竹口孫十郎
竹口孫十郎は桑名の荷駄商人。自由都市「十楽の津」で育ち、織田信長や関ヶ原の戦い、本多忠勝の「慶長の町割」を経験。激動の時代に翻弄されつつも、新たな秩序に適応し生き抜いた。
戦国時代の商人「竹口孫十郎」に関する総合的考察
序論:竹口孫十郎という存在 ― 桑名の歴史に埋もれた一人の商人
戦国時代の商人、竹口孫十郎。彼の名は、歴史の表舞台を飾る武将や大名のように華々しく語られることはない。その存在は、伊勢国桑名という一都市の記録の中に、商人という属性と、荷駄(陸上輸送)に関わっていたことを示す断片的な情報として、わずかにその痕跡をとどめているに過ぎない 1 。本報告は、この一見すると微小な存在を手がかりとして、彼が生きた時代の桑名の社会経済構造、そして中世から近世へと移行する激動期を生きた商人の実像を、可能な限り立体的に描き出すことを目的とする。
竹口孫十郎に関する直接的な一次史料は、現時点ではその現存が確認されていない。彼の生没年とされる1567年から1619年という期間 1 も、その典拠は明確ではなく、学術的な確証を得るには至っていない。しかし、この情報の不確かさ自体が、武士中心の歴史叙述からこぼれ落ちやすい商人の記録の脆弱性を物語っている。特に、後述する「慶長の町割」のような都市の物理的、社会的な大変革は、個人の記録を歴史の底に沈めるに十分な出来事であった。
したがって、本報告は厳密な意味での「竹口孫十郎の伝記」ではなく、「竹口孫十郎の生きた時代と場所の徹底分析」というアプローチをとる。彼の生涯とされる期間を縦軸に、彼が活動の拠点とした桑名という都市の変遷を横軸として、両者を重ね合わせることで、一個人の生涯に投影された時代の変化を読み解いていく。彼の生涯は、奇しくも桑名が中世的な自由都市から近世的な城下町へとその姿を大きく変える時代と完全に一致する。
この歴史的文脈を明確にするため、以下の年表を提示する。この表は、竹口孫十郎という個人の時間軸と、彼を取り巻くマクロな歴史的出来事を視覚的に同期させるためのものである。読者は、彼が何歳の時に織田信長が伊勢に侵攻し、関ヶ原の戦いが起こり、そして「慶長の町割」が断行されたのかを一目で把握できる。これにより、歴史的事件が単なる年号の羅列ではなく、彼の人生における具体的な出来事として認識され、報告書全体の理解が深まるであろう。
竹口孫十郎に関する情報の欠如は、調査の限界を示すものではなく、それ自体が重要な歴史的知見である。彼の匿名性は、戦国から江戸初期にかけて経済の根幹を支えながらも、公式の歴史記録からは意図的、あるいは偶発的に排除された無数の商人たちの存在を象徴している。彼の生涯を追うことは、歴史の「声なき声」に耳を傾ける試みなのである。
竹口孫十郎の生涯と関連年表
西暦 |
竹口孫十郎の推定年齢 |
桑名および周辺地域の主要な出来事 |
日本全体の主要な政治・軍事動向 |
1567年 |
0歳 |
竹口孫十郎、誕生 (推定)。桑名は「十楽の津」として繁栄。 |
織田信長、美濃を平定(稲葉山城の戦い)。 |
1568年 |
1歳 |
織田信長、北伊勢に侵攻を開始。 |
織田信長、足利義昭を奉じて上洛。 |
1573年 |
6歳 |
|
室町幕府、滅亡。 |
1582年 |
15歳 |
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本能寺の変。織田信長、死去。 |
1590年 |
23歳 |
|
豊臣秀吉、天下を統一(小田原征伐)。 |
1600年 |
33歳 |
桑名城主・氏家行広、西軍に与する。 |
関ヶ原の戦い 。徳川家康率いる東軍が勝利。 |
1601年 |
34歳 |
本多忠勝、桑名城主となる。 「慶長の町割」開始 。 |
徳川家康、江戸幕府の基礎を固める。 |
1603年 |
36歳 |
|
徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。 |
1615年 |
48歳 |
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大坂夏の陣。豊臣氏、滅亡。 |
1619年 |
52歳 |
竹口孫十郎、死去 (推定)。 |
