日本の戦国時代は、群雄が割拠し、下剋上が常態化した激動の時代として知られる。しかし、その変革の波は国内の政治秩序に留まらなかった。16世紀半ば、遥か西方のヨーロッパから訪れた人々は、鉄砲という新たな武力、南蛮貿易という新たな富、そしてキリスト教という新たな価値観をもたらした。これら「南蛮」の文物は、日本の社会、経済、そして人々の精神世界に根源的な揺さぶりをかけた。
この歴史の大きな転換点において、肥前国平戸(現在の長崎県平戸市)の武将、籠手田安経(こてだ やすつね)は、時代の矛盾と可能性を一身に体現した象徴的な人物である。天文元年(1532年)に生まれ、天正9年(1581年)にその生涯を閉じた彼は、平戸領主・松浦氏の重臣として、また生月島(いきつきしま)と度島(たくしま)を治める領主として、武士としての務めを果たした 1 。しかし、彼の名を歴史に深く刻んだのは、キリスト教の洗礼を受け、ドン・アントニオという洗礼名を名乗ったこと、そしてその信仰を巡って主君と対峙し、自らの領地を日本における初期キリスト教の一大拠点へと変貌させた、その類稀なる生涯であった。
従来、籠手田安経は「主君の代理で受洗した悲劇のキリシタン」という側面で語られることが多かった。しかし、近年の研究と史料の再検討は、より主体的で、時には過激ともいえる信仰に生きた彼の姿を浮かび上がらせる。本報告書は、籠手田安経という一人の武将の生涯を、武士としての功績、信仰への目覚め、領主としての統治、主君との相克、そしてその死が一族と後世に与えた影響に至るまで、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。彼の物語を追うことは、戦国時代の政治力学、国際貿易の要請、そして異文化との邂逅という三つの奔流が交差した肥前の地で、一人の人間が如何に生き、如何に自らの信念を貫こうとしたのかを理解する旅となるであろう。
報告書の理解を助けるため、まず物語の中心となる主要人物を以下に整理する。
表1:籠手田安経をめぐる主要人物一覧
人物名(よみ) |
洗礼名 |
続柄・役職 |
概要 |
籠手田 安経(こてだ やすつね) |
ドン・アントニオ |
本報告書の主人公 |
松浦氏の筆頭家老。生月島・度島の領主。熱心なキリシタンとなり、領地をキリスト教化する 2 。 |
籠手田 安昌(こてだ やすまさ) |
ドン・ジェロニモ |
安経の父 |
松浦隆信の擁立に尽力した功臣。息子・安経と共に受洗する 4 。 |
籠手田 安一(こてだ やすいち) |
ドン・ジェロニモ |
安経の子 |
父の信仰を継ぐが、松浦鎮信の弾圧により一族を率いて長崎へ出奔する 6 。 |
一部 勘解由(いちぶ かげゆ) |
ドン・ジョアン |
安経の弟 |
兄と共に受洗し、生月島北部を治めた。武勇に優れた武将でもあった 7 。 |
松浦 隆信(まつら たかのぶ) |
法名:道可(どう可) |
安経の主君 |
南蛮貿易を積極的に推進し平戸の繁栄を築くが、キリスト教そのものには懐疑的で、後に弾圧に転じる 9 。 |
松浦 鎮信(まつら しげのぶ) |
法名:法印(ほういん) |
隆信の子、安経の後の主君 |
父以上に厳格なキリスト教弾圧を行い、籠手田一族の出奔の原因となる 6 。 |
ガスパル・ヴィレラ |
― |
イエズス会宣教師 |
安経を改宗に導き、生月島での集団改宗を勧めたとされる宣教師 5 。 |
ガスパル西 玄可(にし げんか) |
ガスパル |
安経の家臣(生月島代官) |
籠手田氏退去後の生月でキリシタンの指導者となるが、鎮信の命により殉教する 13 。 |
籠手田安経が、後に主君・松浦隆信の意向に反してまで自らの信仰を貫き通すことができた背景には、単なる主従関係を超えた、一族の強固な政治的・軍事的基盤が存在した。彼の行動の源泉を理解するためには、まず松浦家における籠手田氏の特異な地位を把握する必要がある。
籠手田家は、古くから平戸松浦家と密接な関係を持つ支流の一族であった 3 。この血縁的背景は、彼らが松浦家中において特別な発言力を持つ一因となっていた。特に安経の父、籠手田安昌の代になると、その地位は決定的なものとなる。安昌は平戸家の筆頭家老の地位に就き、松浦家の家政と軍事を統括する中心人物となった。安経もまた、その職と影響力を受け継いだのである 3 。
