最終更新日 2025-06-30

筒井順興

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大和の再興者、筒井順興の生涯 ―戦国乱世における戦略と統治―

序論:歴史の影に隠れた「再興者」筒井順興

筒井氏といえば、戦国時代の歴史に関心を持つ人々の間では、明智光秀と羽柴秀吉の天下分け目の戦いを前に、その去就が注目された「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」の逸話で知られる筒井順慶の名がまず思い浮かぶでしょう 1 。あるいは、若くして病に倒れ、自らの死を隠すために影武者を立てた逸話が「元の木阿弥」の語源になったとされる、その父・順昭の悲劇的な生涯を想起するかもしれません 4

しかし、彼ら親子が活躍した時代の前提、すなわち大和国(現在の奈良県)における筒井氏の優越的地位は、いかにして築かれたのでしょうか。順慶や順昭の華々しい、あるいは悲劇的な物語の影で、その礎を丹念に築き上げた人物の存在は、これまで十分に光が当てられてきたとは言えません。その人物こそ、本報告書の主題である、順慶の祖父・筒井順興(つつい じゅんこう)です。

順興が生きた文明16年(1484年)から天文4年(1535年)にかけての時代は 8 、応仁の乱の戦火が未だ燻り続ける大和国において、一族の存亡そのものが問われる激動の時代でした。本報告書は、この筒井順興こそが、滅亡の淵にあった筒井氏を再興し、次代の飛躍へと導いた真の立役者、すなわち「アーキテクト(設計者)」であったことを明らかにします。彼がいかにして未曾有の危機を乗り越え、戦国大名・筒井氏の礎を築き上げたのか、その戦略と統治の実像に、史料を丹念に読み解きながら迫ります。

第一章:筒井氏の起源と戦国初期の大和国の特異性

筒井順興の戦略を理解するためには、まず彼が活動した舞台である大和国の特異な政治構造と、彼が家督を継ぐ以前の筒井氏が置かれていた絶望的な状況を把握する必要があります。

1-1. 興福寺支配下の「神国」大和

戦国時代の大和国は、他の多くの国とは一線を画す、極めて特殊な支配構造下にありました。室町幕府によって任命される特定の守護大名が存在せず、藤原氏の氏寺である興福寺が、事実上の支配者として絶大な権威を誇っていたのです 10 。このため、大和は一種の「神国」ともいえる様相を呈していました。

この興福寺の権威の下で、大和国の武士たちは「衆徒(しゅと)」と「国民(こくみん)」という二つの身分に大別されていました 11 。衆徒は、興福寺の僧侶の身分を持つ武装集団、いわゆる僧兵であり、法体(僧侶の姿)をしています。一方、国民は、興福寺と一体の関係にある春日大社に仕える神人(じにん)であり、俗体(武士の姿)のままでした 13 。彼らは興福寺の荘園支配の尖兵として、また時には寺院内の権力闘争の駒として、大和各地に割拠していました。

筒井氏は、その中でも興福寺の有力な門跡寺院である一乗院方に属する衆徒の筆頭格でした 13 。その出自については、田原本町の森屋神社を中心とした森屋党を母体とする説 2 や、古代氏族である大神(おおみわ)氏を本姓とし、後に興福寺衆徒となるに及んで藤原氏を称したとする説 5 など諸説ありますが、古くから大和に根を張る有力な武士団であったことは間違いありません。

1-2. 応仁の乱と筒井氏の没落

筒井氏の運命を大きく揺るがしたのが、応仁・文明の乱(1467年~1477年)でした。この大乱において、筒井氏は東軍の総帥の一人であった河内守護・畠山政長に与しました。これにより、西軍の畠山義就を支持する大和の有力国人、越智氏や古市氏と、国を二分する激しい抗争に突入することになります 16

