最終更新日 2025-06-06

粟屋勝久

「粟屋勝久」の画像

戦国武将 粟屋勝久の実像:若狭国吉城主の生涯と時代

I. はじめに

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、若狭国(現在の福井県嶺南地方)を舞台に活躍した武将、粟屋勝久(あわや かつひさ)の生涯と事績を、現存する史料に基づいて多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とします。

粟屋勝久は、若狭守護大名であった若狭武田氏の重臣でありながら、主家の衰退に乗じて自立を模索し、若狭国国吉城(くによしじょう)を拠点として越前国の朝倉氏と長年にわたり激しい攻防を繰り広げました。また、織田信長や羽柴秀吉といった中央の覇者とも関わりを持ち、戦国乱世の激動期を生きた複雑な経歴の持ち主です 1

勝久の事績を伝える史料として特に著名なものに、軍記物である『国吉籠城記(くによしろうじょうき)』があります。しかし、この『国吉籠城記』の記述に関しては、同時代の一次史料との比較検討から、その史実性に疑義が呈されており、慎重な取り扱いが求められます 3 。本報告書では、これらの史料上の課題を踏まえつつ、粟屋勝久という人物の多角的な理解を目指します。

II. 粟屋勝久の出自と粟屋氏

A. 粟屋氏の淵源

粟屋勝久が属した粟屋氏は、清和源氏の流れを汲む安田氏の末裔とされています 1 。その名字の地は常陸国(現在の茨城県)の粟屋であったと伝えられています。南北朝時代に入ると、粟屋氏は安芸国(現在の広島県西部)の守護であった武田氏に仕え、また、毛利氏の祖である毛利時親に従って安芸国へ移住した一族もおり、これが安芸粟屋氏の始まりとなりました 5 。安芸粟屋氏は、後に戦国大名毛利氏の重臣として活躍することになります。

一方、若狭粟屋氏がいつ頃若狭国へ進出したのか、その具体的な経緯は史料上明らかではありません。しかし、安芸武田氏に仕えた安芸粟屋氏の一族がいたことから、その関係で同族であった若狭武田氏に仕えるようになったのではないかと推測されています 5 。また、同じく若狭武田氏の重臣であった逸見氏と同様に、甲斐国から安芸国へ、そして若狭国へと、守護武田氏に従って入部した一族であるとも考えられています 6

粟屋氏の活動範囲は広く、若狭に定着した具体的な経緯や時期については、現存する史料が乏しいため、未だ不明な点が多く残されています。この点は、今後の若狭地方史研究における重要な課題の一つと言えるでしょう。

B. 粟屋勝久の系譜上の位置づけ

粟屋勝久自身の前後の系譜関係は、残念ながら史料上詳らかではありません。若狭粟屋氏の他の著名な人物、例えば粟屋元隆(あわや もとたか)や粟屋光若(あわや みつわか)といった武将たちとの具体的な血縁関係も不明ですが、同族であったと考えられています 1

勝久の出自を考察する上で注目されるのが、彼が「越中守(えっちゅうのかみ)」という官途名を名乗っていた点です 1 。この「越中守」という名乗りは、粟屋氏の惣領家(本家)であった右京亮(うきょうのすけ)家の歴代当主が世襲した官途名であったとされています 1 。勝久の直接的な血縁は不明ながらも、この右京亮家の家名を再興し、その権威を継承しようとする意図があったのではないかと推測されています 1

実際に、永禄3年(1560年)末に三方郡に侵入した「越中守」を名乗る人物は、粟屋氏の牢人として本流の再興を主張していたと見る研究もあります 7 。勝久が「越中守」を名乗ったことは、単なる官職名を超えて、若狭武田氏の家中や粟屋一族内における自身の正統性や権威を高めようとする戦略的な行動であった可能性があります。出自の不明瞭さを補い、自らの立場を強化するための手段であったとも考えられ、彼の政治的野心の一端を窺わせます。

III. 若狭武田氏の家臣として、そして自立への道

A. 若狭武田氏における地位

粟屋勝久は、若狭武田氏において「武田四老」の一人に数えられるほどの重臣でした 1 。この呼称は、勝久が単なる一武将ではなく、主家である武田氏の政権運営や軍事戦略において中核的な役割を担っていたことを示唆しています。

