施しが相手を助け、ひいては自分自身を助けることになるのだ」と語ったという 1。ある時、敵の間者が僧侶に化けて近づいてきたことがあったが、一鉄はいつものように銭を与えた。その間者は一鉄の態度に感銘を受け、主君に「一鉄は誠の仁者である」と報告したと伝えられる 1。
また、兵糧を管理する家臣が、洪水の様子を高みの見物していたと聞いた一鉄は、兵糧こそが最も大事なものであると諭し、そのような家臣を任命した責任は自分にあるとして、しばらくの間、自ら粗末な食事のみで過ごしたという 11 。さらに、ある宴席で多くの豪華な酒肴でもてなされた際には、「これほど贅沢なものを毎回出していては、そちらのお家のためになりませんぞ」と、相手を気遣って忠告したとも言われている 11 。
これらの逸話の多くは、『名将言行録』や『武家事紀』といった後世の編纂物に見られるものであり、その史実性については慎重な吟味が求められるものの 19 、稲葉一鉄という人物が、単に剛直な武将であっただけでなく、他者への配慮や共感、そして高い倫理観を持つ人物として記憶され、語り継がれてきたことを示している。
第七章:家族と子孫
子女と稲葉家のその後
稲葉一鉄には複数の子女がいた。男子としては、稲葉重通(しげみち)、稲葉貞通(さだみち)、稲葉方通(まさみち)、稲葉直政(なおまさ)らの名が伝えられている 1 。女子も多く、堀池半之丞室、国枝重元室、斎藤利三室となった稲葉安(やす)、丸毛兼利室、山村良勝室などがいた 1 。
長男とされることが多い重通は、母を加納兵次女とし 5、織田信長、豊臣秀吉に仕えた 5。父・一鉄の死後は美濃清水城主となった 20。
一方、嫡男とされることが多い貞通は、母を三条西公条女とし 5、父・一鉄から家督と曽根城を譲られた 1。本能寺の変後は父と共に一時謹慎し、揖斐城主となった時期もある 28。その後、郡上八幡城主となり 2、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、豊後国臼杵藩(うすきはん)の初代藩主となった 5。関ヶ原の戦いにおいては、当初西軍に属していたが、後に東軍に転じるという動きを見せている 5。
重通と貞通の嫡庶関係や出生順については、資料によって若干の記述の揺れが見られる。例えば、ある資料では貞通を「次男」とし、重通を「庶出長男」で貞通が家督を相続したと記す一方 28 、別の資料では貞通を「次男」としつつ、「異母兄重通が庶子であったため父一鉄の嫡男となり」と説明するものもある 5 。いずれにせよ、稲葉家の家督は主に貞通の系統が継承し、江戸時代を通じて大名として存続した。
稲葉家は、貞通の系統が豊後臼杵藩主として明治維新を迎えたほか、重通の養子である稲葉正成(まさなり、春日局の夫)の子孫が山城国淀藩主や安房国館山藩主としてそれぞれ大名となり、江戸時代を通じて家名を保った 4 。結果として複数の家系が江戸時代に大名として存続したことは、稲葉氏全体の巧みな生き残り戦略と、一鉄が築いた基盤、そして子孫たちの時代への適応能力の高さを示唆している。
春日局との関係
稲葉一鉄は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母として絶大な権勢を振るった春日局(かすがのつぼね、名は福(ふく))と深い縁戚関係にあった。春日局の父は明智光秀の重臣であった斎藤利三であり、母は稲葉一鉄の娘である稲葉安とする説が有力である 1 。この説に従えば、一鉄は春日局の(母方の)祖父にあたる。異説として、春日局の母を一鉄の姉の娘・於阿牟(おあむ)とするもの 33 や、稲葉通明(みちあき)の娘とするものもある 6 。