籠手田氏の権勢を不動のものとしたのは、松浦家の家督相続問題における安昌の功績であった。松浦興信の死後、家中で後継者を巡る争いが勃発した際、安昌は一貫して松浦隆信を支持し、その擁立に尽力した 4 。この功績により、若き日の隆信は無事に家督を相続することができ、籠手田父子は隆信から絶大な信頼と重用を得ることになった。史料によっては、隆信が幼少期に籠手田氏の後見を受けていたとも記されており、両者の関係が単なる主君と家臣のものではなかったことを示唆している 16 。
この一連の経緯は、隆信にとって籠手田家が自らの権力の正統性を保証する恩人であることを意味した。言い換えれば、隆信は籠手田家に対して一種の「政治的負債」を負っていたのである。この力関係こそが、後に両者の間に宗教を巡る深刻な対立が生じた際に、安経が容易に屈しない強さの源泉となった。主君の権力基盤そのものに関与した「キングメーカー」としての一族の立場が、安経に特別な行動の自由を与えていたのである 17 。
籠手田安経は、父が築いた政治的基盤の上に、自らの武功によってさらなる名声を積み重ねた。彼は、松浦氏本家との内紛や、隣接する強敵・波多氏との戦いにおいて、しばしば主君・隆信に代わって総大将として軍を率い、数々の勝利を収めている 2 。
その活躍ぶりは、彼を名実ともに「当主に次ぐ有力者」たらしめた 2 。政治的には筆頭家老として、軍事的には総大将として、安経は松浦家の屋台骨を支える不可欠な存在であった。彼の存在なくして、隆信が北松浦半島を制圧し、戦国大名としての地位を確立することは困難であっただろう。この事実は、後に信仰上の対立が先鋭化しても、隆信が安経を完全に排斥することができなかった力学的な背景を物語っている。
籠手田安経の生涯における最大の転機は、キリスト教への改宗であった。彼の受洗は、肥前国におけるキリシタン史の画期となる出来事であったが、その動機については、当時の史料が異なる二つの側面を伝えており、慎重な解釈が求められる。
16世紀半ばの平戸は、国際貿易の熱気に包まれていた。領主・松浦隆信は、明の海商・王直といった人物を平戸に招き入れ、いち早く南蛮貿易に着手した 9 。彼の目的は明確であり、貿易がもたらす莫大な富と、鉄砲や大砲といった最新兵器の導入によって、領国を富強にすることにあった 9 。
天文19年(1550年)、ポルトガル船が平戸に来航した際、船にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが同乗していた 11 。隆信は、布教と貿易が一体不可分であるポルトガルの戦略を理解しており、貿易の利益を確保するためにキリスト教の布教を許可した 21 。この時点での隆信の関心は、あくまで経済的・軍事的実利にあり、キリスト教の教義そのものへの関心は薄かったと考えられる 10 。
このような状況下で、松浦家の筆頭重臣である籠手田安経は、父・安昌、弟・一部勘解由と共に洗礼を受ける。天文22年(1553年)のこととされるこの受洗の動機について、史料は二つの異なる解釈を提示している。
視点A:『壺陽録』に見る「代理受洗」説
一つは、後世の江戸時代、禁教下に編纂された平戸藩の史書『壺陽録』に見られる記述である。そこには、隆信が自らの名代として安経と勘解由を入信させ、その見返りとしてポルトガル人から大砲の射撃術を習得させたと記されている 5。これは、武士の主従関係と実利主義という観点からは極めて理解しやすい説明であり、藩祖・隆信の行動を、信仰ではなくあくまで藩益のためであったと正当化する意図が読み取れる。
視点B:イエズス会報告集に見る「主体的信仰」説
もう一つは、安経と同時代を生きたイエズス会宣教師たちの書簡や報告に見られる記述である。特に、安経の改宗に深く関わったとされるガスパル・ヴィレラ神父の記録では、安経がヴィレラの勧めに真摯に耳を傾け、自らの意志で改宗を決意したとされている 5。彼らの報告書には、安経が政治的計算からではなく、純粋な信仰心から洗礼に至った人物として描かれている。
これら二つの視点は、一見すると矛盾しているように見える。しかし、史料の性質を考慮することで、より重層的な解釈が可能となる。『壺陽録』の記述は、キリスト教が厳しく禁じられた時代背景を考慮すると、藩の公式記録として、隆信が「邪教」に染まったわけではないことを強調する必要があったため、意図的に政治的側面を強調した可能性が高い 5 。
一方で、安経の受洗後の行動は、単なる代理人のそれとは到底考えられないほど徹底している。次章で詳述する通り、彼は自らの領民を集団で改宗させ、伝統的な寺社を破壊して教会を建立するなど、極めて熱心かつ急進的な信仰の実践者となった 7 。これは、彼の内面に、政治的動機を凌駕するほどの個人的で熱烈な信仰が芽生えていたことを強く示唆するものである。