また、勝久は若狭国国吉城主としての役割も担っていました 1 。国吉城は、若狭国の東部に位置し、越前国との国境に近い戦略的要衝でした 8 。特に、隣国越前の朝倉氏との関係が緊張する中で、国吉城は対朝倉氏防衛の最前線基地としての意味合いが強かったと考えられます。勝久がこのような重要な城の城主を任されていたことは、彼の軍事的能力と主家からの信頼の厚さを物語っています。武田四老という高い地位と、戦略的要衝である国吉城の城主という立場は、勝久が若狭武田氏にとって不可欠な軍事・政治的支柱であったことを示しており、後の彼の自立志向も、こうした確固たる実力と自信に裏打ちされていた可能性があります。

B. 主家への反旗:自立への模索

若狭武田氏は、応仁の乱以降も畿内の戦乱に巻き込まれることが多く、次第にその国力を疲弊させていきました 2 。当主の武田義統(たけだ よしずみ、後に義元)の時代には、家中の内紛も頻発し、守護としての統制力は著しく低下していました。永禄元年(1558年)には、先代当主である武田信豊(たけだ のぶとよ)と義統の間で対立が生じ、三方郡の武士たちが義統の命令に従わないなど、武田氏の権威は既に揺らいでいた状況でした 7

このような状況下で、粟屋勝久は自立への道を模索し始めます。永禄3年(1560年)末から永禄4年(1561年)正月にかけて、勝久は同じく若狭武田氏の重臣であった逸見昌経(へんみ まさつね)と共に、主君である武田義統に対して反旗を翻しました 2 。この反乱は、丹後国(現在の京都府北部)の守護代であった松永長頼(まつなが ながより、内藤宗勝としても知られる)の若狭侵攻に呼応したものであったとされています 7

この反乱の背景には、弱体化する武田氏の権威に乗じて、有力家臣たちが自らの勢力拡大を図ろうとする思惑があったと考えられます。一部の研究では、この勝久らの反乱が武田氏の守護としての地位そのものを狙ったものであり、これによって武田氏は事実上、若狭における支配権を失い有名無実の存在となったと指摘されています 7

反乱軍は当初、逸見氏の居城である砕導山城(さいちごやまじょう)に立て籠もりましたが、武田義統の救援要請を受けた越前朝倉氏の軍勢によって鎮圧されました 2 。逸見昌経は一時若狭から逃亡しましたが、粟屋勝久は本拠地である国吉城に戻り、その後も朝倉氏の攻撃に備えることになります 7

勝久が国吉城を拠点として自立的な動きを見せることができた背景には、三方郡の土豪たちの支持があったと考えられます。これらの土豪たちは、既に武田義統に対して反感を抱いており、勝久を新たなリーダーとして支持した可能性が指摘されています 7 。これは、勝久が単独で行動したのではなく、地域に一定の影響力を持っていたことを示しています。

粟屋勝久のこの反乱は、若狭武田氏の衰退を決定づける一因となり、結果として彼自身の地域における自立性を高めることになりました。これは、戦国時代に各地で見られた下剋上の一形態と捉えることができるでしょう。主家の統制力が低下し、中央政局も混乱する中で、勝久のような実力のある地方武将が自らの力で生き残りを図ろうとするのは、当時の必然的な流れであったとも言えます。

IV. 国吉城主としての粟屋勝久:朝倉氏との死闘

A. 国吉城の戦略的重要性

粟屋勝久の活動拠点であった国吉城は、若狭国三方郡佐柿(現在の福井県三方郡美浜町佐柿)に位置していました。この城は、別名を佐柿城(さがきじょう)とも呼ばれ 11 、若狭国と越前国の国境地帯における極めて重要な軍事拠点でした 8

国吉城は、標高約197メートルの城山に築かれた山城で、その立地自体が天然の要害をなしていました。急峻な山の斜面を利用し、東側と西側は急傾斜、北側には機織池(はたおりいけ)という沼地があって防御に適していたとされます 9 。城の構造としては、最高所の主郭(本丸)には部分的に石垣が用いられ、そこから尾根筋に沿って七段にも及ぶ郭(くるわ)が連続して配置されていました 9 。また、主郭から西側の尾根筋にも土塁を配した郭が存在し、麓には城主の居館(粟屋勝久館と伝わる)があったとされています 9 。大手口(正面口)は細道が曲がりくねって大軍の侵入を許さず、搦手口(裏口)も道が細く、切り立った崖が敵の進攻を阻んでいたと伝えられています 2

粟屋勝久は、弘治2年(1556年)に元々あった古城を利用して国吉城を築いた(あるいは改修した)と伝えられており 15 、彼がこの城の防御能力を最大限に引き出すための改修や強化を行った可能性は高いと考えられます。国吉城が長期間にわたる朝倉氏の猛攻に耐え抜いたのは、こうした地形的利点と、勝久による巧みな城の運用、そして人工的な防御施設の強化があったからこそでしょう。