この抗争は、順興の祖父・筒井順永や父・順尊の代まで続き、筒井氏の勢力を著しく疲弊させました 16 。一族は本拠地である筒井城を敵方に奪われ、大和高原の東山内(ひがしさんない)に逼塞を余儀なくされるなど、没落の一途を辿ります 2 。まさにこの時期、順興の父・順尊は、長享3年(1489年)に京都で酒の飲み過ぎが原因で39歳の若さで客死するという、悲劇的かつ不名誉な最期を遂げています 16 。惣領の突然の死は、ただでさえ衰退していた筒井氏にとって、致命的な打撃となりました。

この筒井氏の苦境の根源には、大和国が抱える構造的な対立がありました。国内の武士団は、興福寺内部の「一乗院方 対 大乗院方」という対立軸と、畿内の覇権を争う「畠山政長方 対 畠山義就方」という対立軸の、二重の代理戦争に組み込まれていたのです 11 。筒井氏は一乗院方・畠山政長方として、大乗院方・畠山義就方の越智氏・古市氏と戦う宿命を背負わされていました。これは、彼ら自身の意思だけでは終結させることが不可能な、構造的なジレンマでした。順興が歴史の表舞台に登場する頃、筒井氏は長年にわたる消耗戦の果てに、人的にも経済的にも、まさに枯渇寸前の状態にあったと推察されます。この絶望的な状況こそが、彼の原点でした。

第二章:家督相続の謎と外交による戦略転換

存亡の危機に瀕した筒井氏を、順興はいかにして立て直したのでしょうか。その第一歩は、謎に満ちた家督相続と、それに続く大胆な外交方針の転換にありました。

2-1. 順興の出自と家督相続

筒井順興は、文明16年(1484年)、筒井順尊の次男として生を受けました 8 。父・順尊が亡くなった時、順興はまだ幼少でした。そのため、家督は兄である筒井順賢(じゅんけん)が継承したとみられます 20 。しかし、この順賢の動静には不明な点が多く、史料によれば天文2年(1533年)まで存命していたことが確認されています 20

にもかかわらず、弟である順興は、大永元年(1521年)頃に兄から家督を継いで当主となっています 19 。兄が存命中に弟が家督を継ぐというのは、極めて異例の事態です。これは単純な死去や病気による継承ではなく、その裏に何らかの政治的な力学が働いたことを強く示唆しています。

この家督交代の背景には、一族の将来を巡る深刻な路線対立があった可能性が考えられます。すなわち、兄・順賢は、父祖伝来の方針通り「宿敵・越智氏との徹底抗戦」を継続しようとしたのに対し、次男の順興は、一族の疲弊しきった現状を冷静に分析し、もはや抗争の継続は共倒れにつながるだけだと判断、「和睦・協調」という全く新しい路線を提唱したのではないでしょうか。結果として、一族の存続を願う家臣や国人たちの支持が順興の新路線に集まり、兄・順賢は実権を失って事実上の「隠居」に追い込まれた、あるいは自ら身を引いたと推察することができます。この仮説に立てば、順興の家督相続は、単なる代替わりではなく、筒井氏の存亡を賭けた「方針転換(ピボット)」そのものであったと言えるのです。

2-2. 宿敵との和睦 ― 婚姻同盟の締結

当主となった順興が最初に着手した、そして彼の生涯で最も重要な行動が、長年にわたって血で血を洗う抗争を続けてきた古市氏、そして何よりも宿敵であった越智氏との和睦でした 8 。史料によれば、永正17年(1520年)に両氏と和睦し、翌大永元年(1521年)には、あろうことか宿敵・越智氏の一族である越智家令の娘を、自らの正室として迎え入れています 8

これは単なる一時的な停戦協定ではありません。血縁関係を結ぶことによる、恒久的で強固な同盟関係の構築を意味しました。何世代にもわたる憎悪と対立の歴史を乗り越えたこの決断は、当時の人々にとって驚天動地の出来事であったに違いありません。