したがって、安経の受洗は、「代理」か「純粋信仰」かという単純な二者択一で捉えるべきではないだろう。そのきっかけには、主君・隆信の意向に沿い、南蛮貿易を円滑に進めるという政治的・経済的な側面があったことは想像に難くない。しかし、ヴィレラ神父をはじめとする宣教師たちとの人格的な交流を通じて、その教えに深く感化され、やがて彼の信仰は、武士としての立場や政治的計算を超えた、生涯を貫く絶対的な価値へと昇華していった。ドン・アントニオの誕生は、政治と信仰が複雑に絡み合った、この時代の特質を象徴する出来事であった。
ドン・アントニオとなった籠手田安経は、その信仰を個人的な内面の問題に留めなかった。彼は自らが領主として治める生月島、度島、そして平戸島の一部を、神の教えが隅々まで行き渡る理想のキリスト教共同体へと変革しようと試みた。その政策は、当時の日本において前例のない、体系的かつ急進的なものであった。
安経の統治における最も画期的な政策は、領民の一斉改宗であった。永禄元年(1558年)、安経はガスパル・ヴィレラ神父の勧めを受け入れ、自らの領地である生月島南部、度島、平戸島の春日、獅子、飯良といった村々で、家臣や領民の集団改宗を断行した 5 。イエズス会の記録によれば、この時、実に1,500人もの人々が洗礼を受けたとされる 5 。これは、日本史において領主の権威によって行われた集団改宗の最初の事例であり、安経の信仰の徹底ぶりを物語っている。
この行動の背景には、単に信仰を広めたいという熱意だけでなく、当時のヨーロッパで確立されていた「領主の宗教が、その地の宗教となる(ラテン語: cuius regio, eius religio )」という統治原則の影響があった可能性が指摘されている 5 。安経は、イエズス会宣教師を通じて、単なる宗教的教義だけでなく、キリスト教世界の政治思想や統治理念をも学び、それを自らの領国経営に導入しようとした「思想的統治者」であったのかもしれない。これは、後に日本初のキリシタン大名となる大村純忠が、領内の寺社を徹底的に破壊した事例とも共通する行動パターンである 11 。
集団改宗と並行して、安経は領内の宗教的景観を根底から作り変えようとした。彼は領内にあった仏教寺院から仏像や経典、仏具といった「偶像」を運び出させ、それらの建物をキリスト教の教会(会堂)へと転用した 7 。
さらに、既存の建物の転用だけでは飽き足らず、新たな教会を次々と建設した。生月島の山田地区には600人もの信徒を収容できる大規模な教会が建てられ、それでも足りずに壱部浦にもう一つの教会が建設されたという 15 。また、黒瀬の辻のような人目につく高台には巨大な十字架を建立し、1,000人もの信徒が参加する盛大な行列を行ってその完成を祝った 7 。これらの行為は、キリスト教共同体の結束を高めると同時に、旧来の仏教勢力との間に深刻な対立を引き起こす原因ともなった 25 。
興味深いことに、この壮大なキリスト教共同体の建設を主導した籠手田安経自身は、平戸の城下に居住していた。彼に代わって生月島の直接的な統治を担ったのが、代官であった西(にし)一族である 13 。この西家もまた熱心なキリシタンであり、後に殉教者として知られるガスパル西玄可もこの一族の出身であった 13 。
安経が平戸にあって松浦家の家政全体を統括し、現地の統治は信頼できるキリシタンの代官に委ねるというこの二重の統治体制は、結果として生月島にキリスト教の信仰を深く根付かせる上で重要な役割を果たした。後に籠手田氏が島を去ることになっても、西家のような現地の指導者層が信仰を守り続けたことが、共同体が潜伏の時代を生き抜くための強固な基盤となったのである。
籠手田安経の急進的なキリスト教化政策は、必然的に、貿易の実利を最優先する主君・松浦隆信との間に深刻な亀裂を生じさせた。当初は黙認されていた両者の価値観の違いは、やがて公然たる対立へと発展し、安経は武士としての「忠誠」とキリシタンとしての「信仰」という、二つの相容れない要求の狭間で苦悩することになる。
安経らによる寺社の破壊や集団改宗は、平戸領内の仏教徒や神官たちの激しい反発を招いた 25 。永禄2年(1559年)、安満岳の西禅寺住職らが、ガスパル・ヴィレラ神父との宗教論争をきっかけに、教会への焼き討ちを計画する暴動未遂事件が発生する。領内の不穏な空気を憂慮した隆信は、事態の収拾を図るため、ヴィレラ神父を領外へ一時追放するという措置を取った 17 。この時点では、隆信はまだキリスト教徒と仏教徒の間のバランスを取ろうと試みていた。
