最終更新日 2025-06-20

籠手田安昌

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戦国肥前のキングメーカー、籠手田安昌の生涯

序章:肥前の海に生きる松浦党と籠手田氏

戦国時代の武将、籠手田安昌(こてだ やすまさ)の生涯を理解するためには、まず彼が生きた肥前国松浦地方の特異な歴史的・地理的環境を把握する必要があります。現在の長崎県北部から佐賀県西部に広がるこの地域は、無数の島々と複雑なリアス式海岸に縁取られ、古来より大陸との海上交通の要衝として栄えてきました。

この地に根を張った武士団は、総称して「松浦党」と呼ばれます 1 。彼らは、一人の強力な戦国大名が中央集権的に支配する体制とは異なり、血縁と地縁に基づいた中小規模の領主たちが連合体を形成するという、独特の政治構造を持っていました 2 。その生活は海と密接に結びつき、漁業や交易を主な生業としながら、時には倭寇として海を舞台に活動するなど、「海の武士団」としての性格を色濃く持っていました 1

戦国時代に入ると、この松浦党の内部では覇権を巡る抗争が激化します。特に、平戸を拠点とする「平戸松浦氏」と、佐世保を本拠とする宗家筋の「相神浦(あいこうのうら)松浦氏」との対立は熾烈を極めました 1 。籠手田安昌が属する籠手田氏は、この松浦党を構成する有力な一族であり、平戸松浦氏の一門衆という高い家格を誇っていました 6

籠手田氏の歴史は、平戸松浦氏の一族である松浦豊久の子・栄(さかえ)が、田平(たびら)氏の養子に入り、現在の平戸市田平町に籠手田城を築いて「籠手田」を名乗ったことに始まると伝えられています 8 。これにより、籠手田氏は松浦一族の中でも田平地方に確固たる基盤を持つ有力な分家として、その地位を確立しました。

松浦党が「対等の立場で行動していた」 1 とされる連合体的な性格は、籠手田安昌という人物の行動原理を読み解く上で極めて重要です。中央集権的な主従関係とは異なり、松浦党の有力な一門衆は、主家に対して高い独立性を保持していました。籠手田氏が独自の城と、生月島や度島といった領地を有していた事実は、この独立性を裏付けています 9 。この「半独立領主」ともいえる立場こそが、後に籠手田安昌による主君の擁立や、一族を挙げてのキリスト教への改宗といった、大胆な決断を可能にする構造的な背景となっていたのです。彼の行動は、単なる家臣の忠義という枠組みだけでは捉えきれず、連合体全体の将来を見据えた、有力構成員による高度な政治行動として理解する必要があるでしょう。

第一章:若き主君の擁立者、籠手田安昌

籠手田安昌の名を歴史に刻む最初の、そして最大の功績は、主家である平戸松浦氏が直面した家督相続の危機に際して、彼が果たした決定的な役割にあります。この一件は、彼のその後の権勢の源泉となると同時に、籠手田一族の運命を大きく左右することになりました。

表1:籠手田安昌とその一族の主要人物

本報告を進めるにあたり、物語の中心となる籠手田家の三代にわたる主要人物の関係を以下に示します。特に、祖父・安昌と孫・安一の洗礼名が同じであるため、この表は読者の理解を助ける一助となるでしょう。

人物名

続柄(安昌との関係)

洗礼名

生没年(判明分)

主要な事績の要約

籠手田 安昌 (こてだ やすまさ)

本人

ドン・ジェロニモ

1508年 - 1557年

松浦隆信の家督相続を強行し、筆頭家老となる。息子・安経と共に受洗し、キリシタン領主の祖となる。

籠手田 安経 (こてだ やすつね)

嫡男

ドン・アントニオ

1532年 - 1581年

父の地位を継ぎ、隆信の重臣として活躍。日本初の一斉改宗を主導。熱心なキリシタンとして宣教師を保護。

籠手田 安一 (こてだ やすかず)

