戦国時代の武将、筒井順政の生涯を深く理解するためには、彼が生きた大和国(現在の奈良県)が、他の地域とは著しく異なる政治的・社会的構造を持っていたという事実をまず押さえなければならない。彼の行動原理、そして彼が直面した困難の根源は、この大和国独自の風土に深く根ざしている。
室町時代から戦国時代にかけて、日本の多くの国では幕府によって任命された「守護」が軍事・警察権を掌握し、その地域の支配者として君臨していた。しかし、大和国においては、武家の守護が置かれず、代わりに南都興福寺がその広大な荘園と権威をもって実質的な支配者として振る舞っていた 1 。この「守護不在」という政治的空白は、大和の武士たち、すなわち国人衆のあり方を決定づける極めて重要な要素であった。彼らは、直接的な武家政権の支配下にあるのではなく、興福寺という巨大な宗教権門との複雑な関係性の中で、自らの勢力を維持・拡大する必要に迫られたのである。
興福寺は、その統治システムに国内の武士たちを組み込むため、彼らに僧侶としての籍を与えた 1 。これにより、大和の武士たちは「衆徒(しゅと)」と「国民(こくみん)」という二つの身分に大別されることとなる 2 。衆徒は、興福寺の僧兵としての性格が強く、寺の権威を直接的に代行する立場にあった。一方、国民は在地領主としての性格がより強く、衆徒よりは一段下の身分と見なされることが多かった。この身分差は、大和国内における国人衆間の序列や対立の火種となり、筒井氏と越智氏の長年にわたる抗争も、衆徒と国民の筆頭格同士の争いという側面を持っていた 2 。
筒井氏は、数ある衆徒の中でも特に格式の高い「官符衆徒」という地位にあった 3 。官符衆徒とは、興福寺の権威を背景として、奈良の市中における警察権や裁判権(雑務検断職)の行使を公的に認められた存在であった 4 。これは、単なる軍事力や経済力に留まらない、制度的な権力の裏付けを筒井氏にもたらした。彼らが大和国人衆の中で抜きん出た影響力を持ち得たのは、この官符衆徒という特権的な地位に負うところが大きい。後年、筒井順政がこの地位に就くことは、彼が名実ともに筒井氏の指導者となったことを意味する、極めて重要な出来事であった。彼の生涯は、この興福寺を中心とした大和の秩序が、畿内全体の戦乱の波に飲み込まれていく、まさにその渦中で繰り広げられることになるのである。
筒井順政が歴史の表舞台に登場する以前、筒井氏はその勢力を着実に伸張させていた。彼の父と兄の時代に築かれた栄光と、その中での順政自身の立場を明らかにすることは、彼の後の苦闘を理解する上で不可欠である。
順政の父である筒井順興(1484-1535)が生きた時代、畿内は管領細川氏の内紛や、それに乗じた新興勢力の台頭によって激しく揺れ動いていた 2 。特に、畠山氏の家臣であった木沢長政が信貴山城を拠点に大和へ侵攻するなど、筒井氏は常に外部からの脅威に晒されていた 2 。順興は、こうした厳しい状況下で一族を率い、興福寺衆徒としての立場を巧みに利用しながら、大和国内における筒井氏の勢力を維持し続けた。
父・順興の跡を継いだのが、順政の兄である筒井順昭(1523-1550)であった 7 。順昭は稀代の将器に恵まれた人物であり、父の代からの宿敵であった越智氏や木沢長政らを打ち破り、天文15年(1546年)には大和一国をほぼ手中に収めるほどの勢威を誇った 8 。その活躍は『多聞院日記』などの同時代の記録にも詳述されており、筒井氏の歴史における一つの絶頂期を築き上げた。この「順昭の栄光」は、しかし、あまりにも儚く終わる運命にあった。そして、この輝かしい時代が、後の筒井家が直面する苦難の日々との鮮やかな対比をなすことになる。
筒井順興の次男として生まれた順政は 6 、この兄の華々しい活躍の陰で、一族の有力者として彼を支える立場にあったと推察される。具体的な記録は乏しいものの、兄・順昭が軍事行動や政治工作に専念できた背景には、順政をはじめとする一族の支えがあったことは想像に難くない。この時点では、彼はまだ歴史の主役ではなく、あくまで兄を補佐する存在であった。しかし、運命は突如として彼に、一族の存亡そのものを担うという過酷な役割を強いることになるのである。
表1:筒井氏略系図
人物名 |
生没年 |
