立花忠茂は宗茂養嗣子で柳川藩二代藩主。将軍秀忠から厚遇され、島原の乱で武功。藩政安定化、文教振興に尽力し、伊達騒動にも関与。64歳で死去。
本報告書は、筑後柳川藩二代藩主・立花忠茂(1612-1675)の生涯を、単なる二代目としての記録に留めることなく、戦国の乱世から徳川の泰平の世へと移行する時代のうねりの中で生きた一人の大名の苦悩と功績、そしてその歴史的意義を深く掘り下げて論じるものである。忠茂の人生を語る上で、その養父である立花宗茂の存在を抜きにすることはできない。
宗茂は、豊臣秀吉から「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と絶賛され 1 、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易の憂き目に遭いながらも、その武名と類稀なる人柄を徳川幕府に高く評価され、旧領である柳川への復帰を許された、史上唯一の大名である 2 。この「戦国の英雄」「西国無双の武将」とまで称された偉大すぎる養父の威光は、忠茂の生涯にわたって、庇護という「光」と、乗り越えるべき壁という「影」の両側面を落とし続けた。
忠茂が生きた時代は、個人の武勇が全てを決定づけた戦国時代が終焉を迎え、法と秩序に基づく「文治」による統治が絶対的に求められる、徳川幕藩体制の確立期であった。このような時代の大きな転換点は、忠茂にどのような藩主像を求めたのであろうか。偉大なる養父から受け継いだ無形の政治的資産をいかに活用し、自らの時代の課題にいかに応えたのか。
本報告書では、忠茂の出自と後継者としての育成過程、生涯唯一の合戦経験となった島原の乱での武功、柳川藩主としての治績、幕府や他大名との複雑な政治力学の中での立ち居振る舞い、そしてその人物像と晩年に至るまでを章立てて詳述する。これにより、華やかな経歴の裏に隠された苦悩と努力を浮き彫りにし、泰平の世における藩主の理想と現実を体現した人物として、立花忠茂の歴史的評価を試みるものである。
人物名 |
続柄・関係性 |
備考 |
高橋紹運 |
忠茂の実祖父 |
岩屋城の戦いで壮絶な討死を遂げた名将。 |
立花道雪 |
忠茂の養祖父 |
「雷切丸」の逸話で知られる大友家の重鎮。 |
立花宗茂 |
忠茂の養父 (実父の兄) |
柳川藩初代藩主。「西国無双」の勇将。 |
立花直次 |
忠茂の実父 (宗茂の弟) |
初名・高橋統増。後に旗本となる。 |
立花忠茂 |
本報告書の主題 |
柳川藩二代藩主。 |
玉樹院 |
忠茂の正室(先妻) |
老中・永井尚政の娘。早世。 |
法雲院(鍋姫) |
忠茂の継室(後妻) |
仙台藩主・伊達忠宗の長女。伊達政宗の孫。 |
立花鑑虎 |
忠茂の四男 |
柳川藩三代藩主。母は鍋姫。 |
立花忠茂は、慶長17年(1612年)7月7日、江戸屋敷にて生を受けた 4 。幼名は千熊丸 6 。父は、後に常陸国柿岡に五千石を与えられる旗本・立花直次、母は筑紫広門の娘・永雲院である 5 。直次は、「西国無双」の将として名高い立花宗茂の実弟であり、忠茂は宗茂の甥にあたる。
忠茂の運命は、生誕と同時に大きく動き出す。当時、実子に恵まれなかった伯父の宗茂(当時46歳)は、生まれたばかりの千熊丸を即日、養嗣子として迎え入れた 6 。これは、宗茂自身が54歳年上の立花道雪の養子となった過去を彷彿とさせる、大きな年齢差のある養子縁組であった 6 。忠茂が生まれた慶長17年は、宗茂が関ヶ原の合戦後に浪人の身から脱し、奥州棚倉に一万石の大名として復帰してからまだ6年後のことである 6 。戦国の記憶も生々しい時期に、立花家の未来は、この赤子に託されたのである。
