本報告書は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて安房里見氏に仕えた武士「竜崎弥七郎」について、現存する断片的な史料を駆使し、その生涯と人物像を可能な限り詳細に再構築することを目的とする。歴史の主役として語られることの少ない中下級武士の実像を解明することは、戦国という時代の社会構造と、そこに生きた人々の現実を理解する上で極めて重要な意義を持つ。
竜崎弥七郎のような人物に関する直接的な記録は極めて乏しい。ご提示の情報および『里見家分限帳』にみられる記述が、彼の実在を証明するほぼ唯一の一次史料となる 1 。したがって、本報告書では、彼本人に関する直接的な記述を核としつつ、彼が所属した「里見氏家臣団」「百首水軍」という組織の性格、与えられた「知行地」の地理的・経済的意味、そして彼が生きた「慶長期」という時代の政治的文脈を重層的に分析する。これにより、記録の空白を論理的な推察で補い、一人の武士の輪郭を立体的に浮かび上がらせるアプローチを採る。
本章では、竜崎弥七郎に関する数少ない直接的な記録を徹底的に分析し、彼の家臣団内での基本的な位置づけを明らかにする。
竜崎弥七郎の名は、里見氏の家臣名簿に「竜崎弥七郎」として、また関連人物として「竜崎六郎」の名が記載されていることが確認される 1 。彼の存在を考察する上で最も重要な史料は、第10代当主・里見忠義の時代に整備された『分限帳(ぶげんちょう)』、あるいは『家中帳(かちゅうちょう)』と呼ばれる家臣名簿である 2 。特に、慶長十五年(1610年)に作成された分限帳の写しが館山市の菊井家に所蔵されており、これには各家臣の所領、石高、役職などが詳細に記録されている 2 。
歴史研究家・川名登氏が編纂した『里見家分限帳集成』によれば、これらの分限帳には複数の写本が存在し、それぞれ内容に若干の異同が見られる 4 。竜崎弥七郎に関する情報を確定するためには、これらの写本を比較検討することが不可欠である。
表1:主要な『里見家分限帳』写本の比較 |
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写本名 |
成立・書写年代 |
所蔵場所(典拠) |
特徴 |
竜崎弥七郎・六郎の記載 |
慶長十一年 里見家分限帳 |
慶長11年 (1606) 原本か |
内閣文庫 |
役職と石高が記載されている基本的な分限帳。 |
記載の可能性が高い。 |
里見家中知行割帳 |
慶長11年以降か |
里見叢書 |
知行地の村名まで詳細に記載。弥七郎の知行地分析の根拠となる。 |
記載の可能性が高い。 |
慶長十五年 里見家分限帳 |
慶長15年 (1610) |
続群書類従 |
比較的広く知られている写本。 |
記載あり 1 。 |
里見安房守忠義公家中帳 |
慶長15年以降か |
網代家本 |
他の写本との校異研究に重要。 |
記載の可能性が高い。 |
戦国時代の家臣団に関する情報は、口約束や慣習に依存することが多く、体系的な記録が乏しいのが常である 3 。その中で、里見氏が慶長期にこれほど詳細な『分限帳』を整備したという事実自体が、極めて重要な歴史的意味を持つ。この背景には、慶長二年(1597年)に豊臣政権の増田長盛を奉行として安房国で実施された「太閤検地」がある 5 。この検地によって、領国全体の村々の石高が統一基準で確定し、それを基にした客観的で近代的な知行割(給与体系)の構築が可能となった。竜崎弥七郎がこの『分限帳』に名を連ねているという事実は、彼が単に主君に私的に仕える戦闘員ではなく、石高制という近世的な官僚機構に組み込まれた、公的な役職と禄高を持つ「藩士」に近い存在へと変貌しつつあったことを物語っている。
