粟飯原俊胤は戦国末期の下総武将。北条氏に属し小田原征伐で没落。後に鏑木と改姓し江戸の神職へ転身。激動の時代を生き抜いた地方豪族の再生の軌跡。
粟飯原俊胤(あいはら としたね、生年不詳 - 寛永16年(1639年)?)は、日本の歴史が中世から近世へと大きく転換する時代を生きた、下総国の武将である。下総の名族・粟飯原氏の当主として小見川城(現在の千葉県香取市)に拠り、関東の覇者・北条氏に属していたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐によって、その運命は激変する。
一般的に俊胤は、「小田原征伐で北条方に与して没落した地方城主」として知られている 1 。しかし、この評価は彼の人生の一断面に過ぎない。彼の生涯を深く探求すると、武士としての栄光と没落、そしてその後の謎に満ちた後半生という、時代の変革期を生きた地方豪族の劇的な運命が浮かび上がる。特に、所領を失った後に「鏑木(かぶらぎ)」と改姓し、江戸の神職に転身したとされる伝承は、彼の物語に一層の深みを与えている 3 。
本報告書は、粟飯原俊胤という一人の人物の生涯を、その出自である名族・粟飯原氏の歴史的背景から、戦国武将としての活動、そして没落後の意外な形での家名存続に至るまで、現存する史料や伝承を基に徹底的に追跡し、その実像に迫ることを目的とする。彼の軌跡は、一個人の物語に留まらず、中世的な在地領主の時代の終焉と、近世的な支配体制への移行という、日本の社会構造の大きな変動を象徴する貴重な事例である。
【表1】粟飯原俊胤 生涯年表
年代(西暦) |
出来事 |
関連人物・勢力 |
典拠 |
生年不詳 |
千葉介邦胤の次男として誕生したとされるが、異説も存在する。 |
千葉邦胤、千葉重胤 |
5 |
永禄3年(1560年) |
里見氏家臣・正木時忠が下総に侵攻し、粟飯原氏の居城・小見川城が攻撃を受ける。 |
正木時忠、里見氏 |
7 |
天正18年(1590年) |
豊臣秀吉による小田原征伐が開始。兄とされる千葉重胤と共に北条方として小田原城に籠城。 |
豊臣秀吉、北条氏政、千葉重胤 |
8 |
同年 |
俊胤の不在中、本拠地である小見川城が豊臣軍の攻撃により落城。 |
浅野長政(豊臣軍) |
1 |
同年 |
北条氏の降伏に伴い、主家の千葉氏と共に改易され、武士としての所領と地位を失う。 |
|
8 |
文禄元年(1592年)頃 |
(一説)徳川家康の五男・武田信吉に仕官する。 |
武田信吉、徳川家康 |
3 |
慶長8年(1603年) |
(一説)主君・武田信吉の死去により、再び浪人となる。 |
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3 |
時期不詳 |
(一説)兄・重胤の跡を継ぎ千葉宗家の家督を相続し、「鏑木」と改姓。江戸浅草の鳥越神社の神主に招かれる。 |
千葉重胤 |
3 |
元和7年(1621年) |
子の鏑木胤正が江戸城にて年賀の儀を務める。 |
鏑木胤正 |
10 |
寛永16年(1639年) |
江戸にて死去したと伝わる。 |
|
6 |
粟飯原俊胤の行動原理を理解するためには、彼が属した「粟飯原氏」という一族の歴史的背景を深く掘り下げる必要がある。「鎌倉時代以来の名族」という評価は、単に古い家柄であること以上に、その複雑な出自と千葉一族内での特異な地位に由来する。
粟飯原氏の起源は一つではなく、大きく分けて二つの系統が存在する。この点を明確に区別することが、一族の全体像を把握する上での第一歩となる。
桓武平氏千葉氏族
俊胤に直接繋がる主流の系統であり、桓武天皇を祖とする平氏の一族、千葉氏の支流である 8。この千葉氏族の粟飯原氏にも、さらに二つの源流が伝わっている。
武蔵七党横山党流