忠茂の少年期における特筆すべき出来事は、徳川将軍家から受けた破格の待遇である。元和8年(1622年)、忠茂は11歳で元服の儀を迎える。この儀式は、二代将軍・徳川秀忠の御前で執り行われ、秀忠自らが加冠(元服する者の頭に冠を載せる役)を務めた 5 。さらに秀忠は、自らの名から「忠」の一字を偏諱として授け、忠茂は「忠之」(後に忠茂と改名)と名乗ることとなった 5 。この時、名刀として知られる「左文字」も下賜されている 4 。
将軍からの偏諱授与は、通常、国持大名や松平姓を許された親藩・譜代大名に限られるのが通例であった 6 。柳川藩は11万石の外様大名であり、その嗣子である忠茂がこの栄誉に浴したのは、極めて異例のことであった。これは単に、秀忠が宗茂の武功や人柄に個人的な好意を寄せていたという理由だけでは説明がつかない。むしろ、高度な政治的意図が介在したと見るべきである。立花家は元々豊臣恩顧の大名であり、その次代を担う忠茂に対し、将軍自らが烏帽子親となることで、徳川家への絶対的な忠誠を幼少期から深く刷り込む狙いがあった。これは、将来にわたって立花家を盤石な徳川体制の忠実な一翼として組み込むための、幕府からのいわば「先行投資」であったと解釈できる。この厚遇は、宗茂が築いた幕府との信頼関係という「政治的資産」が、忠茂にそのまま継承されたことを象Cしている。
青年期に入った忠茂は、早くから藩政の実務に携わるようになる。将軍の相伴衆として江戸に詰めることが多かった宗茂に代わり、寛永6年(1629年)頃には、18歳の若さで事実上の藩主代行として柳川の政務を司り始めた 5 。
その翌年の寛永7年(1630年)、再び将軍秀忠の意向により、忠茂の最初の婚姻が執り行われる。相手は、当時の西の丸老中であった永井尚政の娘、長子(玉樹院)であった 6 。しかし、この結婚生活は長くは続かなかった。寛永11年(1634年)、玉樹院は没し、二人の間に生まれた子もまた早世するという悲劇に見舞われる 6 。将軍の意向による政略結婚が悲しい結末を迎え、若くして妻と子を失ったこの喪失体験は、忠茂の人間形成に少なからぬ影響を与えたであろう。偉大な養父が健在である一方で、藩政の実務を担い、私生活では深い悲しみを経験したこの時期、彼は藩主後継者としての責任の重さと孤独を、一層深く自覚していったに違いない。この試練は、後の彼の決然とした行動や、藩政への真摯な取り組みの精神的な礎を形成した可能性がある。
寛永14年(1637年)、肥前島原と肥後天草において、領主の苛政とキリシタン弾圧に反発した農民らによる大規模な一揆、すなわち「島原の乱」が勃発した 8 。泰平の世を揺るがすこの大乱は、26歳の忠茂にとって、生涯で唯一となる大規模な実戦経験の場となった 6 。
乱の鎮圧に幕府軍が手こずる中、九州諸藩に出陣が命じられ、忠茂も柳川藩の兵を率いて原城へと向かった。さらに、幕府の上使の要請を受け、養父・宗茂も72歳という老齢にもかかわらず、満を持して参陣する 10 。往年の「軍神再来」とまで噂された宗茂の存在は、幕府軍の士気を大いに高めた 10 。宗茂は総大将ではなかったものの、その豊富な実戦経験からくる戦術眼は諸将から大いに頼りにされた 1 。彼はまた、忠茂が戦場で使用する小馬印として「二重幣」を定めるなど、後継者である養子の初陣を万全の体制で後見したのである 11 。
