最終更新日 2025-07-24

立花種次

立花種次は、筑後柳河藩主立花宗茂の養子。大坂夏の陣で初陣を飾り、島原の乱でも活躍。宗茂の死後、家督を継ぎ、柳河藩の安定に尽力した。文武両道に秀でた武将。

筑後三池藩祖・立花種次の生涯――戦国の遺風と近世大名創設の狭間で

序章:立花種次という存在――柳川藩主・立花宗茂の甥、そして三池藩の創主

立花種次(たちばな たねつぐ、慶長9年(1604年) - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期に筑後国三池藩(現在の福岡県大牟田市周辺)を創設した初代藩主である。彼の名は、伯父である「西国無双」の猛将・立花宗茂や、岩屋城に散った悲劇の英雄・高橋紹運といった一族の巨星たちの影に隠れがちである。しかし、彼の27年という短い生涯は、関ヶ原の戦いで一度は全てを失った立花・高橋一族が、徳川の世でいかにして再興を遂げ、近世大名として新たな歴史を刻み始めたかを象徴する、極めて重要な意味を持つ。

種次の人生は、武力で領地を切り取る戦国の価値観が薄れ、幕藩体制という新たな秩序が確立されていく時代の転換点に位置する。父・立花直次が旗本として徳川家に仕えることで再興の足掛かりを築き、伯父・宗茂が旧領復帰という奇跡を成し遂げた後、種次は一族の新たな一翼を担うべく、旗本から大名へとその身分を駆け上がった。

本報告書は、種次個人の生涯を追うに留まらず、彼が背負った一族の宿命、旗本から大名へと至る過程、そして初代藩主として藩政の礎を築いた具体的な事績を、関連史料に基づき徹底的に解明する。これにより、種次を単なる「宗茂の甥」としてではなく、戦国の遺風が色濃く残る時代に、新たな秩序の中で大名家を創設した一人の領主として、その実像と歴史的意義を立体的に描き出すことを目的とする。

【表1:立花種次 略年表】

和暦(西暦)

将軍

種次の年齢

主要な出来事

関連する動向

慶長9年(1604年)

徳川家康

1歳

8月、立花直次の長男として誕生。

父・直次は徳川家旗本。伯父・宗茂は陸奥棚倉藩主。

元和3年(1617年)

徳川秀忠

14歳

父・直次の死去に伴い家督を相続。常陸柿岡5,000石の領主となる。

5月3日、将軍秀忠に初拝謁。

元和7年(1621年)

徳川秀忠

18歳

1月10日、5,000石を加増され、筑後三池1万石の大名となる。

伯父・宗茂が前年に筑後柳川へ旧領復帰。

元和8年(1622年)

徳川秀忠

19歳

8月6日、従五位下・主膳正に叙任される。

寛永2年(1625年)

徳川家光

22歳

長男・種長が誕生。

寛永3年(1626年)

徳川家光

23歳

将軍家光の上洛に従い、後水尾天皇の二条城行幸の供奉を務める。

大名としての公務を果たす。

寛永4年(1627年)

徳川家光

24歳

筑後三池に陣屋を完成させ、柳川城下から居を移す。

三池藩の政治的拠点が確立。

寛永7年(1630年)

徳川家光

27歳

3月29日、江戸にて死去。家臣・平塚増次が殉死。

長男・種長(6歳)が家督を継ぐ。


第一章:名門の血脈――高橋紹運と立花宗茂の遺産

立花種次という人物を理解するためには、彼がどのような血脈と歴史的背景のもとに生まれたかを知ることが不可欠である。彼の祖父・高橋紹運、父・立花直次、伯父・立花宗茂は、いずれも戦国末期の九州史にその名を深く刻んだ武将たちであった。彼らの生き様、特にその忠義と武勇、そして徳川の世における苦難と再起の物語は、種次の運命そのものを規定する強烈な遺産となった。

