最終更新日 2025-07-23

立花鑑載

立花鑑載は旧立花氏最後の当主。大友宗麟に二度反旗を翻し、毛利氏と結び立花山城に籠城。家臣の裏切りで城が陥落し死去。彼の死後、戸次鑑連が立花氏を継承した。

立花鑑載:大友支配の黄昏と、ある名門の終焉

序章:没落した名門・立花氏最後の当主

戦国時代の九州を語る上で、立花鑑載(たちばな あきとし)という名は、しばしば「主家を二度も裏切った不忠の臣」として、簡潔に片付けられがちである。彼の生涯は、その宿敵であり、後に彼の名跡を継ぐことになる「軍神」立花道雪(戸次鑑連)や、その養子で「西国無双」と謳われた立花宗茂の輝かしい武勲の影に隠れ、歴史の敗者として断罪されることが多い。しかし、鑑載の生涯を単なる個人的な野心や裏切りという物語に矮小化することは、戦国期における北九州の複雑な政治情勢と、そこに生きた武将たちの苦悩を見過ごすことになりかねない。

本稿は、立花鑑載を、旧来の名門立花家最後の当主として再評価することを目的とする。彼の生涯は、九州の覇者であった大友氏の内部矛盾、西からその勢力を伸長させる中国地方の雄・毛利氏の圧力、そして独立志向の強い筑前国人衆の動向という、三つの巨大な力が激しく交錯する一点に位置していた 1 。鑑載の二度にわたる反旗は、この時代の大きなうねりの中で、自家の存続と権勢を賭けてもがいた末の、必然的な帰結であったのかもしれない。

そして、歴史の皮肉と呼ぶべきは、鑑載の滅亡が、結果として不世出の英雄・立花道雪を筑前の要衝・立花山城に迎え入れ、後の柳川藩主立花家という、近世大名としての新たな栄光の礎を築く遠因となった点である 3 。鑑載の悲劇的な生涯を丹念に追うことは、一人の武将の栄枯盛衰を超え、戦国九州における権力構造の変容と、新たな時代の到来を浮き彫りにする試みとなるであろう。

第一章:立花氏の出自と鑑載の家督相続

筑前における大友氏の橋頭堡・立花氏

立花氏の歴史は、鎌倉時代後期に遡る。九州探題として北九州に覇を唱えた豊後大友氏の第六代当主・大友貞宗の子、貞載が、1330年頃に筑前国粕屋郡の要害・立花山に城を築き、その地名を姓としたことに始まる 1 。以来、立花氏は大友宗家の庶流、いわば分家として、筑前における大友勢力の軍事的中核を担う重要な役割を果たしてきた。その家格の高さから「西の大友」とも称され、大友家中に重きをなす名門であった 2

彼らが本拠とした立花山城は、単なる一地方の山城ではない。眼下には、当時、大陸との交易で栄える国際貿易港・博多を望むことができた。この博多の利権を掌握することは、大友氏の筑前経営における生命線であり、立花山城はその支配を確固たるものにするための、まさに橋頭堡であった 2

しかし、立花鑑載が家督を継ぐ直前の時期、大友宗家と立花家の関係には不穏な空気が流れていた。大友氏二十代当主・大友義鑑(大友宗麟の父)の治世において、立花宗家の当主であった新五郎なる人物が、宗家によって誅伐されるという事件が発生している 1 。この事件の詳細は不明な点が多いものの、立花宗家が宗家の意に沿わない行動を取ったか、あるいはその疑いをかけられたことを強く示唆しており、両家の間に深刻な緊張関係が存在したことの証左と言える。

鑑載の出自と相続の謎

このような不穏な状況下で、立花家の家督を継いだのが立花鑑載であった。彼の出自は、立花家の直系ではない。立花宗家の当主・立花鑑光の養子という形をとっているが、その実態は豊後日田氏の出身で、日田親賢(親堅)の次男であったとされる 3 。幼名を千亀丸、後に新十郎と称した鑑載は、先述の新五郎誅伐後、混乱する立花家の名跡を継ぐため、急遽当主として迎えられたのである 1

