戦国時代後期の九州は、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏、そして薩摩の島津氏という三つの巨大な戦国大名が覇を競う、激動の舞台であった。これらの大勢力が複雑な合従連衡を繰り広げる中、彼らの勢力圏の狭間で独自の存在感を示していたのが、「国衆(くにしゅう)」あるいは「国人(こくじん)」と呼ばれる在地領主たちである 1 。
国衆は、一国全体を支配する大名とは異なり、一郡から数郡の規模の領域を支配する独立した武士勢力であった 1 。彼らは自前の家臣団と支配領域を持ち、その立場は大名に従属する家臣というよりも、むしろ対等な契約に基づく同盟者に近いものであった 2 。彼らの行動原理は、主家への絶対的な忠誠ではなく、自家と一族の存続を最優先することにあった。そのため、周辺の大勢力の盛衰に応じて、起請文を交わしては離反し、また別の勢力と手を結ぶという離合集散を繰り返すのが常であった 1 。この戦国期九州における国衆の特異な立場を理解することは、本報告書の主題である筑紫広門の生涯を貫く行動原理を解明する上で不可欠の前提となる。
筑紫氏は、筑前国御笠郡筑紫(現在の福岡県筑紫野市周辺)を本拠とした国衆である 1 。その出自については、室町幕府初代将軍・足利尊氏の子である足利直冬の後裔とする説や、九州の名門守護大名であった少弐氏の庶流とする説など諸説が存在する 1 。しかし、少弐氏と同じ「寄懸り目結(よせかかりめゆい)」の家紋を用い、歴史的に少弐氏と行動を共にすることが多かったことから、「少弐恩顧の者」と称された事実もあり、少弐氏の一族とする説が有力視されている 1 。
筑紫氏がその勢力を大きく伸張させたのは、肥前国(現在の佐賀県)の勝尾城(かつのおじょう)を本拠地としてからである 7 。勝尾城は、現在の佐賀県鳥栖市に位置し、標高501メートルの城山山頂に築かれた本城と、鬼ヶ城、高取城、葛籠城といった複数の支城群、そして山麓に広がる領主の居館、家臣団の屋敷、町屋、さらには城下全体を防御する長大な惣構(堀と土塁)から構成される、一大城郭都市であった 8 。発掘調査によれば、その遺跡規模は福井県の特別史跡・一乗谷朝倉氏遺跡に匹敵するとされ、筑紫氏が北部九州において龍造寺氏や秋月氏に次ぐ有力な勢力であったことを物語っている 8 。
本報告書の主題である筑紫広門(つくし ひろかど)は、弘治2年(1556年)、この勝尾城主・筑紫惟門(これかど)の長男として生を受けた 4 。幼名は二九市丸(にくまる)、後に鎮恒(しげつね)、そして広門と名を改めている。官位は従五位下・上野介(こうずけのすけ)に叙任されたことから、一般に「筑紫上野介広門」として知られる 4 。
広門が家督を継承した背景には、父・惟門の代から続く大友氏との激しい対立があった。惟門は、周防の大内氏が滅亡した後、形式的には九州探題を擁する豊後の大友宗麟の勢力下に置かれたが、中国地方から勢力を伸ばしてきた毛利元就と密かに通じ、秋月文種らと共に大友氏へ反旗を翻した 5 。この試みは一度失敗に終わるものの、惟門は執拗に抵抗を続け、得意の「釣り野伏せ」戦法を用いて幾度も大友軍を苦しめた 5 。
しかし、大友氏の圧倒的な物量の前には抗しきれず、永禄10年(1567年)、高橋鑑種らと連携して再び蜂起したものの、最終的に敗北。この時、惟門は家督を当時わずか12歳の広門に譲り、自害したと伝えられている 4 。この若年での家督相続は、広門の波乱に満ちた生涯の幕開けを告げるものであった。
父の跡を継いだ広門は、当初は大友氏への従属を余儀なくされたが、その胸中には常に独立への野心が燃え盛っていた。転機が訪れたのは天正6年(1578年)、大友氏が日向国・耳川の戦いで島津氏に歴史的な大敗を喫した時である 4 。大友氏の権威が失墜したこの好機を逃さず、広門は筑前の秋月種実、原田隆種、そして肥前で急速に台頭していた龍造寺隆信らと連携し、公然と大友氏に反旗を翻した 4 。
この時期、広門は大友方の最前線を守る猛将、立花道雪と高橋紹運が守る立花山城や岩屋城を幾度となく攻撃し、激しい戦闘を繰り広げた 4 。強大な大友氏に臆することなく、周辺勢力と巧みに連携しながら激しく抗争を続けるその姿は、荒々しく制御しがたい駿馬になぞらえられ、やがて「肥前の悍馬(かんば)」という異名で呼ばれるようになった 4 。
