最終更新日 2025-06-28

竹俣慶綱

「竹俣慶綱」の画像

上杉家宿老 竹俣慶綱の生涯 ―揚北衆の矜持と義に殉じた最期―

序章:戦国越後の動乱と竹俣慶綱

16世紀、越後国は混沌の時代にあった。国内には守護たる上杉氏、その権勢を凌駕せんとする守護代の長尾氏、そして阿賀野川以北に強固な地盤を築き半独立の気風を保つ国人領主連合「揚北衆(あがきたしゅう)」という、三つの勢力が鼎立し、緊張と均衡の中で複雑な政治情勢を織りなしていた 1 。在地領主たちは、古くからの伝統と自立性を守りながらも、より強力な中央集権的な権力への従属を迫られるという、時代の大きな転換点に立たされていた。

この激動の時代、揚北衆の一員として歴史の表舞台に登場するのが、竹俣慶綱(たけのまた よしつな)である。彼は、独立領主から戦国大名の家臣へと変貌を遂げる国人層の典型として、また、主家である上杉家の存亡を左右する幾多の局面で決定的な役割を果たした武将として、その生涯は特筆に値する。本報告書では、竹俣慶綱の生涯を、その出自、武功、外交手腕、そして悲劇的な最期に至るまで、現存する史料を基に多角的に分析し、その実像に迫るものである。彼の生き様は、戦国という時代の本質と、そこに生きた武士の矜持を我々に雄弁に語りかける。

第一章:竹俣氏の出自と揚北の風土

第一節:佐々木党加地氏の庶流として

竹俣氏のルーツは、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む越後の名族、加地氏に遡る 3 。加地氏は鎌倉時代に越後国加地荘(現在の新潟県新発田市一帯)の地頭として入部した佐々木盛綱を祖とする一族であり、竹俣氏 はその庶流にあたる 1

伝承によれば、加地季綱の代、応永20年(1413年)頃に居館の竹藪から二俣に分かれた珍しい竹が生えたことを吉兆とし、姓を「竹俣」に改めたと伝わる 3 。この逸話は、一族が新たな姓を名乗るにあたり、その正統性と吉兆を象徴する物語を必要としたことを示唆しており、一族のアイデンティティ形成において重要な役割を果たしたと考えられる。

彼らの本拠地は、加地荘の竹俣城(現在の新発田市三光)であった 3 。この城は標高283メートルの山城であり、その縄張りには注目すべき特徴が見られる。主郭を中心に帯曲輪が巡り、尾根筋には複数の堀切が設けられているだけでなく、横堀や塁線(胸壁)、巧妙に設計された虎口(出入口)など、高度な防御思想が見受けられる 5 。特に、胸壁を備えた重層的な射撃陣地の構築や、敵の侵入経路を複雑化させる導線の設定は、天正中期以降の築城技術に通じるものであり、慶綱の時代に大規模な改修が施され、竹俣氏が単なる在地土豪ではなく、最新の軍事技術を積極的に取り入れる先進的な勢力であったことを物語っている 5

また、一族の菩提寺として宝積寺(新発田市上三光)が建立されており、これは竹俣氏が信仰を基盤として地域社会に深く根差し、安定した支配を築いていたことの証左である 7

第二節:独立の気風 ― 国人領主連合「揚北衆」

竹俣氏が属した「揚北衆」は、阿賀野川以北の地域に割拠した国人領主たちの連合体である 10 。彼らは鎌倉時代に地頭として越後に入部した武士団の末裔であり、その出自によって大きく四つの党派に分類される 10

  • 秩父党: 本庄氏、色部氏、鮎川氏など。
  • 三浦党: 中条氏、黒川氏など。
  • 佐々木党: 加地氏(宗家)、新発田氏、竹俣氏、五十公野氏など。
  • 大見党: 安田氏、水原氏、下条氏など。

これらの氏族は、鎌倉以来この地を治めてきたという強い自負心から独立の気風が旺盛であり、越後守護の上杉氏や守護代の長尾氏とはしばしば対立し、越後の政情を不安定にさせる一因ともなっていた 10