寛永15年(1638年)2月28日、幕府軍による原城への総攻撃が開始された。この決戦において、忠茂は目覚ましい武功を立てる。彼は自ら兵の先頭に立ち、一揆勢が立てこもる城の中枢部、詰の丸(本丸)へと果敢に突入し、城を陥落させる大きなきっかけを作ったのである 5 。これは、彼の武人としての資質を具体的かつ劇的に証明する、生涯最大の戦功となった。
この島原の乱は、徳川の治世における国内最後の組織的な大規模戦闘であった。忠茂にとってこの戦いは、単なる幕府への軍役奉公以上の、極めて重要な意味を持っていた。それは、戦国時代を生き抜き、武勇を絶対的な価値基準とする養父や柳川藩の古参の家臣団、そして諸大名に対し、自らが「戦を知る大将」であり、立花家の武名を継承するに足る器量の持ち主であることを証明するための、最後の機会であった。
特に、当代随一の武人である宗茂の眼前で、最も危険な本丸へ自ら突入するという行為は、後継者としての「武」の資質をこれ以上ない形で示すための、意識的な行動であった可能性が高い。それは、泰平の世の藩主となるために、旧時代の価値観に対して自らの能力を証明する、いわば「通過儀礼」であったと言える。宗茂が参陣したことは、忠茂にとって絶大な安心感をもたらしたと同時に、失敗が許されないという極度のプレッシャーでもあったはずだ。「軍神」とまで呼ばれた父の期待を一身に背負い、その厳しい視線の中で戦うという極限状況が、忠茂を本丸一番乗りという大胆な行動に駆り立てた原動力の一つであったことは想像に難くない。彼の武功は、彼自身の勇気と、宗茂が作り出した特異な心理的状況の産物であったと分析できる。
この戦功により、忠茂は武家の棟梁としての評価を不動のものとした。乱の終結後、宗茂は隠居し、寛永16年(1639年)4月3日、忠茂は名実ともに家督を相続し、柳川藩二代藩主の座に就いたのである 5 。
島原の乱で武人としての資質を証明した忠茂は、家督相続後、戦乱の時代から泰平の世への転換という新たな課題に直面する。彼の治世は、武力による領地拡大ではなく、安定した統治機構の構築と領国の内なる発展を目指す、近世大名としての役割を模索する時代であった。
寛永16年(1639年)に家督を相続した忠茂は、まず藩政の安定化に着手した 5 。宗茂の代からの、戦国の気風を色濃く残す家臣団をまとめ上げ、近世的な統治機構へと再編していくことは、二代目藩主としての重要な責務であった。寛永19年(1642年)に養父・宗茂が江戸で没すると 6 、忠茂は名実ともに柳川藩の最高責任者となり、自らの手で藩の舵取りを行っていくこととなる。
忠茂は、幕府との良好な関係を維持することにも細心の注意を払った。その象徴的な行動が、正保3年(1646年)に領内の永興寺(現・福岡県みやま市)へ東照宮を勧請したことである 4 。東照宮は徳川家康を神格化した存在であり、これを領内に祀ることは、徳川幕府への揺るぎない忠誠を内外に示す、極めて明確な政治的メッセージであった。
また、寛永19年(1642年)には、幕府から特別に柳川城の改修許可を得ている 5 。武家諸法度により、大名が居城を自由に修築することは厳しく制限されていた当時、この許可は幕府の立花家に対する信頼の証と見なすことができる。これらの施策は、幕府との安定した関係を背景に、藩の内政に集中するための巧みな政治的配慮であった。忠茂の治世は、柳川藩がその後約250年にわたって存続するための、真の意味での礎を築いた時期であったと言える。
忠茂の治世における最大の文化的功績は、傑出した儒学者である安東省庵(あんどうせいあん)を登用したことである 14 。これは、立花家が単なる武勇の家から、学問を重んじる文治の家へと転換していく上で、決定的な一歩となった。