広門の生涯に見られる度重なる所属勢力の変更は、一見すると節操のない裏切りや日和見主義と映るかもしれない。しかし、これは戦国期九州の国衆が生き残るために取った、極めて合理的かつ必然的な戦略であった。
当時の国衆と大名との関係は、絶対的な主従関係ではなく、相互の利益に基づいた同盟、すなわち契約関係に近かった 1 。国衆は自らの領地の独立性を保ち、その存続を何よりも優先した。耳川の戦いで大友氏の力が衰えたと見るや、広門がすぐさま離反したのは、弱体化した主家に従い続けるメリットが失われたからに他ならない。これは秋月氏や原田氏など、周辺の国衆も同様であり、当時の九州における標準的な行動様式であった 4 。彼の生涯を貫く離合集散は、常に「どの勢力に与することが自家の存続と発展に最も有利か」という、冷徹な政治的計算に基づいていた。この視点なくして、「肥前の悍馬」と称された広門の行動の本質を理解することはできない。
天正13年(1585年)、大友氏の屋台骨を支え続けた宿将・立花道雪が筑後遠征の陣中で病没した 18 。長年にわたり広門の前に立ちはだかってきた巨星の墜落は、九州の勢力図に大きな動揺をもたらした。広門はこの権力の空白を好機と捉え、道雪の盟友であり、自身の宿敵でもあった高橋紹運の居城の一つ、宝満城を奇襲し、これを奪取することに成功する 6 。これは、彼の機を見るに敏な戦略家としての一面を如実に示す行動であった。
しかし、その一方で九州南部からは、破竹の勢いで北上を続ける島津氏の脅威が刻一刻と迫っていた。広門は、このままでは大友方、反大友方共に島津氏に各個撃破されると判断し、驚くべき決断を下す。それは、長年の宿敵であった高橋紹運との和睦であった 19 。
この和睦の証として、広門は自らの娘・加袮(かね)姫を高橋紹運の次男・統増(むねます、後の立花直次)に嫁がせるという、婚姻同盟を提案した 4 。軍記物語『北肥戦記』などによれば、この交渉は困難を極めた。当初、紹運は長年の敵である広門からの申し出を警戒し、容易に受け入れなかった。事態を打開したのは、娘の加袮姫自身の覚悟であったと伝えられる。姫は自ら岩屋城の紹運のもとへ赴き、「もし和睦が叶わぬのであれば、この場で自害する」と、その固い決意を示した。その気丈な態度と、家を思う孝心に心を動かされた紹運は、ついに和睦を受け入れたという 19 。
この和睦は、単なる二家の和解にとどまらなかった。広門の妻は、高橋紹運の妻(宋雲院)の妹(共に斎藤鎮実の娘)であり、この婚姻によって両家は二重の姻戚関係で結ばれることになった 19 。これにより、広門は再び大友方へとその立場を転換し、来るべき島津氏との決戦に備えることとなったのである。
この和睦と、続く島津氏との戦いを理解する上で、筑紫広門(上野介)を中心とした複雑な一族関係を整理しておくことが不可欠である。特に、史料によって「子」とも「弟」とも記され、その最期が混同されがちな「晴門(はるかど)」と「春門(はるかど)」、そして後に筑紫家を再興する養子「広門(主水正)」の存在は、後の記述を理解する上で極めて重要となる。
関係 |
人物名(通称・官位) |
生没年 |
備考 |
中心人物 |
筑紫広門(上野介) |
1556-1623 |
本報告書の主題。筑紫惟門の長男。 |
父 |
筑紫惟門(下野守) |
-1567 |
大友氏に抵抗の末、自害したとされる。 |
弟 |
筑紫晴門(左衛門大夫) |
-1586 |
肥前鷹取城の戦いで、島津方の川上忠堅と相討ちになったとされる 4 。 |
子 |
筑紫春門(左衛門丞) |
-1586? |
史料により、筑前高鳥居城で川上忠堅と相討ちになったとされる 22 。晴門と同一人物か混同の可能性あり。 |
子(娘) |
養福院(加袮姫) |
- |
高橋統増(立花直次)の正室となり、和睦の証となった 4 。 |
子(娘) |
永雲院 |
- |
立花直次の継室 4 。 |
子(娘) |
長徳院 |
- |
黒田長政の側室 4 。 |
子 |
筑紫信門 |
- |
旗本・筑紫家を継承した主水正広門の養子となり、家督を相続した 24 。 |
養子 |
筑紫広門(主水正) |
1574-1646 |
初名は春門、従門。関ヶ原後に浪人となるも、大坂の陣の功で旗本として筑紫家を再興 4 。 |
