戦国乱世が終焉を迎え、徳川による泰平の世が到来する日本史の大きな転換期。その激動の時代に翻弄され、歴史の狭間に消えていった一人の武将がいる。彼の名は筒井定慶(つつい じょうけい/さだよし)。かつて大和一国を支配した名門・筒井氏の最後の当主でありながら、その生涯は多くの謎と悲劇に彩られている。豊臣家臣として始まり、叔父・順慶の養子となり、従兄弟・定次の改易後に家督を継ぐも、大坂夏の陣で居城を戦わずして明け渡し、自害したとされるその短い生涯は、時代の非情さを物語る。
しかし、彼の人物像は、この簡潔な概要だけでは到底捉えきれない。史料を紐解くと、そこには「定慶」と「正次」という二つの名前、名門再興という重責、そして大坂の陣における苦渋の決断の背景が見え隠れする。本報告書は、筒井定慶という人物の実像に迫ることを目的とする。そのために、以下の問いを深く探求する。
第一に、筒井定慶とは何者か。なぜ史料によって「定慶」と「正次」という二つの名で記録されているのか、その出自とアイデンティティの謎を解き明かす。
第二に、彼はなぜ、そしてどのようにして滅亡寸前の筒井家の家督を継ぐに至ったのか。その背景にある徳川家康の政治的意図と、定慶が置かれた脆弱な立場を分析する。
第三に、大坂夏の陣における彼の決断は、単なる臆病さによるものだったのか。それとも、圧倒的な戦力差と城の状況から導き出された合理的な判断だったのか。その行動の真意を軍事的・政治的側面から考察する。
第四に、彼の最期は本当に自刃だったのか。自害したと見せかけ潜伏したという異説は、何を物語っているのか。
これらの問いに答えるべく、本報告書は筒井家の没落から定慶の生涯、そして一族のその後までを時系列で追い、関連史料を批判的に検討することで、時代の奔流に飲み込まれた悲劇の武将、筒井定慶の多角的な人物像を明らかにしていく。
筒井定慶が歴史の表舞台に登場する背景には、大和の名門・筒井氏の急速な衰退があった。かつて大和を統一した英雄・筒井順慶の死後、後継者である筒井定次の代で家運は傾き、ついには改易という形で大名としての歴史に幕を下ろす。この一連の混乱が、定慶という人物を否応なく時代の中心へと引きずり出すことになる。
大和国において、宿敵・松永久秀との長きにわたる抗争を制し、織田信長のもとでついに大和一国を掌握した筒井順慶は、天正12年(1584年)、病により36歳の若さでこの世を去った 1 。文化人としても知られ、大和国人のみならず多くの者からその手腕を評価されていた順慶であったが、彼には実子がいなかった 4 。
そのため、一族の中から養子が立てられることになった。当初、羽柴秀吉の承諾を得て番条五郎が候補とされたが、彼がこれを固辞したため、順慶の従弟にあたる慈明寺順国の子・定次が養嗣子として家督を相続することとなった 6 。この時、定次は17歳であった 8 。
順慶の死からわずか1年後の天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉は大規模な国替えを実施する。この政策の一環として、筒井定次は本拠地であった大和郡山から伊賀上野へと転封を命じられた 7 。表向きは、伊賀一国12万石に伊勢・山城国内の所領を加え合計20万石への加増移封とされた 6 。しかし、豊臣政権の本拠地である畿内から、かつて織田信長に仕えた外様大名である筒井氏を遠ざけるという政治的意図があったことは明らかである。大和には秀吉の弟・豊臣秀長が100万石で入部し、畿内の支配体制は盤石なものとされた 10 。
この伊賀への移封は、筒井家の弱体化を加速させる。慣れない土地での統治に加え、定次の家臣団掌握能力にも問題が生じ始めた。天正14年(1586年)、灌漑用水を巡る争いで、定次が重臣の中坊秀祐に有利な裁定を下したことに憤慨したもう一人の重臣・島左近(島清興)が筒井家を出奔するという事件が起こる 7 。後に石田三成の腹心として名を馳せる島左近の離反は、筒井家の求心力低下を象徴する出来事であった。これに前後して、松倉重政(後の島原藩主)をはじめとする有力家臣も次々と筒井家を去っていった 7 。
