本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて大和国(現在の奈良県)を拠点に活動した武将、筒井順慶の生涯、事績、人物像、そして彼が果たした歴史的役割について、現存する史料に基づき詳細に解説することを目的とします。
筒井順慶(1549年~1584年)は、大和国の有力国人であった筒井氏の当主として、宿敵・松永久秀との長年にわたる抗争を経て、織田信長、豊臣秀吉といった天下人に仕え、大和一国の統治を任されました。その一方で、本能寺の変における動向から「日和見順慶」と揶揄されるなど、毀誉褒貶相半ばする評価を受けてきた人物でもあります。
順慶の事績は、興福寺の僧侶・英俊によって記された『多聞院日記』 1 をはじめとする一次史料に比較的詳細に記録されており、本報告書ではこれらの史料を重視します。本報告書は、順慶の生涯、領国経営、人物像と文化的側面という観点から、その実像に迫ります。
筒井順慶の生涯を概観するために、まず主要な出来事をまとめた略年表を以下に示します。
筒井順慶 略年表
年代 |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
天文18年 (1549) |
1歳 |
3月3日、筒井順昭の子として大和国に生まれる。幼名:藤勝。 |
3 |
天文19年 (1550) |
2歳 |
父・筒井順昭の死去により家督を相続。叔父・筒井順政が後見する。 |
3 |
永禄2年 (1559) |
11歳 |
三好長慶の家臣・松永久秀が大和国に侵攻。筒井城を奪われる。 |
3 |
永禄7年 (1564) |
16歳 |
後見人であった叔父・筒井順政が死去。 |
3 |
永禄8年 (1565) |
17歳 |
藤勝から藤政に改名。第6次筒井城の戦いで松永久秀に敗れ、筒井城を落とされる。 |
3 |
永禄9年 (1566) |
18歳 |
三好三人衆と結び、第7次筒井城の戦いで筒井城を奪還。得度して陽舜房順慶と名乗る。 |
3 |
永禄10年 (1567) |
19歳 |
東大寺大仏殿の戦いで松永久秀に敗北。大仏殿が焼失する。 |
3 |
永禄11年 (1568) |
20歳 |
第8次筒井城の戦いで松永久秀に敗れ、再び筒井城を失う。 |
3 |
元亀2年 (1571) |
23歳 |
辰市城の戦いで松永久秀を破り、筒井城を奪還。織田信長に臣従し、松永久秀と和睦。 |
3 |
天正4年 (1576) |
28歳 |
織田信長より大和守護に任じられる。 |
3 |
天正5年 (1577) |
29歳 |
信貴山城の戦いで、織田軍の一員として松永久秀を攻め滅ぼす。 |
3 |
天正8年 (1580) |
32歳 |
織田信長の命により筒井城を破城し、郡山城へ居城を移す。 |
4 |
天正10年 (1582) |
34歳 |
本能寺の変。明智光秀からの協力要請に対し、最終的に羽柴秀吉に加担。 |
3 |
天正12年 (1584) |
36歳 |
小牧・長久手の戦いに参陣後、8月11日、病により郡山城で死去。 |
3 |
筒井順慶は、天文18年(1549年)3月3日、大和国筒井城主であった筒井順昭の子として誕生しました。幼名は藤勝と伝えられています 3 。筒井氏は、古くから大和国に勢力を有し、興福寺の衆徒(僧兵団を構成する武士層)として活動する中で武士団としての性格を強め、順慶の父・順昭の代には大和国における最大の武士勢力へと成長していました 2 。
しかし、順慶の人生は幼少期から波乱に満ちたものでした。天文19年(1550年)、父・順昭が28歳(数え年。資料によっては27歳とも 5 )という若さで病死すると、順慶はわずか2歳で家督を相続することになります 2 。この幼い当主を支えたのが叔父の筒井順政でしたが、その順政も永禄7年(1564年)に病死してしまいます 2 。
父の早世と、それに続く後見人の死は、若き日の順慶にとって極めて不安定な権力基盤しかもたらしませんでした。これは、戦国時代の勢力争いにおいて、指導者の若年化や不在がしばしば招く弱点であり、筒井氏もその例外ではありませんでした。父・順昭が築き上げた筒井氏の勢力も、彼の死によって大きく揺らぎ始めます。2歳での家督相続は、実質的な統治能力の欠如を意味し、一門や有力家臣による強力な輔弼体制が不可欠でしたが、その中心となるべき順政の死は、順慶が直接的な指導力を発揮するにはまだ若すぎる時期に訪れました。この権力の空白期間が、後に大和国へ侵攻してくる松永久秀にとって、介入の絶好の機会を与えることになったと考えられます。
永禄2年(1559年)、当時三好長慶の重臣として畿内で権勢を振るっていた松永久秀が、本格的に大和国への侵攻を開始します。これにより、筒井城は久秀の手に落ち、順慶は本拠地を追われて逃亡を余儀なくされました 3 。これを境に、筒井順慶と松永久秀との間には、十数年にも及ぶ大和国の覇権を巡る熾烈な抗争が続くことになります。