B. 朝倉義景との6年間にわたる攻防

若狭武田氏の内部分裂と衰退が顕著になると、隣国越前の戦国大名であった朝倉義景(あさくら よしかげ)は若狭への影響力を強め、国吉城に対して数度にわたり大規模な攻撃を仕掛けました 2 。粟屋勝久は、この朝倉氏の侵攻に対し、国吉城に籠城して徹底抗戦を貫き、6年間(主に永禄6年/1563年から永禄11年/1568年とされるが、後述するようにこの年次については慎重な検討が必要)にわたり、一度も落城させることなく守り抜いたとされています 2

この長期にわたる攻防戦の様子は、主に軍記物である『国吉籠城記』によって伝えられています。それによると、粟屋方の兵力は、地侍が約100騎、農民兵を合わせても総勢600名程度という寡兵であったのに対し、攻め寄せる朝倉軍は数倍の兵力を擁していたとされます 2

朝倉軍は、兵糧攻めを狙って収穫期に周辺の村々を焼き払ったり 2 、国吉城を見下ろす駈倉山(かけくらやま)に付城(つけじろ、包囲攻撃のための拠点となる城砦)を築いたりしました 2 。さらに、近隣の神社仏閣を破壊し、寺院の梵鐘を溶かして鉄砲玉に鋳造したといった暴挙も伝えられています 2

一方、粟屋勝久率いる国吉城方は、数では劣勢ながらも、城の堅固な守りを最大限に活かし、巧みな戦術で抵抗しました。特筆すべきは鉄砲の導入で、永禄6年(1563年)の朝倉軍による攻撃の際には、粟屋方は30挺の鉄砲で応戦したと記録されており、これが若狭における鉄砲使用の初見とされています [1, 9]。また、雨風の強い夜を選んで城外に打って出て、朝倉軍の付城に夜襲をかけ、敵陣を大混乱に陥れたといった逸話も残されています 2

このように、数に劣る粟屋勢が長期間にわたり朝倉軍の攻撃を防ぎきった要因としては、第一に国吉城そのものの堅固な防御力、第二に粟屋勝久の巧みな戦術指揮(特に鉄砲の有効活用や夜襲といった奇襲戦術)、そして第三に、何よりも城兵や地元農民たちの高い士気と団結力が挙げられます。地侍から農民に至るまで城に籠もり、文字通り死力を尽くして抵抗したことが 2 、この目覚ましい防衛戦を可能にしたと考えられます。これは、戦国時代の地域領主と領民が一体となって困難に立ち向かった事例として注目されます。

C. 『国吉籠城記』の史実性と粟屋勝久像

粟屋勝久と朝倉氏の国吉城を巡る攻防戦の様子を伝える主要な史料として、『国吉籠城記』が存在します。この軍記物は一種類ではなく、複数の系統の写本が確認されており、その内容は主に、国吉城での籠城戦、織田信長の越前侵攻以降の粟屋勢による朝倉方への報復戦、そしてその後の後日談という三部構成になっています 4 。この物語は、実際に合戦に参加したとされる三方郡佐田村の土豪、田辺半太夫安次(たなべ はんだゆう やすつぐ、後の宗徳入道)が見聞した事柄を元に、合戦から30年から40年ほど経過した後に記録されたものと伝えられています 4

しかしながら、『国吉籠城記』に描かれる粟屋勝久の英雄的な活躍や、朝倉軍の侵攻年次については、近年の歴史研究、特に河村昭一氏による詳細な史料批判によって、その史実性に多くの疑問が呈されています。河村氏の研究によれば、『国吉籠城記』が伝える永禄6年(1563年)から永禄11年(1568年)にかけての毎年のような朝倉軍の若狭侵攻という記述は、同時代の一次史料との照合の結果、その年次の多くが史実とは認め難いとされています。具体的には、永禄6年、7年、8年、10年の侵攻は史実の可能性が低く、特に永禄7年と10年の侵攻はあり得ないと論じられています。永禄11年の武田元明の越前連行は史実ですが、これは国吉城攻撃が主目的ではありませんでした。永禄9年の侵攻については、わずかな可能性が残る程度とされています 3