第一節:祖父・高橋紹運の忠義と父・直次の武勇

種次の祖父・高橋紹運(鎮種)は、豊後の大名・大友氏の重臣であり、盟友・立花道雪と共に「大友家の両輪」と称された名将であった。彼の名は、天正14年(1586年)の島津氏による筑前侵攻における、岩屋城での壮絶な戦いによって不滅のものとなる。紹運はわずか763名の兵で岩屋城に籠城し、5万ともいわれる島津の大軍を相手に降伏勧告を一切退け、半月にわたる攻防の末に玉砕した。この戦いは、敵である島津方からも「古今稀なる名将」と賞賛されるほどの忠義と武勇の極致であり、後に続く高橋・立花一族の精神的支柱、そして誇りの源泉となった。

その紹運の次男にして、種次の父が立花直次(初名:高橋統増)である。兄・宗茂が立花家の養子となったため、直次が高橋家の嫡男とされた。父・紹運が岩屋城で戦っていた際、直次は宝満山城を守っていたが、父の玉砕と城内の動揺を受け、城兵の助命を条件に開城。しかし島津方の裏切りにより捕虜となるという苦難を若くして経験した。

豊臣秀吉による九州平定後、兄と共に秀吉の直臣となり、筑後国三池郡に1万8,000石の所領を与えられ大名となる。文禄・慶長の役では、兄・宗茂に従って朝鮮へ渡海。碧蹄館の戦いや第二次晋州城合戦などで武功を重ね、特に明の大軍に包囲された兄の退路を切り開いて救出するなど、その武勇は宗茂自身から「世に主膳(直次の通称)ほど大剛の者なし」と絶賛されるほどであった。

しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄と共に西軍に与したため、戦後に改易の憂き目に遭い、所領を全て失う。浪人生活を余儀なくされたが、その武勇を高く評価していた徳川秀忠に召し抱えられた。慶長19年(1614年)、常陸国筑波郡内の柿岡に5,000石を与えられて旗本として復活。この時、本多正信らの勧めもあり、姓を「高橋」から兄と同じ「立花」に改めた。その後、大坂の陣にも出陣し、秀忠の危機を救う戦功を挙げるなど、徳川家への忠勤に励んだ。

第二節:伯父・立花宗茂の改易と奇跡的な旧領復帰

種次の伯父・立花宗茂は、実父・紹運と養父・道雪という二人の名将から薫陶を受け、豊臣秀吉に「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と評された、文字通り「西国無双」の武将であった。

関ヶ原の戦いでは、義を重んじて西軍に与し、大津城を攻略するなど活躍したが、西軍の敗北により筑後柳川13万2千石を改易された。しかし、その卓越した武名と誠実な人柄を徳川家康・秀忠親子は高く評価し、浪人中の宗茂を召し抱えようと諸大名が動く中、最終的に幕府が自ら召し抱えることとなった。慶長8年(1603年)、陸奥国棚倉に1万石を与えられ、大名として異例の復活を遂げる。

宗茂の物語が真に奇跡的とされるのは、その後の展開である。元和6年(1620年)、筑後柳川藩主であった田中忠政が嗣子なく死去し、田中家は無嗣改易となった。この機に幕府は、宗茂をかつての所領である柳川に10万9千石余で復帰させるという、前代未聞の決定を下した。関ヶ原の戦いで改易された西軍大名が、旧領への復帰を果たした唯一の例であり、宗茂の器量が徳川幕府にいかに高く評価されていたかを物語っている。

第三節:立花直次の嫡男としての誕生と家督相続

立花種次は、慶長9年(1604年)8月、このような激動の時代を生き抜いた父・立花直次の長男として誕生した。母は筑紫広門の娘・養福院である。彼の通称は弥七郎と伝わる。