この抗争において、筒井城は両者の間で幾度となく奪い奪われる激戦の舞台となりました 3 。例えば、永禄9年(1566年)には、順慶は松永久秀と対立していた三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と手を結び、久秀が三好氏との戦いに忙殺されている隙を突いて筒井城の奪還に成功します 4 。しかし、その喜びも束の間、永禄11年(1568年)には織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内の勢力図が大きく塗り替わる中で、再び松永久秀によって筒井城を奪い返されてしまいます 3 。
この長い戦いの中でも特筆すべきは、永禄10年(1567年)に起こった「東大寺大仏殿の戦い」です。この戦いで順慶は三好三人衆らと連合し、東大寺を本陣として布陣し松永久秀軍を迎え撃ちましたが、結果は敗北に終わりました。戦闘の過程で、東大寺大仏殿が炎上し、安置されていた大仏の首が焼け落ちるという日本史上でも稀に見る文化財の破壊という悲劇が発生しました 3 。この大仏殿焼失の責任については、一般的に松永久秀の悪行の一つとして語られることが多いですが、東大寺を戦場として利用した以上、筒井順慶側にも戦闘行為の結果としての責任の一端は免れないという見方もできます。史料 5 は松永軍の兵火によるものと示唆していますが、戦乱における責任の所在は複合的であり、戦いの場を選定し、そこに布陣した順慶側にも、結果として戦禍を招いた要因があったと考察することは可能です。
苦難の時期が続きますが、元亀2年(1571年)に大きな転機が訪れます。順慶は新たに辰市城を築城し、ここを拠点として松永久秀・三好義継の連合軍と戦い、これに勝利を収めました(辰市城の戦い)。この勝利によって、長らく失っていた筒井城を再び奪還することに成功します 3 。
この激動の時期、順慶は名を改めています。永禄8年(1565年)の永禄の変の後には、幼名の藤勝から藤政へと改名し 4 、さらに永禄9年(1566年)には得度して僧籍に入り、陽舜房順慶と名乗るようになりました 4 。
松永久秀という強大な敵に対して、順慶は決して屈することなく戦い続けました。その過程では、三好三人衆との連携 3 や、後に将軍となる足利義昭からの支援 8 を取り付けるなど、時々の政治・軍事状況に応じて巧みに同盟関係を変化させています。これは、彼の戦略的な柔軟性と、大和国奪還という目標に対する並々ならぬ執念深さを示していると言えるでしょう。松永久秀は当初、三好長慶の重臣として畿内で大きな力を有しており 9 、順慶は単独では到底太刀打ちできる相手ではありませんでした。そのため、久秀と対立する勢力と結ぶことで勢力均衡を図り、生き残りを模索しました。織田信長の上洛 5 という新たな状況変化にも機敏に対応し、最終的には信長の強大な力を背景に宿敵・久秀を打倒することになります。この一連の動きは、小勢力が大勢力の間隙を縫って生き残りを図るという、戦国武将の典型的な処世術の一つと評価できるでしょう。
元亀2年(1571年)、辰市城の戦いでの勝利を契機として、筒井順慶は明智光秀の斡旋を通じて織田信長に臣従します 3 。これにより、長年の宿敵であった松永久秀とも、信長の仲介の下で一時的に和睦が成立しました 3 。
信長の配下に入った順慶は、織田軍の主要な戦いに大和衆を率いて参加し、各地で武功を挙げていきます。具体的には、石山本願寺との戦い(天王寺砦の戦い 3 )、越前一向一揆の鎮圧 3 、雑賀衆を対象とした紀州征伐 3 、荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦い 3 、そして天正伊賀の乱 3 などが挙げられます。これらの戦役における働きが信長に認められ、天正4年(1576年)5月、順慶は正式に大和守護に任じられ、大和一国の統治を委ねられることになりました 3 。これは、それまで大和守護であった塙直政が石山本願寺との戦いで戦死したことを受けての後任人事でした 3 。
そして天正5年(1577年)、織田信長に対して再び反旗を翻した松永久秀を、信貴山城に追い詰めて攻め滅ぼします(信貴山城の戦い)。この戦いにおいて順慶は、明智光秀や細川藤孝らと共に先鋒を務め、松永方の森好久を調略によって寝返らせ、城の内部崩壊を誘うなど、戦略的な手腕も発揮し、長年にわたる宿敵との因縁に終止符を打ちました 3 。
織田信長との関係をより強固なものとするため、順慶は実母である大方殿を人質として信長のもとに送り 3 、また、信長の重臣であった明智光秀の子・自然丸を養子として迎え入れています 3 。さらに、信長の娘、あるいは妹(養女ともされる)と婚姻関係を結んだとも伝えられており 3 、織田家との結びつきを深めていきました。
