最終更新日 2025-07-16

米良祐次

米良祐次は日向の国衆。伊東氏家臣として門川城主を務めた。伊東氏没落後、旧主復権のため大友氏に内通し、耳川の戦いで戦死。忠義と生存の葛藤を体現した。

日向の風雲児、米良祐次 ―伊東・島津・大友の狭間で揺れた国衆の生涯―

序章:乱世に消えた門川城主

戦国時代の日本列島は、各地で群雄が割拠し、下剋上が常態と化した動乱の時代であった。その中でも九州、特に日向国(現在の宮崎県)は、北の大友氏、南の島津氏という二大勢力の草刈り場となり、激しい攻防が繰り広げられた地である。この巨大な権力闘争の渦中で、自らの存亡をかけて翻弄された数多の在地領主、「国衆(くにしゅう)」が存在した。本報告書が光を当てる米良祐次(めら すけつぐ)もまた、そうした国衆の一人である 1

伊東氏の家臣として日向北辺の門川城を守り、主家の没落後は一時的に島津氏に属しながらも、旧主の再興を期して大友氏に内通し、九州の勢力図を塗り替えた「耳川の戦い」にその命を散らした 1 。彼の生涯は、一見すると時勢に流された裏切りと滅亡の物語に映るかもしれない。しかし、その行動の背景には、名門としての誇り、主家への義、そして何よりも一族を存続させんとする必死の戦略的判断が複雑に絡み合っていた。

本報告書は、断片的に伝わる米良祐次の生涯を、関連する人物、勢力、そして時代の大きなうねりの中に位置づけることで、その実像を徹底的に解明することを目的とする。彼の選択と結末は、戦国という時代の過酷さと、その中で生きた武士たちのリアルな姿を我々に突きつけるであろう。

【添付資料】 米良祐次に関連する主要年表

本編に入るにあたり、米良祐次の生涯と彼を取り巻く日向国の情勢を時系列で概観する。これにより、以降の各章で詳述される彼の決断が、いかなる歴史的文脈の中で下されたかを把握するための一助とされたい。

年代(西暦/和暦)

出来事

関連人物・勢力

備考(米良祐次への影響)

文明年間 (1469-1487)

伊東祐堯、門川城を築城 3

伊東氏

祐次が後に城主となる城の起源。

1529年(享禄2年)

米良祐次、生誕(推定) 1

米良祐次

ゲーム作品由来の参考値。

天文・永禄年間 (1532-1570)

伊東義祐の時代、伊東氏が日向で最盛期を迎える 5

伊東義祐

祐次が仕えた主家の権勢が頂点に達する。

1572年(元亀3年)

木崎原の戦いで伊東軍が大敗。伊東氏衰退の契機となる 6

伊東氏、島津氏

主家の軍事力が大きく削がれ、国衆の動揺が始まる。

1577年(天正5年)

伊東義祐、都於郡を放棄し豊後へ退去(「伊東崩れ」) 8

伊東義祐、大友宗麟

主家が事実上崩壊。祐次は庇護者を失う。

1577年(天正5年)

米良祐次、人質を出し島津氏に降伏 1

島津義久

日向の新支配者に対し、現実的な恭順の意を示す。

1578年(天正6年)2月

大友軍が日向侵攻を開始。米良祐次ら伊東旧臣が内応 9

大友宗麟、佐伯惟教

旧主復権のため、島津氏を裏切り大友方につく。

1578年(天正6年)11月

耳川の戦い(高城川の戦い)で大友軍が壊滅。米良祐次戦死 2

島津義久、大友義統

大友軍の一員として参戦し、命を落とす。

第一章:米良氏の出自と日向における伊東氏の勢力基盤

米良祐次の行動原理を理解するためには、彼が背負っていた一族の出自と、彼が守った城の戦略的意味をまず解き明かす必要がある。これらは、彼の誇りと責任の源泉であり、後の重大な決断に影を落とすことになる。

第一節:肥後菊池氏の末裔、米良一族

米良氏は、その出自を肥後国(現在の熊本県)の名門・菊池氏に持つとされる 2 。菊池氏は、鎌倉時代から続く有力な武家であり、特に南北朝時代には、一貫して南朝方として九州で奮戦し、その「忠義」は全国に知れ渡っていた 12 。戦国武士にとって、このような輝かしい祖先を持つことは、家格の高さを示す何よりの証であり、一族の精神的支柱となっていた。

米良祐次が属した門川の米良氏だけでなく、日向国内には須木城(現在の小林市須木)を拠点とする別の米良氏も存在した 7 。米良重方・矩重といった須木米良氏の武将たちもまた、伊東氏の重臣として数々の戦で活躍しており、米良一族が伊東氏の支配体制において重要な役割を担っていたことがうかがえる 7

