戦国時代の中国地方に覇を唱えた毛利元就。彼には「三本の矢」の逸話で知られる三人の優れた息子、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景がいました。彼らの輝かしい功績の陰で、四男・穂井田元清(ほいだ もときよ)の存在は、これまで十分に光が当てられてきたとは言えません。一般的には「元就の四男で、備中の穂井田家を継ぎ、各地で武功を立て、長府毛利家の祖となった人物」として知られていますが、その実像はより複雑で、毛利家の安泰と発展に不可欠な役割を担った、傑出した武将であり、優れた政治家でした 1 。
本報告書は、後世の編纂物によって形成された通説を再検証し、一次史料の分析や近年の研究成果を基に、穂井田元清の生涯を多角的に掘り下げます。父・元就との関係、武将としての器量、輝元政権下での政治的手腕、そして彼の血脈が毛利家にもたらした深遠な影響を解き明かし、「四本目の矢」とも言うべき彼の真価に迫ることを目的とします。
西暦(和暦) |
元清の年齢 |
出来事 |
1551年(天文20年) |
1歳 |
毛利元就の四男として安芸国に誕生 3 。 |
1557年(弘治3年) |
7歳 |
父・元就が「三子教訓状」を記す。この中で元清ら側室の子は「虫けら」と表現される 3 。 |
1566年(永禄9年) |
16歳 |
甥にあたる毛利輝元の加冠により元服。「毛利少輔四郎元清」と名乗る 3 。 |
1568年(永禄11年) |
18歳 |
来島村上氏の村上通康の娘・松渓妙寿と結婚。備中猿掛城を宇喜多氏から奪還 3 。 |
1575年(天正3年) |
25歳 |
備中猿掛城主となり、在名から「穂田(穂井田)」姓を名乗る。安芸桜尾城主も兼任 1 。 |
1578年(天正6年) |
28歳 |
上月城の戦いに従軍。尼子勝久・山中幸盛らを滅ぼす武功を立てる 1 。 |
1582年(天正10年) |
32歳 |
八浜合戦で宇喜多基家を討ち取る。備中高松城の戦いに際し、毛利輝元の本陣が猿掛城に置かれる 6 。 |
1585年(天正13年) |
35歳 |
次男・宮松丸(後の毛利秀元)が輝元の養子となる。これに伴い毛利姓に復帰 1 。 |
1589年(天正17年) |
39歳 |
広島城の普請奉行として築城と城下町建設を指揮 3 。 |
1592年(文禄元年) |
42歳 |
文禄の役に従軍。輝元の代理として毛利軍の指揮を執ることもあった 9 。 |
1597年(慶長2年) |
47歳 |
6月に兄・小早川隆景が死去。約1ヶ月後の7月9日、安芸桜尾城にて病没 1 。 |
穂井田元清は、天文20年(1551年)、安芸国の戦国大名・毛利元就の四男として生を受けました。母は元就の側室(継室ともされる)乃美大方です 3 。元就の正室・妙玖から生まれた毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三人の兄たちとは母が異なり、特にすぐ上の兄である隆景とは18歳もの年齢差がありました 1 。この出自と年齢差は、元清の生涯における立場を決定づける重要な要素となります。
幼少期から武将としての英才教育を受けており、永禄11年(1568年)には、大内氏の旧臣で新当流剣術の達人であった石川種吉から剣術の相伝を受けるなど、武芸の研鑽に励んでいました 3 。
元清の立場を語る上で避けて通れないのが、父・元就が記した有名な「三子教訓状」における記述です。弘治3年(1557年)、元就は三人の嫡男(隆元、元春、隆景)に宛てたこの長文の書状の中で、当時まだ7歳であった元清をはじめとする側室の子らについて「唯今虫けらのやうなる子ども候(今、虫けらのような分別もない子供たちがいる)」と記しました 1 。
この一節は、文字通り受け取れば非情な言葉であり、側室の子への愛情の欠如と解釈されがちです。しかし、この発言の真意は、個人的な感情の発露ではなく、毛利家の永続を願う元就の冷徹なまでの政治的配慮にありました。戦国大名家において、異母兄弟間の後継者争いは家を滅ぼす最大の要因の一つでした 13 。元就は、自らの死後に起こりうる内紛の芽を徹底的に摘むため、正室の子と側室の子の「家格」を明確に区分する必要があったのです。
教訓状の主たる目的は、あくまで隆元、元春、隆景の三兄弟の結束を固め、毛利宗家を中心とした強固な統治体制を後継者たちに認識させることでした 12 。その文脈の中で元清らを「虫けら」と表現したのは、三人の兄に対して「彼らは汝らの競争相手ではなく、庇護し、扶助すべき対象である」というメッセージを強烈に伝え、家中の序列を絶対的なものにするための、意図的な政治的レトリックでした。事実、元就は続けて「もし人並みに成人する者があれば、憐れみをかけて遠方の領地でも与えてやってほしい」と書き添えており、完全に切り捨てていたわけではないことも分かります 1 。この教訓状によって、元清は生まれながらにして「宗家を支えるべき分家」という、明確な政治的役割を運命づけられたのです。