竜崎弥七郎の役職は「足軽小頭(あしがるこがしら)」であったと伝えられている(ユーザー提供情報)。戦国時代を通じて、足軽は合戦の様相を大きく変えた主役であった。当初は臨時に徴募される雑兵に過ぎなかったが、次第に鉄砲や長槍で武装し、厳格な集団戦術を担う常備兵としての性格を強めていく。
「足軽小頭」は、この足軽隊(通常、数十人規模)を戦場で直接指揮する、いわば小隊長クラスの現場指揮官である。一兵卒ではなく、武士の身分を持つ者が任じられるのが通例であり、兵の統率力はもちろん、戦況を的確に判断する戦術的知見が求められた。家臣団の階層の中では末端に近いが、合戦の帰趨を左右する重要な役割を担う、不可欠な存在であった。
ここで注目すべきは、『分限帳』に「竜崎弥七郎」と並んで「竜崎六郎」の名が見える点である 1 。弥七郎、六郎という続柄を思わせる通称から、彼らが兄弟、あるいは近しい一族であった可能性は極めて高い。これは、当時の武家の奉公が個人単位ではなく、「家」を単位として行われていた実態を反映している。竜崎氏は、一族郎党を率いて里見氏に仕えていたのであり、弥七郎に与えられた100石の知行は、彼個人の生活費であると同時に、彼が扶養する一族や、戦時に動員する若党(わかとう)の生活をも支える基盤であったと推察される。
「竜崎」という姓について考察すると、現在の茨城県龍ケ崎市の地名が、かつて同地を治めた在地領主「龍崎氏」に由来するという説が存在する 7 。この龍崎氏は、源頼朝の御家人であった下河辺政義の子孫とされ、室町時代の文献にもその名が見える有力な一族であった 7 。
しかし、この常陸国の龍崎氏と、里見家臣である房総の竜崎弥七郎を直接結びつける史料は現在のところ確認されていない。両者の活動拠点は地理的に離れており、戦国期に関東の諸勢力が複雑に入り乱れていたとはいえ、同族と見なすには根拠が薄い。房総における「竜崎」姓の由来は不明であるが、千葉県内に存在する龍にまつわる伝説(竜角寺、竜腹寺、竜尾寺)に関連する地名から取られた可能性や 7 、あるいは常陸の龍崎氏とは全く別系統の氏族であった可能性が考えられる。本報告書では、両者を明確に区別し、混同を避けることとする。
本章では、竜崎弥七郎が身を置いた軍事組織「百首水軍」と、その上位組織である「里見氏」の歴史的背景を詳述し、彼の具体的な活動内容を推定する。
安房里見氏は、戦国大名としての勃興期から、その存立基盤として強力な水軍を擁していた 9 。三方を海に囲まれた房総半島という地理的条件を最大限に活かし、東京湾の制海権を巡って、対岸の相模を本拠とする後北条氏と数十年にわたり激しい抗争を繰り広げた 10 。
里見水軍の活動は、単なる兵員や物資の輸送に留まらなかった。彼らは「海賊衆」とも呼ばれ、北条氏の支配下にある港に出入りする商船を襲撃して経済的打撃を与えたり、あるいは大挙して三浦半島に上陸し、村々を焼き払い、物資を掠奪するといった、極めて攻撃的な軍事行動を日常的に行っていた 11 。特に、陸上での戦況が不利になった際、海上からの機動的なゲリラ戦を展開して敵の後方を攪乱する戦術は、里見氏の国力を維持するための生命線であった。弘治二年(1556年)の三浦三崎沖の海戦では、里見義堯自ら水軍を率いて北条水軍を撃破するなど、その実力は高く評価されていた 11 。竜崎弥七郎が所属した「百首水軍」は、この精強な里見水軍(房総水軍)の中核をなす有力な一団であった 13 。
百首水軍の拠点とされたのが、上総国天羽郡(現在の千葉県富津市竹岡)の東京湾に面して築かれた「造海城(つくろうみじょう)」である 14 。この城は、湊の名に由来してか「百首城(ひゃくしゅじょう)」あるいは「百首要害」とも呼ばれ、房総の歴史において重要な役割を果たした 16 。
造海城は、標高約99メートルの「城山」と呼ばれる天然の要害に位置し、眼下には百首湊、そして対岸には北条氏の支配する三浦半島を指呼の間に望むことができる、まさに海上交通の要衝であった 14 。この絶好の立地は、敵地への出撃基地として、また北条水軍の動向を常時監視する最前線の物見として、比類なき戦略的価値を有していた。