概要 |
典拠 |
筒井順興 |
1484-1535 |
順昭・順政の父。戦国初期の筒井氏を率いる。 |
6 |
筒井順昭 |
1523-1550 |
順興の嫡男で順政の兄。大和をほぼ統一するも早世。 |
7 |
筒井順政 |
不明-1564 |
本報告書の主題人物。 順興の次男。兄の死後、甥・順慶の後見人となる。 |
6 |
筒井順国 |
不明 |
順興の三男。慈明寺氏を継ぐ。 |
6 |
福住順弘 |
不明 |
順興の四男。福住氏を継ぐ。 |
6 |
筒井順慶 |
1549-1584 |
順昭の嫡男で順政の甥。2歳で家督を継ぐ。 |
11 |
栄華を極めたかに見えた筒井氏の運命は、天文19年(1550年)に暗転する。一族を率いた若き当主の突然の死は、巨大な権力の空白を生み出し、筒井順政を否応なく歴史の表舞台へと引きずり出すことになった。
大和一国の平定を目前にしながら、兄・順昭は天文15年(1546年)頃から「もがさ」(天然痘とみられる)を患っていた 7 。病状は一進一退を繰り返したようであるが、ついに回復することなく、天文19年(1550年)6月20日、28歳(数え年)というあまりにも早い若さでこの世を去った 7 。この若き指導者の急逝は、筒井氏にとって計り知れない打撃であった。順昭の死に際して、声の似ていた盲目の法師・黙阿弥を影武者に立てて3年間その死を秘匿したという逸話は、「元の黙阿弥」という言葉の語源として有名であるが 13 、これは、順昭の死がいかに筒井氏の屋台骨を揺るがす大事件であったかを物語っている。
順昭の跡を継いだのは、前年の天文18年(1549年)に生まれたばかりの嫡子・藤勝、後の筒井順慶であった 11 。わずか2歳の幼児が、内には数多の国人衆、外には畿内の強豪がひしめく戦国の世において、大和の最大勢力・筒井氏の当主となったのである。一族が存亡の危機に直面したことは言うまでもない。この幼い主君をいかにして守り、一族の結束を維持していくか。そのための後見人体制の構築が急務となった。
一般的には、順昭の死後ただちに弟の順政が後見人になったと語られることが多い 16 。しかし、信頼性の高い史料を詳細に検討すると、当初、後見人(陣代)として幼い順慶を補佐したのは、順政ではなく、筒井一族の重鎮であった福住宗職(ふくずみ むねとき)であったことが判明している 9 。福住氏は筒井氏の分家であり、宗職自身も一族の中で重きをなす人物であった。
この事実は、単なる人事の問題に留まらない、極めて重要な意味を持つ。なぜ、当主の弟である順政が、すぐには後見人になれなかったのか。それは、当時の筒井家中が必ずしも一枚岩ではなく、一族の進むべき道を巡って複数の路線対立、すなわち派閥が存在していたことを強く示唆している。最初に福住宗職が選ばれたという事実は、次章で詳述する筒井家内部の深刻な権力闘争の幕開けを告げるものであった。
幼い主君・順慶を戴いた筒井家中は、その指導権と将来の路線を巡って、深刻な内部対立に陥った。この権力闘争の渦中で、筒井順政は単なる「後見人」候補から、一族の運命を自らの手で切り拓こうとする「政治家」へと変貌を遂げる。彼が実権を掌握する過程は、彼の非凡な政治手腕と、それがもたらした重大な帰結を浮き彫りにする。
筒井家中は、大きく二つの派閥に分裂していた 9 。
一つは、当初の後見人であった**福住宗職を中心とする「伝統派」**である。彼らは、筒井氏の権力の源泉が興福寺との伝統的な関係にあることを重視し、大和国内の秩序維持を最優先する、いわば内向きの安定志向派であった。
もう一つが、**筒井順政が率いる「革新・対外強硬派」**であった。順政は、大和国内に留まるだけでは戦国の荒波を乗り越えられないと考えていた。彼は、大和国外の勢力、特に当時三好氏と連携していた河内守護・畠山高政との繋がりを強化し、畿内全体の政治力学の中で筒井氏の活路を見出そうとする、外向きの積極路線を志向した。弘治3年(1557年)2月、順政が畠山高政との間で祝言を挙げたことは、この路線を象徴する出来事であった 9 。
この二つの路線の対立は、同年12月、ついに爆発する。福住宗職派が実力行使に及び、なんと当主であるはずの幼い順慶を大和国から追放するという異常事態を引き起こしたのである 9 。これは、順政派の外交路線を根本から覆そうとするクーデターに他ならなかった。
