戦国時代の大和国(現在の奈良県)において、一瞬の閃光の如く現れ、筒井氏の最大版図を築き上げながらも、わずか28歳でその生涯を閉じた武将、筒井順昭(つつい じゅんしょう)。彼の名は、しばしば偉大な息子・順慶(じゅんけい)の父として、あるいは「元の木阿弥」ということわざの語源となった逸話の主として語られるに留まることが多い 1 。しかし、その短い治世は、長らく分裂と抗争に明け暮れた大和国の勢力図を一時的に塗り替え、その後の歴史に決定的な影響を与えた。本報告書は、この夭逝した麒麟児の実像に、彼が生きた時代の特異な社会構造から、その具体的な軍事・政治行動、そして死がもたらした影響に至るまで、あらゆる角度から迫るものである。
順昭の功績は、なぜその重要性に比して過小評価されがちなのか。彼の成功の要因はどこにあったのか。そして、彼の早すぎる死がもたらした権力の空白が、いかにして松永久秀のような新たな勢力の台頭を招き、畿内全体の動乱を加速させる一因となったのか。これらの問いを解明することを通じて、筒井順昭という一人の武将の生涯を超え、戦国期における地方権力の興亡と、中央政権の動向が複雑に絡み合う様相を立体的に描き出すことを目的とする。
筒井順昭という人物を理解するためには、彼が活動した舞台である「大和国」の特異な政治・社会構造と、その中で筒井氏が占めていた独特の地位を詳述することが不可欠である。彼の行動原理と成功の背景には、この大和国ならではの力学が深く関わっていた。
戦国時代、多くの国で守護大名や戦国大名が覇を競う中、大和国は極めて特殊な統治体制下にあった。室町幕府による守護が常置されず、国内最大の荘園領主である興福寺が、実質的な統治者として長らく君臨していたのである 3 。この「守護不在」の状況が、大和武士のあり方を根本的に規定していた。
興福寺は、その広大な寺領を管理し、寺家の権威を維持するため、在地武士たちを独自のシステムに組み込んだ。当時、武家では分割相続を避けるために家督を長男に継がせ、次男や三男を仏門に入れる慣習が広まっていたが、興福寺は畿内近隣の武家から子弟を積極的に受け入れ、僧侶の資格を与えた 3 。これにより、武士たちは興福寺の被官となり、「衆徒(しゅと)」や「国民(こくみん)」と呼ばれる武装集団を形成するに至った。彼らは寺社の権威を背景に持ちながら、実質的には在地領主として勢力を拡大していく、いわば「僧兵武士」とも言うべき存在であった 3 。
このシステムの中で、特に重要なのが「衆徒」と「国民」という二つの身分であった。両者は共に興福寺の支配下にある武士団でありながら、その出自と権能において明確な序列が存在し、この制度的格差が、大和国における長年の紛争の根源となっていた。
この筒井氏と越智氏の争いは、単なる二つの豪族による領土争奪戦ではない。それは、興福寺が定めた「衆徒」と「国民」という身分制度に根差した構造的な対立であった。筒井氏は制度上の優位性を背景に秩序の維持を図り、越智氏はその格差を実力で覆そうとする。この根深い対立構造こそが、順昭の時代に至るまで続く大和国内の紛争の主旋律だったのである。順昭による後の越智氏打倒は、単なる軍事的勝利に留まらず、この伝統的な支配秩序を再確認し、その中で筒井氏の優位性を確定させるという、極めて政治的な意味合いを持つ行為であったと言える。
筒井氏の出自については、藤原氏説 8 や古代豪族である大神(おおみわ)氏説 10 など諸説が存在するが、興福寺の衆徒となる過程で、寺社の創建者である藤原氏を称するようになったとする見方が有力である。彼らは大和国添下郡筒井(現在の大和郡山市筒井町)を本拠とし、筒井城を居城とした 5 。
順昭の父である筒井順興(じゅんこう)は、戦乱の中で一時衰退した筒井氏を再興した人物として知られる 12 。彼は、大和国中の有力国衆である十市氏などと積極的に婚姻関係を結ぶことで同盟網を構築し、宿敵・越智氏に対抗するための勢力を着実に拡大していった 12 。順昭が後に見せる巧みな勢力拡大戦略の萌芽は、すでに父・順興の代に見て取ることができる。順興が築いたこの人的・政治的遺産が、息子・順昭の時代における飛躍の強固な土台となったのである。