しかし、揚北衆は常に一枚岩だったわけではない。荘園の権益や家督を巡って氏族間で激しく対立することも珍しくなく、特に本庄氏と鮎川氏の宿年の対立は、後の上杉家中の動乱にも影響を及ぼす根深いものであった 10 。竹俣慶綱は、この佐々木党の一員として、また揚北衆という広範な連合体の一員として、複雑な権力構造と人間関係の中で、常に自家の存続と発展のための絶妙な舵取りを要求される立場にあった。彼の行動原理を理解するためには、この独立性と従属性が混在する揚北の風土を抜きにしては語れない。彼の生涯は、この独立志向の強い国人領主が、上杉謙信という傑出した指導者の下で、いかにして大名家臣団へと組み込まれていったか、そのダイナミックな過程を体現しているのである。

第二章:龍の麾下 ― 上杉謙信の家臣として

第一節:川中島の戦いにおける武功と評価

竹俣慶綱の名が上杉家の武将として確固たるものとなるのは、戦国史上屈指の激戦として知られる第四次川中島の戦いにおいてである。永禄4年(1561年)、上杉謙信(当時は政虎)と武田信玄が信濃川中島で雌雄を決したこの戦いで、慶綱は上杉軍の中核として参陣した。史料には、彼がこの戦いで「乗馬武具を失いながら奮戦し賞された」と記録されており、その勇猛果敢な戦いぶりが窺える 11 。これは、彼が単に後方で兵を指揮するだけの領主ではなく、自ら最前線で敵と刃を交える猛将として、主君謙信から高く評価されていたことの証左である。

この戦功により、慶綱が謙信から感状(感謝状)を与えられた可能性は非常に高い。直接的な史料は見つかっていないものの、同じ第四次川中島の戦いで目覚ましい活躍を見せた他の揚北衆、色部勝長、安田長秀、中条藤資らが謙信から血染めの感状を賜っていることから 10 、慶綱も同様の栄誉に浴したと考えるのが自然であろう。

この慶綱の武勇を象徴する逸話として、名刀「竹俣兼光」の伝説が語り継がれている。この刀は、元は慶綱の所持品であったが、その武功を賞した謙信に献上されたとも、あるいは川中島の戦いでこの刀を佩いた謙信が、鉄砲ごと武田兵を斬り捨てたことから「鉄砲切り兼光」の異名を取ったとも伝わる 13 。さらに、雷を斬ったという伝説から「雷切」とも呼ばれたとされる 13

ただし、これらの逸話には検証を要する点も多い。例えば、上杉家に伝わる刀剣台帳『上杉家御腰物帳』には、「鉄砲切り」と号される刀は存在するものの、それは無銘で一文字助真の作とされており、備前長船兼光作とする伝説とは食い違う 15 。こうした矛盾は、逸話が後世に脚色された可能性を示唆するが、同時に、そのような武勇伝が生まれること自体が、竹俣慶綱という武将の武名がいかに高かったかを物語っている。これらの物語は、武将の勇名を飾り、その存在感を高めるための装置として機能したのである。

第二節:本庄繁長の乱と揚北衆の内部力学

慶綱の活躍の場は、対外的な戦争だけではなかった。上杉家中の内乱においても、彼は重要な役割を果たしている。永禄11年(1568年)、揚北衆の雄である本庄繁長が、武田信玄の調略に応じて謙信に反旗を翻した「本庄繁長の乱」が勃発すると、慶綱は上杉方としてその鎮圧に参加した 11 。この乱の鎮圧には、同じ佐々木党の新発田長敦・重家兄弟も大きく貢献し、乱後、新発田氏は謙信の信頼を得て揚北衆内での発言力を飛躍的に高めることになった 10

しかし、このパワーバランスの変化は、揚北衆内部に新たな火種を生む。謙信死後の天正8年(1580年)、御館の乱の論功行賞への不満などから、本庄繁長が宿敵・鮎川盛長を攻撃するという紛争が再燃する。この時、新発田重家は鮎川氏を救援するために出陣した。ところが、驚くべきことに、竹俣慶綱は色部長実と共に、かつて敵対したはずの本庄繁長を救援したのである 10