この菊池氏としての自負は、後世まで強く意識されていた。江戸時代を生き抜いた米良氏の宗家は、明治維新後に「菊池」へと復姓し、南朝の忠臣の末裔であるという由緒から男爵の位を授けられている 15 。この事実は、米良一族が単なる在地領主ではなく、名門としての誇りをアイデンティティの中核に据えていたことを物語っている。

この「菊池の誇り」は、米良祐次の行動を解釈する上で極めて重要な示唆を与える。主家である伊東氏が没落し、新興勢力の島津氏に日向が席巻された後、祐次は安穏と島津の軍門に下り続ける道を選ばなかった。彼は、伊東氏の旧領回復を大義名分として掲げる大友氏に与する道を選ぶ。この選択は、単なる日和見主義や権力への迎合と見るだけでは表層的である。むしろ、彼の祖先である菊池氏が貫いた「忠義」の精神を、自らも体現しようとした結果と捉えることで、その行動に一貫した論理と「大義」を見出すことができる。彼の選択は、滅びゆく主家を見捨てた裏切りではなく、旧主を復興させるという、より高次の忠義を尽くすための苦渋の決断であった可能性が浮かび上がるのである。

第二節:伊東四十八城と日向北辺の防衛線

15世紀後半から約一世紀にわたり日向国に覇を唱えた伊東氏は、「伊東四十八城」と称される広域的な支城ネットワークを構築し、領国を支配した 17 。これは単に城の数が多かったことを示すのではなく、本城である都於郡城を中心に、各地の国衆が守る支城を有機的に連携させ、領国全体を防衛する高度な軍事・統治システムであった。

米良祐次が城主を務めた門川城は、この伊東四十八城の中でも特に重要な拠点であった 4 。門川城は、塩見城、日知屋城と共に「日向三城」と称され、伊東領の最北端に位置する防衛ラインを形成していた 2 。門川より北は、長年にわたり伊東氏と敵対してきた土持氏の領地であり、門川城はまさに対土持氏の最前線基地だったのである 2

この地政学的な条件は、米良祐次の武将としてのキャリアを決定づけた。彼の主な任務は、北方の土持氏に対する警戒と防衛であり、その軍事的能力や経験は、この方面に特化して磨かれたと考えられる。事実、伊東氏の主戦場が南方の飫肥(おび)や真幸院(まさきいん)における対島津戦であったにもかかわらず、祐次がこれらの合戦に従軍したという記録は見当たらない 2 。これは、彼が守る門川の地が、南の戦線に兵力を割けないほど戦略的に重要であったことの裏返しに他ならない。

しかし、この事実は祐次にとって一つの「戦略的パラドックス」を生んだ。彼の存在意義は「北の守り」にあった。だが、彼の主家である伊東氏を最終的に滅亡へと追いやった決定的な脅威は、彼の専門領域とは全く異なる「南の島津氏」からやって来たのである。主家が南からの攻撃によって崩壊した時、祐次が守るべき北の城と、彼が長年培ってきた対土持氏の軍事スキルは、その戦略的価値を一夜にして失った。この自己の存在意義の崩壊こそが、彼のその後の行動を理解する鍵となる。彼はもはや、旧来の任務に留まることはできなかった。自らの武将としての価値と役割を、新たな戦乱の力学の中で再定義するため、彼は自ら危険な賭けに身を投じる必要に迫られたのである。

第二章:主家の崩壊と国衆の選択

伊東氏の権勢が頂点に達した後、その没落は驚くほど速やかに訪れた。主家という絶対的な権威を失った日向の国衆たちは、生き残りをかけて過酷な選択を迫られる。米良祐次もまた、その激動の渦中にあった。

第一節:「伊東崩れ」と島津氏への降伏

伊東氏の栄華に翳りが見え始めたのは、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いが契機であった。この戦いで伊東軍は、島津義弘の巧みな戦術の前に3,000の兵が壊滅するという大敗を喫し、伊東祐安をはじめとする多くの有力武将を失った 6 。この敗戦は伊東家臣団の結束を著しく揺るがし、以後、福永丹波守のような重臣までもが島津方に寝返るなど、内部からの崩壊、いわゆる「伊東崩れ」が加速していく 19

そして天正5年(1577年)、島津軍の猛攻の前に、当主・伊東義祐はついに本拠地である都於郡城を放棄。一族郎党を率いて、縁戚関係にあった豊後国の大友宗麟を頼って落ち延びるという屈辱的な結末を迎えた 8