しかし、順政はここで屈しなかった。追放された順慶は、順政が連携を深めていた畠山氏の重臣・安見宗房(やすみ むねふさ)の居城である飯盛山城に保護された。順政はこの機を逃さず、翌永禄元年(1558年)2月、安見宗房の軍事力を後ろ盾として順慶を擁し、奈良へと帰還。春日社に参詣して、その正統性を内外に誇示した 9 。外部の力を借りて内部の政敵を排除するという、大胆かつ危険な賭けであったが、結果としてこの「復帰劇」は成功し、筒井家中の力関係は完全に逆転した。
この事件を境に、筒井氏の家政をみる後見人の座は、福住宗職から筒井順政へと名実ともに移った。権力闘争に敗れた福住宗職は、翌永禄2年(1559年)6月に出家し、政治の表舞台から完全に姿を消す 9 。
そして、ほぼ時を同じくして、順政は筒井氏の権威の象徴である「官符衆徒」の地位に就任したことが確認されている 9 。これにより、彼は単に順慶の叔父という血縁上の立場だけでなく、興福寺の権威に裏付けられた公的な指導者として、筒井氏を指揮する全権を掌握したのである。
この一連の動きは、順政が単に兄の遺志を継ぐだけの人物ではなく、一族の危機に際して、内部抗争も辞さない強い意志と政治的策略をもって、自らが信じる道へと舵を切ったことを示している。しかし、彼が権力を得るために頼った外部勢力との連携は、皮肉にも筒井氏を、より大きく、より危険な畿内の争乱の渦中へと引きずり込む直接的な原因となる。彼が権力を掌握した瞬間は、同時に、松永久秀という強大な敵を自ら呼び込む運命の扉を開いた瞬間でもあった。
順政が主導権を握った筒井氏は、もはや大和一国に閉じた存在ではなく、畿内全体の複雑な政治力学の当事者となっていた。その中心にいたのが、当時、将軍をも凌ぐ権勢を誇った三好長慶とその一族である。筒井氏と三好氏との関係性の変化、そしてその過程で台頭する松永久秀の存在が、順政の時代の後半を決定づけることになる。
当初、筒井氏と三好長慶の関係は決して敵対的なものではなかった。むしろ、三好氏が畿内での覇権を確立していく過程において、両者は同盟関係にあった。その証拠に、天文23年(1554年)と推定される書状では、幼い順慶の名で三好長慶に援軍を派遣したことが確認できる 9 。この時点では、三好氏は筒井氏にとって、大和国内の敵対勢力を抑える上での有力な協力者であった。順政が連携を深めた河内守護・畠山高政もまた、三好方の武将であり、この同盟関係を強化する意図があったと考えられる 9 。
この安定した関係が崩れる直接的な引き金となったのは、皮肉にも順政が権力掌握の切り札として利用した安見宗房の存在であった。安見宗房は、主君である畠山高政を追放するという下剋上を断行した。これに対し、三好長慶は主君を追放した宗房を許さず、その討伐を決定する 9 。
そして、永禄2年(1559年)8月、この安見宗房討伐軍の総大将として大和に派遣されたのが、三好長慶の最も有能な家臣、松永久秀であった 9 。筒井氏は、安見宗房と固く結びついていたため、自動的に三好・松永軍の攻撃対象となったのである。
ここに、長年にわたる筒井氏と松永久秀との死闘の幕が切って落とされた。重要なのは、この戦いが当初は松永久秀個人の野心から始まったものではなく、「三好政権の秩序に反逆した安見宗房、およびその同盟者である筒井氏を討伐する」という、三好長慶の公式な命令に基づいて行われたという点である 9 。順政が選んだ政治的選択が、結果として畿内最強の軍事力を誇る三好政権そのものを敵に回すことになってしまった。松永久秀は、その三好の力を体現する先兵として、大和に姿を現したのである。
永禄2年(1559年)、松永久秀率いる三好軍の侵攻は、筒井順政と彼が守るべき一族にとって、未曾有の国難となった。ここから順政が没するまでの約5年間、大和国は両者の激しい攻防の舞台と化す。この戦いは、順政の指導者としての粘り強さと、戦国乱世の非情さを如実に示している。