上記の千葉氏流とは全く血縁関係のない、もう一つの粟飯原氏である。武蔵七党の一つ、横山党の一族が相模国高座郡粟飯原郷(現在の神奈川県相模原市緑区相原)を本拠として粟飯原(藍原とも書く)を名乗った 13。この一族は、建暦3年(1213年)の和田合戦において和田義盛方に与して討死しており、下総の粟飯原氏とは明確に区別されるべき存在である 12。
平常長流の粟飯原氏は、その出自から千葉一族の中でも特異な地位を占めていた。もともと彼らの祖先である千田平氏は、千葉宗家と同等の家格を持つ独立した勢力であった 12 。治承・寿永の乱(源平合戦)の過程で、源頼朝にいち早く味方した千葉介常胤の勢力下に組み込まれ、その被官となったが、その高い出自は尊重され続けた。
鎌倉時代から室町時代を通じて、粟飯原氏は同じく重臣であった原氏と並び、千葉氏被官の中でも最重要視される家柄として存続した 12 。この高い家格は、単に地方の有力者であるに留まらず、後に室町幕府の中枢で活躍する人物を輩出する土壌となった。
一族の強さの源泉は、単一の要素に帰結するものではない。それは、武家としての「平常長流」が持つ軍事力と経済力、そして神官家としての「平良兼流」の伝承が持つ精神的権威という、二重の構造に支えられていた可能性が考えられる。武家と神官が、いわば役割を分担しながら一族全体のネットワークを形成し、その権威と勢力を維持していたのではないか。俊胤の没落後、その子孫が神職へと転身する道を選んだのは、この一族が元来その内に秘めていた「神官」という文化的遺伝子が、時代の要請に応じて発現した結果と解釈することも可能であろう。
【表2】粟飯原氏の主要な系譜と系統
系統 |
祖先とされる人物 |
主な活動拠点 |
特徴・役割 |
俊胤との関係 |
桓武平氏千葉氏族(平常長流) |
平常長の子孫(粟飯原常基、家常など) |
下総国千田庄、小見川 |
武家。小見川城主として数百年間、地域を支配。室町幕府の要職も務める。 |
直接の祖先 |
桓武平氏千葉氏族(平良兼流) |
平良兼の子孫(盛家、良定など) |
不詳(伝承上) |
神官。千葉神社の神職を務めたと伝わるが、系譜の実在性には不明な点が多い。 |
間接的(一族の権威を形成) |
武蔵七党横山党流 |
横山権守隆兼の子孫 |
相模国高座郡粟飯原郷 |
武家。和田合戦で滅亡。 |
血縁関係なし |
戦国末期に至るまで粟飯原氏が下総国で大きな影響力を保持し得た背景には、その本拠地が持つ地理的・経済的な重要性と、中央政界との強固な結びつきがあった。
伝承によれば、粟飯原氏の居城・小見川城は、鎌倉時代初期の建久年間(1190年~1199年)に粟飯原朝秀によって築かれたとされる 1 。この城は、利根川下流域に位置し、当時は広大な内海であった「香取の海」に直接面した、標高約40メートルの台地の先端に築かれていた 1 。
この立地は、水上交通の結節点、すなわち「津(港)」を支配する上で絶大な優位性をもたらした。中世において、水運は物資輸送の大動脈であり、これを掌握することは経済的・軍事的な力の源泉であった 15 。実際に、室町時代の史料には、粟飯原氏の一族が「小見川の津」を知行していたことが記録されており、これが彼らの長年にわたる繁栄の基盤であったことは疑いない 16 。小見川城は、単なる軍事拠点ではなく、地域の経済を支配するセンターとしての機能も果たしていたのである。
粟飯原氏は、下総の一在地領主という立場に留まらなかった。特に室町時代には、一族から足利将軍家に直接仕える「奉公衆」として、中央政界で重きをなす人物を輩出している。
その筆頭が、南北朝時代に活躍した**粟飯原清胤(きよたね)**である。清胤は足利尊氏・直義兄弟の側近として信任され、幕府の財政を司る政所執事(まんどころしつじ)や、将軍家の家政を取り仕切る御所奉行といった要職を歴任した 16 。観応の擾乱(足利尊氏と直義の対立)においては尊氏方として行動するなど、幕政の中枢に深く関与していた 16 。
