稲葉貞通 詳細報告書
序章:稲葉貞通とその時代
本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、稲葉貞通(いなば さだみち)の生涯と事績を、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とする。彼の出自、主君の変遷、主要な合戦における役割、そして豊後臼杵藩初代藩主としての活動を多角的に検証する。
稲葉貞通が生きた天文15年(1546年)から慶長8年(1603年)は、室町幕府の権威が失墜し、群雄割拠の戦国時代から、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業を経て、徳川家康による江戸幕府の成立へと至る、日本史上未曾有の変革期であった 1 。この時代背景が、貞通の生涯や決断に多大な影響を与えたことは想像に難くない。本報告書では、この激動の時代を生きた一人の武将の実像に迫る。
第一章:稲葉貞通の出自と家系
稲葉氏の起源と美濃における基盤
稲葉氏の出自については、伊予国(現在の愛媛県)の豪族である越智氏を称したとされる 1 。寛正5年(1464年)、美濃国(現在の岐阜県南部)へ移り、守護であった土岐成頼に仕え、後に稲葉と改姓したと伝えられている 1 。この美濃への移住が、後の稲葉氏の発展の礎となった。
稲葉氏の祖先の一人とされる稲葉通貞(塩塵)は、伊予国の名族河野氏の一族であったが、何らかの理由で美濃に流れ着き、土豪として勢力を築いたとされる 3 。また、同じく美濃の有力国人であった安藤氏と同族で、伊賀氏の末裔であるとの説も存在する 3 。稲葉氏は、美濃国安八郡の曽根城(現在の大垣市曽根町)を拠点としていた 3 。
父・稲葉良通(一鉄)の人物像と影響
稲葉貞通の父は、稲葉良通(いなば よしみち)、法名を一鉄(いってつ)という 1 。良通は、土岐頼芸、斎藤道三、斎藤義龍、斎藤龍興、そして織田信長、豊臣秀吉と、目まぐるしく変わる美濃の支配者や天下人に仕えながらも、その武勇と知略によって西美濃三人衆の一人に数えられるほどの地位を築いた人物である 3 。
一鉄は「敢決強直なる人」(決断力があり、意志が強く、何事にも屈しない人物)と評され、その剛直さから「一徹者」という言葉の語源になったとも伝えられている 3 。このような傑出した父の存在は、貞通の武将としての生き方や価値観の形成に、計り知れない影響を与えたと考えられる。一鉄は天正7年(1579年)に家督と曽根城を貞通に譲り、自身は美濃清水城(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町)に隠居した 3 。
稲葉貞通の生誕、家族構成
稲葉貞通は、天文15年(1546年)、稲葉良通(一鉄)の嫡男として美濃国で生を受けた 1 。父・良通の正室の子であったため、嫡男としての地位を確立していた 7 。
貞通の母は、三条西公条(さんじょうにし きんえだ)、あるいはその子である三条西実枝(さねき)の娘とされている 1 。三条西家は和歌や古典文学で名高い公家であり、武家である稲葉家との婚姻は、当時の稲葉家が中央の公家との繋がりを意識し、その文化的な権威や朝廷とのパイプを求めていた可能性を示唆している。これは、地方の武士が勢力を拡大し、中央政界との関係を構築しようとする戦国時代の一般的な傾向とも合致する動きであり、単なる地方豪族からの脱却を目指す稲葉家の戦略の一環であったとも考えられる。
貞通の通称は彦六(ひころく)といい、後に右京亮(うきょうのすけ)を称した 1 。
兄弟姉妹には、堀池半之丞室、国枝重元室、稲葉重通(しげみち)、稲葉方通(まさみち)、稲葉直政(なおまさ)、稲葉安(やす)、丸毛兼利(まるも かねとし)室、山村良勝(やまむら よしかつ)室などがいたことが記録されている 7 。