省庵は、明の滅亡に伴い日本へ亡命していた高名な朱子学者・朱舜水(しゅしゅんすい)の弟子であり、その学識は高く評価されていた 15 。忠茂は省庵の才能をいち早く見抜き、藩儒として招聘した。しかし、省庵は当初、他の藩士たちからの嫉妬を受け、一度は柳川を去ってしまう。この時、忠茂は養父・宗茂との連名で「お主が確かな人物であることは、わかっている」という内容の心温まる手紙を送り、省庵を呼び戻した 16 。この逸話は、忠茂が家臣を大切にする為政者であったことを示している。
藩に復帰した省庵は、忠茂、そして三代藩主・鑑虎の三代にわたって仕え、柳川藩における儒学の伝統を築き上げた 15 。彼の教えは、後の柳川藩の藩校「伝習館」設立の源流となり、藩の人材育成に多大な影響を与えた。宗茂の功績が「武」にあるとすれば、忠茂の功績は「文」にあると言える。安東省庵の登用は、忠茂が戦国の価値観から脱却し、藩の永続的な繁栄のためには学問による人材育成と統治理念の確立が不可欠であると深く理解していた、近世大名としての先見性を示すものであった。
柳川藩の領地は、筑後平野の南部に広がる低湿地帯に位置していた。有明海に面し、その日本一とも言われる大きな干満差の影響を直接受けるこの土地では、治水と利水が藩政における最重要課題であった 17 。
江戸時代を通じて、柳川藩では有明海の干拓による新田開発が盛んに行われた 20 。これは、幕藩体制下において米の収穫高(石高)が藩の経済力と政治力を示す直接的な指標であったため、全国的な傾向でもあった 22 。忠茂の治世においても、藩の財政基盤を強化すべく、こうした新田開発が奨励・推進されたと考えられる。彼の時代に築かれた内政の安定が、17世紀末以降に本格化する大規模な干拓事業の素地となった。
また、忠茂は儒学の振興だけでなく、武芸も奨励し、文武両道による藩士の育成を目指した 14 。これは、泰平の世にあっても武家の本分を忘れないという姿勢を示すと同時に、藩士の精神的な引き締めを図る目的もあったであろう。彼の治世は、華々しい戦功とは無縁の、地道な内政の時代であったが、その着実な領国経営こそが、柳川藩の長期的な安定を支える力となったのである。
忠茂の藩主としてのキャリアにおいて、極めて重要な転機となったのが、仙台藩伊達家との政略結婚である。これは彼の個人的な意思を超えた、幕府の壮大な政治戦略の一環であった。
寛永19年(1642年)に養父・宗茂が没してから2年後の正保元年(1644年)、三代将軍・徳川家光の強い意向、すなわち「上意」によって、忠茂に新たな縁談が命じられた 6 。相手は、奥州仙台藩62万石の二代藩主・伊達忠宗の長女、鍋姫(後の法雲院)であった 5 。
この縁談に対し、忠茂は当初、強い懸念を示した。彼が国元の家臣に宛てた書状には、11万石の柳川藩と62万石の大藩である伊達家では「つりあわぬ身躰(身分が釣り合わない)」として、断りたいとさえ考えていた胸中が記されている 7 。彼の懸念はもっともであった。鍋姫は、独眼竜として知られる伊達政宗の孫であるだけでなく、母の振姫は徳川家康の孫(秀忠の養女)にあたる 24 。つまり、鍋姫は伊達家と徳川家の血を引く、極めて高貴な血筋の姫君だったのである。
この縁談は、単なる大名家同士の結びつきではない。幕府が、東北の雄である強大な外様大名・伊達家と、西国にあり豊臣恩顧の過去を持つ立花家を姻戚関係で結びつけることで、両家を相互に監視・牽制させ、幕府のコントロール下に置こうとする高度な政治戦略であった。忠茂の「つりあわぬ」という言葉には、経済的な懸念だけでなく、この巨大な政治力学に否応なく巻き込まれることへの畏怖も含まれていたに違いない。