序列 |
名前 |
生母 |
生年 |
主な役割・相続先 |
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長男 |
毛利隆元 |
正室・妙玖 |
1523年 |
毛利宗家 嫡男 |
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次男 |
吉川元春 |
正室・妙玖 |
1530年 |
吉川家(毛利両川) |
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三男 |
小早川隆景 |
正室・妙玖 |
1533年 |
小早川家(毛利両川) |
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四男 |
穂井田元清 |
側室・乃美大方 |
1551年 |
穂井田家(分家)・長府毛利家祖 |
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五男 |
毛利元秋 |
側室・三吉氏 |
1552年 |
椙杜家・出雲富田城主 |
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六男 |
出羽元倶 |
側室・三吉氏 |
1555年 |
出羽家 |
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七男 |
天野元政 |
側室・乃美大方 |
1559年 |
天野家 |
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八男 |
末次元康 |
側室・三吉氏 |
1560年 |
末次家 |
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九男 |
小早川秀包 |
側室・乃美大方 |
1567年 |
小早川家分家 |
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出典: 3 を基に作成 |
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この表が示すように、正室の子である三人の兄と、元清ら側室の子との間には、母親の違いだけでなく、大きな年齢差が存在します。これにより、「三子教訓状」がなぜ「三子」に限定されたのか、そして元清らがなぜ一括りにされたのか、その背景にある家中の力学と政治的意図が明確になります。
元清は若くして、毛利家の戦略上、重要な役割を担いました。永禄11年(1568年)、毛利氏が伊予へ出兵した後、瀬戸内海の制海権を掌握する上で不可欠な存在であった村上水軍との関係を強化するため、その一翼を担う来島村上氏の当主・村上通康の娘、松渓妙寿を正室に迎えます 3 。この戦略的婚姻の当事者に選ばれたことは、元清が単なる部屋住みの公子ではなく、毛利一門の将来を担う重要人物として、父や兄たちから認識されていたことを示唆しています。
元清の武将としてのキャリアは、備中の地で始まります。永禄11年(1568年)、毛利氏が主力部隊を率いて九州北部へ侵攻した隙を突き、備前の宇喜多直家が毛利方に背き、備中松山城や猿掛城を攻め落としました。この時、元清は父・元就の命を受け、備中の国人・三村元親と共に直ちに出陣し、猿掛城を奪還するという初陣に近い功績を挙げています 3 。
その後、天正3年(1575年)に毛利氏が三村氏を滅ぼした「備中兵乱」が終結すると、元清はその功績を認められ、当主である甥の毛利輝元から正式に備中猿掛城主に任じられました 1 。猿掛城は、備前から侵攻してくる宇喜多氏や、その背後にいる織田氏に対する毛利氏の東方防衛線における最重要拠点の一つであり、この大任は元清への厚い信頼を物語っています。
元清が猿掛城主となった際、姓を「毛利」から「穂井田(史料では穂田と記されることが多い)」に改めました 1 。この経緯について、通説では「備中の豪族・穂井田元祐(庄元資)の養子となり家督を継いだ」と説明されてきました 1 。これは江戸時代に編纂された『末家両川巨室系図』などの家譜に基づく記述です 3 。