河村氏は、これらの『国吉籠城記』の記述が、実際にあった元亀2年(1571年)および元亀4年(天正元年、1573年)の朝倉軍による若狭侵攻の出来事を元にして、永禄年間の出来事として潤色(脚色)されたものではないかと推測しています 4 。もしこの説が妥当であるならば、粟屋勝久と朝倉氏の攻防の具体的な時期や様相についての理解は、大きく修正される必要があります。

また、興味深い点として、当時この城は「国吉城」という名称ではなく、地名から「佐柿(サガキ)城」と呼ばれていたものが、『国吉籠城記』が広く流布する過程で「国吉城」という呼称が定着したという指摘もあります 11

『国吉籠城記』は、粟屋勝久を不屈の精神で籠城戦を指揮した英雄として描いています。しかし、その記述には後世の脚色が含まれる可能性が高いことを念頭に置く必要があります。とはいえ、この軍記物が全くの創作物であると断じることもできません。元亀年間における実際の激しい戦闘が、物語の核として存在したと考えられます。この『国吉籠城記』が、粟屋勝久の英雄的なイメージを後世に伝え、若狭地方の歴史における彼の評価を形成する上で非常に大きな役割を果たしたことは間違いありません。

したがって、『国吉籠城記』は、厳密な一次史料として扱うことには慎重さが求められるものの、粟屋勝久という人物が地域社会に与えたインパクトの大きさ、そして彼をめぐる記憶がどのように形成され、伝承されていったかを示す貴重な二次史料(あるいは一種の歴史文学作品)として評価することができます。粟屋勝久の実像を明らかにするためには、この「作られた英雄像」と、他の史料から読み取れる客観的な事実とを比較検討する作業が不可欠となります。

表1:『国吉籠城記』における朝倉氏侵攻記録と近年の研究による史実比較

『国吉籠城記』記載の侵攻年次

『国吉籠城記』記載の主な出来事概要

近年の研究による史実性の評価(主に河村昭一氏の研究に基づく)

比較検討に用いられた主な同時代史料・研究

永禄6年(1563年)9月

朝倉軍1000余騎侵攻、国吉城攻撃、撃退。

史実とは認め難い。粟屋勝長は反朝倉の立場になく、朝倉義景の動向とも矛盾。

年欠正月25日付安田忠治書状 4 、朝倉義景の催し物記録 4

永禄7年(1564年)9月上旬

朝倉軍侵攻。

あり得ない。朝倉景鏡の加賀出陣・自害と時期が重なり、勝長も朝倉氏と敵対していない。

「当国御陳之次第」 4

永禄8年(1565年)8月下旬

朝倉軍が耳荘で放火・略奪、中山の付城に夜討ち。

史実とは認め難い(『籠城記』の創作)。勝長は朝倉氏と敵対していない。

年欠正月25日付安田忠治書状 4

永禄9年(1566年)8月下旬

朝倉軍が佐田村侵攻、駈倉山に付城構築、国吉城攻撃失敗。

可能性はあるが確証なし。若狭の混乱と足利義秋の動向から、勝長が反朝倉方に転じた可能性。

足利義秋御内書 4 、若狭国内の武田氏内紛関連史料 4

永禄10年(1567年)8月下旬

朝倉軍が駈倉山に籠居、田畠を荒らすが国吉城へは寄せず。

考えられない。勝長は武田譜代重臣と和解し親朝倉の立場に。

粟屋勝長・豊持・山県秀政連署奉書 4

永禄11年(1568年)8月中旬

朝倉軍が国吉城通過、大倉見城攻撃後、武田元明を越前へ連行。

武田元明の越前連行は史実。ただし国吉城攻撃が主目的ではない。

同時代史料による裏付け 4

『籠城記』の基礎となった可能性のある史実の侵攻

元亀2年(1571年)9月~11月

(『籠城記』では永禄年間の出来事として描かれる)

史実の可能性が高い。複数の同時代史料で裏付け。勝長は信長方で反朝倉。

浅井長政書状、服部入道書状、鳥居初書状、朝倉義景書状、小林吉長書状 4

元亀4年(1573年)4月~5月、8月

(『籠城記』では永禄年間の出来事として描かれる)

史実の可能性が高い。中山の付城の存在が『信長公記』で確認。

『越州軍記』、多胡宗右衛門尉宛朝倉義景書状、『信長公記』 3

V. 中央政権との関わり:織田信長と羽柴秀吉

A. 織田信長との連携

長年にわたり越前朝倉氏と熾烈な戦いを繰り広げていた粟屋勝久にとって、中央で急速に勢力を拡大していた織田信長の存在は無視できないものでした。元亀元年(1570年)4月、織田信長が越前朝倉義景討伐の軍を起こし若狭に侵攻すると、粟屋勝久は信長を自らの居城である国吉城に迎え入れ、その越前攻めに積極的に協力しました [ 1 (1.1, 1.2), 11 ]。信長はこの国吉城を一時的な本陣としたと伝えられています 8