順昭の権力基盤と、彼の死後に筒井氏を支えることになる人物たちの関係性を理解するために、以下に主要な関連人物の系図を示す。
表1:筒井氏関連人物系図
| 関係 | 人物名 | 備考 |
| :--- | :--- | :--- |
| 父 | 筒井順興 | 筒井氏中興の祖。周辺国衆との同盟政策で勢力を拡大 12。 |
| 本人 | 筒井順昭 | 本報告書の主題。大和国を一時的に統一 13。 |
| 弟 | 筒井順政 | 順昭の死後、甥・順慶の後見人(陣代)となる。外部勢力との連携を重視 14。 |
| 弟 | 慈明寺順国 | 順昭の娘を娶る。順慶の養子・定次の実父 8。 |
| 弟 | 福住順弘 | 順昭の娘を娶る。福住氏を継ぐ 13。 |
| 義弟 | 十市遠忠 | 順昭の妹を娶る。大和の有力国衆 13。当初は敵対したが後に和解 16。 |
| 義弟 | 箸尾高春 | 順昭の娘を娶る。大和の有力国衆 13。 |
| 義弟 | 片岡春利 | 順昭の娘を娶る。大和の有力国衆 13。 |
| 正室 | 大方殿 | 山田道安の娘 5。 |
| 嫡男 | 筒井順慶 | 順昭の死後、2歳で家督を継ぐ。後に松永久秀と争い、織田信長に仕える 5。 |
この系図が示すように、順昭は父・順興から受け継いだ同盟関係を、自らの娘たちを政略結婚させることでさらに強化・拡大した。この広範な姻戚ネットワークこそが、彼の権力基盤の核心の一つであり、大和統一事業を推進する上での大きな力となったのである。
父が築いた礎の上に、若き当主・順昭はいかにして大和国を統一し、筒井氏の最盛期を現出させたのか。本章では、彼の生涯に焦点を当て、その具体的な過程を時系列で追う。
大永3年(1523年)に生まれた順昭は、天文4年(1535年)に父・順興が死去したことに伴い、13歳という若さで家督を継承した 13 。天文7年(1538年)には仏門に入り得度(元服に相当)し、栄舜房(えいしゅんぼう)と号した 1 。
順昭が家督を継いだ当時、大和国は畿内に覇を唱える河内の実力者・木沢長政の強力な影響下にあった。長政は河内と大和の結節点である信貴山城を拠点とし、大和を事実上支配していた 4 。若き順昭は、この圧倒的な外部勢力に正面から抗うのではなく、まずは長政と連携する道を選び、その力を借りて国内の宿敵・越智氏を圧迫するという現実的な戦略をとった 16 。
しかし天文11年(1542年)3月、畿内のパワーバランスを激変させる事件が起こる。木沢長政が、主筋である河内守護・畠山稙長(はたけやま たねなが)や、当時その配下にあった三好長慶らと対立し、「太平寺の戦い」で敗死したのである 4 。大和国における絶対的な支配者が消滅したこの瞬間を、順昭は見逃さなかった。彼は長政の敗死を好機と捉え、即座に勝利者である畠山稙長の陣営に与するという、極めて迅速かつ巧みな路線転換を行った 13 。これは、もはや外部勢力に従属するのではなく、新たな後ろ盾を得て大和国内での自立と勢力拡大を目指すという、彼の野心を示す最初の、そして決定的な一手であった。
木沢長政という重しが取れ、畠山稙長という新たな権威を後ろ盾に得た順昭は、ここから破竹の勢いで大和国内の統一事業に乗り出す。彼の軍事行動は、単なる力押しではない。常に畿内の有力者との連携を保ち、その外的権威を自らの国内統一事業の「お墨付き」として利用するという、一貫した戦略性が見て取れる。彼の軍事行動は「畠山方の先兵」として正当化され、他の国衆からの反発を抑制する効果があったと考えられる。
その驚異的な速度で進められた統一過程は、以下の通りである。
表2:筒井順昭による大和統一の経緯(天文11年~16年)
| 年代 | 主要な出来事 | 連携勢力 | 結果 |
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| 天文11年 (1542) | 木沢長政が太平寺の戦いで敗死。順昭は畠山稙長に与する。 | 畠山稙長 | 大和国内での自立の好機を得る 13。 |