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第一章:竹口孫十郎の生きた時代と場所 ― 自治都市「十楽の津」桑名
竹口孫十郎が生まれ育った16世紀後半の桑名は、日本の他の多くの都市とは一線を画す、特異で自由な気風に満ちた場所であった。この章では、その実態を解明する。
第一節:誕生(1567年頃)―「十楽の津」の自由と繁栄
竹口孫十郎が産声をあげたとされる1567年頃、桑名は経済的な繁栄の頂点にあった。その繁栄を支えていたのが、木曽三川の河口に位置するという地理的優位性である。伊勢湾に面したこの港は、水運の要衝として、伊勢湾と内陸部の美濃・尾張地方とを結ぶ物資集積地として機能していた 1 。その歴史は古く、応永29年(1422年)にはすでに鎌倉の円覚寺建設のための木曽材木や、伊勢神宮へ納める米や材木が桑名港で扱われていた記録が残る 2 。
この経済的基盤の上に、桑名は「十楽の津(じゅうらくのつ)」と呼ばれる極めて自由な商業都市を築き上げた。永禄元年(1558年)の史料「今堀日吉神社文書」には、すでに「桑名ハ十楽津ニ候」との記述が見られる 2 。これは、特定の「座」と呼ばれる同業者組合に属さずとも、誰もが自由に商売できる「自由港」であったことを示している 3 。織田信長が推進したことで知られる「楽市楽座」の政策よりも10年以上早く、領主の命令によるものではなく、商人たち自身の力によって自由な市場が形成されていた点は特筆に値する 2 。
竹口孫十郎は、このような自由闊達な商業都市の空気の中で生を受けた。彼の家がどのような規模の商人であったかは不明だが、彼の属性として記録される「荷駄」 1 は、馬などを用いた陸上輸送を意味する。これは、港に集まる多種多様な物資を内陸の消費地へ、あるいは内陸の産物(例えば美濃の紙など)を港へと運ぶ、桑名の経済活動のまさに血脈を担う重要な役割であった。彼の家は、この物流ネットワークの一翼を担うことで、生計を立てていたと推察される。
第二節:商人による自治 ―「我々持ち」の時代
「十楽の津」としての経済的自由は、商人による高度な政治的自治によって支えられていた。当時の桑名は、皇室の領地(禁裏御料所)であったため比較的支配が緩やかで、その中で経済力をつけた商人たちが町衆を形成し、自ら町を治める「自治都市」となっていた 2 。この自治体制は、「四人衆」や「三十六家氏人」と呼ばれる町衆の代表者によって運営されていた 4 。彼らは桑名宗社(春日神社)の氏子でもあり、町の「公事聞衆(くじききしゅう)」として、町内で発生した訴訟などを裁定する司法権すら有していた 2 。
この時代の桑名町衆の力を象徴するのが、外部の武家権力と対峙した際の独特な抵抗手段である。例えば、安濃(現在の津市)の豪族・長野氏が桑名に侵攻してきた際、その支配を嫌った桑名の町衆は「逃散(ちょうさん)」、すなわち住民が一斉に町を放棄して逃げ出すという挙に出た。これにより港の機能は完全に停止し、商取引は麻痺。伊勢神宮への貢物も滞る事態となった。これに困窮した伊勢神宮側が、長野氏に桑名から撤退するよう要請するに至り、町衆は武力を用いることなく武士を退けたのである 2 。
彼らが残した文書には、この自治の時代を「我々持ちの時」と記したものがあり、その誇りがうかがえる 2 。竹口孫十郎が生まれた頃は、まさにこの商人たちの経済力と自治意識が頂点に達し、武家権力とさえ渡り合う力を持っていた時代であった。
第三節:「自由」の現実 ― 近江商人との商圏闘争
しかし、「十楽の津」の「自由」は、単に牧歌的で平和なものではなかった。その裏側では、商業利権を巡る絶え間ない競争と交渉、そして法的な闘争が繰り広げられていた。その実態を克明に伝えるのが、近江(滋賀県)の今堀日吉神社に残された「今堀日吉神社文書」である 3 。
この文書には、永禄元年(1558年)頃、桑名における美濃紙の取引を巡って、近江の保内(ほない)商人と枝村(えだむら)商人との間で激しい訴訟が起こされたことが記録されている 6 。紙の販売独占権を主張する枝村商人に対し、桑名の自治組織の代表である「四人衆」は、極めて明快な裁定を下している。
「此津者、諸国商人罷越、何之商売をも仕事候。殊昔より十楽之津にて候へ者、保内より我かまゝなとゝ申儀もおかしき申事」(この港は諸国の商人がやってきて、どんな商売もするものである。特に昔から十楽の津であるから、保内商人が我々の勝手だなどと主張するのはおかしなことだ) 6 。