この一見矛盾した行動は、単なる気まぐれや旧怨を越えた、高度な政治的判断に基づくものと解釈できる。本庄繁長の乱と御館の乱を経て、上杉家中で新発田氏の勢力は急速に拡大していた。特に、景勝政権が譜代の上田衆を重用し、揚北衆のような国人衆を軽んじる傾向にあった中で 19 、新発田氏の突出した力は、他の揚北衆にとって潜在的な脅威となりつつあった。慶綱の行動は、これ以上新発田氏が揚北衆内で絶対的な優位を確立することを防ぎ、勢力均衡を保とうとする戦略的な動きであった可能性が高い。彼は、景勝政権下における新発田氏の増長を危険視し、かつての敵である本庄氏と手を結ぶことで、その力を牽制しようとしたのである。この「本庄・竹俣・色部」対「新発田・鮎川」という対立構造は、翌年から始まる「新発田重家の乱」の重要な伏線となった。慶綱の死によって、この複雑な力学を調整しうる重鎮が越後から失われたことの意義は、決して小さくない。

第三章:景勝政権の柱石

第一節:御館の乱と景勝方への与力

天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が後継者を明確にしないまま急死すると、上杉家は未曾有の危機に見舞われた。謙信の養子であった上杉景勝(謙信の姉の子)と上杉景虎(北条氏康の子)との間で、家督を巡る骨肉の争い「御館の乱」が勃発したのである 21

この国家存亡の岐路において、竹俣慶綱は、本庄繁長や新発田長敦・重家兄弟ら他の多くの揚北衆と共に、いち早く景勝支持を表明した 11 。この決断の背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、景勝が謙信の甥という血縁的な正統性を有していたこと。第二に、相模北条氏出身の景虎が当主となれば、外部勢力である北条氏の介入が強まり、揚北衆が長年守り続けてきた独立性が脅かされることへの強い警戒感があったことである。また、景虎を支持したのが古志長尾氏など、揚北衆とは旧来から対立関係にある勢力が多かったことも、彼らが景勝方へ靡く一因となった 23 。慶綱は、この乱において自ら兵を率いて戦うだけでなく、同じ揚北衆である新発田氏などへの説得工作にも奔走し、景勝方の勝利に多大な貢献を果たしたとされている 25

第二節:甲越同盟締結の立役者

御館の乱の戦局を決定づけたのは、景虎方の最大の支援者であった甲斐の武田勝頼を、いかにして無力化するかであった。この極めて重要な外交課題において、竹俣慶綱は武将としてだけでなく、優れた外交官としての才覚を発揮する。彼は、斎藤朝信、新発田長敦と共に上杉方の交渉窓口(取次)という重責を担い、武田方との和睦交渉の最前線に立った 11 。これは、慶綱が単なる一武将ではなく、景勝政権の中枢を担う奉行・宿老として、主君から絶大な信頼を寄せられていたことを明確に示している。

交渉は困難を極めたが、最終的に、武田家から勝頼の妹・菊姫を景勝の正室として迎え、上杉家から武田家へ黄金一万両を支払い、さらに上野・信濃の一部を割譲するという条件で「甲越同盟」が成立した 26 。この同盟締結により、景虎は最大の頼みとしていた武田氏からの援軍を失い、乱の帰趨は完全に景勝方へと傾いた。慶綱の卓越した外交手腕が、文字通り上杉家の危機を救ったのである。

彼の奉行としての活動は、この甲越同盟交渉に留まらない。天正6年(1578年)の段階で、既に斎藤朝信らと共に奉行として連署状を発給しており 27 、天正8年(1580年)には、上条宜順と共に「年寄」として制札に連署していることが史料から確認できる 28 。これらの史料は、竹俣慶綱が景勝政権下において、軍事のみならず行政・外交の分野でも中枢的な役割を担う、不可欠な柱石であったことを雄弁に物語っている。

第四章:魚津城の悲劇 ― 義に殉じた最期

第一節:織田軍の北陸侵攻と籠城

天正10年(1582年)、甲斐武田氏を滅ぼした織田信長は、その矛先を北陸の上杉領に向けた。柴田勝家を総大将とする4万ともいわれる大軍が越中へと侵攻し、上杉氏の越中支配の最後の拠点である魚津城に迫った 29 。この城の防衛は、上杉家の存亡をかけた最重要課題であり、上杉景勝は最も信頼する将たちをこの絶体絶命の戦場へと送り込んだ。その中に、竹俣慶綱の姿があった 11

魚津城に籠もったのは、慶綱をはじめ、中条景泰、吉江宗信・景資父子、山本寺孝長ら13将を主力とする約3,800の兵であった 29 。この籠城部隊の構成は、当時の景勝政権の縮図ともいえる多様性を持っていた。

氏名

出自・役職

備考

竹俣慶綱

揚北衆(佐々木党)