| 天文12年 (1543) | 東山内(大和高原)の簀川(すがわ)城を攻略。 | 畠山稙長 | 大和東部への影響力を拡大 13。 |
| 天文13年 (1544) | 1万の大軍を率いて柳生城を攻略。 | 畠山稙長、十市氏、鷹山氏など | 柳生氏を屈服させ、支配を確固たるものにする 13。 |
| 天文15年 (1546) | 宿敵・越智氏の本拠地、貝吹山城を攻略。 | 畠山政国、遊佐長教 | 長年の宿敵を打倒し、大和国中の覇権を確立 13。 |
| 天文15年 (1546) | 十市氏から城の明け渡しを受ける。 | - | かつての有力国衆を完全に支配下に置く 13。 |
| 天文16年 (1547) | 箸尾氏の城を破却。 | - | 反抗勢力を無力化し、支配体制を盤石にする 13。 |
木沢長政の死後、わずか4~5年という驚くべき短期間で、順昭は次々と国内の敵対勢力を制圧していった。特に天文15年(1546年)9月、長年の宿敵であった越智氏を攻め、翌10月にその本拠地である高取の貝吹山城を陥落させたことは決定的であった 13 。これにより、大和国内における筒井氏の覇権は完全に確立された。当時の興福寺の僧侶が記した日記『多聞院日記』には、この勝利を受けて「一国悉以帰伏了」(国中がことごとく帰服した)と記されており、順昭が事実上の大和国主となったことが示されている 13 。これは、父・順興の代からの悲願の達成であり、筒井氏の歴史におけるまさに頂点であった 20 。順昭の成功は、彼の軍才のみならず、畿内全体の政治情勢を的確に読み、外部の力を巧みに利用して内部の敵を排除する、高度な政治手腕の賜物であったと言える。
しかし、栄光の絶頂は長くは続かなかった。大和統一を果たした天文15年(1546年)、順昭は「もがさ」、すなわち天然痘とみられる不治の病に罹患する 13 。自らの死期を悟った順昭は、家の未来を案じ、天文18年(1549年)に生まれたばかりの嫡男・藤勝(後の順慶)に家督を譲ることを決意。翌天文19年(1550年)、数名の供のみを連れて比叡山に隠棲し、同年6月20日、ついに病のためこの世を去った 1 。享年28。あまりにも若すぎる死であった。
この順昭の死に際して、後世に広く知られる一つの伝説が生まれた。順昭が死の直前、自分と声が瓜二つの盲目の法師・木阿弥(もくあみ)を呼び寄せ、影武者として立てるよう遺言したというものである 21 。この策により、順昭の死は3年間秘匿され、その間に幼い順慶の家督相続は安泰となり、外敵の侵攻を防ぐことができたとされる。そして役目を終えた木阿弥が元の法師に戻ったことから、「元の木阿弥」ということわざが生まれた、という逸話である 2 。
この影武者伝説は、順昭の先見の明を示す逸話として魅力的ではあるが、歴史的事実として検証すると、いくつかの疑問点が生じる。この話の初出は、順昭の死から150年以上後の宝永4年(1707年)に成立した『和州諸将軍伝』であり、同時代の史料ではない 22 。一方、同時代の信頼性の高い記録である『多聞院日記』には、順昭が亡くなったとされる日のわずか3日後、6月23日の条に「順昭が死去した」という風聞が奈良の町に流れていたことが記されている 22 。このことから、「3年間の隠蔽」は史実ではなく、後世に創作された物語である可能性が極めて高い。
では、なぜこのような伝説が生まれ、語り継がれたのか。それは、筒井氏が直面した「有能な指導者の夭逝と、わずか2歳の幼君の家督相続」という絶望的な危機を乗り越えた事実に対し、後世の人々が英雄的で分かりやすい説明を求めた結果と考えられる。単なる後見人たちの苦闘や幸運といった現実よりも、「偉大な父が、死してなお策を弄して家を守った」という物語の方が、はるかに劇的である。この伝説は、順昭の死がもたらした権力の空白という「不都合な真実」を覆い隠し、その後の筒井氏の歴史に一貫性と神話性を与えるための、いわば政治的・物語的な装置として機能したと分析できる。史実ではないとしても、この伝説の存在自体が、順昭の死がいかに筒井氏にとって衝撃的な出来事であったかを雄弁に物語っている。