孫(安経の子)

ドン・ジェロニモ

1553年 - 没年不明

松浦鎮信の棄教命令に反発。慶長4年(1599年)、信仰を守るため一族・領民を率いて長崎へ退去した。

主君・松浦興信の急逝と家督問題の勃発(天文10年/1541年)

天文10年(1541年)8月13日、平戸松浦氏の勢力を大きく伸張させた当主・松浦興信(おきのぶ)が突然の病でこの世を去りました 4 。跡を継ぐべき嫡男の源三郎、後の松浦隆信(たかのぶ)は、この時わずか13歳。元服もまだ済ませておらず、当主として政務を執ることのできない幼さでした 4

この権力の空白は、平戸松浦家中に深刻な動揺をもたらします。家中の「老中たち」は、幼い隆信の家督相続に公然と反対し、別の親族を新たな当主に擁立しようと画策しました。これにより、平戸松浦氏は内紛による分裂の危機に瀕したのです 11 。現存する史料では、この時反対した老中や、擁立されようとした「別の者」の具体的な名前までは特定できませんが、家中が二つに割れる一触即発の事態であったことは間違いありません 12

安昌による「王権創造(キングメイキング)」

この国家存亡の危機において、敢然と若き隆信の前に立ちはだかったのが、籠手田安昌でした。彼は「たった一人隆信を守ってくれた大人」 13 として、隆信の正統性を強く主張し、家中の反対勢力を実力をもって制圧したのです 6 。この時の安昌の働きは、後に平戸を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスの耳にも達しており、その著書『日本史』には次のように記録されています。「(隆信が)幼くして父を亡くした時、家臣たちが別の親族を殿にしようとするのを(安昌が)制し、彼を育ててその位につけるまでにした」 14 。この記録は、安昌の功績がいかに決定的であったかを物語っています。

この時、安昌だけでなく、上松浦党の有力者であった波多盛(はた さこう)とその弟・武(たけし)も隆信を支持し、その擁立に協力したことが伝えられています 4 。安昌は、こうした外部の有力者とも連携し、巧みな政治手腕で反対派を封じ込め、天文12年(1543年)、ついに隆信の家督相続を正式に実現させました 4

この籠手田安昌の行動は、単なる忠臣の働きという言葉だけでは説明できません。それは、松浦家の権力構造そのものを、自らが主導して再構築する高度な政治的行為でした。この一件により、彼は若き主君・隆信にとって、命の恩人であり、政治的な後見人という絶対的な立場を確立します。史料が「隆信は生涯、籠手田安昌・安経父子に配慮しなければならなかった」 11 と記している通り、この関係は単なる感謝を超えた、力関係の固定化を意味していました。この時に築かれた籠手田家の特権的な地位こそが、後に主家の方針と一線を画す「キリスト教の受容と保護」という独自の道を歩むことを可能にした直接的な要因となります。1541年の家督争いへの介入が、約60年後の一族の運命を決定づける遠因となったのです。

第二章:筆頭家老としての権勢と軍功

松浦隆信の家督を盤石のものとした籠手田安昌は、その功績により松浦家の筆頭家老(筆頭重臣)に就任し、名実ともに政権の中枢を担うことになります 10 。彼はその卓越した政治手腕と軍事能力を発揮し、隆信政権の安定と発展に生涯を捧げました。

隆信政権の安定化と籠手田家の権勢

隆信が当主となってから安昌が没する弘治3年(1557年)までの約15年間、彼は筆頭重臣として常に主君の傍らで政治を動かし、その治世を支え続けました 6 。安昌が築いた権勢は絶大であり、その地位と影響力は息子の安経(やすつね)にも引き継がれます。安経もまた父と同様に「当主に次ぐ有力者」 10 と目され、籠手田家は親子二代にわたって松浦家中における別格の存在として君臨しました。