この格差婚は、柳川藩の財政に大きな負担を強いた。祝言を挙げるにあたり、江戸上屋敷の改築費用などが嵩み、忠茂は「金銀これなく」と頭を悩ませた 7 。この窮状を察したのか、幕府老中は祝言の場所を格式張った上屋敷から、より簡素に済ませられる下屋敷へ変更するよう指示するという、異例の配慮を見せた 7 。
多くの困難を伴ったこの結婚であったが、結果的に忠茂の政治的地位を大きく引き上げることになる。この婚姻により、忠茂は伊達家の親族大名という重要な立場を得た。後年、鍋姫の弟である仙台藩三代藩主・伊達綱宗が不行跡を理由に隠居させられたことに端を発するお家騒動、いわゆる「伊達騒動(寛文事件)」が発生した際、忠茂は親類としてその事態収拾に深く関与したのである 4 。
この関与は、忠茂がもはや一地方の藩主ではなく、幕政においても一定の発言力と役割を持つ重要人物であることを内外に示した。当初は財政的・精神的な重荷でしかなかった政略結婚が、時を経て、彼に新たな政治的地位と大局的な視野をもたらしたのである。重荷を背負わされたことで、かえって彼の藩主としての器量は大きくなったと評価できよう。
立花忠茂の生涯を振り返ると、実直で思慮深い為政者としての姿が浮かび上がる。彼は、幼名・千熊丸から始まり、元服後の忠之、そして忠貞、忠茂へと、生涯で数度改名している 5 。これは、人生の節目における心境や立場の変化を反映したものかもしれない。
彼は、養父・宗茂から為政者としての心得を直接学んでいた。宗茂は息子からの問いに対し、「特別な軍法などない。日頃から下の者には子に接するように情をかけ、下の者から親のように思われていれば、思う通りに動いてくれるものだ」と答えたという 3 。忠茂が安東省庵に示した温情ある対応は、まさにこの教えを実践したものであった。
忠茂の生涯は、傍目には「幸運の星の下に生まれ、宗茂の七光りに照らされ、子宝にも恵まれた」と映るかもしれない 6 。しかしその内実は、偉大すぎる養父へのプレッシャー、将軍家からの「上意」という名の命令、格差婚による心労、そしてお家騒動の調停という、絶え間ない緊張の連続であった。
忠茂は、従五位下・左近将監に始まり、従四位下・侍従、そして飛騨守へと官位の昇進を重ねた 4 。そして寛文4年(1664年)、53歳の時に四男・鑑虎に家督を譲り、隠居の身となる。剃髪して「好雪(こうせつ)」と号した 4 。
隠居後の忠茂は、病に悩まされることも多かったが、和歌や茶道といった文化的な趣味に傾倒して過ごしたと伝わっている 6 。養父・宗茂も茶の湯を嗜み、細川忠興らと親しく交流しており 3 、こうした文化的素養は立花家の家風でもあった。生涯にわたる公務の緊張から解放され、自己の内面と向き合う穏やかな時間を求めたのかもしれない。
そして延宝3年(1675年)9月19日、忠茂は江戸小石川の藩邸にて、その64年の生涯を閉じた 4 。亡骸は同地の徳雲寺に葬られた。法名は「別峯院殿忠巌好雪大居士」という 4 。彼の人生は、華やかな経歴の裏に隠された、絶え間ない努力と忍耐によって支えられていたのである。
和暦 |
西暦 |
年齢 |
出来事 |
慶長17年 |
1612年 |
1歳 |
7月7日、立花直次の四男として江戸で誕生。即日、伯父・立花宗茂の養嗣子となる 5 。 |
元和8年 |
1622年 |
11歳 |
12月27日、将軍・徳川秀忠の御前で元服。「忠」の偏諱と「左文字」の刀を賜る 4 。 |
寛永6年 |
1629年 |
18歳 |
従五位下・左近将監に叙任。事実上の藩政を担い始める 5 。 |