城の歴史を紐解くと、もともとは真里谷武田氏が里見氏の北上を防ぐために築いたとされるが、やがて里見氏の手に落ち、対北条氏の最前線基地として整備された 14 。特に、里見氏の有力配下で水軍の統括も担った正木氏がこの城を管理するようになってから、その重要性は一層高まった 15 。城跡には、現在も曲輪、土塁、空堀、石垣といった遺構が良好な状態で残存しており、特筆すべきは山城には極めて珍しい「水堀」の存在である 16 。これらの遺構は、造海城が極めて堅固で、かつ高度な機能性を備えた水軍基地であったことを雄弁に物語っている。
竜崎弥七郎の経歴を分析する上で最も興味深い点は、「足軽小頭」という陸戦部隊の指揮官としての役職と、「百首水軍」という海上組織への所属という、二つの側面を併せ持っていることである。これは、彼と彼の率いる部隊が担っていた任務の特殊性を解き明かす鍵となる。
まず、彼の役職はあくまで陸上戦闘を主とする足軽の指揮官である。一方で、彼の所属は船を駆使する水軍である。この二つの事実を結びつけるのが、先に述べた里見水軍の具体的な活動内容、すなわち「三浦半島への上陸・放火・掠奪」である 11 。このような作戦を成功させるためには、高度な操船技術はもちろんのこと、敵地に上陸した後の迅速かつ効果的な戦闘能力が不可欠であった。
これらの要素を総合すると、竜崎弥七郎は単なる船乗りでも、単なる歩兵指揮官でもなく、船を駆って敵地沿岸に高速で接近し、上陸後は足軽隊を率いて村落や陣地を襲撃し、目的を達すると再び船で速やかに離脱するという、現代でいうところの「海兵隊」や「水陸両用部隊」のような特殊任務を遂行する部隊の現場指揮官であったと強く推定される。彼が指揮した足軽たちは、陸上での白兵戦と、海上での乗船行動の両方に習熟した、里見軍の中でも選りすぐりの精鋭であった可能性が高い。彼の存在は、戦国時代の水軍が、単なる海上戦力に留まらず、陸海にまたがる立体的な作戦を展開する能力を有していたことを示す好例と言えるだろう。
本章では、慶長十一年(1606年)に竜崎弥七郎に与えられた100石の知行地について、その地理的比定、石高の持つ意味、そして宛行われた時代の背景を分析する。
竜崎弥七郎に与えられた知行地は、「北郡大津村および丸郡小向村のうち」と記録されている(ユーザー提供情報)。この二つの地名を特定することは、彼の活動範囲と生活基盤を理解する上で重要である。
「北郡大津村」の比定
まず「北郡」であるが、これは安房国における令制の郡(平郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡)とは異なる、通称としての地域区分である 19。史料を分析すると、安房国の北西部、現在の鋸南町や館山市北部にあたる、古代の「平郡(へぐりぐん)」一帯を指して「北郡」と呼んでいたことがわかる 21。そして、天正十八年(1590年)の史料には、まさしく「安房国平郡大津村」という地名が確認できる 21。これらのことから、「北郡大津村」は現在の千葉県安房郡鋸南町大津周辺と比定して間違いないであろう。この地は、百首水軍の拠点であった造海城からも比較的近い位置にある。
「丸郡小向村」の比定
次に「丸郡」であるが、これも令制の郡ではなく、室町期以降に「朝夷郡(あさいぐん)」の領域に成立した私称の郡名である 21。この地を本拠とした丸氏の支配領域に由来し、現在の南房総市丸山地区一帯にあたる 22。しかし、「小向村」という村名は、この地域の近世の村名として確認することが困難である。遠く離れた陸奥国三戸郡に同名の村が存在するが 24、里見氏の所領とは考えにくく、無関係と判断される。したがって、「丸郡小向村」は、現在では失われてしまった小字名(こあざな)であるか、あるいは後世の史料転写の過程で生じた誤記である可能性が考えられる。知行地の一部が現在の南房総市内のいずれかの場所にあったことは確かだが、その正確な位置の特定は今後の研究課題となる。