関ヶ原の戦いで東軍に与したことで所領は安堵されたものの、定次の統治は安定しなかった。慶長13年(1608年)、徳川家康の命により、筒井定次は突如改易され、伊賀上野20万石は没収された。これにより、大名としての筒井氏は事実上滅亡した(筒井騒動) 6 。
改易の表向きの理由は、定次が酒色に溺れ政務を疎かにしたことや、鹿狩りを理由に幕府の公務を怠ったこと、さらにはキリシタン信仰など、その不行状が家臣によって幕府に訴えられたためとされる 6 。しかし、その背景にはより深い政治的な計算があった。定次は豊臣恩顧の大名であり、豊臣秀頼への年賀挨拶を欠かさないなど、徳川への完全な臣従姿勢を示していなかった 6 。家康にとって、大坂に近く軍事的な要衝である伊賀国を、信頼の置けない外様大名に任せておくことは、将来の豊臣家との対決を見据えた際に大きなリスクであった。定次家中の内紛は、家康にとって伊賀国を没収し、腹心である藤堂高虎を配置するための絶好の口実となったのである 6 。
このように、筒井家の没落は定次個人の資質の問題だけでなく、徳川幕府による周到な全国支配体制構築の一環として、政治的に排除された側面が強い。そして、この大名筒井家の断絶という事態が、歴史の片隅にいた筒井定慶を、一族の命運を背負う最後の当主として表舞台へと押し出す直接的な原因となったのである。
筒井定慶という人物を理解する上で最大の謎は、その出自と名前にまつわる記録の混乱にある。江戸時代の主要な史料において、彼は「定慶」と「正次」という二つの異なる名前で記されており、その経歴も微妙に異なっている。この謎を解き明かすことは、彼の生涯を正確に捉えるための第一歩となる。
筒井定慶は、大和国山辺郡の福住(現在の奈良県天理市福住町)を本拠とした福住順弘の子として生まれた 9 。福住順弘は筒井順慶の叔父にあたり、さらに定慶の母は順慶の父・筒井順昭の娘であったため、定慶と順慶は血縁の近い従兄弟同士であった 9 。
筒井順慶が従弟の定次を養子に迎えた際、定慶も弟の慶之とともに順慶の養子になったと伝えられている 9 。これにより、彼は筒井宗家の一員としての地位を得た。しかし、順慶の死後、家督は定次が継ぎ、定慶は一族の拠点である福住に留まった 9 。
定慶の生涯を追う上で、二つの重要な史料が存在する。一つは江戸時代中期の宝永4年(1707年)に成立した軍記物『和州諸将軍伝』であり、もう一つは江戸幕府が編纂した公式の系譜集『寛政重修諸家譜』(文化9年(1812年)完成)である。この二つの史料は、酷似した経歴を持つ人物を、それぞれ異なる名前で記録している。
『和州諸将軍伝』では、彼の名は「筒井定慶」とされ、通称は藤五郎、官位は主殿頭(とのものかみ)と記されている 9 。一方、『寛政重修諸家譜』には、福住順弘の二男・筒井順斎の子として「筒井正次(まさつぐ)」という人物が登場する。こちらの通称も藤五郎、官位は主殿助(とのものすけ)または主殿頭とされ、定慶と極めてよく似ている 9 。両史料の記述を比較すると、その類似性はより鮮明になる。
表1:『和州諸将軍伝』と『寛政重修諸家譜』における人物像の比較
項目 |
『和州諸将軍伝』の「筒井定慶」 |
『寛政重修諸家譜』の「筒井正次」 |
典拠 |
名前 |
筒井 定慶(つつい じょうけい/さだよし) |
筒井 正次(つつい まさつぐ) |
9 |
通称 |
藤五郎 |
藤五郎 |
9 |
官位 |
従五位下 主殿頭 |
主殿助、または主殿頭 |
9 |
父祖 |
福住 順弘(父) |
筒井 順斎(父、福住順弘の二男) |
9 |
家督相続 |
従兄・定次の改易後、家督を継ぐ |
父・順斎の跡を継ぐ |
9 |
事績 |
大坂夏の陣で郡山城を守備 |
大坂の陣の際、郡山城を守備 |
9 |
最期 |
郡山城を放棄し、慶長20年5月10日に自害 |
城を退去し、5月3日に自害 |
9 |
享年 |
28歳 |
27歳 |
9 |
子孫 |
不明(大名家としては滅亡) |
子・正信が跡を継ぎ、旗本として存続 |
9 |
この比較から、自害の日付や享年に若干の差異はあるものの、両者が同一人物を指している可能性は極めて高いと言える。では、なぜ二つの名前が記録されるに至ったのか。その答えは、史料が編纂された目的の違いにあると考えられる。