しかし、この通説は一次史料によって否定されます。元清自身が家臣の村山武慶に宛てた書状の中で、穂井田(穂田)姓を名乗った理由を明確に述べているのです。その書状によれば、彼は穂井田氏の養子になったのではなく、居城である猿掛城が位置する「穂田郷」という地名(在名)を名字として採用し、その動機は毛利宗家の当主である輝元に「遠慮」したためであったと記しています 3 。
これは極めて重要な証言です。「家を継いだ」のではなく、自らの意思で「地名を名乗った」という事実は、彼の行動原理を解き明かす鍵となります。では、なぜ「遠慮」する必要があったのでしょうか。それは第一章で見た「三子教訓状」の精神、すなわち毛利宗家の絶対性を保つという政治思想の実践に他なりません。元就の実子である元清が、独立した国人領主の家名をそのまま継承することは、毛利宗家と並び立つかのような印象を与えかねません。そこで、あくまで毛利家の一員として、輝元から与えられた所領の地名を名乗る(在名乗)ことで、自身の立場が宗家に完全に属するものであることを内外に示したのです。したがって、「穂井田元清」という名前自体が、毛利家の厳格な家格秩序と、それを深く理解し、忠実に遵守する元清の高度な政治感覚の表れと言えるでしょう。
元清が輝元からいかに信頼されていたかは、その所領のあり方からも窺えます。彼は備中の最前線である猿掛城主となりながらも、元々の本拠地であった安芸国の桜尾城(現在の広島県廿日市市)の支配権も保持し続けました 3 。毛利家において、一人の武将が二つの重要拠点を同時に領有することは極めて異例のことであり、輝元が元清の能力を高く評価し、破格の待遇を与えていたことの証左です。この厚遇は、他の兄弟から不満の声が上がるほどでした 3 。
穂井田元清は、政治家としてだけでなく、戦場の指揮官としても卓越した能力を発揮しました。特に、毛利家の存亡をかけた対織田氏戦線において、その武勇は遺憾なく示されます。
天正6年(1578年)、毛利氏は織田信長と全面対決の様相を呈していました。その最前線となったのが、播磨国の上月城です。この城には、尼子氏の再興を悲願とする尼子勝久と山中幸盛(鹿介)が、織田方の支援を受けて立て籠もっていました 25 。
毛利輝元は、吉川元春と小早川隆景に大軍を率いさせて播磨へ派遣。元清は三兄・隆景の軍に属し、同母弟の天野元政と共にこの上月城包囲戦に参加しました 3 。同年6月の激戦において、元清は自ら兵を率いて敵陣の麓近くまで迫り、左足に矢を受ける重傷を負いながらも一歩も引かずに奮戦したと記録されています 3 。この元清らの猛攻を含む毛利軍の圧倒的な兵力の前に、羽柴秀吉の援軍も間に合わず、上月城は陥落。尼子勝久は自刃し、山中幸盛は捕らえられて護送中に殺害され、尼子再興の夢は完全に潰えました 1 。この戦いは、元清が毛利家の東方進出に大きく貢献した、特筆すべき武功です。
毛利氏にとって、東方におけるもう一つの脅威は、織田方についた備前の宇喜多直家でした。元清は備中猿掛城主として、国境を接する宇喜多氏と熾烈な攻防を繰り広げます。天正4年(1576年)の麦飯山の戦いや、天正10年(1582年)に備前児島郡で発生した八浜合戦では、毛利軍の主将として出陣し、宇喜多方の有力武将・宇喜多基家を討ち取るという大勝利を収めました 7 。
また、元清は単なる猛将ではありませんでした。天正9年(1581年)、小早川隆景と緊密に連携し、宇喜多方に属していた備前の国人・伊賀家久に対して調略を仕掛け、味方に引き入れることに成功しています 3 。武力による直接的な戦闘だけでなく、謀略を駆使して敵の切り崩しを図る知将としての一面も持ち合わせていたのです。
天正15年(1587年)の九州征伐を経て、毛利氏が豊臣秀吉に臣従すると、元清も秀吉の下で戦うことになります。文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、毛利家は主力軍として参加。元清も一軍を率いて渡海しました。この戦役中、総大将である毛利輝元が病に倒れた際には、まだ若年であった輝元の養子・秀元(元清の実子)を後見し、事実上の毛利軍総大将として全軍の指揮を執るという重責も担いました 9 。
この朝鮮出兵において、元清の人物像を象徴する興味深い逸話が残されています。「虎の生け捕り」です。『毛利秀元記』によれば、秀吉は日本にはいない虎に強い関心を示し、元清に対して「虎を生け捕りにして献上せよ」と所望しました 4 。当時、加藤清正や黒田長政なども「虎退治」の武勇伝で知られますが、それらはあくまで「討伐」でした。元清は、はるかに困難な「生け捕り」という至上命令を受け、見事に2頭の虎を生きたまま捕らえて秀吉のもとへ送り届けたのです 4 。