本能寺の変の後、父・斎藤利三が山崎の戦いで敗死すると、幼い福(春日局)は母方の縁者である稲葉家に引き取られ、成人するまで美濃清水城で過ごしたと見られている 1 。伯父にあたる稲葉重通の養女となったとも伝えられる 33 。その後、福は稲葉正成(重通の養子、元は小早川秀秋の家臣)の後妻となり、後に徳川家光の乳母に選ばれて江戸城大奥に入り、大きな影響力を持つに至った 6 。
稲葉一鉄自身は徳川幕府が成立する以前に没しているが、彼と血縁の深い春日局が将軍家光の乳母として幕政に大きな影響力を持ったことは、江戸時代における稲葉一族の地位安定やさらなる繁栄に間接的に寄与した可能性は否定できない。この縁は、戦国時代における婚姻政策や縁戚関係の重要性を示す一例とも言えるだろう。一鉄の時代に結ばれた縁が、数世代を経て大きな意味を持つに至ったことは、歴史の興味深い側面の一つである。
終章:稲葉良通(一鉄)の生涯とその遺産
稲葉良通(一鉄)の生涯は、戦国時代から安土桃山時代という激動の時代を、武勇と知略、そして「一徹」と評される強い意志をもって生き抜いた武将の姿を鮮やかに示している。土岐氏に始まり、斎藤氏、織田氏、豊臣氏と主君を変えながらも、常にその実力を認められ、重要な地位を占め続けた。西美濃三人衆の筆頭としての地域への影響力、姉川や長篠といった歴史的な合戦での武功、そして信長や秀吉といった天下人との関わりは、彼の戦国武将としての価値を物語っている。
「頑固一徹」という言葉の語源とされるほど、その剛直な性格は後世に強い印象を残した。しかし、その「一徹さ」は単なる強情ではなく、信念を貫く強さ、あるいは一度定めた目標に対する不退転の決意の表れであったと解釈できる。同時に、敵の間者にも情けをかける人間味や、医術や漢詩、能といった文化的素養も持ち合わせており、武辺一辺倒ではない多面的な人物であったことがうかがえる。この多面性こそが、彼が激動の時代を巧みに生き抜き、家名を後世に伝えることを可能にした要因の一つであろう。
稲葉一鉄の遺産は、物理的なものだけにとどまらない。彼の子孫は江戸時代を通じて豊後臼杵藩主家や山城淀藩主家などとして存続し、特に孫娘(またはそれに近い縁者)とされる春日局が徳川幕府の大奥で権勢を振るったことは、稲葉家の名をさらに高めることになった。美濃国においては、曽根城や清水城といった居城跡、そして菩提寺である月桂院などが彼の足跡を今に伝えている。また、若き日に修行した崇福寺への梵鐘寄進の逸話 8 なども、地域との関わりを示すものである。
稲葉良通の生涯は、変化の激しい時代にあって、いかに自己の価値を高め、家を存続させていくかという、戦国武将の普遍的な課題に対する一つの解答を示していると言える。その武勇、知略、そして人間的魅力は、数々の逸話と共に、今日まで語り継がれている。
補遺
稲葉良通 略年表
年代(西暦) |
出来事 |
典拠例 |
永正12年(1515年) |
美濃国池田郡本郷城にて稲葉通則の六男として誕生(異説あり) |
1 |
幼少期 |
崇福寺にて僧侶となり快川紹喜に師事、法名「宗哲」 |
1 |
大永5年(1525年) |
父・通則と兄5人が牧田の戦いで戦死、還俗し家督と曽根城を継承 |
1 |
天文年間初期 |
美濃守護・土岐頼芸に仕える |
1 |
天文年間中期 |
斎藤道三に仕える |
1 |
弘治2年(1556年) |
長良川の戦いで斎藤義龍方に付く |
7 |
永禄年間 |
安藤守就・氏家直元と共に「西美濃三人衆」と称される |
1 |
永禄6年(1563年) |
西美濃三人衆で斎藤龍興に諫言するが容れられず |
7 |
永禄10年(1567年) |
西美濃三人衆と共に斎藤龍興から離反し織田信長に内通、信長の美濃平定に貢献 |
2 |
永禄11年(1568年) |
織田信長の上洛戦に従軍 |
7 |
元亀元年(1570年) |