両者の関係を決定的に悪化させたのが、永禄4年(1561年)に発生した「宮の前事件」である。平戸港の宮の前(七郎宮の門前)で、ポルトガル商人と日本の商人との間で生糸の価格を巡る商取引上のトラブルが発生した。口論は殴り合いの乱闘に発展し、仲裁に入った武士をも巻き込む大騒動となった。最終的に、船に戻って武装したポルトガル人たちが町を襲撃し、日本側も抜刀して応戦。この衝突で、ポルトガル船の船長フェルナン・デ・ソウサを含む14名が死傷するという惨事となった 25 。
この事件は、単なる商取引上のいさかいではなかった。その背景には、領内でくすぶっていたキリシタンと反キリシタン勢力との間の宗教的対立があったと解釈されている 25 。事件は、両者の不信と憎悪が一気に噴出したものであった。
宮の前事件の後、ポルトガル側は、隆信が事件の加害者を厳しく処罰しなかったことに強い不信感を抱いた。その結果、彼らは平戸港を避け、より安全で好意的な貿易港を求めて、キリシタン大名・大村純忠が提供した横瀬浦や福田浦へと寄港地を移してしまった 10 。
これは、南蛮貿易の利益を領国経営の柱としていた隆信にとって、致命的な打撃であった。彼にとって「キリスト教=貿易の利益」という方程式が崩壊した瞬間であり、これ以降、キリスト教は利益をもたらさないどころか、領内の混乱と貿易機会の損失を招く「負債」へと転落した。激怒した隆信はキリスト教への憎悪を深め、イエズス会側もまた、隆信を「デウスの教え、ならびにキリスト教の大敵」と見なすようになり、両者の関係は修復不可能なまでに冷え込んだ 10 。
主君・隆信が明確に反キリシタンへと舵を切る中で、籠手田安経の立場は極めて困難なものとなった。しかし、彼は主君の圧力に屈しなかった。イエズス会の記録は、「松浦隆信のキリスト教弾圧にしたがわず宣教師たちを保護し、かたく信仰をまもった」と、その毅然とした態度を伝えている 1 。
安経の存在は、平戸地方のキリシタンたちにとって、隆信の直接的な弾圧を食い止める「最大の防波堤」となった 28 。第一章で述べたように、隆信の権力基盤確立に貢献した籠手田家の政治的地位が、この局面で決定的な役割を果たしたのである。安経は、主君への忠誠と自らの信仰との間で板挟みになりながらも、その影響力を行使して、かろうじて平戸のキリシタン共同体を守り抜いた。この時期の彼の苦闘は、信仰が政治権力と対峙した際の、一人の人間の葛藤を鮮烈に示している。
信仰と忠誠の狭間で、平戸のキリシタン共同体を支える防波堤として存在し続けた籠手田安経であったが、その終わりはあまりにも突然に訪れた。彼の死は、彼が守ろうとした人々だけでなく、彼と対立していたはずの主君・松浦隆信にさえも大きな衝撃を与え、その存在がいかに重要であったかを逆説的に証明することになった。
天正9年(1581年)、降誕祭(クリスマス)を間近に控えた12月頃、籠手田安経は扁桃腺炎を患い、急死した 1 。享年50歳。戦国の世を駆け抜け、信仰に生きた武将の最期は、戦場ではなく病床の上であった。
安経の死がもたらした衝撃の大きさは、イエズス会がローマへ送った1581年度の年報に克明に記録されている。そこには、「彼の死はキリシタンならびに異教徒の双方から惜しまれた」と記されており、彼の高潔な人柄や公正な領主としての姿勢が、宗派を超えて多くの人々から敬愛されていたことがうかがえる 30 。
中でも特筆すべきは、主君・松浦隆信の反応である。年報は次のように続ける。
「彼がキリシタンであることを喜ばなかったが、その勇気と智慮により非常な好意を寄せていた平戸の領主からも惜しまれた。そして彼および平戸のキリシタンならびに異教徒の貴人が皆葬儀に列席し非常に荘厳であった」30。
この記述は、隆信の安経に対する複雑な感情を浮き彫りにしている。隆信は、安経の「信仰(イデオロギー)」を憎み、対立しながらも、松浦家を支える忠実な重臣としての彼の「人物・能力」を高く評価し、個人的な好意すら抱いていた。隆信が安経の葬儀に自ら参列し、その死を悼んだという事実は、彼がイデオロギーの対立の中でも個人の能力や長年の主従関係を重んじる、戦国武将特有のリアリズムを持っていたことを物語る。彼は「キリシタンのドン・アントニオ」ではなく、「家臣の籠手田左衛門」の死を心から惜しんだのである。
しかし、安経の死が平戸のキリシタン共同体にとって、最大の庇護者を失うことを意味する事実に変わりはなかった。彼の死は「平戸地方におけるキリシタン信者の大打撃」であり、信者たちにとって隆信の弾圧に対する最後の防波堤が失われたことを意味した 28 。