この時、信長は勝久の長年にわたる朝倉氏との籠城戦を賞賛したといいます 2 。信長にとって、若狭と越前の国境に位置し、堅固な守りを誇る国吉城と、その城主である勝久の協力は、朝倉氏攻略の上で戦略的に非常に重要でした。一方、勝久にとっても、強大な信長の力を背景にすることで、長年の宿敵である朝倉氏に対抗し、自身の若狭における立場をより強固なものにしようという狙いがあったと考えられます。

有名な金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)の際には、浅井長政の裏切りにより窮地に陥った織田軍が、国吉城を経由して京へと撤退したとされています 11 。このことは、国吉城が織田軍にとって重要な退路の一つとして機能したことを示しています。

さらに、天正元年(1573年)、信長による朝倉氏の本拠地である一乗谷(いちじょうだに)攻撃の際には、勝久は若狭勢の先鋒として一番乗りを果たし、その武功を称えられたと伝えられています。この時、戦利品として五百体愛染明王図や青磁浮牡丹皿などを持ち帰り、地元の寺社に寄進したという逸話も残っています 13

朝倉氏滅亡後、若狭国は信長の重臣である丹羽長秀(にわ ながひで)に与えられましたが、粟屋勝久ら若狭武田氏の旧臣たちは丹羽長秀の与力(よりき、配下の武将)としてその支配下に入り、織田政権下での地位を確保しました 1 。勝久の信長への協力は、単なる従属ではなく、自身の勢力保持と長年の宿敵であった朝倉氏への対抗という明確な目的を持った戦略的な提携であったと言えるでしょう。これにより、彼は戦国乱世の激動期を乗り切るための一つの活路を見出したのです。

B. 本能寺の変後と羽柴秀吉への臣従

天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺の変で横死すると、日本の政治状況は再び大きく揺らぎます。この激変に対し、粟屋勝久は冷静かつ現実的な判断を下しました。旧主である若狭武田氏の当主、武田元明(たけだ もとあき)は、明智光秀に味方して若狭の旧領回復を目指しましたが、勝久は同じく武田氏旧臣であった熊谷直之(くまがい なおゆき)と共にこれに従いませんでした 2 。これは、光秀の将来性を見限り、섣불리味方しても利がないと判断したためと考えられます 2

その後、明智光秀を討って信長の後継者としての地位を確立した羽柴秀吉(はしば ひでよし、後の豊臣秀吉)に、勝久は仕えることになります。秀吉のもとでは馬廻役(うままわりやく)を務めたとされています 1 。馬廻役は主君の身辺警護や伝令などを務める側近であり、秀吉から一定の信頼を得ていた可能性が窺えます。

なお、勝久はそれ以前の天正9年(1581年)に京都で行われた信長による大規模な軍事パレードである御馬揃え(おうまぞろえ)にも、丹羽長秀の与力として参加しており 1 、この頃から中央政権との繋がりを維持し、情報収集にも努めていたと考えられます。

秀吉の天下統一が進む中で、勝久は国替えとなり、国吉城には木村重茲(きむら しげこれ、常陸介とも)が新たな城主として入部しました 1 。本能寺の変という未曾有の政変に対し、旧主の動きに同調せず、冷静に時勢を見極めて新たな覇者である秀吉に仕えたことは、粟屋勝久の現実的な判断力と、戦国武将としてのしたたかな生き残り戦略を示すものと言えるでしょう。彼は、主家への義理よりも、自身の家と勢力を次代に存続させることを優先する、戦国武将の典型的な行動様式の一つを示したのです。これは、彼が単なる地方の豪族ではなく、中央の政局の動向をも見据える広い視野を持っていたことの証左とも言えるでしょう。

VI. 「粟屋勝久」と「粟屋勝長」:同一人物説の検討

粟屋勝久の諱(いみな、実名)については、史料によって「勝久」の他に「勝長(かつなが)」という名も見られます 1 。この二つの名が同一人物を指すのか、あるいは別人なのかという点は、粟屋勝久の実像を明らかにする上で重要な問題です。