大和国は、興福寺をはじめとする寺社勢力が伝統的に極めて強い影響力を持つ地域でした。織田信長も当初はその統制に苦慮し、尾張出身の塙直政を大和守護として派遣しましたが、直政は在地勢力の反発を受けるなどして統治に失敗し、戦死しています 3 。そのような背景の中、信長が筒井順慶を大和守護に任じたのは、筒井氏が元々興福寺の衆徒の系譜を引く大和土着の有力者であり 2 、現地の複雑な事情に精通していた点を高く評価した結果と考えられます。これは、織田信長の現実的かつ合理的な地方統治策の一環と見ることができるでしょう。信長は中央集権的な支配体制の確立を目指し、各地の伝統的権威を解体しようと試みていましたが、大和国のような特殊な地域においては、在地勢力の中から実力者を登用し、間接的に支配下に置くという手法を選択したのです。順慶に人質提出や養子縁組を求めたのは 3 、彼への一定の信頼を示すと同時に、万が一の裏切りを防ぐための信長流の巧みな統制策であったと言えます。
また、この時期の順慶を語る上で欠かせないのが、明智光秀との緊密な関係です。順慶は明智光秀の与力(軍事指揮下にある武将)となり 3 、光秀の斡旋によって信長に臣従し、さらには光秀の子を養子に迎えるなど 3 、両者は単なる主従関係を超えた深い結びつきを持っていました。光秀は織田家中でも特に畿内方面の統治を担当しており、順慶のような大和の国人と強固な連携を築くことは、信長の戦略上、極めて重要でした。この深いつながりが、後の本能寺の変という未曾有の事態において、順慶に極めて複雑で困難な判断を迫る伏線となっていきます。
天正10年(1582年)6月2日、主君である織田信長が、その重臣であった明智光秀によって京都の本能寺で討たれるという衝撃的な事件が発生します(本能寺の変)。この時、筒井順慶は極めて難しい立場に立たされました。明智光秀は、順慶が織田信長の配下に入る際の仲介者であり、与力の関係にあり、さらには光秀の子を養子に迎えるなど縁戚関係にもあったため、光秀から変の後に味方になるよう強く誘われたのです 2 。
当初、順慶の動きは光秀に与するかに見えました。奈良興福寺の僧英俊が記した『多聞院日記』には、6月5日の時点で「筒井順慶は堅く光秀と一味になっているらしい」との風聞が記されています 1 。また、順慶配下の井戸氏の一手衆が光秀のもとへ出陣したものの、翌日には引き返したという記録も同日記に見られます 1 。
しかし、中国地方で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉が、信長横死の報を受けるや否や毛利氏と和睦し、驚異的な速さで軍を畿内に反転させると(中国大返し)、順慶の態度は変化を見せ始めます。6月9日の『多聞院日記』には、順慶が明智光秀への派兵を延期し、居城である郡山城へ兵糧を急遽運び込むなど、籠城の準備を始めた様子が「どのように覚悟が変わったのか、不審である」と記されています 1 。
この本能寺の変における順慶の動向を語る上で最も有名なのが、「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」の逸話です。これは、明智光秀が羽柴秀吉との決戦(山崎の戦い)に際し、順慶の援軍を期待して京都府と大阪府の境に位置する洞ヶ峠に布陣して待ったものの、順慶は現れず、戦況を見極めようと日和見的な態度を取った、というものです 3 。この故事から、有利な方につこうと形勢を傍観する態度のことを「洞ヶ峠を決め込む」と表現するようになりました。
しかし、この「洞ヶ峠」の逸話の史実性については、近年再検討が進んでいます。実際に洞ヶ峠にいたのは明智光秀の方であり、順慶に対して山崎の戦いに加わるよう圧力をかけるために赴いたとする説 5 や、そもそも順慶が洞ヶ峠に布陣したという事実はなく、郡山城で事態の推移を慎重に見守っていたとする見方が有力視されています 3 。『多聞院日記』の6月10日の記述によれば、光秀からの使者である藤田伝吾に対して、順慶は味方しない旨の返答を伝え、既に羽柴秀吉へは異心のないことを示す起請文を送っていたとされています 1 。
順慶のこの一連の行動は、後世「日和見」と厳しく批判される一方で、小勢力である筒井家とその領国である大和国を戦火から守るための、苦渋に満ちた「慎重」な判断であったと擁護する評価も存在します 8 。長年の盟友であり縁戚でもあった明智光秀への義理や恩義と、自らの領国と家臣たちの安全を確保するという現実的な問題との間で、順慶が極度の緊張感の中で判断を迫られたことは想像に難くありません。光秀の謀反はあまりに突発的であり、その成功の確証はありませんでした。加えて、羽柴秀吉による中国大返しと迅速な反攻は、多くの武将にとって予想外の展開だった可能性があります。そのような状況下で、順慶にとって最優先すべきは、自らの領国である大和の安泰と、そこに住まう民、そして家臣たちの生命・財産の保護であったでしょう。状況が不透明な中で軽率に一方に加担すれば、共倒れの危険性も多分にありました。そのため、徹底的な情報収集と冷静な情勢分析に時間をかけ、最終的に勝算の高い側に付くという判断は、戦国武将としての生存戦略としては合理的であったとも言えます。本能寺の変後の混乱期において、正確な情報をいかに迅速に掴み、的確な判断を下せるかが、各武将のその後の運命を大きく左右しました。順慶の行動の変遷は、彼が入手する情報に応じて判断を変化させていった過程を如実に示していると考えられます 1 。ただ、その「慎重さ」が、結果として山崎の戦いに勝利した羽柴秀吉の不興を買い 1 、後世における「日和見順慶」という悪評に繋がったのは、歴史の皮肉と言えるかもしれません。