この権勢の背景には、家督擁立という最大の功績がありました。しかし、それを不動のものとしたのは、安昌が戦場で立てた数々の軍功でした。彼は、平戸松浦氏が周辺のライバルを制圧し、北松浦半島の覇者として台頭していく過程で、軍事司令官として中心的な役割を果たしたのです。

対外戦争における総大将としての活躍

当時の平戸松浦氏にとって最大の脅威は、同じ松浦党の宗家筋であり、佐世保を拠点とする相神浦松浦氏でした。両者の間では、天文11年(1542年)の「第1回飯盛城の戦い」を皮切りに、永禄6年(1563年)に始まる「相神浦二年の役」に至るまで、長期にわたり断続的な抗争が繰り広げられました 18 。これらの戦いにおいて、籠手田安昌はしばしば隆信に代わって軍の総大将として出陣し、その指揮を執ったと記録されています 10

また、唐津を拠点とする上松浦党の有力大名・波多氏との戦いにおいても、籠手田家の働きは顕著でした。息子の安経が総大将として出陣するなど、一族を挙げて松浦氏の軍事行動の矢面に立ち、その勝利に貢献しています 17

これらの軍功は、籠手田安昌が単なる譜代の重臣ではなく、松浦家の軍事力を実質的に担う「実行部隊の長」であったことを示しています。主君である隆信が「大将」として君臨する一方で、安昌は「総司令官」として前線で敵対勢力を切り従える。この巧みな役割分担こそが、隆信政権下の平戸松浦氏の急成長を可能にした原動力の一つであったと言えるでしょう。そして、戦場で流した血と汗は、家督擁立の功績と相まって、籠手田家の政治的発言権を誰にも揺るがすことのできないものへと高めていったのです。

第三章:信仰への道―キリシタン「ドン・ジェロニモ」の誕生

籠手田安昌の人生の後半、そして籠手田一族のその後の運命を決定づけたのは、遠くヨーロッパからもたらされた新しい宗教、キリスト教との出会いでした。彼の改宗は、単なる個人的な信仰の問題に留まらず、松浦家の政治・経済にも大きな影響を及ぼす戦略的な決断でした。

南蛮貿易港・平戸とキリスト教の伝来

天文19年(1550年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、ポルトガル船に同乗して平戸に来航しました。領主であった松浦隆信は、ポルトガルとの貿易(南蛮貿易)がもたらす莫大な利益に着目し、その見返りとして領内でのキリスト教の布教を許可します 4 。これにより、平戸は日本のキリスト教布教における最初期の重要な拠点の一つとなり、多くの宣教師や商人が行き交う国際貿易港として繁栄の時代を迎えました。

籠手田安昌・安経父子の受洗

ザビエル来航から3年後の天文22年(1553年)、豊後(現在の大分県)から平戸を訪れたコスメ・デ・トルレス神父の布教活動により、籠手田安昌とその嫡男・安経は洗礼を受け、キリシタンとなりました 14 。この時、安昌は「ドン・ジェロニモ」、安経は「ドン・アントニオ」という洗礼名を授かったことが、ルイス・フロイスの『日本史』に明確に記録されています 14 。彼らの受洗は、平戸の重臣クラスでは最も早い時期のものであり、他の武士や領民がキリスト教を受け入れる上で、大きな影響を与えたと考えられます。

改宗の動機とその後

籠手田安昌の改宗の動機については、複数の側面から考察することができます。後世に編纂された『壺陽録』には、松浦隆信が最新兵器である大砲(原文では「ハラカン」)の技術を習得するため、名代として籠手田親子を入信させたと記されています 15 。これは禁教時代に書かれた記録であるため、信仰的な側面を薄め、実利的な動機を強調する意図があった可能性も考慮すべきですが、当時の武士たちがキリスト教と、それがもたらす南蛮の富や軍事技術を不可分なものとして捉えていたことは事実でしょう。筆頭家老である安昌が率先して改宗することは、ポルトガル側との信頼関係を構築し、南蛮貿易における平戸松浦氏の主導権を確保するという、高度な政治的・経済的判断であった可能性は十分に考えられます。