寛永7年 |
1630年 |
19歳 |
12月頃、老中・永井尚政の娘・玉樹院と結婚 6 。 |
寛永11年 |
1634年 |
23歳 |
12月、正室・玉樹院と死別。子も早世 6 。 |
寛永14年 |
1637年 |
26歳 |
12月、島原の乱に出陣 6 。 |
寛永15年 |
1638年 |
27歳 |
2月28日、原城総攻撃で詰の丸に突入し、武功を立てる 5 。 |
寛永16年 |
1639年 |
28歳 |
4月3日、宗茂の隠居により家督を相続。柳川藩二代藩主となる 6 。 |
寛永19年 |
1642年 |
31歳 |
11月25日、養父・宗茂が江戸で死去 6 。 |
正保元年 |
1644年 |
33歳 |
4月頃、将軍・家光の上意により伊達忠宗の娘・鍋姫と再婚 5 。 |
正保3年 |
1646年 |
35歳 |
領内の永興寺に東照宮を勧請する 5 。 |
万治2年 |
1659年 |
48歳 |
官職が飛騨守となる 6 。 |
寛文年間 |
- |
- |
伊達騒動の鎮静化に関与する 5 。 |
寛文4年 |
1664年 |
53歳 |
閏5月7日、四男・鑑虎に家督を譲り隠居。剃髪し「好雪」と号す 4 。 |
延宝3年 |
1675年 |
64歳 |
9月19日、江戸藩邸にて死去。小石川徳雲寺に葬られる 4 。 |
立花忠茂は、単に偉大な父の跡を継いだ幸運な二代目では決してなかった。彼は、戦国の遺風が消え去り、徳川による統治体制が盤石となる時代の大きな転換点において、立花家という「家」を新たな時代に適応させ、その存続と発展の礎を築いた、思慮深く有能な藩主であった。
彼の功績は、多岐にわたる。まず「武」の側面では、生涯唯一の実戦であった島原の乱において、自ら本丸に突入するという目覚ましい武功を立てた。これは、立花家の武名を継承する者としての責務を果たすと同時に、泰平の世にあってもなお求められた武家の棟梁としての資質を、内外に証明するものであった。
次に「文」の側面では、安東省庵という傑出した儒学者を登用し、柳川藩に学問の基礎を築いた。これは、藩の統治理念を武力から文治へと転換させる、彼の治世における最大の功績である。この文化的投資は、柳川藩に永続的な知的遺産をもたらし、その後の発展の原動力となった。
そして「政」の側面では、幕府や伊達家のような巨大な外様大名との複雑な政治的関係を巧みに乗りこなし、藩の政治的地位を安定させた。将軍家からの異例の厚遇や、上意による政略結婚といった、自らの意思を超えた政治力学に翻弄されながらも、それを最終的には藩の利益と自らの地位向上に繋げた手腕は、近世大名として高く評価されるべきである。
忠茂の生涯は、徳川幕藩体制下における「二代目藩主」の理想像と、その宿命的な課題を体現している。彼は、創業者のカリスマ性に依存するのではなく、着実な内政、巧みな政治判断、そして未来を見据えた人材育成によって家を安定させるという、泰平の世に求められる新たなリーダーシップの形を示した。彼が築いた盤石な基盤があったからこそ、柳川藩はその後、幕末の動乱期まで存続し得たのである。
偉大な養父・宗茂の「光」を受け継ぎ、その恩恵を最大限に活用しながらも、その巨大な「影」に屈することなく、自らの時代の課題に真摯に向き合い、独自の功績を確かに遺した人物。それが、立花忠茂の真の姿である。奇しくも、本報告書の作成時期に近い2024年に、彼の350回忌法要が菩提寺である福嚴寺で営まれることは 6 、彼の遺したものが今なお故郷・柳川の地に息づいている何よりの証左と言えよう。