姉川の戦いで奮戦。江州路警護、野田・福島の戦いに参加 |
1 |
元亀2年(1571年) |
長島一向一揆攻めに従軍 |
7 |
天正元年(1573年) |
槇島城の戦いに嫡男・貞通らと参戦 |
7 |
天正2年(1574年) |
出家し「一鉄」と号す |
7 |
天正3年(1575年) |
長篠の戦いで奮戦し「今弁慶」と賞される。越前一向一揆攻めに従軍 |
1 |
天正4年(1576年) |
天王寺の戦いに従軍 |
7 |
天正5年(1577年) |
紀州攻め、加賀一向一揆攻め、播磨・神吉城攻めに従軍 |
7 |
天正6年(1578年) |
有岡城の戦いに従軍 |
7 |
天正7年(1579年) |
家督と曽根城を嫡男・貞通に譲り、美濃清水城に移る |
1 |
天正8年(1580年) |
安藤守就の旧領を与えられ、西濃最大の勢力となる |
1 |
天正10年(1582年) |
武田攻めより凱旋した信長を饗応。本能寺の変後、斎藤利堯を擁立。安藤守就を討つ |
1 |
天正10年(1582年)以降 |
羽柴(豊臣)秀吉に臣従 |
7 |
天正11年(1583年) |
賤ヶ岳の戦いに秀吉方として従軍 |
7 |
天正12年(1584年) |
小牧・長久手の戦いに秀吉方として従軍 |
2 |
天正13年(1585年) |
秀吉の関白就任に伴い、法印に叙され「三位法印」と称す |
1 |
天正15年(1587年) |
島津攻めから凱旋した秀吉を西宮に出迎え、大坂城の茶室に招かれる |
1 |
天正16年11月19日(1589年1月5日) |
美濃清水城にて死去、享年74 |
1 |
稲葉良通 関係主要人物一覧
人物名 |
良通との関係 |
典拠例 |
稲葉通則 |
父、牧田の戦いで戦死 |
1 |
稲葉塩塵(通貞) |
祖父、良通の家督相続時の後見人 |
1 |
快川紹喜 |
幼少期の師(禅僧) |
1 |
土岐頼芸 |
初期の主君(美濃守護) |
1 |
斎藤道三 |
主君(美濃国主) |
1 |
斎藤義龍 |
主君(道三の子) |
7 |
斎藤龍興 |
主君(義龍の子)、後に離反 |
7 |
安藤守就 |
西美濃三人衆の同僚、後に敵対し討伐 |
3 |
氏家直元(卜全) |
西美濃三人衆の同僚 |
1 |
織田信長 |
主君、美濃平定後に仕える |
1 |
豊臣秀吉 |
主君、信長死後に仕える |
1 |
徳川家康 |
姉川の戦いでの逸話など |
1 |
稲葉重通 |
子(庶長子説あり)、織田・豊臣に仕える |
5 |
稲葉貞通 |
子(嫡男、次男説あり)、家督を継ぎ豊後臼杵藩初代藩主 |
1 |
稲葉安 |
娘(斎藤利三室)、春日局の母とされる |
1 |
斎藤利三 |
明智光秀家臣、良通の娘婿(稲葉安の夫)、春日局の父 |
6 |
春日局(斎藤福) |
孫娘(稲葉安の子、または養祖父)、徳川家光乳母 |
1 |
斎藤利堯 |
甥(道三の末子か)、本能寺の変後に良通らが岐阜城に擁立 |
7 |
史料の取り扱いに関する注記
本報告書を作成するにあたり、複数の歴史資料及び研究を参照した。特に、稲葉良通(一鉄)の人物像や逸話に関しては、江戸時代に編纂された『名将言行録』や『武家事紀』などに拠る部分も少なくない。これらの史料は、当時の人々の歴史認識や価値観を反映する貴重なものである一方、その記述には編纂者の意図や伝承に基づく潤色が含まれる可能性があり、史実性の検証には慎重な態度が求められる 19 。したがって、本報告書ではこれらの逸話を紹介する際、あくまで人物像を多角的に理解するための一助として扱い、史実として断定的な記述は可能な限り避けた。可能な範囲で『信長公記』などの一次史料に近い情報や、複数の資料で整合性が確認できる情報を優先的に採用するよう努めた。