貞通の妻については、複数の記録がある。正室として斎藤道三の娘を迎え、継室には稲葉夫人(織田信秀の娘、すなわち織田信長の妹または姉)、さらに継々室として前田玄以(まえだ げんい)の娘を迎えている 7 。これらの婚姻は、当時の有力大名家との政略結婚であり、稲葉家が激動の時代を生き抜くために、巧みな外交戦略を展開していたことを示している。特に、美濃の国主であった斎藤道三、尾張の有力者であった織田信秀(信長の父)、そして豊臣政権の重臣(五奉行の一人)であった前田玄以という、その時々の有力勢力との結びつきを重視した結果と考えられる。これは、主君の変遷とも連動しており、婚姻を通じて主家や同盟勢力との絆を深め、家の安泰を図るという、戦国武将の典型的な生存戦略であったと言えるだろう。
子女には、長男で後に臼杵藩2代藩主となる稲葉典通(のりみち)、三男の稲葉通孝(みちたか)、稲葉秀方(ひでかた)、稲葉大学(だいがく)といった男子のほか、赤座弥助(あかざ やすけ)室、中坊秀政(なかのぼう ひでまさ)正室、玉雲院(織田信秀室とされるが、これは貞通の継室である稲葉夫人(織田信秀の娘)との混同か、あるいは別の縁組である可能性も否定できず、さらなる検証が必要である)、柴田勝豊(しばた かつとよ)正室といった女子がいた 7 。
提案表1:稲葉貞通 家系図(主要人物)
関係 |
氏名 |
備考 |
父 |
稲葉良通(一鉄) |
美濃三人衆の一人 |
母 |
三条西公条(または実枝)の娘 |
公家出身 |
兄弟姉妹 |
稲葉重通、稲葉方通、稲葉直政(ほか) |
|
正室 |
斎藤道三の娘 |
美濃国主の娘 |
継室 |
稲葉夫人(織田信秀の娘) |
織田信長の妹または姉 |
継々室 |
前田玄以の娘 |
豊臣政権五奉行の一人の娘 |
長男 |
稲葉典通 |
臼杵藩2代藩主 |
三男 |
稲葉通孝 |
関ヶ原の戦い時、父の留守中に郡上八幡城を守備 8 |
その他子女 |
稲葉秀方、稲葉大学、娘(複数) |
赤座氏、中坊氏、柴田氏などに嫁ぐ |
この家系図は、稲葉貞通の血縁関係と婚姻関係を視覚的に示し、彼の人間関係や稲葉家の戦略的背景の理解を助けるものである。特に婚姻関係は、当時の武家の勢力図や外交関係を考察する上で重要な手がかりとなる。
第二章:斎藤氏家臣時代
斎藤道三、義龍、龍興の治世と稲葉氏の立場
稲葉氏は、美濃守護であった土岐氏が斎藤道三によってその実権を奪われると、道三、そしてその子である義龍(よしたつ)、孫の龍興(たつおき)と続く斎藤氏三代に仕えた 1 。父・稲葉一鉄は、安藤守就(あんどう もりなり)、氏家直元(うじいえ なおもと)と共に「西美濃三人衆」と称され、斎藤家中で重きをなしていた 3 。
稲葉貞通も、当初は父・一鉄と共に斎藤義龍、龍興に仕えたと記録されている 7 。父・一鉄は、道三とその子・義龍が対立した長良川の戦い(弘治2年・1556年)では義龍方に与している 3 。この時、貞通はまだ10歳前後と若年であり、合戦に直接的な関与があったとは考えにくいが、稲葉家全体の動向として極めて重要な出来事であった。
斎藤龍興の代になると、龍興の若さや器量不足もあってか、稲葉家を含む西美濃三人衆との関係は必ずしも良好ではなかった可能性が示唆されている 11 。
稲葉貞通の具体的な活動と役割
史料によれば、稲葉貞通は父と共に美濃国斎藤氏に仕えていたが、永禄10年(1567年)、織田信長の美濃侵攻軍の前に斎藤氏が敗れると、父と共に信長に降伏したとされている 7 。
しかしながら、斎藤氏家臣時代の稲葉貞通個人の具体的な役職や知行、詳細な活動に関する記録は、現存する資料からは明確には読み取ることができない 5 。この時期の貞通の活動は、主に父・一鉄の指揮下にあったと推測される。彼がまだ若く、家督を継承する前であったこと、あるいは後年の織田・豊臣政権下での華々しい活躍に比べて記録が残りにくかったこと、さらには史料そのものが散逸した可能性などが考えられる。しかし、父・一鉄が斎藤家の主要な家臣団の一員として重用されていたことを考慮すれば、貞通もまた、美濃国内の政治や軍事にある程度関与していたことは想像に難くない。
第三章:織田信長への臣従
信長への帰属の経緯と美濃曽根城主就任
永禄10年(1567年)、織田信長による美濃侵攻が本格化すると、稲葉貞通は父・一鉄と共に、長年仕えた斎藤龍興を見限り、信長に降伏しその軍門に下った 3 。この決断は、同じく西美濃三人衆であった安藤守就、氏家直元と共同歩調をとったものであり、斎藤氏にとっては大きな痛手となり、結果的に稲葉山城(後の岐阜城)の早期陥落に繋がった 5 。