この一連の家督相続の経緯は、単なる偶然や平穏な継承とは考え難い。むしろ、そこには大友宗家による筑前支配強化への強い意志が介在していたと見るべきである。反抗的であった可能性のある旧来の立花宗家の血筋を排し、より宗家の影響力が強く及ぶ豊後日田氏から、いわば息のかかった人物を養子として送り込む。これは、戦略的要衝である立花山城の支配権を、より直接的かつ確実に掌握しようとする大友義鑑・宗麟政権の周到な政治的判断であった可能性が高い。

しかし、この「落下傘」的な家督相続は、鑑載自身の立場を極めて不安定なものにしたであろう。彼は「立花家の当主」であると同時に、実質的には「大友宗家から派遣された監視役」という二重の役割を背負わされていた。立花家譜代の家臣団からすれば、彼は外部から来た「よそ者」であり、その求心力には常に疑問符がついて回ったかもしれない。この統治基盤の脆弱さと、旧来の家臣団との間に生じたであろう軋轢は、後の彼の孤立、そして二度にわたる謀反へと繋がる伏線となったとも考えられる。彼は、名門の看板を背負いながらも、その実、常に孤独と猜疑の中にいたのかもしれない。

第二章:揺れる筑前と二度の反旗

立花鑑載の生涯を決定づけたのは、主家である大友氏に対する二度の反乱であった。その行動を理解するためには、彼を取り巻く主要人物との関係性を把握することが不可欠である。

表1:立花鑑載をめぐる主要人物関係図

人物

立花鑑載

大友宗麟

戸次鑑連(立花道雪)

毛利元就

高橋鑑種

立花親善

野田右衛門大夫

主君・大友宗麟との確執

鑑載の謀反の背景には、主君・大友宗麟との深刻な確執があった。宗麟は家督相続当初こそ英明な君主として善政を敷いたが、年を経るにつれてその治世には陰りが見え始める 2 。特に、美人と聞けば家臣の妻であろうと強引に奪って側室にするなど、その粗暴で不条理な振る舞いは、多くの家臣の心を離反させた 2 。鑑載もまた、そのような宗麟の君主としての資質に強い嫌悪感を抱いていたと伝えられている。

この個人的な感情に加え、より構造的な問題も存在した。宗麟のキリスト教への過度な傾倒と、それに伴う伝統的な寺社の破壊は、敬虔な仏教徒が多い国人衆の強い反発を招いた 7 。大友氏の支配は広大であったが、本拠地である豊後から遠く離れた筑前において、その統制は必ずしも盤石ではなかった。高橋鑑種や秋月種実といった筑前の有力国人衆は、常に大友氏の支配から脱し、自立する機会を窺っていたのである 8

鑑載の反乱は、こうした筑前国人衆全体の「反大友」という大きな潮流の中で発生したと見るべきである。彼はその潮流を代表する一人であり、立花山城という要衝を押さえていたが故に、その反乱が特に重大視されたのだ。彼の行動は、単なる一個人の野心の発露というよりも、大友氏の筑前支配体制そのものが抱える構造的欠陥が、宗麟の個人的な問題と結びついて噴出した結果だったのである。

第一次反乱と不可解な赦免(永禄八年、1565年)

永禄8年(1565年)、鑑載はついに最初の叛旗を翻す。西から勢力を拡大する安芸の毛利元就と密かに通じ、主君・宗麟に反旗を翻したのである 1 。事態を重く見た宗麟は、重臣の吉弘鑑理らを大将とする討伐軍を派遣。立花山城は攻撃を受け、鑑載は城を追われることとなった 1

戦国時代の常識からすれば、枢要な城で謀反を起こした城主の末路は、一族郎党ことごとく誅殺されるのが常である。しかし、鑑載の処遇は異例であった。彼はしばらくして宗麟から赦免され、再び立花山城への復帰を許されたのである 1 。史料には「許された理由は諸説あって定かではない」と記されており 3 、当時の人々にとってもこの処置は不可解に映ったことが窺える。一説には、同じく立花城将であった奴留湯(ぬるゆ)氏と城の東西を分けて統治するよう命じられたともいうが、反逆者に対する処遇としてはあまりに寛大に過ぎる。

この「不可解な赦免」は、宗麟の温情や甘さを示すものではない。むしろ、鑑載を完全に排除することができないほど、大友氏の筑前支配が不安定であったことの何よりの証左であった。考えられる理由としては、第一に、鑑載を処断したとしても、その後釜として立花山城を安定して治められるだけの有力な武将を即座に派遣する余裕がなかったこと。第二に、鑑載を支持する筑前国内の勢力が依然として根強く、彼の処断がさらなる反乱を誘発することを宗麟が恐れたこと。そして第三に、西に龍造寺氏、北に毛利氏という二大勢力と対峙する中で、これ以上の内紛の長期化を避ける必要に迫られていたことなどが挙げられる。