この逸話は、単なる武勇伝以上の意味を持ちます。第一に、主君である天下人・秀吉の個人的な欲求を正確に理解し、それに応えようとする忠誠心。第二に、その困難な要求を実現するための卓越した計画性と実行力。そして第三に、武勇を誇示するだけでなく、主君を喜ばせるという形で自身の価値を示す、洗練された政治的センスです。この一件は、元清が戦場での勇猛さと、中央政権で巧みに立ち回るための政治感覚を兼ね備えた、稀有な武将であったことを物語っています。
穂井田元清の真価は、戦場での武功だけに留まりません。彼は毛利輝元が当主を務めた時代、毛利家の政務を担う中枢人物、すなわち宰相として絶大な権力を握り、その手腕を振るいました。
毛利元就の死後、輝元政権は当初、叔父である吉川元春・小早川隆景と、譜代の重臣である福原貞俊・口羽通良の四人による補佐体制で運営されていました 30 。しかし、彼らが次々と世を去ると、輝元を中心とする新たな統治構造が形成されます。その最高意思決定機関が「年寄(宿老)」と呼ばれる合議体でした。
元清は、毛利家随一の外交僧として知られる安国寺恵瓊と共に、この年寄衆の筆頭格を務めました 3 。輝元政権下で発給された知行宛行状などの公式な政治文書には、年寄衆の連署がなされていますが、その署名者の筆頭には常に元清か恵瓊の名があり、二人が政務の中枢を担っていたことは疑いようがありません 3 。特に元清は、毛利一門の中で唯一この地位に就いており、輝元からの信頼がいかに絶対的なものであったかを物語っています。
元清の政治家としての最大の功績の一つが、広島城の築城です。天正17年(1589年)、毛利輝元は本拠地を山間の吉田郡山城から、水運の利に優れた太田川デルタ地帯に移すことを決断します 32 。この毛利家の未来を左右する一大事業において、元清は二宮就辰と共に普請奉行に任命され、縄張りから実際の工事、さらには城下町の建設に至るまで、実質的な総指揮を執りました 3 。
これは単なる土木工事の監督ではありません。新たな本拠地となる近世城郭のグランドデザインを描き、家臣団の屋敷割りや町人の居住区画を定め、領国の政治・経済の中心地をゼロから創造するという、極めて高度な都市計画でした 34 。この大任を完遂した功績により、元清は輝元から12,013石余という大幅な知行加増を受けています 3 。
近年の実証的研究、特に歴史学者・石畑匡基氏による元清発給文書の分析は、彼の権限と地位について、従来の理解を大きく塗り替えるものとなりました 35 。
従来、元清のような当主の子は、当主の権力を代行する「代官」的な存在と見なされがちでした 37 。しかし、石畑氏の研究によれば、元清は自身の知行地(備中猿掛領など)において、当主の裁可を必ずしも必要とせず、独自の判断で以下の権限を行使していたことが明らかになっています。
これらの事実は、元清が単なる城の管理者や代官ではなく、自身の裁量で領域を統治する、半ば独立した小大名のような「領域領主」として機能していたことを示しています 35 。これは、輝元政権が当主を頂点とする一枚岩の中央集権体制だったのではなく、輝元を盟主とし、隆景や元清といった有力一門がそれぞれの領域を半自律的に統治する、複合的な権力構造であったことを意味します。この理解は、元清の歴史的評価を「輝元の忠実な補佐役」から、「輝元政権を構成する有力なパートナー」へと大きく引き上げるものです。
元清は、自身の武功や政務によって輝元政権を支えるだけでなく、その血脈を通じて、毛利家の未来そのものに決定的な影響を与えることになります。
毛利宗家の当主・輝元は、長年にわたって実子に恵まれず、後継者問題は毛利家にとって最大の懸案事項でした 39 。一門や家臣団の動揺を抑え、次代の体制を盤石にするため、輝元は養子を迎えることを決断します。
白羽の矢が立ったのは、元清の次男・宮松丸(後の毛利秀元)でした。天正13年(1585年)、当時7歳だった秀元は、輝元の養嗣子として正式に迎え入れられます 1 。この決定は、元清が輝元から絶対的な信頼を得ていたことの何よりの証拠です。実子が宗家の後継者となったことで、元清自身も「穂井田」姓から「毛利」姓に復帰し、名実ともに毛利一門の中核をなす存在となりました 1 。
秀元が養子となってから10年後の文禄4年(1595年)、輝元に待望の実子・秀就が誕生します 39 。これにより、秀元は宗家の家督相続者としての立場から退くことになりました。しかし、彼は毛利家から離れるのではなく、新たに分家を立てて独立した大名となることが認められました 39 。これが、江戸時代を通じて長州藩(萩藩)の支藩筆頭として重きをなした、長府藩(長府毛利家)の始まりです 42 。