この婚姻同盟は、筒井氏に二つの大きな「戦略的自由」をもたらしました。第一に、最大の軍事的脅威であった越智氏からの攻撃の可能性が消滅したことです。これにより、筒井氏は長年の消耗戦から完全に解放され、疲弊した領内の復興や、他の国人衆への政治的働きかけといった、内政・外交に人的・経済的資源を集中させることが可能になりました。第二に、大和国内の政治的安定です。国内の二大勢力が手を結んだことで、彼らの代理戦争に巻き込まれていた中小国人衆の間の無益な争いが沈静化し、順興は国内の「調整役」としての地位を築くきっかけを得ました。この「背後の安全確保」こそが、順興が畿内全体の政治に積極的に関与し、次章で詳述する一向一揆との戦いで大和国全体の主導権を握るための、絶対的な前提条件となったのです。

第三章:畿内の動乱と武将としての躍進

国内の安定を確保した順興は、その視野を大和国外、すなわち畿内全体の動乱へと向けます。彼は巧みな軍事行動によって、筒井氏の存在感を飛躍的に高めていきました。

3-1. 河内守護・畠山稙長への加勢

越智氏との強固な同盟を背景に、順興は畿内の政争へ本格的に介入を開始します。大永元年(1521年)、室町幕府10代将軍・足利義稙と管領・細川高国の対立に端を発した河内守護・畠山氏の内紛が激化しました。この時、順興は、かつての敵であった越智家栄と共に、畠山稙長(尚順の子)の陣営に味方します。そして、敵対する畠山義英の軍勢を打ち破るという、大きな戦功を挙げました 8

この勝利は、筒井氏がもはや大和国内の一国人に留まらず、畿内中央の政治動向に影響を与えうる有力な軍事勢力であることを内外に示しました。宿敵との和睦という外交的成果を、軍事的なプレゼンスの向上へと即座に転換させた、順興の戦略眼の鋭さが窺えます。

3-2. 天文の錯乱 ― 一向一揆との死闘

順興の武将としての評価を決定づけたのが、天文元年(1532年)に大和国を襲った未曾有の危機、「天文の錯乱」と呼ばれる一向一揆との戦いです 19

当時、畿内では本願寺の教団勢力が急速に拡大し、享禄・天文の乱と呼ばれる大規模な宗教戦争を引き起こしていました。その余波はついに大和国にも及び、1万ともいわれる一向一揆勢が侵攻してきたのです。一揆勢は、大和国の支配者である興福寺に攻め寄せ、美麗を謳われた東北院をはじめとする数百の僧坊を焼き払い、春日大社の宝蔵から宝物を略奪し、さらには神の使いである春日大社の鹿や、猿沢池の鯉まで食い尽くしたと伝えられるほどの狼藉を働きました 21

この「神国」大和が経験したことのない国家的危機に際し、立ち上がったのが筒井順興でした。彼は、かつての宿敵であり、今や同盟者となった越智氏、そして大和の有力国人である十市遠治らと連合軍を結成し、一揆勢の鎮圧に乗り出します 19 。同年8月、連合軍は、越智氏の居城である高取城を包囲していた一揆勢を背後から強襲し、これを撃退。敗走した一揆勢を吉野方面へと追いやり、大和国の秩序を見事に回復させました 21

この一向一揆との戦いにおける勝利の意義は、単なる一戦闘の勝利に留まるものではありません。第一に、順興が主導した越智氏との和睦という外交戦略が、有事において極めて高い軍事的な実効性を持つことを、大和国中の武士たちに証明しました。第二に、より重要なのは、大和国の支配者であるはずの興福寺自身が焼き討ちに遭い、無力化する中で、その配下であるはずの筒井氏が、国人衆を率いて「神国」大和を守り抜いたという事実です。

これにより、順興は単なる興福寺の一衆徒の頭領から、大和国全体の利害を代表し、その安寧を守護する「盟主」としての圧倒的な地位と名声を確立しました。この功績は、彼の権威を国内において絶対的なものとし、次章で述べる巧みな婚姻政策を円滑に進める上での、何物にも代えがたい強力な交渉力となったのです。これは、外部からの脅威という危機を巧みに利用して、内部における自らの求心力を最大限に高めるという、極めて高度な政治手腕の現れでした。