この言葉は、「十楽の津」の基本理念、すなわち開かれた自由市場の原則を力強く宣言するものである。しかし、この一件はさらに複雑な様相を呈する。裁定に不服な保内商人側は、桑名の四人衆の権威そのものに疑問を呈し、「四人の内三人は河内の者、一人は二十年来の居住者に過ぎない」と、彼らが桑え抜きの人間ではないことを指摘して、その正統性を攻撃したのである 6 。
この反論は、二つの重要な事実を示唆している。第一に、桑名が諸国から商人が流入する、極めて流動性の高い都市であったこと。そして第二に、桑名が誇る「自由」と「自治」が、外部の伝統的な権益を持つ商人たちからは、必ずしも正統なものとは見なされていなかったことである。つまり、「十楽の津」の自由とは、不断の競争と、理念を巡る法的・論理的闘争の末にかろうじて維持される、ダイナミックで緊張感をはらんだ状態だったのである。竹口孫十郎のような桑名商人は、幼い頃からこのような競争的環境の中で、商才と交渉術を磨くことを必然的に求められていたと言えよう。
第二章:激動の時代と桑名の選択
織田信長の台頭から関ヶ原の戦いに至るまで、天下統一を目指す巨大な権力の奔流は、自治都市・桑名にも否応なく押し寄せた。この章では、その激動の時代を、商人であった竹口孫十郎がどのように経験したかを考察する。
第一節:織田信長の伊勢侵攻と桑名商人の矜持(1568年~)
竹口孫十郎が1、2歳であった1568年、織田信長が北伊勢への侵攻を開始すると、桑名の町衆が誇った「我々持ち」の時代は大きな転換点を迎える。信長の圧倒的な武力の前に、経済力を武器とした抵抗はもはや通用しなかった。最終的に桑名は信長に服属し、その支配下に入ることになる 2 。町衆の代表者の一人であった伊藤武左衛門は、いち早く信長に恭順の意を示したとされ、武家権力に対する現実的な判断を下したことがうかがえる 2 。
しかし、これは桑名の自治と誇りが完全に失われたことを意味するものではなかった。史料には「桑名の町衆は武士の支配下でも、自分たちの自治をある程度守ってきました」 2 と記されており、彼らが巧みに立ち回り、商業都市としての実利を確保し続けたことが示唆されている。青年期を迎えた孫十郎は、絶対的な武家権力と共存しながらも、その統制の網の目をかいくぐって商機を窺うという、より高度で現実的な処世術を、日々の商いの中で学んでいったに違いない。
第二節:天下統一の奔流と壮年期の孫十郎(1580年代~1590年代)
1582年、本能寺の変によって信長が斃れると(孫十郎15歳)、桑名は再び政治的な混乱の渦に巻き込まれる。城主は滝川一益、そして羽柴(豊臣)秀吉の支配下で目まぐるしく交代し、安定しない状況が続いた 5 。このような政治的不安定期は、商人にとっては既存の取引関係が断絶するリスクであると同時に、新たな権力者との結びつきを築く好機でもあった。
1590年に秀吉が天下を統一し、世が安定に向かうと、孫十郎は20代から30代を迎え、商人として最も脂が乗る壮年期に入った。彼の専門である「荷駄」商人として、軍需物資の輸送から平時の物流まで、その活動範囲は大きく広がった可能性がある。各大名の支配領域を超えた物流ネットワークの維持に奔走し、桑名の経済的地位を支える重要な役割を担っていたであろう。また、この時代の豪商たちは、経済活動のみならず、茶湯などの文化的活動にも深く関わっていたことが知られている 1 。孫十郎も商人仲間との交流の中で、そうした文化に触れ、商人としての見識と人脈を広げていたかもしれない。
第三節:関ヶ原の戦いと桑名の運命(1600年)
順調にキャリアを重ねていたであろう孫十郎と桑名の商人たちに、運命の時が訪れる。1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いである。この時、桑名城主であった氏家行広は、西軍(石田三成方)に与するという重大な決断を下した 2 。対岸の長島城には東軍(徳川家康方)の福島正頼が陣取っており、桑名は東西両軍が対峙する最前線となった。