種次が生まれた時、立花・高橋一族は関ヶ原の敗戦によるどん底から這い上がり、父・直次は徳川の旗本、伯父・宗茂は棚倉藩主として、新たな世での地位を固めつつある時期であった。彼は、祖父や父、伯父が経験したような、生死を賭して領地を切り取る戦国の修羅場を知らない。彼の人生は、一族が徳川幕府の秩序の中で確保した地位を受け継ぎ、それをいかにして存続させ、発展させていくかという、全く新しい時代の課題を担う運命にあった。

種次には複数の兄弟がおり、中でも異母弟にあたる忠茂(直次の四男)は、後に実子のなかった伯父・宗茂の養嗣子となり、柳川藩2代藩主の座を継ぐことになる。この複雑な相続関係は、柳川立花家と三池立花家の密接でありながらも独立した関係を象徴している。

【表2:立花・高橋家 略系図】

高橋紹運(鎮種)

立花宗茂(統虎) (長男、立花道雪の養子へ)

忠茂 (養子、直次の四男)→ 柳川藩主家

立花直次(高橋統増) (次男)


第二章:旗本から大名へ――常陸柿岡五千石の時代(元和三年~七年)

立花種次が14歳で家督を継ぎ、初めて領主として歩み始めた常陸国柿岡での4年間は、彼の生涯において重要な準備期間であった。この時期、彼は旗本として幕府への奉公を勤めながら、近世領主としての人格と統治の基礎を形成していったと考えられる。

第一節:父の死と家督継承

元和3年(1617年)、父・立花直次が46歳でその生涯を閉じた。これに伴い、当時14歳であった長男の種次が家督を相続することとなった。同年5月3日、種次は二代将軍・徳川秀忠に初めて拝謁し、主従関係を確認。そして11月には、父の遺領である常陸国柿岡(現在の茨城県石岡市柿岡周辺)5,000石の継承を正式に許された。この時点での彼の身分は、1万石以上の所領を持つ大名ではなく、将軍に直接仕える旗本であった。

第二節:柿岡城(陣屋)と常陸国における統治

種次が父から受け継いだ柿岡の地は、古くは鎌倉時代に柿岡氏が築城したと伝わる柿岡城を中心とした地域である。戦国時代には太田氏や佐竹氏配下の武将が城主を務めるなど、常陸国における要衝の一つであった。佐竹氏が出羽国久保田へ転封となった後、徳川の世となってから立花直次が入封し、種次がそれを継いだ形となる。

種次が拠点としたのは、この柿岡城であったとみられる。若年の種次が具体的にどのような統治を行ったかを示す詳細な記録は乏しい。しかし、旗本としての重要な務めは江戸での奉公であり、実際の領地経営は家臣団、特に父・直次と共に数多の戦場や浪人生活の苦難を乗り越えてきた宿老たちが補佐していたと推察される。

この柿岡での4年間は、単なる待機期間ではなかった。14歳という若さで当主となった種次にとって、それは近世領主としての「帝王学」を実践的に学ぶ貴重な時間であった。周囲にいた歴戦の家臣たちから、父の武勇伝や統治の心得、主君としてのあり方を日々学び取ったであろう。また、江戸での奉公を通じて、幕府の政治構造や諸大名との付き合い方を肌で感じたはずである。この期間に培われた知識と経験、そして家臣団との信頼関係こそが、後に筑後三池で初代藩主として迅速に藩政を確立する上での大きな礎となったことは想像に難くない。


第三章:筑後三池藩の立藩と藩政の確立(元和七年~寛永七年)

立花種次の生涯における最大の功績は、筑後国三池藩を創設し、その初代藩主として藩政の礎を築いたことにある。旗本から1万石の大名へと昇格し、父の旧領でもある三池の地へ移ってからの約9年間、彼は精力的に藩の基盤固めに邁進した。