注目すべきは、100石という比較的小規模な知行が、地理的に離れた「北郡(平郡)」と「丸郡(朝夷郡)」という二つの場所に分散して与えられている点である。これは、里見氏の知行割政策の複雑さを示唆している。通常、知行地は一箇所にまとまっている方が管理が容易なはずである。これが分散している理由としては、①太閤検地後の知行再編の過程で、家臣に割り当てるまとまった土地を確保するのが難しかった、②特定の家臣に権力が集中することを避けるため、意図的に所領を分散させた、③あるいは、水軍衆である弥七郎に対し、安房国の内房(東京湾側)と外房(太平洋側)の両方に接点を持たせるという戦略的な意図があった、といった可能性が考えられる。特に③の仮説は、彼の軍務と知行地の配置を関連付けて考える上で非常に興味深い視点である。
竜崎弥七郎の知行高は100石であった。この「石高」は、慶長二年の太閤検地によって確立された、土地の生産力を米の量で示す統一基準である 5 。100石とは、理論上、100人の人間が1年間生活できる米の収穫量を示すが、これが全て家臣の収入になるわけではない。当時の一般的な年貢率である「四公六民」(収穫の4割を領主が徴収)を当てはめると、弥七郎の手取り収入は40石程度となる。
この収入の中から、自身の家族の生活費はもちろんのこと、戦時に動員する郎党や中間(ちゅうげん)といった従者たちの食料や武具・装備を自前で賄う必要があった。したがって、その生活は決して裕福なものではなかったと想像される。しかし、家臣団の中では下位から中堅クラスに位置し、自らの家を構え、数人の従者を抱えることができる、紛れもない武士階級の一員であった。彼の100石という禄高は、戦国の世を生き抜いた一人の武士の、ささやかながらも確固たる地位を象徴するものであった。
竜崎弥七郎が100石の知行を宛行われた慶長十一年(1606年)は、日本の歴史が大きな転換点を迎えていた時期である。関ヶ原の戦いから6年が経過し、徳川家康による全国支配体制が盤石となり、世の中が「戦」の時代から「治」の時代へと大きく舵を切り始めていた。
この年、里見家の若き当主・忠義は、江戸城において二代将軍・徳川秀忠の面前で元服し、秀忠から「忠」の一字を賜っている 25 。さらに慶長十六年(1611年)には、幕府の最高実力者の一人であった老中・大久保忠隣の孫娘を正室に迎えるなど 10 、里見氏は徳川政権下で大名として存続するため、必死の外交努力を重ねていた。
このような政治的背景の中で行われた竜崎弥七郎への知行宛行は、単なる一兵士の長年の軍功に対する恩賞という側面だけでは説明できない。これは、徳川幕府が求める新たな統治秩序に対応すべく、里見氏が自らの領国支配を「近世化」するプロセスの一環であったと考えるべきである。もはや大規模な合戦が常態ではない時代において、幕府に対して自らが領国を安定的に統治できる能力があることを示す必要があった。そのためには、家臣団を石高制に基づいて序列化し、安定した知行(給与)を与えることで組織の秩序を維持し、忠誠心を確保することが不可欠であった。竜崎弥七郎のような、長年にわたり第一線で働いてきたであろう現場指揮官に、検地に基づいた正式な知行を与えることは、まさしく来るべき平和な時代に適応するための、里見氏の内部固めの政策であったと解釈できる。
本章では、竜崎弥七郎の人生を大きく揺るがしたであろう、慶長十九年(1614年)の里見氏改易事件の背景と、その後の家臣たちの運命を追い、弥七郎の後半生を推測する。
慶長十九年(1614年)、安房国を170年にわたり支配した名門・里見氏は、当主・忠義が徳川幕府から突如として改易を命じられ、伯耆国倉吉(現在の鳥取県倉吉市)へ3万石の替地(事実上の配流)という厳しい処分を受ける 9 。これにより、大名としての里見氏は事実上終焉を迎えた。