いずれにせよ、この中途半端な処置は、大友氏の権威に影を落とす結果となった。鑑載には「一度裏切っても許される」という誤った成功体験を与え、毛利氏には「大友の筑前支配は盤石ではない」という確信を抱かせた。この赦免こそが、わずか3年後の二度目の、そして鑑載にとって致命的となる反乱の温床を育んでしまったのである。

毛利元就の調略と高橋鑑種との共謀

一度目の反乱が鎮圧された後も、筑前の情勢は不安定なままであった。中国地方の覇者となった毛利元就は、かつて大内氏が領有した北九州の支配権奪還を狙い、大友氏との対立を深めていた 2 。元就は、大友氏に不満を持つ筑前の国人衆に盛んに調略の手を伸ばす。

その誘いに乗ったのが、宝満城主・高橋鑑種であった。永禄10年(1567年)、鑑種は毛利氏の支援を背景に、公然と大友氏に反旗を翻した 11 。鑑種の謀反には、宗麟が鑑種の実家である一萬田家を攻め滅ぼし、その兄嫁を自らの側室としたことへの強い私怨も一因であったとされている 14

この高橋鑑種の挙兵に呼応したのが、立花鑑載であった。永禄11年(1568年)春、鑑載は鑑種の勧誘を受け入れ、毛利軍の九州侵攻に合わせて再び大友氏に叛いた 1 。鑑載の籠もる立花山城には、毛利からの援軍に加え、筑前の原田氏など毛利方に与する国人領主の兵も馳せ参じ、城は反大友連合軍の一大拠点と化した 2 。一度目の赦免という大友氏の失策は、より大規模で深刻な反乱を招く結果となったのである。

第三章:立花山城の攻防と鑑載の最期(永禄十一年、1568年)

戸次鑑連の出陣と籠城戦

二度にわたる鑑載の反乱、そしてそれに呼応する筑前国人衆の動きは、大友氏の威信を根底から揺るがすものであった。事態を鎮圧するため、大友宗麟は最強のカードを切る。大友家の「軍神」として敵味方から畏怖されていた筆頭重臣・戸次鑑連(後の立花道雪)を総大将に任命し、吉弘鑑理、臼杵鑑速といった大友家の主力をことごとく投入して、立花山城の完全攻略を命じたのである 1

対する鑑載は、天然の要害であり、堅城として名高い立花山城に籠城した。毛利氏や高橋鑑種からの援軍も得て、その守りは固かった。大友軍の猛攻に対し、鑑載は実に3ヶ月もの間、頑強に抵抗を続けた 2 。崖下で行われた前哨戦では、攻め寄せる大友勢を何度も撃退し、総大将である鑑連自身が負傷しかけるほどの激戦が繰り広げられたと記録されている 15 。この抵抗ぶりは、鑑載が決코無能な武将ではなかったことを物語っている。

家臣の裏切りと城の陥落

しかし、長期にわたる籠城戦は、城内の兵士たちの士気を徐々に蝕んでいった 2 。この状況を好機と見た戸次鑑連は、武力による強攻策と並行して、城内への調略を開始する。そして、この鑑連の誘いに応じたのが、鑑載の家臣であった野田右衛門大夫であった 3

永禄11年(1568年)7月23日、野田右衛門大夫は城門を密かに開き、大友軍を城内へと手引きした。内側からの崩壊により、鉄壁を誇った立花山城はついに陥落した 1

この家臣の裏切りという結末は、立花鑑載の将としての限界を浮き彫りにしている。鑑載の出自が日田氏からの養子であったこと、そして一度目の謀反と赦免という異例の経緯は、立花家中の譜代家臣たちとの間に、最後まで埋めがたい溝を残していたのかもしれない。事実、立花家配下の有力国人であった薦野(こもの)氏や米多比(めたび)氏は、鑑載の謀反に同調せず、むしろ大友方として鑑載と敵対しており、鑑載が立花家中の総意を掌握しきれていなかったことが窺える 15