日向国における伊東氏の支配体制が完全に瓦解したことで、その庇護下にあった米良祐次ら国衆は、自力で新たな秩序に適応せざるを得なくなった。祐次は、日向の新支配者となった島津氏に対し、人質を差し出して恭順の意を示した 1 。これは、主を失った国衆が、圧倒的な軍事力を持つ新興勢力の前で生き残りを図るための、極めて現実的かつ合理的な選択であった。

第二節:大友氏への内通と『日向三城』の盟約

しかし、米良祐次の島津氏への服属は、心からのものではなかった。表面上は恭順しつつも、水面下では旧主・伊東氏の復権を諦めていなかったのである。彼は単独で行動するのではなく、同じ境遇にあった伊東旧臣たちと連携した。特に、地理的に隣接し、かつて同じ防衛ラインを担った塩見城主・右松四郎左衛門尉(うう まつ しろうざえもんのじょう)、日知屋城主・福永氏本(ふくなが うじもと)とは、運命を共にする盟約を結んでいたと考えられる 2

史料において、この三者が常に一括りで語られることは、彼らの行動が個々の判断ではなく、共同歩調を取っていたことを強く示唆している。伊東氏という上位権力が消滅した権力の真空地帯で、彼らは自衛のために地域的な軍事・政治ブロックを形成したのである。これは、戦国時代の権力移行期に頻繁に見られる、中間管理職たる国衆たちの自己組織化の一例として非常に興味深い。

彼ら「日向三城」の城主たちは、豊後国の大友氏家臣で、日向との国境に近い栂牟礼城主であった佐伯惟教(後の宗天)に密使を送った。そして、大友軍が伊東氏救援を名目に日向へ侵攻する際には、我らがその先導役を務める、と申し出たのである 9 。この申し出は、伊東氏の旧領回復を目指す大友宗麟にとって渡りに船であり、日向侵攻計画を具体化させる大きな後押しとなった。米良祐次らの行動は、もはや単なる国衆の保身策ではなく、九州全体の勢力図を動かす次なる大戦の導火線に火をつける行為だったのである。

【添付資料】 日向三城の城主と耳川の戦いにおける動向

米良祐次が孤立した存在ではなく、日向北部の国衆たちと運命共同体を形成していたことを明確にするため、以下の表に彼らの情報を整理する。この一覧は、彼らが共通の背景を持ち、共に蜂起し、そして共に滅び去ったという事実を視覚的に示している。

城名

城主名(通称)

伊東家との関係

耳川の戦いでの役割

結末

門川城

米良祐次(四郎右衛門尉)

伊東家臣。肥後菊池氏の末裔とされる 2

大友軍の先導役を務め、先鋒として参戦 9

戦死 2

塩見城

右松四郎左衛門尉

伊東一門。都於郡城主・伊東祐重の弟を祖とする 21

米良氏と共に大友軍に同調し、島津氏と敵対して参戦 21

戦死 21

日知屋城

福永氏本

伊東家臣。伊東義祐の母は福永氏の出身であり、縁戚関係にあった 22

米良・右松両氏と共に大友軍に加わり参戦 2

戦死 2

第三章:耳川の戦いと祐次の最期

天正6年(1578年)、米良祐次らの手引きによって、ついに九州の二大勢力、大友と島津が日向の地で激突する。この戦いは、祐次自身の運命を決定づけると共に、九州の戦国史における一大転換点となった。

第一節:大友軍の侵攻と日向国衆の蜂起

天正6年(1578年)2月、豊後の大友宗麟・義統親子は、3万とも4万とも号する大軍を動員し、日向への侵攻を開始した 9 。その先鋒部隊は、内応を約束していた米良祐次が守る門川城に無血で入城する 9 。門川城は、大友軍にとって日向攻略の貴重な橋頭堡となった。

これを拠点として、米良祐次、右松四郎左衛門尉、福永氏本ら「日向三城」の軍勢は一斉に蜂起。豊後から駆け付けた伊東旧臣団とも合流し、島津方についていた県(あがた)の土持親成を攻撃した 9 。大友本隊の支援も受けた彼らの勢いは凄まじく、土持氏は滅亡。大友軍は瞬く間に耳川以北の日向国を制圧した 9