本報告書の主人公。上杉家宿老。

中条景泰

揚北衆(三浦党)

鳥坂城主。吉江景資の子で中条家へ養子 32

吉江宗信

上杉家譜代

吉江城主。景資の父、景泰の祖父 34

吉江景資

上杉家譜代

宗信の子、景泰の実父 33

吉江資堅

上杉家譜代

吉江一族。

山本寺孝長

上杉一門

不動山城主 35

寺島長資

吉江一族

宗信の孫 34

蓼沼泰重

-

詳細不明。

安部政吉

-

詳細不明。

石口広宗

-

詳細不明。

若林家長

旧加賀一向宗

元は一揆側の将 29

亀田長乗

旧加賀一向宗

元は一揆側の将 29

藤丸勝俊

旧加賀一向宗

元は一揆側の将 29

この顔ぶれは、景勝が内外の諸勢力の力を結集して、織田軍という未曾有の脅威に対抗しようとした戦略の表れである。揚北衆の重鎮(竹俣、中条)、上杉譜代の名門(吉江、山本寺)、そしてかつては敵であった旧加賀一向宗の国衆が一つの城で運命を共にすることは、御館の乱という内乱を乗り越えた景勝政権が、新たな家臣団秩序を形成しようとする過渡期の象徴的な出来事であったと解釈できる。

第二節:「魚津在城衆十二名連署書状」の悲壮

籠城戦は3ヶ月にも及び、城内の兵糧も弾薬も尽き果てた。上杉景勝も救援に駆けつけようと天神山城に布陣したが、織田軍の堅固な包囲網と、背後を脅かす別動隊の動きにより、やむなく撤退 37 。魚津城は完全に孤立無援となった。

この絶望的な状況下で、天正10年4月23日、中条景泰ら12名の城将は連名で一通の書状を執政・直江兼続に宛てて送った 37 。『魚津在城衆十二名連署書状』として知られるこの書状には、彼らの最後の覚悟が悲壮な筆致で記されている。

「当地(魚津城)のことは、先だってご報告申し上げましたとおり、壁際まで取詰められて、昼夜を問わず四十日間にわたり攻められていますが、今日にいたるまで持ちこたえることができました。(しかし、)こうなった上は、我々は滅亡と決まりました。このことを然るべく(景勝公へ)御披露くださいますようお頼みいたします。恐々謹言。」 40

この書状は、彼らが最後まで上杉家への忠義を貫き、武士としての死を受け入れた精神性を示す第一級の史料である。救援の望みが絶たれた中で、彼らは主君景勝を直接煩わせることなく、実務の最高責任者である若き兼続に最後の報告を託した。その冷静さと忠節の念は、読む者の胸を強く打つ。

第三節:本能寺の変、その翌日に

天正10年6月2日、遠く京都の本能寺で、明智光秀が主君・織田信長を討つという日本史上最大の下剋上が発生した。しかし、通信手段の未熟な時代、その報は北陸の戦場には届かなかった。

運命の皮肉と言うべきか、その翌日の6月3日、柴田勝家率いる織田軍は魚津城への総攻撃を開始。城兵は最後の力を振り絞って奮戦するも、衆寡敵せず、城はついに落城した。竹俣慶綱をはじめとする籠城将たちは、降伏を潔しとせず、後世に自らの名を残すべく、自身の姓名を記した木札を耳に通し、全員が壮絶な自刃を遂げて果てた 11

あと一日、あるいは二日でも持ちこたえていれば、信長死すの報に接した織田軍は混乱し、撤退したであろう。彼らの命は救われたかもしれない。このあまりにも残酷な歴史の巡り合わせは、戦国の世の無常と、武士の「義」の在り方を象徴する出来事として、後世に長く語り継がれることとなった。その壮絶な最期は、敵である織田方の将兵からも称賛されたと伝わっている 40

第五章:人物像と後世への遺産

第一節:武将・竹俣慶綱の人物像

竹俣慶綱の生涯を振り返ると、その人物像は多岐にわたる側面を持っている。第一に、川中島の戦いで見せた「勇猛な武人」としての一面である 11 。乗馬や武具を失ってもなお戦い続けるその姿は、一人の武士としての卓越した武勇を示している。

第二に、御館の乱における「冷静な外交官」としての一面が挙げられる。武田勝頼との甲越同盟交渉において、斎藤朝信らと共に取次役という重責を担い、主家の危機を救ったその手腕は、彼が単なる猪武者ではなく、大局を見据えた戦略的思考のできる優れた政治家であったことを証明している 11