第一節:加増転封の背景――柳川藩再興と筑後の新たな知行割

種次が大名へと昇格する直接の契機は、元和6年(1620年)に筑後柳川藩32万石余の藩主であった田中忠政が嗣子なくして急死し、田中家が無嗣改易となったことに始まる。これにより、広大な筑後の地が幕府の裁量下に置かれることになった。

幕府は、この機に立花宗茂を陸奥棚倉から呼び戻し、旧領である柳川に10万9千石余で復帰させるという破格の措置を決定した。そして、元和7年(1621年)1月10日、この宗茂の柳川復帰と時を同じくして、甥である旗本・立花種次に対して5,000石を加増し、合計1万石の大名とすることが発表された。同時に、その領地は常陸柿岡から、かつて父・直次が領有した筑後国三池郡内に移されることとなった。ここに、外様大名・三池藩が誕生し、種次は18歳で諸侯の列に加わったのである。

この一連の人事は、単に種次個人の功績や宗茂への恩賞という側面だけでは説明できない。そこには、徳川幕府による九州統治の巧みな戦略が透けて見える。関ヶ原で西軍の主力として戦った過去を持ち、絶大な武名と人望を誇る宗茂は、幕府にとって依然として油断ならぬ外様大名であった。その宗茂を旧領に戻すという寛大な処遇を示す一方で、その隣接地に甥である種次の1万石藩を新たに配置することは、いくつかの政治的意図を含んでいた。第一に、宗茂へのさらなる恩賞として一族の繁栄を許す形を取り、その忠誠心を確固たるものにすること。第二に、万が一の際に本家である柳川藩を内側から監視・牽制する楔としての役割を期待すること。そして第三に、柳川藩と三池藩という立花一族の勢力圏を形成させ、隣接する肥後国の加藤家(後に細川家)や肥前国の鍋島家といった他の有力外様大藩との勢力均衡を図ることである。種次の加増転封は、このような幕府の大きな政治的文脈の中で決定された、戦略的な一手であったと言えよう。

第二節:三池藩初代藩主としての藩政基盤構築

筑後三池に入封した種次は、若年にして藩の創設という大事業に精力的に取り組んだ。

三池陣屋の建設

移封当初、種次は伯父・宗茂の居城である柳川城下に屋敷を構えた。これは、藩政の初期段階において、強大な本家である柳川藩からの全面的な支援を受けるための現実的な選択であったと考えられる。しかし、藩としての独立性を確立するためには、自らの領内に政治的中心地を築く必要があった。

その集大成が、寛永4年(1627年)に完成した三池陣屋である。種次はこの陣屋に居を移し、名実ともに三池藩の統治を開始した。陣屋は現在の福岡県大牟田市三池にある三池小学校の一帯に築かれ、その規模は小藩ながらも整然としたものであったことが、現存する遺構から窺える。大手口に架かる壮麗な石造りの眼鏡橋、その先に続く石段、そして藩主の生活を支えた井戸などが今もその面影を伝えている。また、陣屋の表門は同市内の寿光寺山門として、御殿の玄関の一部は三池郷土館に、それぞれ移築され現存している。

家臣団の編成と知行割

藩を運営するためには、それを支える家臣団の存在が不可欠である。種次は、関ヶ原の戦い後に離散し、肥後熊本藩などに預けられていた父・直次以来の旧臣たちを積極的に呼び戻し、家臣団を再編成した。これは、単に行政・軍事の担い手を確保するという実務的な目的だけでなく、父祖と共に苦難を乗り越えてきた家臣たちと一族再興の喜びを分かち合い、新たな藩の礎を共に築こうという強い意志の表れであった。そして、彼らに対して知行割(領地の配分)を精力的に行い、藩の経済的・軍事的な基盤を確立していった。

菩提寺・紹運寺の建立

種次は、入封とほぼ同時に、藩主家の菩提寺として金剛山紹運寺を建立した。この寺の建立は、単なる宗教的行為に留まらない、極めて戦略的な意味を持っていた。注目すべきは、その寺号である。彼は、直接の父である直次の名ではなく、岩屋城で壮絶な最期を遂げた祖父・高橋紹運の法号「紹運」を寺の名に冠したのである。