天正14年(1586年)、婚姻同盟によって大友方との結束を固めた広門を待ち受けていたのは、九州統一の野望に燃える島津義久が率いる大軍であった 26 。島津軍は肥後・筑後を席巻し、筑前へと侵攻。その最初の標的となったのが、高橋紹運と筑紫広門の城であった。
高橋紹運は、豊臣秀吉の援軍が到着するまでの時間を稼ぎ、また島津軍の進撃を食い止めるため、わずか763名の兵と共に岩屋城に籠城。5万ともいわれる島津軍を相手に、戦国史上最も壮絶な籠城戦の一つとして語り継がれる「岩屋城の戦い」を開始した 29 。広門は紹運と連携し、島津軍を挟撃する作戦を立てていたが、島津軍はこれを看破。紹運の岩屋城を包囲すると同時に、別動隊を広門の本拠地・勝尾城へと差し向けた 6 。
島津軍の猛攻に晒された勝尾城は、数日間の激しい攻防の末、ついに落城した 8 。城主の広門は捕虜となり、筑後国三潴郡の大善寺(現在の福岡県久留米市)に幽閉されるという屈辱を味わうことになった 4 。
この失意のどん底にあった広門が詠んだとされる和歌が伝わっている。
「忍ぶれば いつか世に出ん折やある 奥まで照らせ 山のはの月」
(今は耐え忍んでいれば、いつか再び世に出る機会もあるだろう。山の端の月よ、私の未来の奥底まで明るく照らしてくれ)
この歌は、逆境にあっても再起を誓う彼の不屈の精神をよく表している。しかし、これを聞いた人々からは、彼の現状を揶揄して「昔は広門(ひろかど)、今は狭門(せまかど)」と嘲笑されたという逸話も残されており、当時の彼の苦境を物語っている 4 。
広門の敗北と時を同じくして、筑紫一族にさらなる悲劇が襲う。勝尾城の支城である肥前・鷹取城(あるいは筑前・高鳥居城)の攻防戦において、広門の一族が壮絶な最期を遂げたのである。
この戦いで島津方の猛将・川上忠堅(かわかみ ただかた)と一騎討ちを演じ、命を落とした人物については、史料によって記述が分かれている。
川上忠堅と一騎討ちの末に討死した人物が「弟・晴門」なのか「子・春門」なのか、という記述の相違は、戦国時代の歴史研究における史料批判の重要性を示唆している。
「晴門」と「春門」は音が似ており、同一人物を指すものが伝承の過程で誤って伝わった可能性や、あるいは『北肥戦記』に代表される軍記物語が、より劇的な物語を構成するために事実関係を混同、あるいは脚色した可能性も否定できない 6 。重要なのは、いずれかの説を断定することではなく、複数の説が存在するという事実そのものを認識し、その背景にある史料の性質(同時代の一次史料か、後世の編纂物かなど)を考慮することである。本報告書では、この両論を併記することで、戦国期の記録が持つ本質的な不確かさ自体を一つの歴史的事実として提示する。いずれにせよ、この戦いで広門が弟か、あるいは子という、かけがえのない肉親を失ったことは紛れもない事実であり、岩屋城で玉砕した高橋紹運と共に、島津氏の侵攻がもたらした悲劇の象徴的な出来事であった。
天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、自ら大軍を率いて九州平定を開始した 28 。この圧倒的な軍事力の前に、快進撃を続けてきた島津軍も撤退を余儀なくされる。この政治情勢の激変は、幽閉されていた広門にとって千載一遇の好機となった。
広門はこの機を逃さず、幽閉先の大善寺から脱出。離散していた家臣を再び結集させると、電光石火の勢いで島津方が占拠していた旧領・勝尾城を奪回することに成功した 4 。その後、高良山(現在の久留米市)で秀吉に謁見し、その九州平定軍の先鋒に加わって島津攻めに従軍した。
この一連の目覚ましい活躍は秀吉に高く評価された。九州平定後に行われた「国割り」において、広門はその功績を賞され、筑後国上妻郡(かみつまぐん、現在の福岡県八女市周辺)に1万8千石の所領を与えられ、大名としての地位を確立した 1 。幽閉され「狭門」と嘲笑された身から、わずか1年足らずで豊臣政権下の大名へと返り咲いたのである。これは彼の不屈の精神と、時流を読む鋭い政治感覚がもたらした、生涯における最大の栄光であった。
豊臣政権下の大名となった広門は、秀吉が推し進める朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍することになる 22 。
文禄元年(1592年)に始まった文禄の役において、広門は900人の兵役を課せられ、小早川隆景が率いる六番隊に所属して朝鮮半島へ渡った 36 。この六番隊には、かつて婚姻同盟を結んだ高橋紹運の子である立花宗茂(長男)と立花直次(次男、広門の娘婿)も所属しており、九州の諸将が同じ部隊として戦った。広門の部隊は、全羅道の攻略や、明の援軍と激突した碧蹄館(へきていかん)の戦い、星州谷城の防衛戦、加徳島の戦いなどで奮戦し、武功を挙げたと記録されている 4 。
続く慶長の役(1597年-1598年)においても、広門は朝鮮に在陣し、倭城(わじょう、日本軍が築いた拠点)の守備などに就いていたとされる 8 。秀吉の死によって日本軍が朝鮮から撤退するまで、彼は豊臣政権の一大名としての役目を果たし続けた。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を再び大きく揺るがした。そして慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が天下の覇権を賭けて激突する「関ヶ原の戦い」が勃発する。
この天下分け目の戦いにおいて、筑紫広門は、義理の甥にあたる立花宗茂と共に、西軍に与するという重大な決断を下した 6 。この選択の背景には、秀吉によって大名に取り立てられた「豊臣恩顧」の大名としての立場や、立花宗茂との強い個人的な結びつきがあったと考えられる 38 。家康からも東軍への誘いがあったとされるが、広門は豊臣家への恩義を優先したのである。
西軍に加わった広門と宗茂の部隊は、毛利元康を総大将とする西軍の別動隊に組み込まれた。彼らに与えられた任務は、美濃国関ヶ原へ向かう東軍主力の背後を脅かす戦略拠点、近江国・大津城の攻略であった 39 。城主は、当初西軍に与する姿勢を見せながらも土壇場で東軍に寝返った京極高次であり、城兵は約3,000であった 39 。
対する西軍の攻城部隊は、立花・筑紫勢を中心に約1万5千。兵力では圧倒的に優位であった 39 。9月9日に始まった攻城戦は熾烈を極めた。特に立花宗茂が率いる鉄砲隊は、養父・道雪が考案したとされる弾薬を素早く装填する「早込(はやごめ)」戦術を駆使し、城方に猛烈な銃撃を浴びせたという 40 。広門の部隊もこの攻城戦で重要な役割を果たし、西軍は長等山から大砲を撃ち込むなど、あらゆる手段で大津城を攻め立てた 39 。
しかし、京極高次と城兵は必死の抵抗を続け、攻城戦は長引いた。西軍がついに大津城を陥落させ、高次を降伏させたのは9月15日のことであった。それは奇しくも、関ヶ原の地で東西両軍の主力部隊が激突した、まさにその当日であった 39 。
関ヶ原の本戦は、小早川秀秋らの寝返りにより、わずか半日で東軍の圧勝に終わった。大津城を攻略したという戦術的勝利は、西軍全体の戦略的敗北の前には全く無意味なものとなった。戦後、西軍に与した広門は、徳川家康によってその所領1万8千石をすべて没収(改易)されるという厳しい処分を受けた 1 。これにより、豊臣政権下で復活を遂げた大名としての筑紫家は、ここに終焉を迎えたのである。
大津城攻めへの参加という広門の決断は、結果的に彼の運命を決定づけた悲劇的な誤算であった。この戦いは、関ヶ原の戦い全体における西軍敗北の重要な一因とも指摘されている。
立花宗茂と筑紫広門が率いる部隊は、朝鮮出兵でも武名を馳せた九州の精鋭であった。この約1万5千の兵力が、関ヶ原の本戦に参加できなかったことは、西軍にとって計り知れない戦力低下を意味した 39 。もし彼らが関ヶ原に間に合っていれば、戦いの趨勢は変わっていたかもしれない、と後世の歴史家はしばしば指摘する。
広門の西軍参加という決断は、豊臣恩顧の大名としての義理や、立花宗茂との人間関係に基づいたものであり、それ自体は当時の武士の価値観として十分に理解できる 38 。しかし、結果として、西軍首脳部の戦略ミスに巻き込まれる形で、局地的な戦闘に固執している間に天下の趨勢は決まってしまった。これは、戦国時代的な「義」や個人的な人間関係が、天下統一後の巨大な政治力学の前ではもはや通用しなくなったことを象-徴する出来事であったと言える。彼の一つの決断は、自らの家を滅ぼすという、取り返しのつかない結果を招いたのである。