松永久秀の軍事行動は迅速かつ圧倒的であった。永禄2年8月6日、三好軍の猛攻の前に、筒井氏が代々本拠地としてきた平城・筒井城は、わずか数日で陥落した 9 。本拠を失った順政は、幼い当主・順慶を伴い、奈良盆地を見下ろす山間部に築かれた詰城・椿尾上城(つばおがみじょう)へと撤退を余儀なくされる 9 。この城は、本城が危機に陥った際に籠城し、再起を図るための重要な拠点であった 21 。
平地の拠点を失った順政と筒井一族は、ここから苦しい抵抗戦を強いられる。椿尾上城を拠点としながら、山地の地理を活かしたゲリラ的な戦術で、大和を支配しようとする松永軍に抵抗を続けたと考えられる 21 。この間、大和国内の他の国人衆は、強大な松永氏の軍門に降る者、あるいは密かに筒井氏に味方し続ける者とで二分され、国内は混乱を極めた 22 。順政は、単に軍事的な抵抗を続けるだけでなく、こうした国人衆をまとめ上げ、対松永包囲網を維持するために、政治的・外交的な工作にも奔走したであろう。本拠を失いながらも5年近くにわたって抵抗を継続できた事実は、順政の卓越した指導力と、なおも彼を支持する勢力が大和国内に根強く存在したことを物語っている。
ご依頼者が事前に把握されていた情報に「島清興と共に三好家と争い」とあるが、この点については学術的な見地から慎重な検討が必要である。島清興、すなわち島左近は、後に関ヶ原の戦いで石田三成の右腕としてその名を轟かせる名将であり、筒井家の家臣であったことは事実である 23 。しかし、彼が筒井家の重臣として史料に明確に登場するのは、順政が亡くなった後の天正11年(1583年)のことであり、この時点ではまだ重臣の列にはいなかったとみられている 25 。
順政が松永久秀と戦っていた永禄年間(1559-1564年)、1540年生まれの島清興は20代前半の若武者であった 23 。彼が筒井軍の一員として戦っていた可能性は十分にあるが、順政と肩を並べて軍略を練るような中核的な立場ではなかったと考えるのが妥当である。後世に記された軍記物語などが、英雄・島左近の活躍をより早い時代から描くために、その役割を脚色した可能性が高い。順政が率いた対松永戦は、特定の英雄に頼るものではなく、一族の総力を挙げた必死の抵抗であった。
5年近くに及ぶ松永久秀との死闘の最中、筒井順政の生涯は、戦場の喧騒から遠く離れた地で、突如として幕を閉じる。永禄7年(1564年)3月19日、彼は和泉国堺の地で死去した 9 。その死は、多くの謎と、彼の戦略家としての一面を我々に示唆している。
順政の死は、戦死ではなかった。最期の地である堺は、当時、いかなる大名の支配も受けない自治都市であり、日本最大の国際貿易港として繁栄していた。一軍の総大将である順政が、なぜ存亡をかけた戦いの最中に、この前線から離れた商業都市に滞在していたのか。この不可解な状況は、彼の死の背景について様々な考察を促す。享年は不明であるが、兄・順昭(1523年生まれ)よりは年下であったことから、30代後半から40代前半であったと推定される。
順政が堺にいた理由について、史料に明確な記述はない。しかし、当時の堺の性格と筒井氏が置かれた状況から、いくつかの有力な可能性を推測することができる。
これらの説は、必ずしも排他的なものではなく、複合的な理由であった可能性も高い。いずれにせよ、順政の最期の地が堺であったという事実は、彼が松永久秀との戦いを、単なる局地的な軍事衝突としてではなく、医療、外交、経済といったあらゆる要素を駆使した**「総力戦」**として捉えていたことを雄弁に物語っている。彼は前線で采配を振るうだけでなく、後方で政治的・経済的な手を打つ、複眼的な視野を持った戦略家であった。
この優れた指導者の突然の死は、筒井氏を再び最大の危機に陥れた。当時まだ16歳であった甥の順慶が、叔父の死によって、否応なく「打倒松永久秀」という重責をその両肩で直接担うことになったのである 19 。順政が築いた抵抗の基盤と、彼の死によって残された重い課題は、すべて若き日の順慶へと引き継がれていった。
筒井順政の生涯は、華々しい勝利や栄光に彩られたものではなかった。むしろ、一族の危機に立ち向かい、強大な敵との苦闘の末に志半ばで倒れた、悲劇的な側面が際立つ。しかし、彼の歴史的役割を評価する時、その苦闘の中にこそ、彼の真価と重要な意義を見出すことができる。