信長に仕えた後、貞通は父・一鉄の指導のもと、織田軍の一翼を担う武将として経験を積んでいく。そして天正7年(1579年)、父・一鉄から家督を譲られ、稲葉家の本拠地である美濃曽根城主となった 1 。この時、貞通は33歳であり、名実ともに独立した将としてのキャリアが本格的に始まったと言える。
信長配下としての主要な戦歴と軍功
織田信長の麾下に入った稲葉貞通は、信長の命に従って各地を転戦し、戦功を挙げたとされる 1 。父・一鉄は、姉川の戦い(元亀元年・1570年)や長篠の戦い(天正3年・1575年)といった織田軍の主要な合戦に従軍している記録があるが 3 、貞通自身がこれらの戦いで具体的にどのような役割を果たしたかについては、現存する資料からは明確ではない 5 。しかし、父と共に戦場に赴いていた可能性は十分に考えられる。
天正元年(1573年)の槇島城の戦い(足利義昭追放戦)においては、父・一鉄、そして貞通の子である稲葉典通と共に参戦したという記録が残っている 3 。これは、貞通が信長配下の武将として実戦経験を積んでいたことを具体的に示すものである。
飯山城守備における不手際と解任の経緯
天正10年(1582年)4月、武田氏滅亡後の信濃国統治の一環として、貞通は飯山城(現在の長野県飯山市)の守備を命じられた。しかし、その直後、武田氏旧臣の芋川親正らが扇動した一揆勢に城を包囲され、窮地に陥った 7 。
この危機は、森長可(もり ながよし)の援軍によって包囲が解かれ、事なきを得たものの 7 、この一連の不手際が信長の逆鱗に触れた。貞通は飯山城守備の任を解かれ、信長の本陣が置かれていた諏訪(現在の長野県諏訪市)へと召還されたのである 7 。これは、貞通の武将としてのキャリアにおける一つの汚点であり、織田信長の厳格な人事評価と、一度の失敗が即座に処遇に影響を及ぼす戦国時代の厳しさを示す事例と言えるだろう。しかし、この後も貞通が武将として活躍を続けることから、彼がこの失敗から学び、挽回する能力と機会に恵まれたこともまた事実である。この経験は、彼の武将としてのレジリエンス(再起力)を考察する上で重要な出来事であった。
本能寺の変後の動向
天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都本能寺において明智光秀の謀反によって横死するという衝撃的な事件(本能寺の変)が発生した。この時、稲葉貞通は京都に滞在していたが、信長横死の報を受けると、急ぎ本国である美濃へ逃れた 7 。
信長亡き後の混乱の中、父・一鉄と共に、新たな実力者として台頭しつつあった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に属することになる 1 。これは、激変する政局を冷静に見極め、時流に乗るための迅速かつ現実的な判断であったと言える。
第四章:豊臣秀吉政権下での活動
秀吉への臣従と初期の活動
本能寺の変後、稲葉貞通は父・一鉄と共に豊臣秀吉の麾下に入った 1 。天正11年(1583年)に勃発した賤ヶ岳の戦いでは、秀吉方に与して戦った。この際、美濃は信長の三男であり、秀吉と対立していた織田信孝の支配下にあったため、旧主の息子に刃向かうことへの葛藤からか、貞通は長男の稲葉典通に一時的に家督を譲ったと伝えられている 7 。この行動は、旧恩と新たな主君への忠誠との間で揺れ動く、戦国武将の複雑な心理状況を反映していると言えるだろう。
同年、貞通は秀吉に従い、伊勢国峯城(現在の三重県)を攻撃した。その帰路において、土民による一揆に遭遇し、軍勢が壊滅の危機に瀕したが、貞通自らが殿軍(しんがり)を務めて奮戦し、一揆勢を三度にわたり撃退したという 7 。この功績は、貞通の武勇と高い指揮能力を如実に示すものである。
主要な戦役への従軍と具体的な戦功
稲葉貞通は、豊臣秀吉による天下統一事業において、主要な戦役の多くに従軍している。これは、彼が秀吉から一定の信頼を得ていた有力大名の一人であったことを強く示唆している。
これらの大規模な軍事行動に継続して動員されたことは、稲葉貞通が豊臣政権において軍事力の一翼を担う重要な存在であったことの証左と言えるだろう。