山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れて滅亡すると、筒井順慶は秀吉に臣従し、大和一国の所領は安堵されました 4 。しかし、秀吉からは山崎の戦いへの参陣が遅れたことについて叱責を受けたと伝えられています 1 。この時の心労が、順慶の健康を害し、死期を早めた一因になったという説も存在します 13 。
秀吉の家臣となった順慶は、その後の賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦い 3 にも秀吉方として参加しました。しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの影響で伊勢・美濃方面へ転戦している最中に病状が悪化し 8 、大和へ帰還後、療養もむなしく、同年8月11日(旧暦)、居城である大和国郡山城にて胃癌のため病死しました 3 。享年36歳という若さでした。
順慶の死後、筒井氏の家督は養子の定次(順慶の従弟にあたる)が継ぎましたが、本能寺の変での順慶の対応が影響したのか、秀吉からの信頼は必ずしも厚いものではなかった可能性があります。秀吉は、順慶の死後間もない天正13年(1585年)に、定次を伊賀上野へ転封とし 6 、大和国には自らの弟である羽柴秀長を配置しました 6 。これは、畿内の要衝である大和国を、豊臣政権としてより直接的かつ強固に支配下に置こうとする秀吉の意図の表れと考えられます。順慶の早すぎる死は、筒井氏にとって大きな痛手となり、その後の豊臣政権下での勢力維持を困難にした要因の一つと言えるでしょう。定次の代になってからの筒井氏の改易 13 には、順慶の時代の微妙な政治的立場や、本能寺の変における判断が遠因として影響した可能性も否定できません。
筒井順慶は、長年にわたる宿敵であった松永久秀を天正5年(1577年)の信貴山城の戦いで滅ぼしたことにより、名実ともに大和国主としての地位を確立しました 4 。これにより、大和国内における筒井氏の支配体制は大きく前進しました。
順慶の統治において重要なのは、織田信長の政策を大和国で実行したことです。特に「大和差出」と「一国一城令」は、大和国の支配構造に大きな影響を与えました。「大和差出」は、寺社に対しては旧来の権益をある程度認める一方で、国人衆に対しては反乱分子の除去や軍事編成の強化を進め、筒井順慶を中心とした統制を図るものであったとされます 16 。また、「一国一城令」は、天正8年(1580年)に信長の命により、大和国内の諸城を郡山城を除いて全て破却するというものでした 4 。これにより、各地に割拠していた国人勢力の軍事拠点は失われ、その力は削がれることになり、結果として大名である筒井氏への権力集中が進みました 17 。
検地に関しては、順慶自身が大規模な検地を実施したという直接的な史料は現在のところ確認されていません。しかし、織田信長が大和国で行った「大和差出」が、寺社や国人領主に対して所領の規模などを報告させる「指出検地」の性格を帯びていた可能性が指摘されており 16 、順慶もこの政策の実行に関与したと考えられます。豊臣政権下では太閤検地が全国的に展開されますが、順慶の治世下でどの程度体系的な検地が行われたかについては、今後の研究が待たれるところです。
織田信長の「一国一城令」を大和国で実行したことは、順慶が信長の意向に忠実であったことを示すと同時に、彼自身が大和国内の伝統的な支配構造を大きく変革する役割を担ったことを意味します。戦国時代の大和国は、興福寺などの強大な寺社勢力に加え、多くの国人領主が各地に割拠し、複雑な権力構造を形成していました 2 。「一国一城令」は、これらの国人領主の軍事的な力を削ぎ、大名による一元的な領国支配体制を確立することを目的としていました。順慶が郡山城以外の城を破却したことは 4 、彼が信長政権下の大名として、中央の政策を地方で実行するエージェントとしての役割を忠実に果たしたことを示しています。これは、大和国における中世的な分権的支配体制から、近世的な集権的支配体制への移行期における重要な画期と評価することができます。この政策により、多くの在地土豪はその軍事拠点を失い、筒井氏のような大名への従属を一層強めるか、あるいは歴史の表舞台から姿を消していくかの道を辿ったと考えられます 17 。
しかしながら、大和国は寺社勢力が伝統的に極めて強く、また長年にわたる戦乱によって国内が疲弊していたため、順慶の領国経営は決して平坦なものではなかったと推測されます。これらの強大な在地勢力との協調と統制、そして荒廃した民政の安定という、相反する要素を両立させることが、順慶に課せられた大きな課題であったと言えるでしょう。
