戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけての日本は、政治体制、社会構造、そして人々の価値観が激しく揺れ動いた変革の時代であった。この時代の渦中にあって、自らの信仰と武士としての立場との間で究極の選択を迫られた一人の武将がいる。その名は籠手田安一(こてだ やすかず)、洗礼名をドン=ジェロニモ。肥前国平戸(現在の長崎県平戸市)の領主・松浦氏の重臣でありながら、キリシタンとしての信仰を貫くために、その地位と故郷のすべてを捨てた人物である。
彼の生きた平戸は、地理的にも政治的にも特殊な環境にあった。大陸への玄関口として古くから海外との交流が盛んであり、1550年のフランシスコ・ザビエル来訪以降、日本におけるキリスト教布教の最も重要な拠点の一つとなった 1 。南蛮貿易がもたらす富は、この地の領主たちの勢力争いに大きな影響を与え、キリスト教の受容は単なる宗教的選択に留まらず、経済的・政治的利害と分かちがたく結びついていた 3 。このような土壌が、籠手田氏のような有力なキリシタン武将一族を生み出す背景となったのである。
籠手田安一の生涯は、しばしば主君の棄教命令に背き、殉教をも覚悟した敬虔な信徒として語られる。しかし、その実像はより複雑な様相を呈している。彼の決断の背後には、個人の信仰告白に留まらない、一族の長としての責務、父祖から受け継いだ権勢と領地、そして武士としてのアイデンティティをめぐる深い葛藤が存在した。本報告書は、籠手田安一という人物の生涯を、一族の興亡、当時の政治・宗教情勢、そして彼自身の信仰と決断という複数の層から重層的に解き明かすことを目的とする。彼の物語は、単なる悲劇のキリシタンの記録ではなく、戦国末期の武士が直面した忠誠と信仰の相克、そして近世へと向かう日本社会の力学を映し出す、貴重な歴史の証言なのである。
籠手田安一の行動を理解するためには、まず彼が属した籠手田一族が、平戸松浦家においていかに特異な地位を占めていたかを知る必要がある。籠手田氏は単なる家臣ではなく、主家の血を引き、その権勢を支える「懐刀」とも言うべき存在であった。
籠手田氏の祖は、室町時代中期の平戸松浦氏当主・松浦豊久の三男(一説には四男)とされる栄(さかえ)である 4 。栄は田平安照の養子となった後、現在の平戸市田平町に籠手田城を築き、籠手田氏を名乗った 4 。この出自は、籠手田氏が松浦宗家の血を引く一門衆として、他の家臣とは一線を画す極めて高い家格を有していたことを示している。
その本拠地である籠手田城は、比高15メートルほどの平山城で、大規模な横堀や土塁を備えた、当時の松浦氏配下の城郭の中でも屈指の堅城であった 7 。この城の規模は、籠手田氏が有した軍事力と経済力の大きさを物語っている。一族は、この地を拠点として松浦氏の重臣として活躍し、特に相神浦松浦氏や波多氏との抗争においては、主家の軍事的中核を担った 8 。
籠手田氏の権勢が頂点に達したのは、安一の祖父・安昌(やすまさ)と父・安経(やすつね)の二代にわたる時代であった。彼らは親子二代で松浦氏の「筆頭家老」を務め、家中で比類なき影響力を行使した 4 。
特に父の安経は、幼少の主君・松浦隆信を補佐し、その右腕として政治・軍事の両面で絶大な信頼を得ていた 10 。松浦氏本家との家督争いや周辺勢力との戦いにおいては、隆信に代わって総大将として軍を率いることもあり、その立場は単なる家臣を超え、共同統治者に近いものであったとさえ言える 8 。この権勢は、籠手田氏に生月島や度島といった広大な所領をもたらし、一族の力をさらに強固なものにした 12 。
しかし、この二代にわたって築き上げられた強大すぎる権勢は、皮肉にも後の悲劇の伏線となる。戦国時代から江戸時代への移行期は、各大名家が領国内の支配体制を強化し、当主の権力を絶対的なものへと高めていく中央集権化の過程であった。この大きな歴史の流れの中で、独自の所領と軍事力を持ち、さらにはキリスト教という独自のイデオロギーで家臣団を結束させる籠手田氏の存在は、やがて代替わりした新当主にとって、看過できない潜在的な脅威と映ることになる。したがって、後に安一が直面する弾圧は、単なる宗教的な対立という側面だけでなく、新当主が自らの権力基盤を盤石にするため、藩内最大勢力を解体しようとした「有力家臣粛清」という、極めて政治的な権力闘争の性格を色濃く帯びていたのである。