郡上八幡城主としての活動と城郭改修
天正16年(1588年)、稲葉貞通は美濃国郡上郡(現在の岐阜県郡上市)の郡上八幡城主となり、4万石の所領を与えられた 1 。
郡上八幡城主となった貞通は、城の大規模な改修に着手した。山上にあった本丸には天守閣を建設し、山腹の平坦地には居館を構えて二ノ丸とするなど、城郭全体の構造を刷新し、近世城郭としての体裁を整えた 1 。具体的には、天守台を新たに設け、戦国時代特有の「野面積(のづらづみ)」と呼ばれる技法で高い石垣を構築するなど、防御機能を大幅に向上させた 22 。
さらに、城郭の整備に留まらず、城下町の建設も積極的に進めた。特筆すべきは、当時依然として影響力を有していた一向一揆の勢力を削減する目的で、名刹であった安養寺を大島地区から城下に移転させたことである 1 。この郡上八幡城の大改修と城下町整備は、単に軍事拠点としての強化を図るだけでなく、領国経営の中心地としての機能を充実させる意図があったと考えられる。安養寺の移転は、宗教勢力への配慮と統制という政治的意図に加え、城下町の精神的な支柱としての役割を期待した政策であった可能性が高い。
羽柴姓下賜と官位
天正16年(1588年)、稲葉貞通は豊臣秀吉から羽柴の苗字と豊臣姓を下賜された 7 。これは、彼が豊臣政権における正式な大名として、その地位が公に認められたことを意味する重要な出来事であった。
貞通は通称として彦六、右京亮を称していたが 1 、天正15年(1587年)の冬には従五位下・侍従に叙任されている 7 。これにより、「羽柴郡上侍従」の名で呼ばれるようになった 1 。
嫡男・稲葉典通の豊臣秀吉による勘気とその理由、貞通の家督再任の経緯
天正15年(1587年)の九州平定に従軍中、貞通の長男であり、一時は家督を譲られていた稲葉典通が、何らかの理由で豊臣秀吉の機嫌を損ね、蟄居を命じられるという事件が起こった。この結果、貞通が再び稲葉家の家督の座に就くことになった 7 。
典通が秀吉の勘気を被った具体的な理由については、現存する資料からは残念ながら判明していない 4 。この典通の失脚と貞通の家督再任という出来事は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将の家督継承が、単純な世襲によって決まるものではなく、主君の意向や当主本人の能力、さらには不測の事態によって大きく左右される不安定なものであったことを示している。貞通がこの家の危機を乗り越え、結果として家名を維持し続けたことは、彼の政治的な手腕の一端を示すものと言えるだろう。
第五章:関ヶ原の戦いと徳川家康
関ヶ原の戦いにおける稲葉貞通の動向
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下の覇権を巡って徳川家康率いる東軍と石田三成らを中心とする西軍が激突した関ヶ原の戦いが勃発した。この天下分け目の戦いにおいて、稲葉貞通は複雑な立場に置かれ、その動向は注目される。
徳川家康との関係構築と豊後臼杵への転封
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、稲葉貞通は、当初西軍に加担していたことを徳川家康に詫び、自ら剃髪して謹慎の意を示した 8 。
しかし、その後の東軍としての戦功が認められたこと、そして家康の戦後処理における政治的判断もあってか、貞通は罰せられることなく、逆に加増転封という破格の処遇を受けることになった。具体的には、それまでの美濃国郡上八幡4万石から、豊後国臼杵(現在の臼杵市、海部郡、大野郡、大分郡の一部)において5万60石余を与えられ、移封されたのである 1 。
関ヶ原の戦いにおける稲葉貞通の一連の行動は、一見すると一貫性に欠けるように見えるかもしれない。しかし、それは家の存続を何よりも優先するという、戦国武将としての極めて現実的な判断の結果であったと言える。当初西軍に属しながらも、最終的に加増転封を勝ち取ったことは、彼の戦場での武功だけでなく、時勢を読む鋭い洞察力や、家康方との交渉力も評価された可能性を示唆している。「竹を割ったような性格できっちり自己の意地を通した」 8 という評価と、この複雑な状況下での最終的な好結果は、彼の人物像を考察する上で興味深い対比をなしている。