筒井順慶の領国経営において、城郭の整備は極めて重要な意味を持ちました。彼の時代には、筒井氏代々の居城である筒井城と、後に大和国の中心となる郡山城が主要な拠点となりました。
筒井城 は、順慶の祖父・順興の代から筒井氏の本拠地であり、順慶の時代にも宿敵・松永久秀との間で幾度となく激しい争奪戦が繰り広げられた城です 3 。近年の発掘調査によって、筒井城は16世紀中頃には幅12メートル以上にも及ぶ大規模な堀を有していたことが確認されており、当時の城郭としては堅固なものであったことが窺えます 20 。また、堀の斜面からは鉄砲玉が出土しており、松永久秀との戦いにおいて最新兵器である鉄砲が使用されていた可能性も指摘されています 20 。筒井城の構造的特徴としては、城の東北隅に位置する水堀が多折れに屈曲している点が挙げられます。この特異な形状について、『筒井城総合調査報告書』では、防御上の目的ではなく、風水思想に基づく鬼門除け(北東方位を避ける)に関連するものではないかとの興味深い考察がなされています 20 。
しかし、天正8年(1580年)、織田信長の「一国一城令」により、筒井城はその役割を終え、破却されることになります。そして、大和国の新たな中心拠点として順慶が選んだのが 郡山城 でした 4 。順慶は郡山城の大規模な改修に着手し、天正9年(1581年)には、信長の命を受けた明智光秀が普請目付として築城指導に当たったと記録されており、奈良中の大工が集められたと伝えられています 23 。そして、天正11年(1583年)4月には、郡山城に「天主」(天守閣)が完成したことが『多聞院日記』に記されています 23 。この順慶時代の天守の具体的な規模や構造については史料が乏しく不明な点が多いですが、近年の郡山城天守台の発掘調査では、豊臣秀長時代(順慶の死後)に属すると考えられる礎石群や金箔瓦が発見され、5階建てに相当する壮大な天守が存在したことが確認されています 24 。順慶が築いた天守がどの程度のものだったかは定かではありませんが、彼によって郡山城が大和国における中心的城郭として整備され始めたことは間違いありません。
筒井城から郡山城への拠点移転と、「一国一城令」による大和国内の支城の破却は、軍事・政治機能を一つの中心拠点に集約しようとする動きであり、中世的な城郭から近世的な城郭への移行期における重要な事例と位置づけられます。郡山城の整備に、当時最新の築城技術に明るかったとされる明智光秀が関与したことは 23 、その城郭構造にも影響を与えた可能性があります。
また、郡山城への拠点集中に伴い、その周辺では 城下町の形成 も進められたと考えられます 6 。『多聞院日記』には、天正8年(1580年)頃に「筒井の市」が賑わいを見せていたという記録があり 23 、順慶の領国において商業活動も活発であったことが窺えます。郡山城下には、塩町、魚町、豆腐町といった職能に応じた町名が現在も残っており 12 、計画的な町割りがなされたことを示唆しています。
大和国は古来より「神国」とも称され、興福寺、東大寺、春日大社といった大寺社が広大な荘園と強力な僧兵組織を有し、政治的にも経済的にも絶大な影響力を行使してきた地域でした。筒井氏自身もその出自を興福寺の衆徒に持ち 2 、その関係は複雑かつ密接なものでした。
興福寺 との関係において、筒井氏は代々その衆徒として活動し、順慶の父・順昭の代には、興福寺の武力を実質的に統括する官符衆徒の棟梁という重要な地位にありました 2 。順慶もこの立場を継承しましたが、松永久秀との熾烈な抗争の中で、一時は興福寺から棟梁の地位を剥奪され、その地位が宿敵である久秀に与えられるという屈辱も経験しています 30 。織田信長によって大和守護に任じられた後も、興福寺は依然として大和国内で強い影響力を保持しており 31 、順慶は興福寺との関係に細心の注意を払いながら統治を進める必要がありました。信長政権下では、興福寺の寺僧の処罰を命じられるなど、中央政権の意向と在地寺社の板挟みになる場面も見られました 2 。
東大寺 との関係では、永禄10年(1567年)の松永久秀との戦いの際に、東大寺大仏殿が戦火によって焼失するという悲劇に見舞われました 3 。この焼失は松永方の失火によるとされていますが、東大寺を戦場としたことに対する道義的責任は、順慶側にも皆無とは言えないでしょう。順慶がその後の東大寺の再建にどの程度積極的に関与したかについての具体的な史料は乏しいですが、大和国主としてこの国家的建造物の焼失を座視することはできなかったはずです。また、天正3年(1575年)には、織田信長が東大寺正倉院に納められていた名香・蘭奢待を切り取る際に、その手配を順慶が任されています 3 。これは、信長が順慶を大和における代理人として認識していたことを示す事例と言えます。