そして第三に、魚津城の戦いで見せた「忠節の臣」としての一面である。絶望的な状況下で最後まで城を死守し、主君のために命を捧げたその最期は、彼の深い忠義心と武士としての矜持を物語っている 11

彼にまつわる「鉄砲切り兼光」の逸話も、彼の人物像を考える上で興味深い 13 。この伝説は、史実として検証すると上杉家の刀剣台帳の記録と矛盾する点もあるが 15 、こうした武勇伝が生まれること自体が、慶綱の武名がいかに広く知れ渡り、上杉家中で大きな存在感を放っていたかの証左と言えるだろう。一方で、彼の辞世の句が伝わっていないという事実は 12 、魚津城での最期が個人的な感慨を詠む余裕すらないほど壮絶なものであった可能性を静かに示唆している。

第二節:竹俣家の存続と米沢藩での栄光

竹俣慶綱の壮絶な死の後、竹俣家の家督継承は複雑な様相を呈した。慶綱の子・勝綱がまだ幼かったため、一族は断絶の危機に瀕した 44 。公式な系図では慶綱の弟・利綱が家督を継いだとされるが 11 、上杉家の公式記録である『上杉家文書』には、この利綱が実は長尾氏からの養子であり、元の名を長尾景人(または景久)といったという驚くべき異説が記されている 44

この異説は、単なる記録の混乱とは考えにくい。むしろ、そこには戦国期の家督相続における高度な政治的意図が反映されていると見るべきである。名門・竹俣家の断絶を防ぐという名目の下に、上杉一門であり景勝自身の出身母体でもある長尾氏の血統の者を送り込むことで、独立性の強い揚北衆の有力氏族である竹俣家を、より強力に上杉宗家に結びつけようとする景勝政権の深謀遠慮が窺える。御館の乱や新発田氏の不穏な動きを目の当たりにしてきた景勝にとって、揚北衆を完全に掌握することは喫緊の課題であった。竹俣家の公式系図がこの養子の事実を記さず、為綱の子として利綱を位置づけているのは、家の体面を保つための作為であった可能性が高い。

かくして竹俣家は存続し、主君・上杉景勝の会津、そして関ヶ原の戦いを経ての米沢への減転封にも従った。米沢藩において竹俣家は、藩の最上級家格である「侍組分領家」の一つとして重きをなし、代々家老などの重職を輩出する名門として栄えた 46

その子孫の中でも特筆すべきは、江戸時代中期に現れた竹俣当綱(まさつな)である。彼は、名君として知られる第9代藩主・上杉鷹山(治憲)の藩政改革を支える右腕として絶大な信頼を得た 47 。当綱は「漆・桑・楮百万本計画」といった具体的な産業振興策を提言・実行し、破綻寸前であった米沢藩の財政再建に大きく貢献したのである 50 。それは、遠い祖先である竹俣慶綱が、その命を賭して守り抜いた上杉家への忠義が、数世代の時を経て、形を変えて見事に果たされた感動的な後日談と言えるだろう。

結論:揚北武将・竹俣慶綱の歴史的評価

竹俣慶綱の生涯は、戦国時代の越後という一地方に根を張りながらも、時には中央の政治情勢とも密接に関わり、主家の運命を左右する重要な役割を担った国人領主の生き様を、我々に鮮やかに示してくれる。

彼の人生は、独立性の強い揚北衆の一員から、上杉謙信・景勝という二人の傑出した主君に忠誠を尽くす家臣へと、自らの立場と意識を変革させていく過程そのものであった。そして最後は、主家である上杉家の「義」のために、その命を壮絶な戦場で散らせた。彼の生涯は、戦国時代における「主君と家臣」という関係性の変化と、武士が重んじた「義」の観念を考察する上で、極めて示唆に富む好個の事例である。

歴史の皮肉ともいえる本能寺の変の翌日に落城するという悲劇的な最期は、一個人の武勇や忠節だけでは抗うことのできない、時代の大きなうねりの非情さを象徴している。しかし、だからこそ彼の生き様は、四百数十年を経た今なお我々の心を強く打つ。竹俣慶綱の名は、上杉家の歴史、そして戦国乱世の記憶の中に、忠烈の武将として、これからも深く刻まれ続けるであろう。

引用文献

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