しかし、この同盟軍の内部には、深刻な不協和音が響いていた。大友軍の表向きの目的は「伊東氏の旧領回復支援」であったが 25 、総帥である大友宗麟は熱心なキリシタンであり、「日向にキリスト教の理想郷を建設する」という個人的な野望を抱いていた 10 。その宗教的情熱は、進軍の過程で現地の神社仏閣を徹底的に破壊するという過激な行動となって現れた 9 。これは、彼らに協力した米良祐次ら在地国衆の伝統的な信仰や価値観を根底から蹂躙する行為であった。旧主の復権という大義のために立ち上がったはずが、結果として自らの故郷を焦土に変えるかもしれない異質な勢力に加担しているという矛盾。この内部亀裂は、大友軍全体の士気と結束を確実に蝕み、来るべき決戦における敗因の一つとなった可能性は否定できない。

第二節:高城川の決戦 ― 釣り野伏せと大友軍の壊滅

日向北部を平定した大友軍は、次に南下して島津方の重要拠点・高城(たかじょう、現在の木城町)を包囲した。しかし、高城は天然の要害に守られた堅城であり、大友軍は「国崩し」と呼ばれたフランキ砲を投入するも、攻めあぐねる 27

膠着状態が続く中、島津義久・義弘らが率いる救援軍が佐土原に到着し、高城へと迫る 10 。両軍は高城の目前を流れる高城川(現在の小丸川)を挟んで対峙し、決戦の機運は一気に高まった。

11月12日、島津軍は得意の戦術「釣り野伏せ」をもって大友軍を迎え撃った 30 。まず、囮部隊が意図的に大友軍の先鋒に攻撃を仕掛け、すぐに敗走を装う 9 。勢いに乗って追撃してきた大友軍を、あらかじめ左右の森に潜ませていた伏兵が待つ地点まで巧みに誘い込む。そして、大友軍が完全に包囲網に入った瞬間、伏兵が一斉に鬨(とき)の声を上げて三方から襲いかかったのである 10

大友軍は、田北鎮周、佐伯宗天といった主戦派の将が功を焦って深追いしたこともあり、この奇襲に指揮系統が完全に麻痺した 29 。先鋒は瞬く間に殲滅され、軍全体が総崩れとなった。折からの雨で増水していた耳川(決戦場となった高城川の北方に位置する)まで敗走した将兵は、渡河できずに多数が溺死するという惨状を呈した 9 。この戦いは、大友氏にとって文字通り壊滅的な敗北となった。

第三節:日向三城主、悉く戦死す

この大混乱の戦況の中、大友軍の一翼を担って戦っていた米良祐次は、盟友である塩見城主・右松四郎左衛門尉、日知屋城主・福永氏本と共に、その悉くが討ち死にしたと記録されている 2 。彼が具体的に戦場のどこで、どのように最期を迎えたのかを詳細に伝える史料は、残念ながら現存しない。これは、大名級ではない一国衆の武将の記録としては、決して珍しいことではない。

彼の墓所の所在もまた不明であり、同じ伊東家臣で木崎原の戦いで戦死し、小林市に立派な墓が残る須木城の米良重方とは対照的である 7 。米良祐次の死によって、彼が守り続けた門川城は島津氏の手に渡り、新たな城主として伊地知丹後守が配された 18 。祐次が旧主のために起こした反乱は、彼自身の死と、一族の門川における支配の終焉という形で幕を閉じたのである。

結論:国衆・米良祐次が映し出す戦国の実像

米良祐次の生涯は、伊東、島津、大友という三大勢力の狭間で、自らの家と一族の存続、そして主家への義と誇りの間で揺れ動き、苦渋の選択を重ねた戦国国衆の生き様を、まさに象徴するものであった。

彼の最後の選択、すなわち大友氏への内通と蜂起は、結果として自らの死と門川米良氏の没落を招いた。しかし、その行動の根底を深く探れば、単なる時勢への迎合ではない、多層的な動機が見えてくる。それは、新支配者である島津氏の下で安住することよりも、旧主・伊東氏を復権させるという「忠義」を選んだ決断であり、同時に、南北朝の忠臣を祖に持つ「菊池の末裔」としての誇りが、彼をその困難な道へと駆り立てたとも解釈できる。

彼の死は、九州の勢力図を島津氏の優位に決定づけた「耳川の戦い」という、巨大な歴史の転換点における無数の悲劇の一つであった。一個人の物語としては、ここで終わりを迎える。しかし、より大きな視点で見れば、彼の属した「米良氏」そのものは、別の系統(須木米良氏や宗家)が巧みに生き残り、江戸時代には旗本として家名を保った。そして明治期には、念願であった「菊池」の姓に復し、男爵家として近代までその血脈を繋いでいる 15

これは、個人の死を超えて「家」を存続させようとする、戦国武士の強靭な意志の表れに他ならない。米良祐次の壮絶な戦いと死もまた、その大きな歴史の流れを形作った、決して忘れてはならない一欠片なのである。

引用文献

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