春日大社 に対しては、順慶は極めて丁重な態度で接していたことが記録から窺えます。『多聞院日記』などによれば、順慶は春日大社への参詣を頻繁に行っており 8 、天正10年(1582年)には春日社の御供所の屋根葺き替えのために1000石という多額の寄進を行った記録も残っています 32 。これは、大和国の伝統的権威である春日大社との良好な関係を維持し、領国支配の安定化を図ろうとした政策の一環と考えられます。
筒井順慶は自身も得度して僧籍にあったため、仏教への信仰も篤く、大和国内の諸寺院にしばしば寄進を行っています 2 。しかし、織田信長政権下においては、寺社の保護ばかりを優先するわけにはいきませんでした。信長の意向を受け、鉄砲を鋳造するために寺社の釣鐘を没収するといった強硬な政策も実行しています 2 。
このように、筒井順慶の寺社政策は、中央政権の圧力と、大和国特有の強大な在地寺社勢力との間で、常に難しい舵取りを迫られるものでした。筒井氏の出自から寺社勢力とは深い繋がりがあった一方で、戦国大名として領国を一元的に支配するためには、寺社勢力が持つ特権や武力をある程度抑制する必要がありました。これは特に、既存の権威の打破を目指した織田信長の政策方針とも合致するものでした 16 。順慶は、信長の命令(例えば釣鐘の没収 2 )と、在地勢力との融和(例えば春日大社への寄進 32 )との間で、巧みなバランスを取りながら統治を進めようとしたと考えられます。東大寺大仏殿の焼失 5 は、彼の治世における大きな痛恨事であり、その後の寺社政策にも少なからぬ影響を与えた可能性があります。これらの宗教的権威とどのように向き合い、関係を構築していったかは、順慶の統治者としての能力を評価する上で非常に重要なポイントとなります。
筒井順慶の麾下には、彼の覇業を支えた有能な家臣たちがいました。中でも島清興(左近)、松倉重信(右近)、中坊秀祐、森好之らは、順慶の主要な家臣としてその名が知られています。
島清興(左近) は、筒井氏の重臣として特に名高く、後世には石田三成の家臣として関ヶ原の戦いで勇名を馳せる人物です。順慶の時代には、「筒井家の猛将」と評され、松永久秀との大和国を巡る戦いで数々の武功を挙げました 2 。具体的には、天正5年(1577年)の信貴山城の戦いにおける松永久秀打倒や、その後の織田軍による播磨攻め(上月城救援)、荒木村重が籠城した有岡城攻めなどに、順慶に従い参戦しています 34 。天正12年(1584年)頃には、大和国平群郡の椿井城主となっていたとされます 34 。しかし、順慶の死後、養子である筒井定次と意見が対立し、筒井家を去ったと伝えられています 14 。
松倉重信(右近) もまた、筒井氏の重臣であり、島左近と並び称されて「右近左近」と呼ばれ、筒井氏の両翼と目されるほどの人物でした 2 。彼らの通称がそのまま勇名の由来となったのです。さらに、森好之を加えて「筒井家三老臣」とも称され、順慶政権の中核を担っていたことが窺えます 2 。
中坊秀祐 は、筒井順慶の内衆(側近)として筒井城に在城していたことが確認されており 35 、後に羽柴秀吉からその能力を認められ「大名」としての扱いを受け、従来の300石から800石へと大幅な加増を受けています 35 。しかし、順慶の死後、定次の代になると権勢を振るい、専横な振る舞いが目立ったとされます。島左近と常に対立し、讒言によって左近を筒井家から追放したとも、最終的には主君である定次の不行状を徳川家康に訴え出て、筒井氏改易の直接的な原因を作ったとも言われています(筒井騒動) 13 。
森好之 は、松倉重信、島左近と共に「筒井家三老臣」の一人に数えられる重臣です 2 。天正5年(1577年)の信貴山城の戦いにおいては、順慶の命を受けて松永久秀方から寝返り、城の内部崩壊を誘って勝利に貢献したという逸話も残っています 3 。
その他にも、一族である福住順弘、慈明寺順国、山田順清や、布施左京進、十市藤政といった家臣たちが順慶を支えていました 2 。
筒井順慶の時代、島左近や松倉重信といった勇猛かつ有能な家臣団の存在は、松永久秀との長期にわたる厳しい抗争を戦い抜き、大和国主としての地位を確立する上で不可欠な力となりました。彼らの忠誠と武勇が、筒井氏の勢力拡大と維持に大きく貢献したことは間違いありません。しかしながら、順慶という強力な指導者を失った後、養子の定次の代になると、家臣団内部の対立が顕在化します。特に、島左近と中坊秀祐の間の深刻な確執は、筒井氏の結束を弱め、その後の衰退の一因となったと考えられます。これは、カリスマ的な指導力を持った当主の死後、後継者問題や家臣間の権力闘争が頻発するという、戦国時代の武家社会においてしばしば見られる現象の典型例とも言えるでしょう。順慶のリーダーシップと、島左近ら有力家臣の補佐によって、筒井氏は大和国における確固たる地位を築き上げましたが、順慶の早すぎる死は、家臣団の統制に大きな揺らぎをもたらした可能性があります。特に、中坊秀祐のような寵臣の台頭は、島左近のような古参の武功派家臣との間に深刻な軋轢を生んだと推測されます 14 。このような内部対立は、筒井氏の政治力・軍事力を著しく弱体化させ、最終的な改易 13 へと繋がる遠因となったと考察されます。