第四章:婚姻政策による勢力基盤の盤石化

一向一揆の撃退によって大和国の盟主としての地位を確立した順興は、その権威を背景に、彼の統治戦略の真骨頂ともいえる政策に着手します。それは、自らの子供たちを駒として、大和国中に網の目のように縁戚関係を張り巡らせることで、武力だけに頼らない盤石な支配体制を築き上げるという、壮大な婚姻政策でした。

4-1. 網の目のように張り巡らされた縁戚関係

順興の戦略は、単に娘を有力国人に嫁がせるという受動的なものではありませんでした。息子たちを積極的に他家の養子として送り込むことで、相手の家そのものを筒井氏の勢力圏に組み込み、将来にわたって支配を確実にするという、より巧みで永続的なものでした 19 。これにより、筒井氏は大和国人衆のネットワークの中心に位置し、彼らの利害を調整する存在となったのです。

4-2. 婚姻政策の具体例と戦略的意図

順興が構築した複雑かつ戦略的な縁戚ネットワークを具体的に理解するため、以下にその詳細を表として示します。この表は、彼の政策が場当たり的なものではなく、大和国全域の地理的・政治的バランスを考慮した、極めて計画的なものであったことを明確に物語っています。

対象となる子女

婚姻・養子縁組の相手

縁組の戦略的意義

関連資料

嫡男・順昭

(宗家継承)

筒井氏の正統を継承し、一族全体の求心力の中核を担う。

4

次男・順政

(一族の重鎮として留保)

兄・順昭を補佐し、後見役として家中の統制と安定を図る重要な役割を担う。

4

三男・順国

慈明寺氏 (養子)

大和南部に勢力を持つ有力国人・慈明寺氏を掌握し、南方への影響力を確保する。

4

四男・順弘

福住氏 (養子)

東山内(大和高原)の要衝を抑える福住氏を支配下に置き、東方からの脅威に備える。

4

長女

小田切春次

国人領主である小田切氏との連携を強化し、勢力基盤を固める。

22

次女

飯田頼直

国人領主である飯田氏との連携を強化し、勢力基盤を固める。

4

三女

森好之 (家老)

一族の重臣と血縁関係を築くことで、家臣団の忠誠心を高め、内部結束を盤石にする。

4

末女

十市遠忠

大和国で筒井・越智に次ぐ実力者である十市氏と婚姻同盟を結び、国内最有力者層との連携を完成させる。

19

この表が示すのは、順興の驚くべき戦略性です。大和国を俯瞰し、南部の慈明寺氏、東部の福住氏、そして中央部の最有力者である十市氏と、地理的にも政治的にも隙のない配置で縁組を進めています。さらに、家臣筆頭の森氏とも縁戚となることで、内部の結束強化にも抜かりがありません。これは、武力による「点」の支配ではなく、婚姻という血の絆による「面」の支配構造を、体系的に構築しようとした彼の高度な政治思想の現れです。この緻密なネットワークこそが、順興が単なる一武将ではなく、領国経営に極めて長けた「政治家」であったことを雄弁に物語っています。

第五章:晩年と次代への継承

盤石な支配体制を築き上げた順興ですが、その晩年には畿内に新たな強敵が出現し、大和国は再び緊張の時代を迎えます。しかし、彼が遺したものは、この新たな危機をも乗り越える力を持っていました。

5-1. 木沢長政の台頭と新たな緊張

順興の晩年、畿内では管領・細川晴元の家臣である木沢長政が、権謀術数を駆使して急速に台頭しました 25 。長政は、享禄・天文の乱において一向一揆や法華一揆を巧みに利用して政敵を次々と排除し、河内、山城南部、そして大和国へとその影響力を強引に拡大していきます 23 。順興が心血を注いで築き上げた大和国の安定は、この強力な外部勢力の介入によって、再び揺らぎ始めました。