安経という重しが取れたことで、隆信とキリシタンとの間の危ういバランスは崩壊する。安経の死後、平戸におけるキリスト教の未来は急速に暗転し、より過酷な弾圧の時代へと突入していくことになるのである。
籠手田安経の死は、平戸キリシタンの歴史における一つの時代の終わりを告げた。彼の遺志を継いだ一族は、より苛烈になる弾圧の中で悲劇的な運命をたどる。しかし、安経が生月島に築いた強固な信仰共同体は、その指導者を失いながらも、形を変えて生き延び、やがて「かくれキリシタン」として知られる世界にも類を見ない信仰文化の源流となっていく。
安経の跡を継いだ息子の籠手田安一(洗礼名:ドン・ジェロニモ)もまた、父に劣らず熱心なキリシタンであった 6 。彼は父亡き後も、一族の長として、また生月島の領主としてキリシタンを保護し続けた。しかし、時代の風は彼らに厳しく吹きつけていた。
慶長4年(1599年)、南蛮貿易の推進者でありながらも、安経に対しては複雑な感情を抱き続けた松浦隆信が死去する。家督を完全に掌握したその子・鎮信は、父以上に厳格な反キリシタン政策を推し進めた。彼は領内のキリシタンに棄教を迫り、その圧力は重臣である籠手田一族にも容赦なく向けられた 6 。
鎮信による弾圧の象徴的な出来事が、父・隆信の葬儀であった。鎮信は、京都から家臣に対し、隆信の葬儀を仏式で執り行うこと、そして籠手田安一と一部氏(当主は正治)もそれに参列することを命じた 32 。これは、キリシタンである彼らにとって、公の場で信仰を捨てることを意味する、事実上の棄教命令であった。
武士としての主君への忠誠か、あるいは神への信仰か。究極の選択を迫られた安一と一部正治は、後者を選んだ。慶長4年(1599年)のある夜、彼らは先祖代々の所領である生月島と度島、そして松浦家における筆頭家老という地位のすべてを捨て、一族郎党や領民ら600人(一説には800人)を率いて長崎へ向けて出奔した 6 。この集団亡命は、武士階級としてキリスト教を平戸藩の体制内に根付かせようとした籠手田氏の「政治的プロジェクト」が、完全に失敗に終わったことを意味するものであった。一行は長崎で大村氏などの援助を受けた後、キリシタン大名として知られる細川忠興を頼り、その領地である筑前国へ向かったとも伝えられている 32 。
領主であった籠手田・一部両氏が去った後、生月島は松浦氏の直轄領となり、残されたキリシタンへの弾圧はさらに厳しさを増した。慶長14年(1609年)、島のキリシタンたちの指導的立場にあった安経のかつての代官、ガスパル西玄可とその家族が捕らえられ、黒瀬の辻で殉教した 13 。
しかし、信仰の灯は消えなかった。逆説的にも、トップダウンの庇護を失ったことで、安経が領民レベルで築き上げた強固な信仰共同体は、より強靭なボトムアップの潜伏組織へと変質を遂げたのである。彼らは表向き仏教徒や神道の氏子として振る舞いながら、密かに信仰を維持した。そのために「組」や「垣内(かきうち)」といった独自の信仰組織を形成し 7 、ラテン語の祈りが変容したとされる口伝の祈り「オラショ」を世代から世代へと伝承していった 27 。
籠手田安経の政治的な試みは一代で頓挫したが、彼が生月島に蒔いた信仰の種は、日本で最もユニークで強靭な宗教文化の一つである「かくれキリシタン」の源流となった。今日、彼のかつての所領であった生月島や平戸島西岸の春日集落が、ユネスコの世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の重要な構成資産となっている事実は、安経の遺産が400年以上の時を超えて、現代にまで確かに受け継がれていることを示している 40 。
籠手田安経の生涯を多角的に検証した結果、彼は単に主君の意向で受洗し、弾圧に苦しんだ悲劇の武将という一面的な評価では捉えきれない、より複雑で主体的な人物像が浮かび上がる。
彼は、松浦家における自らの強固な政治的地位を最大限に活用し、イエズス会宣教師から学んだヨーロッパの統治理念すら取り入れ、自らの領地を理想のキリスト教共同体へと変革しようとした、主体的かつ急進的な「キリシタン領主」であった。彼の行動は、個人的な信仰の発露に留まらず、自らの領国を神の国のモデルとして再編しようとする、壮大な政治的・社会的実験であったと言える。