【表1】籠手田家 主要人物と関連年表
人物 |
洗礼名 |
生没年 |
主な事績と役割 |
籠手田安一との関係 |
|
籠手田安昌 |
キリシタン |
不明 |
松浦氏筆頭家老。隆信を支え、キリシタンとなる 9 。 |
祖父 |
|
籠手田安経 |
ドン=アントニオ |
1532-1581 |
筆頭家老。生月島などをキリスト教化 12 。松浦氏の軍事中核 11 。 |
父 |
|
籠手田安一 |
ドン=ジェロニモ |
1553-1614 |
本報告書の主題。信仰を守り一族と共に出奔 14 。 |
|
本人 |
安一の子 |
ドン=トマス |
不明 |
父と共に出奔 14 。後に平戸へ帰参し、小澤・江川姓を名乗る 15 。 |
子 |
|
籠手田安定 |
- |
1839-1899 |
明治期の県令・貴族院議員。約300年ぶりに籠手田姓を再興 16 。 |
子孫 |
籠手田安一の強固な信仰は、彼が生まれ育った特異な環境によって育まれた。それは、父・安経がその絶大な権力を用いて築き上げた、いわば「キリシタンの王国」であった。
籠手田家がキリスト教と深く結びつくきっかけは、父・安経の入信であった。安経は洗礼名をドン=アントニオといい、弟の一部勘解由(いちぶ かげゆ、洗礼名ドン=ジョアン)と共に、1557年頃に受洗した 11 。当初、この入信は主君・松浦隆信によって容認されていた。隆信は南蛮貿易がもたらす利益を重視しており、宣教師との関係を良好に保つため、家臣の改宗を戦略的に許可したのである 3 。
しかし、安経の信仰は個人的なものに留まらなかった。彼は自らの権力を行使し、所領である生月島や平戸島西岸部において、領民のキリスト教への一斉改宗を断行した 3 。宣教師ガスパル・ヴィレラの協力のもと、領内の寺社は破壊され、仏像は焼き捨てられたという 12 。この徹底した宗教政策は、当時のキリシタン大名の一部に見られた排他的な信仰の現れであり、領地をキリスト教の教えに基づく共同体へと作り変えようとする強い意志の表れであった。
この行動は、籠手田一族が後世に「受難者」として記憶される一方で、当時は自らの領国において宗教的・政治的権力を行使する「支配者」であったという二面性を示している。彼らが守ろうとしたのは、単に個人の内面的な信仰だけではなかった。それは、武力と権威によって築き上げ、維持されてきた「キリシタン領国」という政治的・社会的秩序そのものであった。この強制力を伴う改宗政策は、領内に根強く残っていた仏教徒や伝統的な信仰を持つ人々との間に深刻な亀裂を生み、後の新当主・鎮信のような熱心な仏教徒との対立を決定的なものにする遠因となった。
籠手田安一は、このようなキリスト教が地域の支配イデオロギーとして確立しつつあった天文22年(1553年)に生を受けた 14 。彼は祖父・安昌、父・安経に続き、幼少期に洗礼を受け、ドン=ジェロニモという洗礼名を授かった 14 。
安一が育った生月島は、まさにキリスト教の信仰が隅々まで浸透した地であった。島には600人を収容できる大規模な教会が建てられ、それでも足りずに新たな教会が建設されるほど、信仰は人々の生活の中心にあった 18 。島の行政は、籠手田氏の代官であり、自身も熱心なキリシタンであった西家が担っていた 18 。安一にとって、キリスト教は選択すべき一つの宗教ではなく、生まれながらにして与えられた自明の世界観であり、自らのアイデンティティの根幹をなすものであった。この揺るぎない信仰の土壌が、後に彼が直面する過酷な試練に立ち向かう精神的な支柱となったのである。
父・安経の死後、家督を継いだ安一の時代は、平穏から激動へと大きく転換する。日本全体の政治情勢の変化と、平戸松浦家の代替わりという二つの大きな波が、籠手田一族の運命を根底から揺るがした。
天正9年(1581年)、キリシタン領主として、また松浦氏の重臣として絶大な権勢を誇った父・安経が病没する 11 。安一は籠手田家の家督と、生月島をはじめとする広大な所領を相続し、父と同様にキリシタン領主として領内の統治にあたった 18 。当初は父の代からの体制が維持され、領内のキリシタンは保護されていた。