しかし、この決断は単なる政略に留まりませんでした。安昌は息子・安経と共に受洗しており 6 、これは個人の信仰告白というよりも、籠手田家という「家」のアイデンティティを「キリシタン」として再定義する、一族を挙げての決断であったことを物語っています。

この父の遺志は、息子・安経に強く受け継がれます。安昌の死後、永禄元年(1558年)、安経は宣教師ガスパル・ヴィレラと協力し、自らの領地である生月島、度島、そして平戸島西部において、領民の一斉改宗を断行しました。これは日本における一斉改宗の最初期の事例として知られています 14 。この時、領内の寺社を破壊して教会を建立するなど、やや過激な手法がとられたため、地域の仏教勢力との間に深刻な対立を引き起こすことにもなりました 12 。しかし、この出来事は、籠手田家が自らを単なる松浦氏の家臣ではなく、キリスト教信仰を領国統治の柱とする「キリシタン領主」として確立しようとしていたことの明確な証左と言えます。籠手田安昌の1553年の決断は、一族の精神的支柱を築き上げ、その後の栄光と悲劇の軌跡を決定づけたのです。

第四章:籠手田家の遺産―息子・安経と孫・安一の時代

弘治3年(1557年)に籠手田安昌が世を去った後 6 、彼が築き上げた政治的地位とキリスト教信仰という遺産は、息子・安経、そして孫・安一へと引き継がれていきました。しかし、時代の変化は、籠手田家に栄光だけでなく、過酷な試練をもたらすことになります。

息子・安経(ドン・アントニオ)の時代

父・安昌の地位を継いだ籠手田安経は、引き続き松浦隆信の筆頭家老として重きをなし、数々の戦場で軍功を挙げるなど、主家を支えました 10 。同時に、彼は父以上に熱心なキリシタンとして知られ、自らの領地である生月島や度島に教会を次々と建設し、宣教師たちを手厚く保護しました 9 。その結果、彼の領地は平戸藩内におけるキリスト教信仰の一大中心地として発展し、多くの信者が集う場所となりました 21

しかし、安経の晩年になると、籠手田家を取り巻く環境は徐々に厳しさを増していきます。主君・隆信が隠居し、その子で熱心な仏教徒であった松浦鎮信(しげのぶ)が実権を握るようになると、主家との間に宗教的な確執が生まれます。キリスト教を信仰する籠手田家は、松浦家中において次第に孤立を深めていきました 10 。そのような中、天正9年(1581年)、安経は病により急死します 9

孫・安一(ドン・ジェロニモ)の決断

安経の跡を継いだのは、その子・安一(やすかず)でした。彼の洗礼名は、祖父・安昌と同じ「ドン・ジェロニモ」であり、彼もまた祖父や父と同様、篤い信仰心の持ち主でした 14

そして慶長4年(1599年)、松浦家の歴史における一つの転換点が訪れます。長年、籠手田家を庇護してきた松浦隆信が死去したのです。これを機に、当主・鎮信は領内のキリシタンに対する弾圧を本格化させ、家臣に対しても棄教を厳しく迫るようになりました 22 。鎮信は、亡き父・隆信の葬儀を仏式で執り行い、安一にもこれに参列するよう命じました。これは、武家の儀礼の形を借りた、事実上の棄教命令に他なりませんでした 24

主家への忠誠か、神への信仰か。安一は究極の選択を迫られます。悩んだ末、彼が選んだのは、先祖代々の領地と武士としての地位を捨ててでも、信仰を守り抜く道でした。同年、安一は籠手田一族や家臣、そして彼を慕う領民ら約600人を率いて、故郷である生月島を離れ、イエズス会の拠点があった長崎へと集団で退去するという、前代未聞の決断を下したのです 21