第一に、順政は一族最大の危機における「守護者」であった。兄・順昭の急逝と、わずか2歳の甥・順慶の家督相続という、一歩間違えれば一族が瓦解しかねない状況下で、彼は内部の権力闘争を制して指導権を確立した。そして、幼い当主を守り、分裂しかけた家中をまとめ上げ、筒井氏という組織を存続させた。彼の存在なくして、筒井氏が戦国時代を生き延びることは極めて困難であっただろう。
第二に、彼は後の筒井氏の飛躍の「礎」を築いた人物である。彼が選択した河内畠山氏との連携という外交路線は、結果的に松永久秀という強大な敵を大和に招き入れることになった。しかし、その後の5年間にわたる粘り強い抵抗は、筒井氏の完全な滅亡を防ぎ、大和国人衆の中に反松永の気運を維持し続けた。この不屈の闘争があったからこそ、筒井氏は勢力を完全に失うことなく、次代の反撃の機会を窺うことができたのである。
最後に、順政の生涯は、次代の英雄・筒井順慶への「橋渡し役」という重要な役割を果たした。順政の死は悲劇であったが、彼の苦闘と死が、結果として若き順慶を精神的に自立した武将へと成長させる大きな契機となった。叔父が命をかけて守り抜いた筒井氏と、その遺志を継いだ順慶は、やがて三好三人衆と結んで松永久秀を破り、織田信長の信頼を得て大和一国を統一するという偉業を成し遂げる。順政の生涯は、それ自体が完結した物語であると同時に、甥・順慶の栄光へと至る、長く険しい道のりの序章であったと評価することができるだろう。彼は、歴史の表舞台で脚光を浴びることは少なくとも、戦国大名・筒井氏の歴史を繋いだ、欠くことのできない重要人物なのである。
年代(西暦) |
筒井氏および順政の動向 |
大和国および畿内の関連動向 |
典拠 |
大永3年(1523) |
兄・順昭、誕生。 |
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7 |
天文4年(1535) |
父・順興、死去。 |
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6 |
天文15年(1546) |
兄・順昭、大和をほぼ平定。 |
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8 |
天文18年(1549) |
甥・順慶、誕生。 |
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11 |
天文19年(1550) |
6月、兄・順昭が病死。甥・順慶(2歳)が家督を継ぐ。当初の後見人は福住宗職。 |
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7 |
弘治3年(1557) |
2月、順政が河内守護・畠山高政と祝言。12月、福住派により順慶が大和を追放される。 |
畿内では三好長慶が勢力を拡大。 |
9 |
永禄元年(1558) |
2月、順政が安見宗房の後ろ盾で順慶を大和に復帰させる。以後、順政が後見人として実権を掌握。 |
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9 |
永禄2年(1559) |
6月、福住宗職が出家。順政が官符衆徒に就任。8月、松永久秀が大和へ侵攻。筒井城が陥落し、順政は順慶と共に椿尾上城へ退く。 |
三好長慶が安見宗房討伐を決定。松永久秀を大和へ派遣。 |
9 |
永禄3年(1560) |
順政、椿尾上城を拠点に松永久秀への抵抗を継続。 |
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21 |
永禄7年(1564) |
3月19日、順政、和泉国堺にて死去。 |
三好長慶が死去。三好家の内紛が始まる。 |
9 |
永禄8年(1565) |
順慶(16歳)、松永久秀との抗争を直接指揮。三好三人衆と結ぶ。 |
永禄の変。将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害される。 |
19 |
永禄9年(1566) |
順慶、三好三人衆と共に筒井城を奪還。 |
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19 |