しかし、安一が家督を継いで間もなく、時代の風向きは大きく変わり始める。天正15年(1587年)、天下人となった豊臣秀吉が「伴天連追放令」を発布し、キリスト教に対する圧力が全国的に高まった 18 。平戸においても、元来キリシタンを快く思っていなかった松浦氏内部で、不穏な空気が漂い始める 18 。
そして慶長4年(1599年)、籠手田一族にとって決定的な転換点が訪れる。長年にわたり貿易上の利益を重視し、籠手田氏のキリスト教信仰に寛容な姿勢を示してきた主君・松浦隆信(道可)がこの世を去ったのである 3 。この「老侯」の死は、平戸におけるキリシタンと松浦家の危うい均衡を崩壊させる引き金となった。
隆信の後を継いだのは、息子の松浦鎮信(法印)であった。熱心な仏教徒であった鎮信は、父・隆信とは対照的に、キリスト教に対して極めて敵対的な姿勢を持っていた 10 。宣教師の記録には、彼が「デウスの教の大敵」であったと記されている 20 。
鎮信は、父・隆信の死を好機と捉え、長年の方針を180度転換する。彼は隆信の仏式葬儀への参列を機に、籠手田安一とその息子トマス(洗礼名ドン=トマス)に対し、キリスト教を棄てるよう厳命した 15 。これは単なる個人的な要求ではなく、「領内にはキリシタンを一人も残さない」という、領国全土からキリスト教を一掃しようとする強い決意の表れであった 14 。鎮信のこの行動は、前章で述べたように、宗教的信念に加え、強大化した家臣である籠手田氏の力を削ぎ、自らの支配権を確立しようとする政治的意図が強く働いていたと考えられる。
棄教か、さもなくば追放という過酷な選択を突きつけられた安一は、絶体絶命の窮地に立たされる。武士として主君に刃向かうことは、滅亡を意味する。しかし、神への信仰を捨てることは、自らの魂を裏切ることであった。
この二者択一に対し、安一は「第三の道」を選択する。それは、棄教も武力抵抗もせず、一族郎党と、彼らを慕う信徒たちを率いて、父祖伝来の地を離れるという「出奔」であった 14 。慶長4年(1599年)のある夜、安一と、同じく弾圧の対象となっていた一部氏の一族は、松浦方の厳しい監視の目をかいくぐり、行動を起こす。この脱出行は、参加する奉公人たちにすら直前まで知らされないほど極秘裏に進められた周到な計画であり、一人の犠牲者を出すことなく、総勢600名以上もの人々が船に乗り込み、長崎を目指した 15 。この決断と実行力は、安一が単なる敬虔な信者ではなく、多くの人々の命を預かる、優れた指導者であったことを示している。
故郷を捨てた籠手田安一の後半生は、流浪と試練の連続であった。しかし、その苦難の中で、彼を故郷から追いやった信仰そのものが、皮肉にも彼が新たな世界で生き抜くための道を開くことになる。
安一率いる一行が目指した長崎は、当時イエズス会が大きな影響力を持つキリシタンの拠点であった。しかし、彼らが到着した頃、長崎はすでに豊臣家の直轄地(天領)となり、代官・寺沢広高によって統治されていた 22 。そのため、安一たちは長崎の市中へ入ることを許されず、港を挟んだ対岸の稲佐という地に住むことを余儀なくされた 14 。これは、当時の長崎がキリシタンにとって必ずしも安住の地ではなかったという、複雑な政治状況を物語っている。
稲佐での生活の後、安一は安住の地を求め、新たな主君に仕える道を探る。そして彼は、関ヶ原の戦いを経て筑前(現在の福岡県)に新たに入部した大名、黒田長政に仕官することになる 15 。慶長年間の黒田藩の家臣名簿である「分限帳」には、船を扱う専門職である「船手衆」の中に、籠手田氏や、共に平戸を脱出した一部氏の者と思われる名が確認できる 15 。平戸が海に面した土地であったことから、彼らが有していた海事の知識や操船技術が評価され、召し抱えられたものと推測される。
黒田家に仕えた安一の後半生を象徴するのが、彼の信仰心が予期せぬ形で評価された「沖ノ島神宝回収」の逸話である。この出来事は、1609年から1610年にかけてのイエズス会日本年報に詳しく記録されている 15 。
主君・黒田長政は、古来より神域として崇められ、女人禁制などの厳しい掟で知られる宗像の沖ノ島から、神宝を持ち帰るよう家臣に命じた。しかし、日本の神々への畏敬の念が強い家臣たちは、神罰を恐れて誰もこの役目を引き受けようとしなかった 24 。そこで長政は、「キリシタンは日本の神を恐れないというが本当か」と考え、安一を呼び出す。そして、この特異な任務を彼に命じたのである 24 。