この籠手田一族の退去事件は、単なる宗教弾圧の悲劇としてのみ語ることはできません。戦国時代が終わり、大名が領国支配を強化し中央集権化を進める近世へと移行する中で、領内の「半独立的な勢力」を解体していく過程で発生した、政治的な事件という側面を強く持っています。松浦鎮信にとって、キリスト教を信仰する籠手田氏は、イデオロギー的に相容れないだけでなく、父の代から特権を享受してきた統治の障害でした。その排除は、鎮信が領国支配を磐石にするために避けては通れない道だったのです 26

鎮信の棄教命令は、信仰の自由を問うと同時に、籠手田氏に「松浦家の家臣としての絶対服従」を迫る踏み絵でした。それに対し、安一が選んだ退去という道は、武士としての「主君への奉公」という伝統的な価値観と、キリシタンとしての「神への奉仕」という新しい価値観が衝突した際、後者を選んだという、戦国から近世への価値観の転換期を象徴する出来事でした。祖父・安昌が蒔いた信仰の種は、二代の後、このような形で結実したのです。

終章:籠手田安昌が歴史に残したもの

籠手田安昌の生涯は、戦国時代という激動の時代を生きた一人の武将の物語として、多くの示唆に富んでいます。彼の功績と遺産を総括することで、その歴史的重要性を改めて評価することができます。

政治家・武将としての安昌は、疑いなく一流の人物でした。主家の家督争いという存亡の危機に際して、若き主君を擁立し、反対勢力を制圧して政権を安定させた手腕は、「キングメーカー」と呼ぶにふさわしいものです。また、筆頭家老として軍を率い、宿敵であった相神浦松浦氏や波多氏との戦いで勝利を重ね、平戸松浦氏の覇権確立に大きく貢献した有能な軍事司令官でもありました。

一方で、キリシタンとしての安昌は、平戸におけるキリスト教の最も有力な庇護者の一人として、その後の布教の礎を築きました。彼の改宗は、息子の安経、孫の安一へと続く「キリシタン領主」としての籠手田家の歴史の始まりであり、その存在は、大村純忠や大友宗麟といったキリシタン大名と並び、日本の初期キリスト教史において重要な意味を持っています。

しかし、彼が築いた権勢と、彼が導入したキリスト教信仰は、結果として一族に栄光と悲劇の両方をもたらす「諸刃の剣」となりました。安昌が隆信を擁立して得た特権的な地位は、息子の代には主家との軋轢を生み、孫の代には、その特権と信仰そのものが排除の対象となったのです。

籠手田安昌の物語は、戦国武士が、古くからの伝統的な価値観の中で生きながら、いかにして海外からもたらされた新しい思想や技術と向き合い、自らと一族の運命を切り開こうとしたかを示す、極めて興味深い歴史の縮図です。もし彼が隆信を擁立しなければ、平戸松浦氏の歴史は大きく異なっていたかもしれません。もし彼がキリスト教を受容しなければ、籠手田家は安泰であったかもしれませんが、生月島などに代表される肥前の豊かなキリシタン文化が花開くことはなかったでしょう。彼の一つ一つの決断が、連鎖的に後世の歴史を形成していったのです。

彼の血脈は、その後も途絶えることはありませんでした。幕末には、籠手田家の子孫から、明治政府の下で滋賀県知事や貴族院議員などを歴任した籠手田安定(やすさだ)という人物を輩出しています 27 。戦国の荒波を乗り越えた一族の歴史は、近代まで確かに受け継がれていたのです。籠手田安昌の生涯を徹底的に調査することは、一人の武将の伝記を辿ることに留まらず、戦国時代の政治力学、宗教の受容、そして価値観の変容という、より大きな歴史のうねりを解き明かす鍵となるのです。

引用文献

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