元清は、自身が輝元政権の宰相として宗家を支えながら、同時に息子・秀元を通じて、毛利家の将来を盤石にするための最有力支藩の創設者ともなったのです。
ここに、歴史の大きな逆説、あるいは皮肉とも言うべき事実が存在します。元清の血脈が、後世において毛利宗家を断絶の危機から救うことになるのです。
つまり、毛利宗家の血統の純粋性と安定のために、政治的に「脇役」と位置づけられた元清の家系が、数世代後にその宗家そのものを救済するという、劇的な役割を果たしたのです。この事実は、元清の最大の功績が生前の武功や政務に留まらず、彼の血脈が毛利家全体の永続に決定的な貢献をした点にあることを示しています。これは、元清個人の生涯を超えた、極めて重要な歴史的意義と言えるでしょう。
史料から浮かび上がる穂井田元清は、勇猛な武将、有能な政治家であると同時に、人間的な魅力に溢れた人物でした。
元清は、生母である乃美大方の老後を常に案じ、自身の弟たちの将来についても輝元に託す書状を残すなど、家族思いの温厚な人物であったと伝えられています 3 。その一方で、元就の側室から生まれた息子たちの中では、群を抜いて才覚に溢れた武将であったとも評されており、温和な人柄と非凡な能力を兼ね備えていました 3 。
元清の人間関係において、最も特筆すべきは三兄・小早川隆景との深い絆です。18歳という大きな年齢差がありながら、二人の間には単なる兄弟愛を超えた、極めて強い信頼関係がありました 4 。
この関係は、情緒的な絆だけでなく、輝元政権を円滑に運営するための不可欠な政治的パートナーシップでもありました。元就亡き後の毛利家は、当主・輝元を「両川」すなわち吉川元春(武の象徴)と小早川隆景(知の象徴)が支える体制でした。隆景が山陽方面全体の戦略を担う「知将」であったとすれば、元清はその指揮下で、対織田・宇喜多戦線の最前線である備中において実戦部隊を率い、領国経営を行う「実行者」でした。隆景が全体戦略を構想し、元清が現場でそれを具現化するという、緊密な連携関係にあったのです。
この強固な信頼関係を示す逸話として、元清が同母弟の天野元政に対し、「何か困ったことがあったら、どんなことでも(小早川)景さまに相談するように」と語ったという話が残っています 4 。これは、隆景の判断力と人格に対する元清の絶対的な信頼を示すものです。
慶長2年(1597年)、元清は病に倒れ、安芸桜尾城で療養していました。奇しくも、彼が最も敬愛した兄・隆景もまた、三原城で病床にありました。この時、二人は互いの病状を気遣い、「どちらが先に逝くか」と語り合ったと伝えられています 4 。
同年6月12日、兄・隆景がこの世を去ります。そして、その後を追うかのように、約1ヶ月後の7月9日、穂井田元清も桜尾城内で47年の生涯を閉じました 1 。その死に際し、輝元は「元清の死は毛利家にとって大きな損失である」と深く嘆いたとされ、彼の存在がいかに大きかったかが窺えます 3 。
元清の墓所は、広島県廿日市市の洞雲寺にあり、正室・松渓妙寿の墓と寄り添うようにして、今も静かに眠っています 4 。
穂井田元清は、偉大な父・元就が築いた礎の上で、甥である当主・輝元の時代を心身ともに支え抜いた、傑出した人物でした。彼の功績は、単一の側面に留まるものではなく、以下の三つの側面に集約されます。
第一に、**「武将としての武功」**です。備中・播磨の最前線において、上月城の攻略や八浜合戦などで勇猛果敢に戦い、毛利家の東方への勢力拡大と防衛に多大な貢献をしました。
第二に、**「政治家としての政務」**です。輝元政権下で年寄筆頭として国政の中枢を担い、広島城築城という国家的な大事業を成功に導きました。また、自身の知行地では大幅な裁量権を持つ領域領主として、毛利氏の複合的な統治構造の一翼を担いました。
そして第三に、最も深遠な影響を残したのが、**「毛利本家を存続させた血脈」**です。父・元就の政治的配慮により「虫けら」とまで称された側室の子でありながら、その忠誠と才覚によって宗家の信頼を勝ち取り、結果として彼の血統が江戸時代を通じて毛利宗家を断絶の危機から二度も救いました。
有名な「三本の矢」の教えが、隆元、元春、隆景の三兄弟の結束によって毛利家を支える象徴であるならば、穂井田元清は、その結束の束に加わり、強度をさらに増した、目立たずとも決して折れることのない**「四本目の矢」**であったと言えるでしょう。彼は、偉大な父と兄たちの影に隠れがちな存在でありながら、自らの才覚と揺るぎない忠誠心をもって、戦国乱世から近世へと至る毛利家の安泰と発展に、決定的かつ永続的な貢献を果たしたのです。彼の生涯を正当に評価することなくして、戦国期毛利氏の歴史、ひいては近世長州藩の成り立ちを完全に理解することはできないでしょう。