『和州諸将軍伝』は、大和の戦国史を物語として描いた軍記物である。その主眼は、筒井氏の栄枯盛衰、特に大名としての最後の当主が迎える悲劇的な結末をドラマティックに描くことにあった 16 。この物語の主人公として「筒井定慶」という名が用いられたのであろう。
対照的に、『寛政重修諸家譜』は、徳川幕府に仕える旗本諸家の系譜を公式に記録するための史料である。編纂の目的は、各家が幕府に対していかに忠勤を励んできたかを示し、その家系の正統性を公的に証明することにあった 20 。幕府にとって重要だったのは、大名として滅んだ筒井家の当主ではなく、幕臣として存続した旗本・筒井家の祖先であった。
このことから、次のような推論が成り立つ。「筒井正次」という名は、旗本として存続した家系が、その祖先として幕府に提出した公式な記録(先祖書)に基づく諱(いみな)である。一方で、「筒井定慶」は、滅びゆく大和筒井氏の最後の当主として、世間に知られていた通称や呼称であった可能性が高い。すなわち、両者は同一人物でありながら、その人物が置かれた異なる歴史的文脈(滅びゆく大名家の当主/存続する旗本家の祖)から記録された結果、二つの名前が後世に残ったと考えられる。本報告書では、以降、大名家の最後の当主としての側面を強調する文脈では「定慶」を、旗本家の祖としての側面にも触れる際には「定慶(正次)」と併記することがある。
従兄・筒井定次の改易により、大名としての筒井家は一度断絶した。しかし、徳川家康の政治的判断により、その名跡は筒井定慶のもとで限定的に復活を遂げる。だが、その地位はかつての栄光とは程遠い、極めて脆弱なものであった。
慶長13年(1608年)に筒井定次が改易された後、徳川家康は由緒ある筒井家の家名が途絶えることを惜しみ、一族の者を召し出すことを決めた 6 。白羽の矢が立ったのが、大和国山辺郡福住に隠棲していた定慶であった。家康は定慶を召し出し、筒井家の家督を継がせたのである 25 。
この家名再興に伴い、定慶には大和郡山において1万石の所領が与えられた 6 。これは、かつて順慶が大和一国44万石を領し、定次が伊賀で20万石を領した時代とは比較にならないほど小規模なものであり、彼がもはや大名ではなく、小身の領主として位置づけられたことを示している。
筒井定慶はしばしば「郡山城主」と表現されるが、その実態は城の維持管理を担う「城番(じょうばん)」というべき立場であった 26 。関ヶ原の戦いの後、増田長盛が守っていた郡山城は徳川方の手に渡り、天守をはじめとする城の建造物の多くは解体され、伏見城の資材として移築されていた 10 。つまり、定慶が管理を任されたのは、往時の壮大な姿を失い、半ば廃城と化した城だったのである。
慶長19年(1614年)、大坂の陣が目前に迫る中、定慶は正式に郡山城の在番を命じられ、与力36騎を付けられた 27 。彼の役割は、大坂に対する徳川方の前線拠点の一つとして、郡山城を維持管理することにあった。
この一連の処遇から、家康の真意を読み解くことができる。1万石という石高と、実質的な軍事拠点としての価値を失った城の管理者という役職は、定慶の立場が実権を伴わない名誉職に近いものであったことを物語っている。家康の狙いは、筒井氏を大名として本格的に復活させることではなかった。むしろ、①かつて筒井氏に仕えた大和の国人衆を懐柔し、徳川方に取り込むための象徴として、②由緒ある家名を再興させることで、自身の「仁慈」を世にアピールし、③来るべき大坂方との決戦において、筒井の「名」を徳川方の駒として利用することにあったと考えられる。
定慶は、こうして「筒井家当主」という栄光の残滓を背負わされた。しかし、その実態は、徳川の巨大な政治体制の中に組み込まれた、極めて脆弱で象徴的な存在に過ぎなかった。この力が伴わない名誉というアンバランスな立場こそが、後に大坂の陣で彼を悲劇的な決断へと追い込むことになるのである。