提案表2:稲葉貞通 知行変遷
時期 |
居城・所領 |
石高 |
備考 |
天正7年 (1579年) |
美濃国 曽根城 |
不明 |
父・一鉄より家督相続 1 |
天正16年 (1588年) |
美濃国 郡上八幡城 |
4万石 |
豊臣秀吉による移封 1 |
慶長5年 (1600年) |
豊後国 臼杵城(臼杵藩初代藩主) |
5万60石余 |
関ヶ原の戦功による加増転封 1 |
この知行変遷は、稲葉貞通のキャリアにおける地位の向上と、彼が仕えた各政権からの評価を客観的に示すものである。特に豊臣政権下での郡上八幡への移封、そして関ヶ原の戦いを経ての臼杵への加増転封は、彼が武将として、また大名として着実にステップアップしていったことを裏付けている。
第六章:豊後臼杵藩初代藩主として
臼杵藩立藩と初代藩主としての藩政
慶長5年(1600年)12月、稲葉貞通は徳川家康の命により、豊後国臼杵(現在の臼杵市、当時の海部郡、大野郡、大分郡の3郡内にまたがる地域)において5万60石余の所領を与えられ、臼杵城に入封した。これにより、豊後臼杵藩が立藩し、稲葉貞通はその初代藩主となった 1 。
稲葉氏による臼杵の統治は、この貞通を初代として、以後15代にわたり、明治維新を迎えるまでの約270年間続くことになる 30 。
臼杵城は、もともと16世紀半ばにキリシタン大名として知られる大友宗麟によって築かれた丹生島城(にうじまじょう)を母体としている 30 。貞通とその子である2代藩主・稲葉典通の時代に、城は石垣造りの近世城郭へと大規模な改修が施され、同時に城下町の整備も進められたと伝えられている 34 。
しかしながら、初代藩主としての稲葉貞通自身が行った具体的な藩政(検地、知行割、家臣団の編成、城下町の建設、寺社政策、民政など)に関する詳細な記録は、現存する資料からは限定的である 1 。後代の臼杵藩政に関する記録は散見されるものの 33 、それが貞通の時代のものか、あるいは彼の方針を直接反映したものかは判然としない。
貞通は臼杵藩の初代藩主として、新たな領地の統治基盤を築くという重要な役割を担ったはずであるが、その具体的な施策に関する記録が乏しい背景には、彼が藩主となってからわずか3年足らずでこの世を去っているという事実が関連している可能性がある 1 。臼杵への入封が慶長5年(1600年)12月であり、その逝去が慶長8年(1603年)9月であることから、藩主としての期間は実質2年半程度と極めて短かった。この短期間で、大規模な検地の実施や家臣団の抜本的な再編成、あるいは広範な民政改革を行うことは困難であったと考えられ、主に戦後の混乱収拾と新領地の掌握、そして居城である臼杵城の改修に注力したと推測される。藩政の本格的な整備は、次代の典通以降に持ち越された可能性が高い。
晩年と逝去
豊後臼杵藩初代藩主として新たな領地の経営に着手した稲葉貞通であったが、その治世は長くは続かなかった。慶長8年9月3日(西暦1603年10月7日)、58歳(一部史料では57歳 7 )でその生涯を閉じた 1 。
墓所は、京都府京都市右京区にある臨済宗の大本山、妙心寺の塔頭である智勝院に設けられている 7 。
第七章:稲葉貞通の人物像と評価
史料に見る性格、能力、逸話
稲葉貞通の人物像を伝える史料は断片的ではあるが、その中からいくつかの特徴をうかがい知ることができる。
関ヶ原の戦いの前哨戦である八幡城の合戦において、自軍の劣勢を顧みず、「目前に敵を見て戦わないということは武名を汚す」と述べて敵陣に切り込んだという逸話は 8 、彼の武人としての高い矜持と、死をも恐れぬ勇猛さを示している。
また、関ヶ原の戦後処理において、当初西軍に加担したにもかかわらず、徳川家康から罰せられるどころか加増転封という厚遇を受けたことについて、「竹を割ったような性格できっちり自己の意地を通した彼は、家康から罰せられることもなく、程なく豊後臼杵五万石の主となる」と評されている 8 。この「竹を割ったような性格」という表現が具体的にどのような行動や態度を指すのかについては、さらなる史料の分析が必要であるが、一般的には裏表がなく、さっぱりとした気性、あるいは一度決めたことは最後まで貫徹するような強い意志を持つ人物を指す。彼の行動が一見矛盾しているように見えても、その時々において彼なりの筋を通そうとする意志の強さがあり、それが結果的に家康のような当代随一の実力者にも認められるだけの説得力を持っていたのかもしれない。