この選択は、桑名にとって致命的な結果をもたらす。関ヶ原での西軍の敗北により、城主・氏家氏は改易。桑名は勝者である徳川家康の直接管理下に置かれることになったのである 10 。当時33歳であった孫十郎にとって、これは単なる領主の交代ではなかった。それは、長年培ってきた「十楽の津」の商慣行、自治の伝統、そして西軍方の大名たちと結んでいたであろう商売上の人脈が、一夜にしてその価値を失い、都市の存立基盤そのものが根底から覆される危険をはらんだ、まさに未曾有の危機であった。
第三章:近世への移行と商人の受難 ― 「慶長の町割」と孫十郎の晩年
徳川の世の到来は、桑名に抜本的な変革を強いた。徳川家康の重臣・本多忠勝によって行われた大規模な都市改造は、竹口孫十郎を含む桑名町衆の生活と運命を、良くも悪くも決定的に変えてしまう。
第一節:本多忠勝の入封と「慶長の町割」(1601年~)
関ヶ原の戦いが終結した翌年の慶長6年(1601年)、徳川四天王の一人として武名を轟かせた本多忠勝が、15万石という大領をもって桑名藩主として入封した 2 。これは、家康が桑名を大坂の豊臣方への備えとして、また東海道の交通の要衝として、極めて重要視していたことの現れである。
忠勝は着任するや否や、桑名の町を近世的な城下町へと作り変えるため、「慶長の町割」と呼ばれる大規模な都市改造を断行した。その手法は、既存の町衆を全て強制的に立ち退かせ、町全体を一度更地にしてから、新たに区画整理を行うという、極めて強権的なものであった 2 。
この時の町衆の苦難は、当時、船馬町で酒屋を営んでいた商人、太田吉清が記した『慶長自記』に生々しく記録されている。家を失った人々は、家財道具を抱えて一時的に避難したが、それも束の間、全ての地域が破壊され、川に浮かべた筏の上や、墓地に建てた小屋で仮住まいを強いられたという 2 。『慶長自記』は、この時の町衆の心情を「迷惑ガルコト限リナシ」と、短いながらも万感の思いを込めて記している 2 。当時34歳、働き盛りであった竹口孫十郎もまた、先祖代々の家屋敷、商売の拠点である店舗や倉庫といった全財産を一夜にして失い、この塗炭の苦しみを味わった一人であったことは想像に難くない。
第二節:新秩序の形成 ― 城下町における商人の新たな位置
「慶長の町割」によって、桑名の都市構造は一変した。新たに築かれた桑名城の本丸を中心に武家屋敷が整然と配置され、町人地はそれを取り巻くように区画された 2 。これは、中世の「我々持ち」の時代に見られた武士と商人の混住状態を完全に解消し、武士を頂点とする厳格な身分に基づいた、近世的な空間秩序を確立するものであった。町衆が誇った自治の時代は、名実ともに終わりを告げたのである。
しかし、この圧倒的な権力の前で、桑名町衆はただ無力に屈しただけではなかった。そのしたたかな抵抗の痕跡が、皮肉にも新しい城の立地に残されている。本多忠勝は町全体を更地にするほどの絶対的な権力を行使したにもかかわらず、彼が築いた城の本丸や武家屋敷地は、町衆に与えられた新しい町屋敷地よりも地盤が1.7メートルから2.8メートルも低く、水害のリスクが高い土地に建設されたのである 2 。さらに、城と武家屋敷は町屋敷の東側に位置しており、冬の強い西風が吹けば、町屋敷で発生した火事が城内に飛び火する危険性も高かった 2 。
なぜ、絶対権力者である忠勝が、このような地理的に不利な土地を選ばざるを得なかったのか。それは、新参の支配者である忠勝でさえ、古くから町衆が生活の拠点として確保してきた地盤の良い一等地を手に入れることができず、彼らとの交渉の末に妥協せざるを得なかった可能性を強く示唆している。つまり、町衆は武力による物理的な抵抗は不可能であったが、土地の価値や災害リスクに関する長年の知見、そして経済的な実力を背景とした水面下での交渉において、その影響力を保持し続けたのである。表立っては従順に従いながらも、自分たちの利益を最大限に守ろうとする、桑名商人のしたたかな矜持がここに見て取れる。
第三節:晩年と死(~1619年)― 新たな秩序への適応
「慶長の町割」後の約18年間、竹口孫十郎は、全く新しい秩序の下で商人として生きることになった。かつての「十楽の津」の自由な商慣行は失われ、藩の厳格な統制下で、藩や武士階級を新たな顧客として商売を再建する必要に迫られた。彼の専門であった「荷駄」による輸送も、藩が設定した伝馬制度といった新たな枠組みの中で運営されることになったであろう 2 。