慶長20年(1615年)、徳川と豊臣の最終決戦である大坂夏の陣が勃発すると、大和国は再び戦火に包まれた。郡山城番であった筒井定慶は、この戦いで徳川方としての働きを期待されたが、彼の決断は筒井家の運命を決定づける悲劇的な結果を招いた。
大坂冬の陣後の和議によって外堀と内堀を埋められ、裸城同然となった大坂城の豊臣方は、城外での決戦に活路を見出そうとした 29 。その戦略の一環として、徳川軍の重要な後方基地となりうる大和国を制圧し、兵站線を断つことが計画された。この任務を帯び、大和方面へ進軍したのが、豊臣家重臣・大野治長の弟である大野治房であった 31 。
慶長20年(1615年)4月26日、大野治房率いる2,000余の軍勢が、闇夜に乗じて郡山城に襲来した 9 。これに対する筒井定慶の兵力は、徳川家康から付けられた与力36騎を中核とするものの、その大半は急遽かき集めた牢人、野武士、百姓、町人などであり、総勢はわずか1,000余名に過ぎなかった 9 。兵の質、量ともに、豊臣方の精鋭とは比較にならなかった。
さらに悪いことに、夜陰の中で無数の松明を掲げて進軍してくる大野軍の威容は、定慶の目に実際をはるかに上回る大軍勢として映った。史料によれば、彼は敵兵を3万と見誤ったと伝えられている 9 。
圧倒的な兵力差(と定慶が認識した)を前に、定慶は籠城戦での抵抗は無益と判断した。彼は戦わずして郡山城を放棄し、一族の旧来の拠点である福住城(天理市)へと落ち延びた 9 。主君を失った郡山城では、残っていた兵士約30名が討ち取られ、豊臣軍によって城下町は焼き払われた 27 。大野軍はその後、徳川方の先遣隊が奈良に接近したため、大坂城へと撤収している 32 。
定慶のこの行動は、後世、臆病な判断として非難されることが多い。しかし、当時の状況を冷静に分析すると、彼の決断には一定の合理性が見出せる。第一に、彼が認識した兵力差は絶望的であり、まともに戦えば全滅は必至であった 29 。第二に、前章で述べた通り、郡山城は半ば破却された状態であり、大規模な籠城戦に耐えうる防衛能力を有していなかった可能性が高い 10 。第三に、かき集めの兵の士気や練度は低く、組織的な抵抗は困難だったと推測される 9 。そして第四に、徳川軍の主力は河内方面に展開しており、郡山城に即座の救援(後詰め)は期待できない状況であった 32 。
これらの要素を考慮すれば、無駄な犠牲を避けて兵力を温存し、地の利がある福住城で再起を図るという定慶の判断は、軍事的には決して不合理なものではなかった。しかし、この合理的な判断が、武士としての価値観と致命的に衝突した。徳川家康から与えられた城を、一度も矢を交えることなく放棄したという事実は、いかなる理由があろうとも、主君への裏切りと「面目」を失う行為と見なされた。彼の悲劇は、生き残るための合理的な選択が、武士社会の厳格な規範(名誉や忠義)によって断罪されてしまった点にある。この一日の出来事が、彼の、そして大名筒井家の運命を最終的に決定づけたのである。
郡山城を放棄した筒井定慶のその後の運命については、二つの異なる伝承が残されている。一つは武士としての責任を取り自刃したという通説、もう一つは自害を偽装して生き延びたという異説である。彼の最期をめぐるこの謎は、彼という人物の評価の複雑さを物語っている。
最も広く知られているのは、自刃説である。慶長20年(1615年)5月8日、大坂城が落城し、豊臣家が滅亡したという報が福住にもたらされた。これを聞いた定慶は、主君から預かった郡山城を戦わずして捨てたことを深く恥じ、武士としての責めを負うことを決意した。そして5月10日、故郷である福住の地で自刃して果てたとされる 9 。『和州諸将軍伝』によれば、享年28であった 9 。
この説は、徳川方から与えられた任務を遂行できなかった武将が、その責任を取って自ら命を絶つという、当時の武士の倫理観に沿った自然な結末として受け入れられている。郡山城を放棄した時点で、たとえ徳川方が勝利したとしても、彼に名誉ある未来が待っている可能性は極めて低かった。自刃は、彼に残された唯一の名誉回復の手段であったのかもしれない。