関ヶ原の戦いで全てを失った広門は、剃髪して仏門に入り、「夢庵(むあん)」と号した 4 。大名としての地位を失った彼の後半生は、流転の日々であった。
当初は、旧知の間柄であった筑前福岡藩主・黒田長政や、肥後熊本藩主・加藤清正を頼り、その庇護を受けた 6 。その後、加藤家が改易されると、豊前小倉藩主であった細川忠興の元に身を寄せ、客将(食客)として静かな晩年を過ごしたと伝えられている 22 。
元和9年4月23日(西暦1623年5月22日)、筑紫広門(夢庵)は、客将として身を寄せていた小倉の地で、68年の波乱に満ちた生涯を閉じた 4 。福岡市博物館には、彼が死の直前に記したとされる「筑紫夢庵(広門)遺言状」が所蔵されており、その最期をうかがい知ることができる貴重な史料となっている 48 。彼の戒名は「金福寺殿卓夢菴大居士」という 4 。
大名としての筑紫氏は、上野介広門の代で一度滅亡した。しかし、筑紫家の血脈はここで途絶えなかった。物語の視点は、彼の養子である**筑紫広門(主水正、もんどのしょう)**へと移る。
主水正広門(初名は春門、従門など)も、養父と共に西軍として大津城攻めに参加し、関ヶ原の敗戦後は浪人の身となっていた 22 。しかし彼は、家の再興を諦めなかった。養父を庇護していた小倉藩主・細川忠興の強力な口添えを得て、徳川家康への謝罪が許される 6 。
そして慶長19年(1614年)から始まる大坂の陣において、彼は徳川方として参戦し、戦功を挙げることで名誉挽回の機会を掴んだ 1 。この功績が幕府に認められ、寛永4年(1627年)、主水正広門は豊後国速見郡(現在の大分県)に3,000石の知行を与えられ、大身旗本(寄合席)として幕臣に列せられることになった 22 。これにより、筑紫氏は大名から旗本へと形を変え、幕末に至るまでその家名を存続させることに成功したのである 1 。
筑紫家の再興を語る上で、江戸幕府が編纂した公式の系図集である『寛政重修諸家譜』における、主水正広門の出自に関する記述は非常に興味深い問題を含んでいる。
この公式記録において、主水正広門は「筑紫惟門二男、広門(上野介)の養子」と記されている 24 。しかし、彼の生年である天正2年(1574年)は、父とされる惟門が死去した永禄10年(1567年)よりも後であり、年代的に明らかな矛盾を抱えている 5 。
この矛盾から、彼が惟門の実子ではなく、上野介広門が何らかの理由で迎えた養子であったと結論付けるのが最も合理的である。幕府へ系図を提出するにあたり、家の由緒をより古く、由緒あるものに見せるため、あるいは何らかの政治的意図をもって、初代・惟門の子であると系図を操作した可能性が考えられる。幕府の公式記録といえども、このように各家の事情を反映した改変が含まれる場合があり、その記述を鵜呑みにせず、批判的な視点で読み解く必要がある。この一点からも、筑紫氏が旗本として徳川の世を生き抜く過程で、自らの家の歴史を再構築しようとした痕跡を読み取ることができ、歴史研究の奥深さを示す好例と言える。
筑紫広門(上野介)の生涯は、大友、龍造寺、島津という巨大な勢力の狭間で、中小領主がいかにして激動の時代を生き抜こうとしたかを示す、まさに戦国期九州における国衆の典型例であった。彼の度重なる離合集散は、単なる節操の無さや裏切りとして断じるべきではない。それは、絶対的な主従関係よりも自家の存続を最優先する、国衆という存在のリアリズムが生んだ必死の外交戦略であり、生存術であった。
「肥前の悍馬」と恐れられた武勇、宿敵・高橋紹運と手を結ぶという常識外れの決断力、そして豊臣政権下で一度は掴んだ1万8千石の大名という栄光。しかし、関ヶ原における一つの政治的決断が、その全てを覆した。彼の生涯は、一個人の武勇や才覚だけでは抗うことのできない、時代の大きなうねりの非情さを物語っている。
大名としては滅びたものの、彼の不屈の精神は養子・主水正広門に受け継がれ、旗本として家名を再興させた。かつて幽閉の身で詠んだ和歌「忍ぶれば いつか世に出ん折やある」の通り、一度は「狭門」となった筑紫家は、形を変えて再び「世に出る」ことができたのである。筑紫広門は、歴史の敗者でありながらも、最終的には家の存続という国衆としての最大の目的を達成した、複雑で多面的な評価を要する、記憶されるべき武将であると言えるだろう。