幕府が示した改易の表向きの理由は、忠義の舅であった老中・大久保忠隣の失脚事件に連座したことであった 10 。しかし、その他にも「館山城を無断で堅固に修築したこと」や、「12万石の身代に不相応なほど多くの家臣を抱えていること」なども、罪状として挙げられたと伝えられている 27 。
しかし、これらの理由は口実に過ぎず、その背後には徳川幕府による周到な政治的意図があったと見るのが妥当であろう。里見氏は、江戸湾の入口という戦略的要衝を扼し、強力な水軍を擁する有力な外様大名であった。天下泰平を目指す幕府にとって、江戸の喉元に潜在的な脅威が存在し続けることは容認しがたかった。大久保忠隣の失脚は、里見氏のような、幕府にとって統制しにくい、あるいは将来的に危険視される可能性のある大名を取り潰すための、格好の口実となったのである 26 。
主家の改易は、そこに仕える数千の家臣たちにとって、一瞬にしてその身分と生活の基盤の全てを失うことを意味した。里見氏の旧領であった安房国は幕府の直轄下に置かれ、代官による管理を経て、再検地の上で旗本や他の小大名に細分化されて再配分された 28 。
路頭に迷った里見家臣たちのその後は、様々であった。
家老であった正木大膳時茂のような上級家臣は、他家にお預けの身となり、その子孫は長い年月を経て鳥取藩池田家に正式に仕官を許されている 29。また、里見氏の一族の中には、150俵取りの下級旗本として幕府に召し抱えられた者や、越前鯖江藩の間部氏、出羽庄内藩の酒井氏、常陸水戸藩の徳川氏などに新たな仕官先を見出した者もいた 1。
しかし、このような幸運に恵まれたのはごく一部であった。竜崎弥七郎のような大多数の中下級家臣たちは、より厳しい現実に直面した。多くは、長年住み慣れた旧領に留まり、武士の身分を捨てて土地を耕す農民(帰農)となる道を選んだと考えられる。また一部は、自らの武芸を頼りに新たな主君を求めて諸国を流浪する「浪人」となった。折しも、里見氏改易の直後には大坂の陣が勃発しており、多くの浪人が豊臣方として参陣したことが知られている。
里見氏改易後の竜崎弥七郎の足跡を直接的に示す史料は、残念ながら現時点では発見されていない。彼の人生は、主家の没落と共に歴史の公式記録から姿を消した。しかし、これまでの分析に基づき、彼の後半生についていくつかの論理的な可能性を提示することは可能である。
結論として、竜崎弥七郎の物語は、慶長十九年の主家改易をもって、歴史の表舞台から静かにフェードアウトしていったと考えるのが最も自然であろう。彼のような、戦国の動乱を生き抜き、新たな時代に適応しようとした数多の武士たちの人生が、主君の運命という抗いがたい奔流に翻弄され、その多くが名もなき農民として故郷の大地に還っていった。これこそが、戦国という時代の終焉がもたらした、一つの厳然たる結末であった。
本報告書で検証してきた竜崎弥七郎は、史料の断片を繋ぎ合わせることで、**「房総の海を縦横に駆け、陸に上がっては足軽隊を率いて敵陣を襲う、水陸両用部隊の有能な現場指揮官」**という、具体的で躍動感のある武士像を復元できる人物である。彼は、戦国時代の荒々しい気風を色濃く残す「百首水軍」の一員でありながら、同時に、太閤検地を経て確立された「石高制」という近世的な知行システムの中に組み込まれた、まさに過渡期の武士であった。
彼の生涯は、一個人の武勇や長年の忠誠心だけでは抗うことのできない、時代の巨大な構造転換を象徴している。水軍衆として、あるいは足軽小頭として、幾多の修羅場をくぐり抜けた功績によって得たであろう100石の安堵の地も、徳川幕府による主家改易という冷徹な政治判断の前に、わずか8年で泡と消えた。竜崎弥七郎の物語は、戦国の動乱を生き抜き、新たな秩序に適応しようとしながらも、最終的にはその巨大な波に呑み込まれていった、歴史に名を残すことのなかった無数の中下級武士たちの、声なき声の代弁者として、我々に多くのことを示唆してくれるのである。