この点に関して、いくつかの史料的根拠から、粟屋勝久と粟屋勝長は同一人物であるとする説が有力となっています。

第一に、天正5年(1579年)9月の日付を持つ「粟屋越中守請取状」という古文書の中に、粟屋氏の家臣として粟屋美作守長景(あわや みまさかのかみ ながかげ)および粟屋甚右衛門尉長吉(あわや じんえもんのじょう ながよし)という人物名が確認されます 1 。彼らの名前に含まれる「長」の字は、当時の武家社会の慣習として、主君からその諱の一字を与えられる「偏諱(へんき)」によるものであると推測されます。この場合、彼らの主君が「長」の字を持つ人物、すなわち「勝長」であった可能性が考えられます 1

第二に、花押(かおう、署名の代わりに用いられた独自の記号)の比較研究からも、越中守を名乗った人物(勝久)と勝長と名乗った人物の花押が一致する、あるいは極めて類似していることが指摘されており、両者が同一人物であることを強く示唆しています 1

さらに、福井県文書館の研究紀要に掲載された論文では、永禄3年(1560年)から永禄4年(1561年)にかけての活動が「粟屋越中守勝長」として記述されており 7 、この時期に「勝長」を名乗る越中守が存在したことが確認できます。

これらの史料的根拠から、粟屋勝久と粟屋勝長は同一人物であり、時期や状況によって諱を使い分けていたか、あるいは「勝長」がより正式な諱であった可能性などが考えられます。戦国時代の武士が複数の名を持つことは珍しくなく、諱の変遷や使い分けはしばしば見られる現象です。花押や偏諱といった史料学的な検討は、こうした人物同定において極めて重要な役割を果たします。

本報告書では、一般的に広く知られている「粟屋勝久」の名を主として用い、必要に応じて「勝長」の名にも言及することとします。

VII. 晩年と子孫

A. 死没と墓所

粟屋勝久は、天正13年(1585年)2月18日に病により死去したと伝えられています 1 。波乱に満ちたその生涯は、織田信長による天下統一事業が道半ばで途絶え、豊臣秀吉がその後継者として台頭していく、まさに戦国時代の終焉期に幕を閉じました。

勝久の墓所については、彼の居城であった国吉城の麓、福井県三方郡美浜町佐柿に現存する徳賞寺(とくしょうじ)の境内にある五輪塔が、それであると伝えられています 1 。この五輪塔は、今日まで勝久の武勇と国吉城での激闘を静かに物語っています。

B. 子孫たちのその後

粟屋勝久の死後も、粟屋家はその血脈を後世に伝えています。勝久の子として勝家(かついえ)という人物がおり、彼も父同様に羽柴(豊臣)秀吉に仕えましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の最中に討死したとされています 6

勝久の孫の代になると、その動向はさらに多様化します。孫の一人である助太夫(すけだゆう)は、豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では豊臣方として戦いました。大坂落城後は、伊勢国津藩主であった藤堂高虎(とうどう たかとら)に仕官し、武士としての道を歩みました 1

同じく勝久の孫とされる粟屋勝長(これは勝久本人とは別人、あるいは同名を名乗る子孫と考えられます)は、豊後国臼杵藩(ぶんごのくにうすきはん、現在の大分県臼杵市)の藩主であった稲葉氏に仕え、家老職という重職を務めました。この系統の子孫は、その後も代々臼杵藩の家老職を勤め、明治維新に至るまで家名を保ちました 1 。元文3年(1738年)には、子孫の一人である粟屋勝興(あわや かつおき)が臼杵藩の御鑓奉行(おやりぶぎょう)に任じられたという記録も残っています 1

粟屋勝久の死後、彼の子孫たちが豊臣方、そして徳川方の諸大名にそれぞれ仕官し、家名を存続させていった事実は、戦国時代を生き抜いた多くの武家に見られる、主家の滅亡や時代の大きな変化に対応するための柔軟な処世術を示す好例と言えるでしょう。特に臼杵藩で家老職を世襲するに至ったことは、粟屋勝久自身の武名や、国吉城での功績が、子孫たちの評価や地位にも少なからず影響を与えた可能性を示唆しています。一族の存続を最優先課題とする戦国武家の現実的な生き残り戦略の一端を、粟屋家の子孫たちの姿に見ることができます。

VIII. 粟屋勝久の評価と歴史的意義

粟屋勝久は、若狭武田氏の重臣として、また国吉城を拠点とした地域勢力として、さらには織田信長や羽柴秀吉といった中央政権とも関わりを持った複雑な立場にありました。彼の生涯を振り返ると、いくつかの側面からその評価と歴史的意義を考察することができます。