対照的に、敵将である戸次鑑連は、部下への配慮を欠かさず、家臣から絶大な信頼を得ていたことで知られる 17 。鑑載が家臣に裏切られて城を失ったのに対し、後の立花道雪(鑑連)や高橋紹運は、絶望的な状況下でも家臣たちが殉死を厭わなかった。この将としての器量の差、求心力の有無が、最終的な勝敗を分かつ決定的な要因となったことは想像に難くない。野田右衛門大夫の裏切りは、鑑載の指導者としての求心力の欠如を象徴する、悲劇的な出来事であった。

鑑載の死:諸説の検討

城の陥落後、立花鑑載がどのような最期を遂げたかについては、複数の説が伝えられている。

  • 自刃説 : 最も多くの記録に見られる説である 1 。城を脱出したものの、追手に追い詰められ、もはやこれまでと覚悟を決めて自害したとされる 2 。ある記録では、裏切った野田右衛門を大声で罵りながら、壮絶に十字に腹を掻き切って果てたと、その最期の様子が具体的に描写されている 15 。これが事実であれば、武将としての最後の意地を示した最期であったと言えよう。
  • 討死説 : 野田右衛門大夫からの知らせで鑑載の逃亡を知った大友軍の追討部隊に捕捉され、竃門(かまど)勘解由允鎮意によって討ち取られたとする説もある。その首級は検分のため、豊後の大友宗麟のもとへ送られたという 3 。これは、反逆者に対する見せしめとしての意味合いが強い結末である。
  • 処刑説 : 一度は投降したが、二度目の謀反であったことから断じて許されず、処刑されたとする説 3 。もしそうであれば、一度目の赦免が間違いであったことを宗麟自身が認め、大友氏の断固たる意志を示した形となる。

どの説が真実であるかは定かではないが、永禄11年8月14日(西暦1568年9月5日)、立花鑑載がその波乱の生涯を閉じたことは、歴史的な事実である 3

第四章:鑑載後の立花家と遺された者たち

息子・立花親善の流転

立花鑑載の死によって、大友貞載から続く名門・立花家の血統は、事実上、その歴史に幕を閉じた。しかし、鑑載には親善(ちかよし)という名の嗣子がおり、城の陥落後も生き延びていた 3 。父が二度も主家を裏切った反逆者であったため、親善が家督を継いで立花家を再興することは、当然ながら大友宗麟に認められなかった 3

行くあてもなく、父の罪を一身に背負うことになった親善が頼ったのは、皮肉にも父の宿敵であった戸次鑑連であった。親善は鑑連のもとを訪れ、父の不義を深く詫びた上で、せめて家名だけでも存続させてほしいと懇願したという 19 。鑑連はこの若き御曹司を不憫に思い、宗麟に働きかけた。しかし、家督相続までは許されず、立花領内に居住することのみが、かろうじて許可されたに過ぎなかった 19

名跡の継承:戸次鑑連から立花道雪へ

自らの手で家名を再興する道が絶たれた立花親善は、立花家の断絶を深く憂い、驚くべき決断を下す。彼は、自らが継ぐのではなく、大友家への忠義篤く、武勇に優れた戸次鑑連にこそ、立花の名跡を継いでほしいと、重ねて懇願したのである 19

この異例の願いは、最終的に宗麟によって認められた。元亀2年(1571年)、戸次鑑連は立花家の名跡を継承し、正式に立花山城主となることが決定した 3 。親善は、立花家代々の家宝を鑑連に献上し、その歴史の継承を託したと伝えられる 19 。こうして、鑑載の血統による立花家は終わりを告げ、後に「立花道雪」としてその名を天下に轟かせることになる新たな英雄の時代が始まったのである。ただし、鑑連自身は生涯を通じて「戸次」の姓を名乗り続け、公式の場で「立花」を称することはなかったとされ、「立花道雪」という呼称は後世に定着したものである 20

この一連の名跡継承は、単なる家督の交代劇ではない。それは、大友氏の筑前支配戦略における、根本的なパラダイムシフトを象徴する画期的な出来事であった。鑑載の代まで、立花氏は大友庶流という「血統」によってその地位を保障された、半ば独立した存在であった。しかし、鑑載の反乱と滅亡によって、この血統主義は完全に破綻した。宗麟は、もはや血縁の近さだけでは、国境地帯である筑前を統制することは不可能であると痛感したのである。