その生涯は、戦国武士の行動規範である「忠誠」という倫理と、キリスト教の「信仰」という国や民族を超えた普遍的価値観が、一人の人間の中でいかに激しく葛藤し、最終的に信仰が選択されたかを示す、日本史上でも稀有な劇的実例である。息子・安一の代に至り、一族が所領と地位を捨てて出奔するという決断は、この価値観の相克の最終的な帰結であった。
籠手田安経の政治的試みは、彼の死と一族の離散によって一代で頓挫した。しかし、彼が生月島に蒔いた信仰の種は、指導者を失い、過酷な弾圧に晒される中で、驚くべき生命力をもって地下に深く根を張り続けた。彼が築いた強固な信仰共同体は、日本で最もユニークで強靭な宗教文化の一つである「かくれキリシタン」の直接的な源流となり、その祈りと伝統は現代に至るまで受け継がれている。
籠手田安経の物語は、信仰が政治権力と対峙したとき、時に敗北し、時に変容しながらも、いかにして生き延びていくかという、普遍的なテーマを我々に問いかけている。彼は、戦国という激動の時代に、信仰と武士道という二つの世界を懸命に生き抜いた、忘れ得ぬキリシタン領主として、歴史の中にその名を刻んでいる。
表2:籠手田安経関連年表
西暦(和暦) |
籠手田安経・一族の動向 |
松浦氏・平戸の動向 |
キリスト教関連の動向 |
1532(天文元) |
籠手田安経、生誕 2 。 |
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1541(天文10)頃 |
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松浦隆信、家督を相続 16 。籠手田安昌が擁立に尽力 4 。 |
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1550(天文19) |
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ポルトガル船が初来航。隆信は貿易のため布教を許可 11 。 |
フランシスコ・ザビエル、平戸に来航 20 。 |
1553(天文22) |
安経、父・安昌、弟・勘解由と共に受洗。ドン・アントニオとなる 5 。 |
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豊後から来たガーゴ神父が洗礼を授ける 5 。 |
1557(弘治3) |
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ガスパル・ヴィレラ神父、平戸に着任 10 。 |
1558(永禄元) |
ヴィレラの勧めにより、生月島などで日本初の集団改宗を行う(1,500人) 5 。 |
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1559(永禄2) |
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仏教徒との対立激化。隆信はヴィレラ神父を一時追放 17 。 |
西禅寺住職とロレンソ了斎の宗教論争 25 。 |
1561(永禄4) |
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宮の前事件発生。ポルトガル人との関係が悪化 25 。 |
ポルトガル船の寄港地が平戸から離れ始める 29 。 |
1581(天正9) |
扁桃腺炎により急死。隆信も参列し、荘厳な葬儀が行われる 1 。 |
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イエズス会年報がその死を悼む記事を掲載 30 。 |
1582(天正10)頃 |
子・安一(ドン・ジェロニモ)が跡を継ぐ 6 。 |
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1587(天正15) |
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豊臣秀吉、伴天連追放令を発布 15 。 |
1599(慶長4) |
安一、鎮信からの棄教命令を拒否。一族・領民600人以上を率いて長崎へ出奔 6 。 |
松浦隆信、死去。子・鎮信がキリシタン弾圧を本格化 6 。 |
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1609(慶長14) |
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元家臣(代官)のガスパル西玄可とその家族が殉教 14 。 |