一方で、定慶の最期については全く異なる話も伝わっている。それは、彼が自害したと見せかけて福住村に潜伏(蟄居)し、その後、世を忍んで暮らし、やがて病死したというものである 8 。この説は、特に定慶の故郷である福住周辺に伝承として残っている。
この異説がなぜ生まれたのかを考察すると、いくつかの可能性が考えられる。一つは、地元の人々の同情と願望である。定慶は福住の領主・福住氏の出身であり、地元の人々にとっては単なる城番ではなく、郷土の若き当主であった。時代の奔流に翻弄され、悲劇的な最期を遂げたとされる彼を悼み、「実は生きていてほしかった」「生き延びて、いつか再起してほしかった」という人々の強い願望が、このような伝承を生み出した可能性がある。
もう一つの可能性として、旗本として存続した筒井家側の事情が挙げられる。定慶の弟(あるいはその子孫)は徳川家に仕え、旗本として家名を後世に伝えた。その家にとって、本家の最後の当主が「城を放棄した上、自害した」という不名誉な形で生涯を終えたという事実は、できるだけ避けたい過去であったかもしれない。そのため、自害という事実を和らげ、より穏やかな最期であったかのように語り継ぐ物語が、後世に意図的に作られた可能性も否定できない。
史料的な根拠の強さから見れば、自刃説が通説として有力であることは間違いない。しかし、潜伏・病死説という異説が存在すること自体が、筒井定慶という人物が、単なる「任務に失敗した敗将」としてではなく、地域社会や後の一族にとって複雑な感情を抱かせる存在であったことを示唆している。彼の最期をめぐる謎は、その悲劇的な生涯に一層の深みを与えている。
筒井定慶の死は、一個人の生涯の終わりであると同時に、大和国に君臨した戦国大名・筒井氏の完全な終焉を意味する出来事であった。しかし、筒井の血脈は絶えることなく、新たな時代の中で形を変えて生き残っていく。定慶の物語は、戦国時代の「家」が、徳川の新たな秩序の中でいかに解体され、そして一部が新たな支配体制の部品として再生していったかを示す、象徴的な事例と言える。
筒井定次の改易、そして筒井定慶の死をもって、鎌倉時代から大和に根を張り、戦国時代には順慶のもとで全盛期を築いた大名としての筒井氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消した 6 。これは、関ヶ原の戦い以降、豊臣恩顧の大名や、徳川幕府にとって潜在的な脅威と見なされた多くの外様大名が辿った運命の典型例であった 36 。筒井氏の栄光と没落の物語は、ここに一つの終止符が打たれたのである。
しかし、筒井の家名そのものが歴史から消え去ったわけではなかった。定慶の弟とされる筒井慶之(史料によっては順斎、あるいは「筒井正次」の父・順斎とも)は、兄とは異なり徳川家康に仕える道を選んだ 2 。家康は彼を取り立て、1,000石の知行を与え、幕府直属の家臣である旗本とした 38 。
こうして、大名としての筒井氏は滅びたものの、その傍系は旗本として徳川の世を生き抜くことになった。この旗本・筒井家は幕末まで存続し、その末裔からは特筆すべき人物も輩出された。幕末、ロシアとの国境交渉という国家の重要任務にあたった長崎奉行・筒井政憲は、この旗本筒井家の出身である(ただし養子) 4 。かつて大和一国を動かした大名の末裔が、数百年後、今度は幕府官僚として外交の最前線に立ったという事実は、歴史の奇妙な巡り合わせを感じさせる。
筒井定慶の生涯は、時代の大きなうねりの中で、名門の看板という重すぎる荷を背負わされながらも、それを支える実力を伴わなかった武将の悲劇を体現している。彼は徳川家康の政治的配慮によって一度は歴史の表舞台に引き上げられたが、それはあくまで徳川の支配体制を盤石にするための駒としてであった。大坂の陣という最後の試練において、彼は軍事的合理性と武士の名誉という二律背反の狭間で苦悩し、結果的にその両方を失う形で生涯を終えた。
彼の死は、単なる一個人の死ではない。それは、大和における戦国時代の価値観が、徳川の新たな秩序の前に完全に敗北した瞬間であり、大和武士の時代の完全な終焉を告げる象徴的な出来事であった。筒井定慶の物語は、戦国から近世へと移行する時代の非情さと、その中で翻弄された人々の運命を、今に静かに伝えている。