筒井順慶は、戦乱の世を駆け抜けた武将としての側面だけでなく、茶の湯、連歌、能楽といった当代一流の文化・教養を身につけた文化人としての一面も持ち合わせていました。
茶の湯 においては、順慶は優れた技量を持つ文化人であり、自身で茶会を主催したり、他の有力者が催す茶会に客として招かれたりした記録が複数確認されています 2 。例えば、天正6年(1578年)には、当代随一の茶人として名高い堺の豪商・今井宗久や津田宗及が主催した茶会に参加しており、また、天正8年(1580年)には、後に本能寺の変で主君信長を討つことになる明智光秀が坂本城で開いた茶会にも出席しています 4 。これらの交流は、順慶が単に茶の湯を嗜むだけでなく、それを介して中央の政財界や文化人たちと繋がりを持っていたことを示唆しています。彼が所持していたとされる名物茶器の中には、現在重要文化財に指定されている「井戸茶碗 銘 筒井筒(つついづつ)」や、徳川美術館所蔵の「古瀬戸肩衝茶入(ふるせとかたつきちゃいれ) 銘 筒井」などがあり、彼の茶道具に対する審美眼の高さが窺えます 4 。また、居城であった筒井城内の清冽な井戸水を茶の湯に愛用したと伝えられています 4 。
連歌や和歌 の分野においても、順慶は才能を発揮しました。永禄5年(1562年)には、筒井の清水を題材とした和歌を詠んだことが記録に残っています 4 。また、当代一流の連歌師であった里村紹巴(さとむらじょうは)との交流も指摘されており、本能寺の変後、明智光秀と里村紹巴の間で順慶の動向に関する情報交換があったことを示唆する史料も存在します 37 。
能楽 に対しても深い関心を示し、特に「百万(ひゃくまん)」という演目を好んだとされています 2 。大和国は能楽と縁の深い土地であり、興福寺の薪能(たきぎのう)は古くから続く伝統行事でした。順慶は、自身が領内に在住している限り、この興福寺薪能に積極的に参加し、万が一、国外出陣などで参加できない場合には、適切な代役を立ててその務めを果たさせていたと伝えられています 2 。
これらの文化的活動に加え、江戸時代に成立した軍記物である『柴栗草子』には、順慶を「兵法の達人であり、文芸にも秀で、筆跡は尊円親王にも匹敵し、画才は雪舟を髣髴とさせ、能楽の技巧も四座の太夫に劣らない」と絶賛する記述がありますが、これは後世の創作による脚色の可能性も高く、その信憑性については慎重な吟味が必要です 38 。また、順慶は興福寺の唯識論の学にも通じていたとされ、仏教に対する深い造詣も持っていたようです 4 。
筒井順慶が示したこれらの文化的側面は、戦国時代の有力な武将たちが単に武勇に秀でていただけではなく、高度な文化的素養を兼ね備えていたことを示す好例と言えます。茶の湯は、単なる趣味や遊興の域を超え、武将間の外交交渉や情報交換、さらには政治的な同盟関係を構築するための重要な手段としても機能していました。順慶が今井宗久、津田宗及、明智光秀といった当代一流の文化人や中央の有力者たちと茶会を通じて交流していたことは 4 、彼が畿内の政局や文化の最新動向にも通暁していたことを物語っています。連歌や能楽への関心もまた、彼の教養の深さを示すものであり、これらの文化的活動を通じて人脈を拡大し、自身の政治的立場を強化しようとした可能性も考えられます。大和国という、古都奈良に隣接し、豊かな文化遺産を有する土地柄も、順慶の洗練された文化的素養の形成に少なからず影響を与えたのかもしれません。
筒井順慶の人物像や行動を理解する上で、同時代に書かれた記録は極めて重要です。特に、奈良興福寺多聞院の僧であった英俊によって長年にわたり記された『多聞院日記』は、順慶の動向に関する最も詳細かつ信頼性の高い一次史料の一つとして知られています 1 。この日記には、日々の出来事を通じて、順慶の政治的判断、軍事行動、さらには周囲の人物との関係性が具体的に記録されています。例えば、本能寺の変が勃発した後の順慶の逡巡する様子や、情報収集に努め、最終的に羽柴秀吉に与する決断を下すまでの過程などが、日付を追って克明に記されており、当時の緊迫した状況と順慶の苦悩が伝わってきます 1 。『多聞院日記』は、順慶の性格や判断力、行動原理を考察する上で不可欠な史料ですが、一方で、筆者である英俊の立場(興福寺の僧侶)や個人的な視点も含まれている可能性も考慮に入れて解釈する必要があります。
一方、イエズス会の宣教師として戦国時代の日本に滞在したルイス・フロイスが著した『日本史』にも、筒井順慶に関する記述が見られます 1 。フロイスは、順慶の長年の宿敵であった松永久秀についてはその人物像や行動を詳細に記述していますが、順慶自身についての直接的かつ詳細な評価は、久秀に比べると限定的であるかもしれません。しかし、フロイスの記録は、当時の畿内全体の政治状況や、織田信長や豊臣秀吉といった中央権力者と地方領主との関係性を、外国人という第三者の視点から捉えている点で貴重な傍証となります。ただし、フロイスの記録は、キリスト教布教という明確な目的を持って書かれたものであり、その記述には特定の宗教的バイアスや、情報源の偏りなどが存在する可能性も念頭に置く必要があります 39 。