まず、若狭武田氏の家臣としては、武田四老の一人に数えられるなど、主家の中で重きをなしていました 1 。しかし、主家の衰退期には逸見昌経と共に反乱を起こすなど 2 、必ずしも忠実な家臣であったとは言えません。これは、弱体化する主家に見切りをつけ、自らの力で生き残りを図ろうとする戦国武将の現実的な行動とも評価できます。

国吉城主としては、越前朝倉氏の度重なる侵攻に対し、寡兵ながらも長期間にわたり城を守り抜いた功績は特筆に値します 2 。『国吉籠城記』にはその英雄的な活躍が描かれていますが、前述の通り、その記述の史実性については慎重な検討が必要です。しかし、実際に朝倉氏の侵攻を何度も撃退した事実は、勝久の軍事指揮官としての能力の高さと、国吉城の戦略的重要性を物語っています。この徹底抗戦は、若狭の在地勢力としての自立性を象徴するものであったと言えるでしょう。

中央政権との関わりにおいては、織田信長の若狭侵攻に際してはいち早く協力し、その後の丹羽長秀の与力としての地位を確保しました 1 。本能寺の変後には、旧主武田元明の動きに同調せず、羽柴秀吉に仕えるなど 1 、時勢を見極める政治的判断力も持ち合わせていたことが窺えます。これは、地方の国人領主が中央の覇権争いに巻き込まれながらも、巧みに立ち回って生き残りを図った事例として評価できます。

『国吉籠城記』によって形成された英雄像は、後世の粟屋勝久の評価に大きな影響を与えました。しかし、近年の研究では、この軍記物の記述と一次史料との比較検討が進み、より客観的な勝久像が模索されています 3 。史実としての勝久と、伝承の中の勝久を区別しつつ、その両面から彼を理解することが重要です。

歴史的意義としては、粟屋勝久の生涯は、戦国時代の若狭地方における権力構造の変遷を体現しています。守護大名であった若狭武田氏の衰退から、織田・豊臣政権による中央集権化が進む過程で、勝久のような在地領主がどのように対応し、自らの存続を図ったのか。彼の行動は、戦国時代から近世へと移行する過渡期の地方武士の動向を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれます。

総じて粟屋勝久は、主家の衰退という逆境の中で自らの力で活路を切り開き、地域の独立性を守ろうとした気骨ある武将であったと言えるでしょう。同時に、中央の覇者の動向を見極め、巧みに時流に乗ることで家の存続を図った現実主義者でもありました。彼の生涯は、戦国時代の地方武将が直面した困難と、それを乗り越えるための多様な戦略を象徴していると言えます。

IX. おわりに

本報告書では、戦国時代の若狭国で活躍した武将、粟屋勝久の出自、若狭武田氏家臣としての活動、国吉城をめぐる朝倉氏との攻防、織田信長・羽柴秀吉との関係、そして晩年と子孫に至るまでを、現存する史料に基づいて概観しました。

粟屋勝久は、若狭武田氏の重臣でありながら、主家の衰退期に自立を模索し、国吉城を拠点に朝倉氏の侵攻を長年にわたり防ぎきった不屈の武将でした。また、織田信長や羽柴秀吉といった中央の覇者とも巧みに関わり、激動の戦国乱世を生き抜きました。その事績は、軍記物『国吉籠城記』によって英雄的に語り継がれる一方で、近年の研究では史料批判を通じた客観的な実像解明が進められています。

彼の生涯は、戦国時代の地方武士が、主家の衰退、隣国からの侵攻、そして中央政権の台頭という複雑な状況の中で、いかにして自らの勢力を保持し、家名を存続させようとしたかを示す好例と言えます。

しかしながら、粟屋勝久に関しては、未だ解明されていない点も多く残されています。例えば、彼の正確な系譜、特に粟屋元隆ら他の粟屋一族との具体的な関係、そして『国吉籠城記』に描かれた国吉城攻防戦のさらなる詳細な実態解明などは、今後の研究課題として挙げられます。新たな史料の発見や、既存史料の再検討を通じて、粟屋勝久という人物、そして彼が生きた時代の若狭地方史への理解が一層深まることが期待されます。

X. 付表

表2:粟屋勝久 関連年表

年代(西暦)

主な出来事

典拠史料(例)

天文年間頃

生誕と推定される

1

弘治2年(1556年)

(伝承)古城を利用して国吉城を築城(または改修)

15

永禄3年(1560年)末~永禄4年(1561年)