1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川による天下泰平が盤石のものとなる。孫十郎は、その4年後の1619年に52歳でその生涯を閉じたとされる 1 。彼の死は、戦国の自由で混沌とした気風が完全に過去のものとなり、近世的な封建秩序が社会の隅々にまで浸透した時代と、象徴的に重なる。彼はまさに、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを、その身一つで体現した商人であったと言えるだろう。
結論:竹口孫十郎の生涯から見る桑名商人の実像
竹口孫十郎という一個人の生涯に関する直接的な記録は、極めて乏しい。しかし、彼が生きたとされる時代(1567-1619)と場所(桑名)の歴史を丹念に追うことで、その人物像は、歴史の大きなうねりの中で生きた一人の商人の典型として、我々の前に浮かび上がってくる。
彼の生涯は、中世の自由と自治を謳歌した「十楽の津」の商人が、近世の厳格な身分制社会へと組み込まれていく、苦難に満ちた適応の過程そのものであった。彼は、織田信長の武力に屈し、本多忠勝の強権的な都市改造に翻弄されながらも、土地を巡る交渉に見られるように、したたかに生き抜いた桑名町衆の一人であった。
彼の人生は、自由な競争の中で商才を磨いた青年期、天下統一の奔流の中でキャリアを築いた壮年期、そして関ヶ原の戦いを経て、全ての基盤を失いながらも新しい城下町で再起を図った晩年期という、三つの異なる時代を内包している。
最終的に、竹口孫十郎の個人的な物語は歴史の中に埋もれた。しかし、彼の存在は、記録に残された英雄や大名だけでなく、彼のような名もなき人々が経験した断絶と連続、抵抗と受容の物語の中にこそ、歴史の真の豊かさが存在することを我々に教えてくれる。竹口孫十郎の生涯を再構築する試みは、歴史の大きな転換点を生きた無数の商人たちの、失われた集合的記憶をたどるための、貴重な道標なのである。
引用文献
- 『信長の野望嵐世記』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/ransedata.cgi?keys17=%88%C9%90%A8%8Eu%96%80&print=20&tid=&did=&p=1
- 桑名の歴史 思いつくまま(1) 2013.11.30 諸戸徳成邸 西羽 晃 桑名の郷土史を勉強している西 https://kuwana-sanpo.com/pdf/kuwananorekishi1.pdf
- 三八市(さんぱちいち)はワンダーランド - 中央図書館 スタッフブログ https://kuwana-library.jp/blog/23857
- 十楽の津(じゅうらくのつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E6%A5%BD%E3%81%AE%E6%B4%A5-1336524
- 古城の歴史 桑名城 http://takayama.tonosama.jp/html/kuwana.html
- 桑名(中世)[三重県] 角川日本地名大辞典(旧地名編)[KADOKAWA] - JLogos https://jlogos.com/ausp/word.html?id=7364612
- 今堀日吉神社文書に見る六角氏『楽市』と紙商売についての考察|藤瀬慶久 - note https://note.com/fujiseyoshihisa/n/necc27091d923
- 得珍保 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E7%8F%8D%E4%BF%9D
- 新桑名市誕生10周年記念シンポジウム「戦国・織豊期@桑名」資料集(PDF:3074KB) https://www.city.kuwana.lg.jp/documents/11574/symposium10.pdf
- 桑名藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%90%8D%E8%97%A9
- 『慶長自記』から見る桑名 - 中央図書館 スタッフブログ https://kuwana-library.jp/blog/25629