そこで白羽の矢が立ったのが、血縁こそ遠いものの、大友家への揺るぎない「忠誠」と、比類なき軍事的な「実力」を兼ね備えた戸次鑑連であった。これは、筑前支配の責任者を、旧来の名門領主から、宗家の意向を忠実に実行する強力な軍政官へと切り替えることを意味した。立花山城は、もはや大友庶流の城ではなく、大友宗家の直轄地を管理する出先機関へと、その性格を大きく変えたのである。

鑑載の息子・親善が道雪に家督を「懇願した」という逸話は、この体制転換を円滑に進めるための、いわば正当性を付与する儀式的な物語として、後世に形成された側面もあろう。いずれにせよ、鑑載の失敗が、図らずも立花家の名を不朽のものとする新たな伝説の序章となったことは、歴史の深遠な綾と言わざるを得ない。この後、道雪の養子となった高橋紹運の子・統虎が正式に立花姓を名乗り、近世大名・柳川藩主立花宗茂として、その名を戦国史に刻むことになるのである 22

終章:立花鑑載という武将の再評価

立花鑑載の生涯を振り返るとき、彼は主君への不満、毛利氏からの誘惑、そして自らの野心によって身を滅ぼした武将であったことは紛れもない事実である。特に、一度赦免されながらも再び反旗を翻した判断は、致命的な失策であったと言わざるを得ない。家臣に裏切られ、宿敵に城と家名を奪われるという結末は、彼の将としての器量の限界を示しているようにも見える。

しかし、彼の行動を、単に個人的な資質の問題として片付けるのは早計であろう。鑑載の生きた時代、九州の覇者・大友氏の広域支配体制は、その末端から崩壊し始めていた。筑前という国境地帯に生きる国人領主として、彼は常に西の龍造寺、北の毛利という強大な外部勢力の圧力に晒されながら、大友宗家の統制強化という内部からの圧力にも直面していた。彼の二度の反乱は、こうした巨大勢力の狭間で、自家の存続と権益を賭けてもがいた末の、悲劇的な選択であったと捉えることもできる。彼は、時代の大きな流れに乗り、そして最終的にはその激流に飲み込まれたのである。

立花鑑載は、歴史の勝者ではなかった。しかし、彼の存在と、その没落という「破壊」があったからこそ、戸次道雪と立花宗茂による新しい立花家の「創造」がなされた。鑑載の血統による立花家は滅びたが、彼の名跡は、日本史上屈指の英雄譚を紡ぐ新たな主を得て、後世に不滅の名を残すことになった。立花鑑載とは、意図せずして九州戦国史における最も著名な武家の一つである「柳川立花家」誕生の引き金を引いた、歴史の皮肉とダイナミズムを体現する、極めて重要な人物であったと言えるだろう。彼を単なる「悪役」や「愚将」としてではなく、時代の転換点に生きた一人の武将として多角的に評価することにこそ、その生涯を学ぶ意義があるのである。

引用文献

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  4. 立花道雪とは 大友守護神あるいは雷に打たれた鬼 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/tachibanadousetu.html
  5. 立花城と立花道雪(たちばなどうせつ) - 新宮町 https://www.town.shingu.fukuoka.jp/soshiki/sangyo_shinko/3/4/1086.html
  6. 立花鑑載(たちばな あきとし)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%91%91%E8%BC%89-1089389
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  8. 高橋鑑種(たかはしあきたね)について - 太宰府市文化ふれあい館 学芸だより https://dazaifu-bunka.or.jp/info/letter/detail/80.html
  9. 筑前国人・麻生隆実~大友・毛利の狭間の生涯~ - 安芸の夜長の暇語り http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-188.html
  10. 立花鑑載とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%91%91%E8%BC%89
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  13. 第38話 大友家と毛利家の間で生き抜いた“初代 ... - 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2021/04/story38/
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  15. 立花山合戦 - DTI http://www.maroon.dti.ne.jp/andou3/andouke_rekisi/tatibanakatusen.htm
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  19. 簡易・武将列伝 http://ww2.tiki.ne.jp/~shirabe01/bu/kan/kan001.htm
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  21. 立花氏の系図について https://genealogy-research.hatenablog.com/entry/tachibana
  22. 立花氏は大友氏第六代貞宗【さだむね】の子貞載【さだとし】(?~一三三六 http://bunkaapi.nii.ac.jp/heritage/afile/43967/_123902/R000107030001.pdf
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