さらに、豊臣秀吉に仕えていた時期、伊勢国での一揆鎮圧の際に自ら殿軍を務め、危機的状況を打開したという記録も 7 、彼の武勇と指揮官としての責任感の強さを示す逸話として注目される。
これらのエピソードから、稲葉貞通は、父・一鉄から受け継いだであろう武勇と不屈の精神を持ち合わせつつも、激動の時代を生き抜くための現実的な政治感覚や状況判断能力にも長けていた武将であったと推察される。
歴史的評価と後世への影響
稲葉貞通は、斎藤氏、織田氏、豊臣氏、そして徳川氏と、目まぐるしく主君が入れ替わる戦国乱世から江戸時代初期にかけて、巧みに立ち回り、最終的に5万石余の大名として家名を後世に残した。これは、戦国武将としての優れた適応能力と確かな実力を兼ね備えていたことの証左と言えるだろう。
豊臣政権下では、九州平定、小田原征伐、文禄・慶長の役といった主要な軍事行動に参加し、郡上八幡城主としては城郭の大改修を行うなど、武将として、また領主としての実績を積み重ねた。天正16年(1588年)には後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉し、羽柴姓と豊臣姓を下賜されるなど 7 、豊臣政権内においても一定の地位を確立していたことがうかがえる。
そして何よりも、豊後臼杵藩稲葉家の初代藩主として、その後の約270年間にわたる稲葉家による臼杵統治の基礎を築いたことは、彼の最大の功績と言える。
現存する可能性のある肖像画や書状について
稲葉貞通の姿を今に伝えるものとして、大分県の有形文化財に指定されている「稲葉貞通公肖像」が現存している 30 。この肖像画は、臼杵市にある月桂寺が所蔵しているものである 7 。
また、稲葉貞通が記した書状も、少数ながら現存していることが確認されている。皇學館大学のデジタルアーカイブや、大分県立先哲史料館が所蔵する稲葉家文書の中にも、貞通の書状が含まれている 38 。これらの書状の内容を詳細に分析することによって、彼の思想や当時の具体的な状況、さらには彼自身の筆跡を通じてその人となりについて、より深い知見が得られる可能性がある。肖像画や書状といった一次史料の存在は、稲葉貞通という歴史上の人物をより具体的に、そして多角的に理解する上で非常に重要である。
終章:総括
稲葉貞通の生涯の総括と歴史的意義
稲葉貞通は、父・稲葉一鉄という偉大な武将の薫陶を受け、戦国乱世の激動期を、武勇と機知、そして時には非情な決断をもって巧みに生き抜いた武将であった。美濃の斎藤氏に始まり、織田信長、豊臣秀吉、そして最後に徳川家康と、時の天下人に仕え、その過程で数々の合戦に参加し、武功を立て、また時には不手際を経験しながらも、着実にその地位を向上させていった。
特に、天下分け目の関ヶ原の戦いにおける彼の判断と行動は、西軍から東軍への転身という大きな賭けを含みつつも、結果として稲葉家の存続とさらなる発展を決定づけるものであり、彼の武略と政治感覚の鋭さを示す象徴的な出来事であった。
郡上八幡城主としての城郭改修や城下町整備、そして豊後臼杵藩初代藩主としての新たな領国経営への着手は、彼が単なる武人としてだけでなく、領国を治める経営者としての一面も持ち合わせていたことを物語っている。
稲葉貞通の生涯は、戦国時代から江戸時代初期という、日本史上類を見ない変革期に生きた一人の武士の生き様、主君との複雑な関係、家の存続にかける執念、そして時代の大きな変化への適応という、この時代に生きた多くの武将に共通する普遍的なテーマを色濃く体現していると言えるだろう。彼の人生は、後世の我々に対し、激動の時代における個人の選択と決断の重み、そして歴史の連続性の中で家名を繋いでいくことの意義を問いかけている。
参考文献
本報告書の作成にあたっては、以下の資料群を主要な情報源とした。
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