安一は、この困難な命令を臆することなく引き受け、数名のキリシタンの仲間と共に船で沖ノ島へ向かった。激しい嵐に見舞われながらも無事に島へ上陸すると、彼は値打ちのありそうな物を集め、最後には島の神殿を破壊してまで任務を遂行し、長政のもとへ戦利品を持ち帰った 24 。
このエピソードは、安一の人生における最大の逆説を示している。彼を故郷から追放し、流浪の身としたキリシタン信仰というアイデンティティが、新天地においては、他の誰も持ち得ない「特殊技能」として認識されたのである。日本の神々へのタブーを物ともしない一神教の精神性が、主君にとっては極めて有用な価値となったのだ。信仰は、彼にとって迫害の原因であると同時に、武士として再び世に出るための稀有な資質でもあった。この出来事は、個人の信仰が、置かれた政治的・文化的文脈によってその社会的な意味を劇的に変化させることを示す、類稀な実例と言えるだろう。
流浪の生涯を送った籠手田安一は、日本のキリシタンが最も過酷な時代を迎える直前にその生涯を閉じた。しかし、彼の血脈と一族の物語は、そこで途絶えることはなかった。それは形を変え、長い年月を経て再生を遂げるという、壮大な歴史を紡いでいく。
黒田長政のもとで特異な任務を果たした後、安一は再び長崎へ戻ったとされる。そして慶長19年(1614年)、かつて亡命生活を送った地である稲佐で病によりその生涯を閉じた 15 。奇しくもこの年は、徳川幕府が全国規模でのキリスト教禁教令を発布した年であり、日本のキリシタンが組織的な大弾圧の時代へと突入する画期であった。安一の死は、一つの時代の終わりと、より大きな受難の時代の始まりが重なる、象徴的な出来事であった。
安一の死後、驚くべきことに、彼の子(ドン=トマス)は平戸への帰参を許された 15 。そして、小澤、後には江川へと姓を改め、かつて一族を追放した平戸松浦家に再び仕えることになったのである 15 。この事実は、弾圧を行った松浦藩にとっても、籠手田一族が代々培ってきた武門としての能力や高い家柄は惜しいものであったことを示唆している。一族は、キリシタンの指導者としての象徴であった「籠手田」の名を捨てるという大きな代償と引き換えに、武士として家名を存続させる道を選んだ。これは、信仰と家の存続という二つの価値観の間で下された、苦渋の政治的判断であったと言えよう。
籠手田一族の物語は、江戸時代を生き抜き、近代で再び光を浴びることになる。幕末から明治にかけて活躍した籠手田安定(さだやす、または、あんてい)は、安一の直系の子孫にあたる人物である 16 。彼は、平戸藩士として幕末の動乱を生き抜いた後、明治新政府に出仕。滋賀、島根、新潟の県令(知事)や元老院議官、貴族院議員を歴任する輝かしい経歴を歩んだ 16 。
そして安定は、一族がその名を捨ててから約300年の時を経て、再び「籠手田」の姓を名乗ることを許され、一族の再興を果たした 16 。彼はまた、山岡鉄舟の高弟として知られる剣の達人でもあり、文武両道に秀でた明治の偉人としてその名を残している 16 。かつて信仰のために追われた一族の末裔が、近代国家の指導者として再び歴史の表舞台に登場したこの事実は、籠手田家の流転の歴史が、壮大な結末を迎えたことを示している。
籠手田安一の生涯は、中世的な価値観である「主君への絶対的な忠誠」と、近世的な自我の目覚めともいえる「個人に根差した信仰」という、二つの大きな理念が激しく衝突した時代そのものを象徴している。彼が選んだ「出奔」という道は、単純な主君への裏切りや逃亡ではない。それは、武士としての立場、一族の長としての責任、そして神の僕としての魂の救済という、相克する複数の倫理観の間で苦悩した末に下された、彼自身の主体的な決断であった。それは、地上の主君よりも天上の主への忠誠を優先し、かつ一族郎党の生命を守るという、彼なりの統合的な答えだったのである。
彼の物語は、平戸を追われた時点で終わるのではない。新天地でその信仰が予期せぬ価値を生み出す後半生、そして、名を捨ててでも家を存続させた子孫の選択、さらには近代における一族の華々しい再興まで含めて、初めてその全体像が明らかになる。籠手田安一と彼の一族が辿った流転の歴史は、信仰というものが一個人の運命を、ひいては一族の歴史を、いかに劇的に、そして幾世代にもわたって動かしうるかを示す、力強い証言として、現代の我々に多くのことを語りかけている。