逸見昌経と共に武田義統に反乱。丹後守護代松永長頼に呼応。朝倉氏の介入により鎮圧。

2

永禄4年(1561年)5月

粟屋越中守勝長(勝久)が田辺又四郎の所領を安堵。

7

永禄6年(1563年)頃~

(『国吉籠城記』による)朝倉義景による国吉城攻撃が始まる。勝久は籠城し、これを撃退。

2 (『国吉籠城記』に基づく記述)

元亀元年(1570年)4月

織田信長、越前朝倉義景討伐のため国吉城に入城。勝久は信長に協力。

[ 1 (1.1, 1.2), 11 ]

元亀2年(1571年)9月~11月

(河村説)朝倉軍が若狭三方郡に侵攻。国吉城周辺で激戦。

4 (河村論文による)

元亀4年(天正元年、1573年)4月~5月、8月

(河村説)朝倉軍が若狭三方郡に侵攻。国吉城に対する付城が存在。

3 (河村論文、『信長公記』など)

天正元年(1573年)8月

織田軍による一乗谷攻撃に若狭勢として参加、一番乗りを果たす(伝)。

13

天正5年(1579年)9月

「粟屋越中守請取状」に家臣への偏諱の可能性を示す記述。

1

天正9年(1581年)

京都御馬揃えに丹羽長秀の与力として参加。

1

天正10年(1582年)

本能寺の変。武田元明は明智光秀に味方するが、勝久は従わず。後に羽柴秀吉に仕える。

1

天正13年(1585年)2月18日

死去(病死とされる)。

1

引用文献

  1. 粟屋勝久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E5%B1%8B%E5%8B%9D%E4%B9%85
  2. ~国吉城の戦い~朝倉氏の攻撃を6年間防いだ粟屋勝久の知略 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=moWGPsvUhGU&pp=ygUKI-WbveWQieWfjg%3D%3D
  3. 河村昭一先生に『若狭武田氏と家臣団』の読みどころを解説して ... https://note.com/ebisukosyo/n/ne64aee0e021d
  4. 『国吉籠城記』における朝倉軍の侵攻年次について - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/614584.pdf
  5. 粟屋氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E5%B1%8B%E6%B0%8F
  6. 粟屋氏概略 - 若狭武田氏 - K-Server http://wakasa.k-server.org/hikan/awaya01.html
  7. 戦国末期若狭支配の動向 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615600.pdf
  8. 国吉城の見所と写真・1000人城主の評価(福井県美浜町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/451/
  9. 『福井県史』通史編2 中世 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-5-01-03-01-14.htm
  10. 国吉城攻防戦 朝倉氏の若狭武田氏支援と若狭攻防戦(1) http://fukuihis.web.fc2.com/war/war070.html
  11. 難攻不落の国吉城 - うららのまち「語り部」ふくい https://fukuino.exblog.jp/29059855/
  12. “難攻不落”の 若狭国吉城と 「国吉籠城戦」 の真実 - 福井県 https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/senngokuhiwa_d/fil/fukui_sengoku_21.pdf
  13. 若狭武田と越前朝倉~若越戦国めぐり~ - 美浜町 https://www.town.fukui-mihama.lg.jp/uploaded/attachment/2694.pdf
  14. 若狭 国吉城(美浜町)/登城記 - タクジローの日本全国お城めぐり http://castle.slowstandard.com/16shinetsuhokuriku/22fukui/post_1144.html
  15. 佐柿国吉城 - 若狭美浜観光協会 https://wakasa-mihama.jp/spot/%E4%BD%90%E6%9F%BF%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%9F%8E/
  16. 国吉城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%9F%8E
  17. 若狭国吉城歴史資料館 https://wakasa-mihama.jp/wp/wp-content/uploads/2022/03/kuniyoshisiryoukan01.pdf
  18. 若狭国吉城歴史資料館 [PDFファイル/3.84MB] - 美浜町 https://www.town.fukui-mihama.lg.jp/uploaded/attachment/6085.pdf
  19. 青磁浮牡丹皿・五百体愛染明王図 - 文化遺産カード https://herica.net/detail/card/354/
  20. 若狭 国吉城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/wakasa/kuniyoshi-jyo/
  21. 粟屋勝久とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%B2%9F%E5%B1%8B%E5%8B%9D%E4%B9%85
  22. 町史跡 国吉城址 【続日本100名城 No.139】 - 福井県美浜町 https://www.town.fukui-mihama.lg.jp/soshiki/30/493.html
  23. 若狭国吉城歴史資料館 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/451/memo/2690.html