5-2. 天文4年の死と、その遺産

天文4年7月5日(1535年8月3日)、新たな緊張の中で、筒井順興は52年の生涯に幕を閉じました 8 。家督は、当時まだ13歳であった嫡男の筒井順昭が継承します 4 。順興が亡くなった時点で、大和国は形式的には木沢長政の支配下にあったとされていますが 23 、順興が築き上げた国人衆との強固なネットワークは、依然として健在でした。

5-3. 息子・順昭による全盛期の現出

父の遺産を受け継いだ若き当主・順昭は、驚くべき手腕を発揮します。当初は強大な木沢長政と協調路線をとりながら力を蓄え 27 、天文11年(1542年)に長政が太平寺の戦いで戦死すると 23 、間髪入れずにその残存勢力を大和から一掃しました。

そして、ここから順昭の快進撃が始まります。彼は、父が築いた国人衆ネットワークを最大限に活用し、長年のライバルであった越智氏を攻め滅ぼして貝吹山城を奪い、十市氏や箸尾氏といった有力国人を次々と従わせました。その結果、興福寺の史料『多聞院日記』に「一国悉以帰伏了(一国ことごとく帰服し了んぬ)」と記されるほど、大和一国をほぼ完全に統一することに成功したのです 4 。これは、紛れもなく筒井氏の歴史における最盛期でした。

順興の死後、木沢長政という強大な外部勢力が台頭したにもかかわらず、なぜ筒井氏は滅びるどころか、むしろ飛躍を遂げることができたのでしょうか。その答えは、順興が遺したものの本質にあります。彼が遺したのは、単なる軍事力や領地といった目に見える「ハードパワー」だけではありませんでした。国人衆との強固な信頼関係と、血で結ばれた縁戚ネットワークという、目には見えない「ソフトパワー」こそが、彼の最大の遺産だったのです。

このネットワークは、木沢長政のような強力な外部勢力の前では一時的に従うという柔軟性(レジリエンス)を持ちつつ、その脅威が後退すれば、再び結集して筒井氏を盟主として押し上げる強靭な力を持っていました。息子・順昭の輝かしい成功は、彼自身の類稀な能力もさることながら、父・順興が遺したこの「見えざる資産」を完璧に使いこなした結果に他なりません。順興の真の功績は、息子が思う存分に飛躍するための「滑走路」を、完璧に整備しきった点にあるのです。

結論:歴史の「繋ぎ役」としての筒井順興の再評価

筒井順興は、その孫・順慶の全国的な知名度の陰に隠れ、これまで歴史上、過小評価されてきた人物と言わざるを得ません。しかし、本報告書で詳述した通り、彼の生涯は、一族を滅亡の危機から救い出し、次代の全盛期を準備した、極めて重要なものでした。

彼の功績は、以下の三点に集約されます。

第一に、何世代も続いた宿敵・越智氏との憎悪の連鎖を断ち切り、婚姻同盟という形で恒久的な和睦を成し遂げた「外交革命」。

第二に、一向一揆という外部からの脅威を、大和国全体の守護者として撃退することで、国内の求心力を飛躍的に高めた卓越した「政治手腕」。

第三に、自らの子供たちを戦略的に配置する婚姻政策によって、大和国中に盤石な支配ネットワークを築き上げた、類稀な「領国経営能力」。

筒井順興は、武力のみに固執するのではなく、和睦、同盟、婚姻といったあらゆる政治的手段を駆使して、戦国乱世の大和国に新たな秩序をもたらした、稀代の戦略家であり、優れた政治家でした。彼は、衰退から全盛期へと至る歴史の「繋ぎ役」として、完璧な役割を果たしました。筒井氏の歴史、ひいては大和国の戦国史を正しく理解する上で、筒井順興は決して欠かすことのできない「再興者」であり、その功績は今、改めて高く評価されるべきです。

引用文献

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