新たに成立した三池藩には、周辺の旧来の大名家が持つような長い歴史や伝統的な権威はなかった。そこで種次は、一族の中で最も尊敬され、武士の忠義の象徴であった祖父・紹運の名を掲げることで、自らの家系が持つ「武門の誉れ」と「正統性」を領民や他の大名に対して視覚的に、そして強力にアピールした。これは、新興大名家としての権威を確立するための、巧みなブランディング戦略であったと言える。紹運寺は、単なる先祖供養の場である以上に、三池立花家のアイデンティティを象徴するモニュメントとして創建されたのである。

第三節:柳川藩との関係と幕府への奉公

三池藩の藩政確立にあたり、伯父・宗茂が率いる柳川藩からの援助は絶大であったと伝えられている。両藩は地理的にも血縁的にも極めて密接な関係を保ち、これは筑後における立花家の安定に大きく寄与した。

一方で、種次は幕府への奉公も怠らなかった。寛永3年(1626年)、三代将軍・徳川家光が上洛し、後水尾天皇の二条城行幸を迎えた際には、他の大名たちと共にこれに随行し、供奉の任を務めている。これは、大名としての重要な公務であり、徳川家への揺るぎない忠誠を内外に示す絶好の機会であった。


第四章:人物像と早すぎる死

藩の創設という大事業を精力的に進めた若き藩主・立花種次であったが、その治世はあまりにも短く、突然の終わりを迎える。史料に残された断片的な情報から、彼の人物像と夭折がもたらした影響を考察する。

第一節:若き藩主の人物像

種次自身の性格や逸話を直接伝える史料は多くない。しかし、その行動の軌跡は、彼の人物像を雄弁に物語っている。入封後わずか数年のうちに、陣屋を建設し、離散した家臣を呼び戻して知行を分け与え、藩の精神的支柱となる菩提寺を建立するなど、藩政の基盤固めに精力的に取り組んだ姿からは、極めて実直で強い責任感を備えた統治者の姿が浮かび上がる。

また、菩提寺に祖父・紹運の名を冠したことからは、自らの一族の歴史と名誉を深く重んじる、敬虔な人物であったことが推察される。父・直次や伯父・宗茂のような華々しい武功伝は残されていないが、元和8年(1622年)には父と同じ従五位下・主膳正に叙されており、武家の当主としての格式を幕府から正式に認められていたことがわかる。彼は、戦場で武勇を示すのではなく、泰平の世で藩を経営するという、新しい時代のリーダーシップを発揮した人物であった。

第二節:寛永七年の逝去と殉死した家臣・平塚増次

藩政の基盤がようやく固まり、これから本格的な領国経営が始まろうとしていた矢先の寛永7年(1630年)3月29日、種次は江戸藩邸にて急逝した。享年わずか27。その若すぎる死因については記録がなく不明である。彼の亡骸は領地に運ばれ、自らが建立した菩提寺・紹運寺に葬られた。法名は金剛院殿一叟全心大居士という。

この若き主君の死に際し、一つの象徴的な出来事が起こる。父・直次、そして種次の二代にわたって仕えた家臣・平塚増次が、主君の後を追って追腹(殉死)を遂げたのである。

江戸時代初期、幕府は主君への忠誠の証として行われてきた殉死の風習を、無益な人命の損失であり、旧時代の悪習であるとして次第に禁じる方向へと向かっていた。そのような時代背景の中、27歳の若き主君のために命を捧げる家臣がいたという事実は、極めて重要な意味を持つ。これは、種次が単なる血筋上の主君であっただけでなく、家臣から深い敬愛と忠誠を寄せられるだけの徳と人格を備えていたことを強く示唆している。同時に、関ヶ原後の苦難を共に乗り越えてきた立花家の家臣団には、主君と生死を共にするという戦国時代以来の強固な主従の絆が、依然として色濃く息づいていたことの証左でもある。この平塚増次の殉死は、史料に乏しい立花種次の人物像を、後世に最も雄弁に物語る逸話と言えるだろう。