後世の評価として最も広く知られているのは、本能寺の変における彼の対応から生まれた「日和見順慶」というものです。有利な方に味方しようと形勢を傍観する意味の「洞ヶ峠を決め込む」という言葉とともに、順慶は優柔不断な日和見主義者というレッテルを貼られてきました 3 。
しかし近年では、このような一面的な評価に対して、歴史学的な再検討が進められています。彼の行動を単なる日和見と断じるのではなく、小勢力であった筒井家が、明智光秀と羽柴秀吉という二大勢力の間で生き残るために下した、苦渋に満ちた慎重かつ現実的な判断であったと再評価する動きも見られます 8 。
『多聞院日記』のような日本の一次史料と、フロイスの『日本史』のような外国人の手による記録を比較検討することで、より多角的かつ客観的な順慶像に迫ることが可能になります。それぞれの史料が持つ特性、すなわち記録者の立場、記録の目的、依拠した情報源などを十分に理解した上で分析することが、歴史上の人物を評価する際には不可欠です。例えば、『多聞院日記』は大和国内の視点から順慶の具体的な行動や寺社との関係、地域政情に関する詳細な情報を提供してくれます。一方で、フロイスの記録は、より広範な畿内の政治的文脈や、信長・秀吉といった中央権力者との関係性の中で順慶を位置づける際に有益な示唆を与えてくれます。また、当時の日本社会や武将の習慣に対する外部からの観察眼は、日本人記録者にはないユニークな視点を提供してくれることもあります。これらの史料を丹念に突き合わせることで、例えば本能寺の変における順慶の行動について、単に「日和見」と結論付けるのではなく、当時の複雑な情報網や流動的な勢力関係の中で、彼がどのような情報を入手し、どのような思考プロセスを経て最終的な判断に至ったのかを、より深く、そして共感的に理解することができるようになるでしょう。順慶に対する評価は、時代や記述者の立場によって大きく揺れ動いてきました。「日和見」というレッテルは、特に江戸時代に成立した軍記物語などによって、ある種の物語的な面白さとともに広く流布した可能性があります。現代の歴史学においては、このような後世の評価に囚われることなく、当時の史料に可能な限り忠実に基づいて、より実証的な観点から彼の行動原理や戦略、そして人間性を再検討する試みが続けられています。
筒井順慶は、戦国時代の激動期において、大和国という宗教的にも政治的にも特殊な地域を基盤とし、宿敵・松永久秀との長年にわたる死闘を繰り広げました。その後、織田信長、豊臣秀吉という当代の天下人に巧みに仕えながらも、巧みな政治手腕と戦略的な判断力を駆使して自家の存続と領国の安定を図った、注目すべき武将であったと評価できます。
特に本能寺の変における彼の行動は、後世「日和見順慶」と揶揄される主要な原因となりました。しかし、この評価は、彼が置かれていた複雑な立場、すなわち旧主君であり縁戚でもあった明智光秀との関係、自領である大和国と家臣団の保全という重責、そして何よりも当時の混乱した情報網の中で正確な情勢把握が困難であったことなどを考慮すれば、必ずしも単純な優柔不断や日和見主義と断じることはできません。むしろ、激しく揺れ動く情勢の中で、自らの勢力を維持し、可能な限り最善の道を選び取ろうとした苦渋の決断の結果と解釈する余地も十分にあります。
大和国の統治者としては、興福寺をはじめとする強大な寺社勢力が伝統的に大きな力を持っていたこの地において、織田信長の「一国一城令」などを着実に実行し、郡山城を中心とした近世的な領国支配体制の基礎を築いた点は、大和国の歴史における一つの重要な転換点として特筆すべき業績です。これは、中世的な分権体制から近世的な集権体制への移行という、日本史全体の大きな流れとも軌を一にするものでした。
また、筒井順慶は、勇猛な武将としての側面だけでなく、茶の湯や能楽、和歌といった文化・芸術にも深い造詣を持つ文化人としての一面も色濃く持ち合わせていました。これは、当時の武士階級の多くが、武芸だけでなく高度な教養を身につけることを重視していたことを示す好例と言えるでしょう。
『多聞院日記』をはじめとする一次史料に基づく研究は、筒井順慶という人物の実像をより深く、そして多角的に明らかにする上で不可欠であり、今後の史料の発見や新たな解釈によって、彼の評価がさらに深まることが期待されます。
総括すれば、筒井順慶は、戦国乱世の荒波を巧みに乗りこなし、大和国に確固たる地位を築き上げたものの、天下統一という日本史の大きなうねりの中で翻弄され、志半ばでその生涯を閉じた、ある意味では悲運の武将とも言えるかもしれません。しかし、その生涯は、戦国時代における地方領主の複雑な生き様と、中央政権との緊張感に満ちた関係性を考察する上で、今日においても多くの示唆を与えてくれる貴重な事例であると言えるでしょう。