順昭の死は、彼が築き上げたばかりの統一国家と、残された者たちに何をもたらしたのか。その遺産は、輝かしいものであると同時に、新たな動乱の火種を内包していた。
父・順昭の死により、わずか2歳で筒井家の当主となった順慶 5 。その幼い主君を支えるため、一族の重鎮であり順昭の叔父にあたる福住宗職と、順昭の実弟である筒井順政が後見人(陣代)として実務を担うことになった 13 。
しかし、強力な指導者を失った筒井家中は、一枚岩ではなかった。やがて、興福寺との伝統的な関係を重んじ、内向きの安定を志向する福住宗職の派閥と、河内畠山氏など外部の武家勢力との連携を重視し、積極的な対外政策を志向する筒井順政の派閥との間で、深刻な対立が生じる 14 。この内紛は、弘治3年(1557年)には、順慶が一時的に本拠地である筒井城を追われるという事態にまで発展した 14 。
この家中の分裂は、単なる後見人同士の個人的な権力争いと見るべきではない。それは、順昭という絶対的な中心を失ったことで、彼が生前、巧みにバランスを取っていた「内(興福寺との伝統的関係)」と「外(畿内の武家勢力との関係)」という二つの路線が、それぞれ派閥を形成して衝突した結果と分析できる。順昭の死は、彼が一代で築き上げた政治的均衡そのものを、内部から崩壊させる引き金となったのである。
順昭が世を去り、筒井氏が内紛で揺らぐ中、畿内では新たな巨星が台頭しつつあった。三好長慶とその腹心、松永久秀である。彼らは、順昭が死んだ後の大和国を、権力の空白地帯と見ていた。
永禄2年(1559年)、三好長慶の命を受けた松永久秀は、大軍を率いて大和への侵攻を開始した 14 。内紛で弱体化していた筒井氏に、この大軍を防ぐ力はなかった。同年8月、筒井城はあっけなく陥落し、順政に率いられた筒井勢は敗走を余儀なくされる 14 。順昭が心血を注いで成し遂げた大和統一は、彼の死からわずか9年で、完全に瓦解したのである。
ここに、筒井順慶の苦難の時代が始まる。彼は長きにわたり、大和の新たな支配者となった松永久秀との絶望的な戦いを強いられることになる 24 。歴史の皮肉と言うべきか、順昭の成功は、大和国に一時的ながらも強力な単一権力を生み出した。しかし、その権力が順昭個人のカリスマと政治手腕に過度に依存していたが故に、彼の夭逝は、かえって外部勢力にとって介入しやすい魅力的な「力の空白」を生み出すという結果を招いた。松永久秀の侵攻は、ある意味で、順昭の早すぎる死が招いた必然的な帰結であったとも言えるだろう。
筒井順昭は、戦国時代の大和国という特異な政治風土の中で、その構造を深く理解し、外部の権威と内部の力を巧みに操ることで、父祖が成し得なかった大和統一という偉業を成し遂げた、極めて有能な為政者であった。彼の戦略眼、政治的嗅覚、そして迅速な行動力は、同時代の他の著名な戦国大名と比較しても、決して遜色ない。
彼の治世はあまりにも短かったが、その歴史的意義は以下の三点に集約される。
第一に、応仁の乱以来、1世紀近くにわたって続いた大和国内の分裂と抗争に、一時的ではあれ終止符を打ったこと。
第二に、その後の松永久秀や織田信長による大和支配の前提となる「統一された大和」という政治状況を、一度は作り出したこと。
第三に、彼の夭逝が結果的に畿内情勢の新たな動乱の引き金となり、歴史の転換点を生み出したことである。
結論として、筒井順昭は、単なる「順慶の父」や「ことわざの語源となった人物」という枠に収まる存在ではない。彼は、戦国乱世の畿内において、自らの才覚で一国の主となり、その後の歴史の潮流を良くも悪くも決定づけた重要人物として、正当に再評価されるべきである。その栄光と悲劇に満ちた短い生涯は、一個人の力量と、時代の大きなうねりが激しく交錯する、戦国時代のダイナミズムそのものを象徴している。