第三節:その後の三池立花家

種次の死後、家督は長男の種長がわずか6歳で相続した。幼少の藩主を支えたのは、伯父であり柳川藩主となっていた立花忠茂(種次の実弟)や、種次が再編した家臣団であった。彼らの尽力により、三池藩は創設早々の危機を乗り越え、存続することができた。

三池立花家はその後も歴史を重ね、文化3年(1806年)には藩主・立花種周の失脚により、陸奥国下手渡(現在の福島県伊達市)へ懲罰的な転封を命じられるという最大の苦難を経験する。しかし、度重なる復帰嘆願の末、幕末の嘉永4年(1851年)には三池の旧領の一部を回復し、明治維新まで大名家としての家名を保った。種次が築いた礎は、幾多の変遷と苦難を経ながらも、確かに二百数十年にわたって後世へと受け継がれたのである。

【表3:三池藩立花家 歴代藩主一覧】

藩主名

続柄

在位期間

主要な出来事

初代

立花 種次(たねつぐ)

直次の長男

元和7年~寛永7年

三池藩立藩、三池陣屋建設

2代

立花 種長(たねなが)

種次の長男

寛永7年~天和2年

3代

立花 種明(たねあきら)

種長の長男

天和2年~元禄12年

4代

立花 貫長(つらなが)

種明の長男

元禄12年~宝永2年

5代

立花 長煕(ながひろ)

貫長の長男

宝永2年~享保16年

6代

立花 種周(たねちか)

長煕の四男

享保16年~文化2年

若年寄に就任するも失脚

7代

立花 種善(たねよし)

種周の次男

文化2年~天保3年

陸奥国下手渡へ転封

8代

立花 種温(たねはる)

種善の長男

天保4年~嘉永2年

9代

立花 種恭(たねゆき)

種温の養子

嘉永2年~明治4年

三池へ復帰、若年寄、老中格を歴任


結論:立花種次の歴史的評価

立花種次は、祖父・高橋紹運や伯父・立花宗茂のような、戦場の武勇によって歴史の表舞台を駆け抜けた「戦国武将」ではなかった。彼の歴史的役割は、徳川幕府という新たな政治秩序の中で、父・直次が苦難の末に再興した家を受け継ぎ、それを旗本から「大名家」へと昇格させ、その存続基盤を盤石にすることにあった。

彼の最大の功績は、伯父・宗茂の旧領復帰という政治的な好機を的確に捉え、わずか9年という短期間で筑後三池藩の統治基盤を精力的に確立した点にある。三池陣屋の建設、旧臣の召し集めと家臣団の再編、そして祖父の名を冠した菩提寺・紹運寺の建立といった一連の事業は、彼が優れた実務能力と、自らの家の歴史的意義を深く理解した上での明確なビジョンを持っていたことを示している。

27歳での夭折は、彼自身にとっても、創設されたばかりの三池藩にとっても大きな悲劇であったことは間違いない。しかし、家臣・平塚増次がその後を追って殉死したという逸話は、彼が家臣から深く敬愛される「仁君」であった可能性を強く示唆しており、その短い治世が決して空虚なものではなかったことを証明している。

総じて、立花種次は、戦国の武勇の血を受け継ぎながらも、その情熱と能力を泰平の世における藩の「創設」と「経営」に注いだ、まさに「移行期の領主」であった。彼の短いながらも濃密な生涯は、関ヶ原の敗戦から奇跡の復活を遂げた立花一族の物語において、その再興を確固たるものにし、近世大名としての新たな一歩を力強く記した、不可欠な一章として評価されるべきである。