清胤の子とされる**粟飯原詮胤(あきつね)**もまた、父の跡を継いで将軍・足利義詮に仕えた。さらに、幼くして千葉宗家の家督を継いだ千葉介満胤の後見人を務めた記録も残っている 16 。これは、粟飯原氏が単なる千葉氏の家臣ではなく、時には千葉一族全体を代表して幕府と交渉するほどの高い政治的地位にあったことを示している。
その後も、粟飯原氏の一族は代々幕府の奉公衆として名を連ねており、中央政界との太いパイプを維持し続けた 16 。
一地方豪族に過ぎないはずの粟飯原氏が、なぜ幕府の最高幹部にまで登り詰めることができたのか。それは、彼らが単なる武力集団ではなく、香取の海の水運がもたらす経済力という、幕府にとっても無視できない「実利」を握っていたからに他ならない。そして逆に、幕府から与えられた高い官位や役職は、下総における彼らの支配を正当化し、その権威を一層強固にするという機能を果たした。この「地方における経済的実利」と「中央における政治的権威」とが相互に作用し合う権力循環システムこそが、粟飯原氏が数百年もの間、下総に勢力を保ち続けた力の源泉であった。戦国末期、このシステムが中央権力(豊臣政権)の登場によって根底から覆されたことこそ、彼らの没落の根本的な原因となったのである。
粟飯原俊胤が歴史の表舞台に登場する戦国時代末期、北総(下総国北部)地域は、関東の覇権をめぐる巨大勢力の狭間で、常に緊張に晒されていた。彼の出自の謎と、当時の緊迫した地域情勢は、その後の運命を理解する上で不可欠な要素である。
俊胤の出自、特に千葉宗家との関係については、史料によって記述が異なり、今日においても確定的な結論は出ていない。
これらの説の真偽を現代において完全に証明することは困難である。しかし、この出自の曖昧さ自体が、重要な歴史的背景を物語っている。武力や所領といった物理的な力が絶対的な価値を持っていた戦国時代が終わり、家の存続が危ぶまれた時、それに代わるものとして「血統の権威」が新たな存続の切り札として浮上した。武士としての価値を失った俊胤、あるいはその子孫が、生き残りをかけて「千葉宗家の血筋」というブランドを必要としたことは想像に難くない。俊胤の出自をめぐる謎は、この時代の武家が直面した必死の生き残り戦略の証左と見ることができる。
俊胤が生きた16世紀後半、下総国は小田原の北条氏の勢力圏に組み込まれていた。そして、その南に位置する安房国(千葉県南部)を本拠とする里見氏との間で、熾烈な抗争が繰り広げられていた。粟飯原氏が本拠とする小見川は、まさしくその最前線の一つであった。
永禄3年(1560年)、里見氏の猛将として知られる正木時忠が軍を率いて下総に侵攻した際、小見川城もその攻撃目標となった 7 。この時、正木軍は小見川城を攻め落とすための前線基地として、城の対岸に「橋向陣屋(相根塚の城)」を築いたと伝わる 20 。『粟飯原金右門記』という記録によれば、後に粟飯原宗正(俊胤との具体的な関係は不明)がこの陣屋を攻略し、里見軍を退けたとされている 22 。
これらの戦いの記録から、粟飯原氏が北条氏の指揮下にある国人領主として、対里見戦線において重要な軍事的役割を担っていたことがわかる。彼らの運命は、関東の地域秩序を支配する北条氏の盛衰と、不可分に結びついていたのである。
天正18年(1590年)、関白豊臣秀吉による小田原征伐は、関東の政治地図を根底から塗り替え、粟飯原氏をはじめとする多くの在地領主の運命を決定づけた。
天下統一の総仕上げとして、秀吉が20万を超える大軍を率いて関東に進攻すると、この地に割拠する諸将は、北条方につくか、豊臣方につくかという究極の選択を迫られた。長年にわたり北条氏の支配体制に組み込まれていた粟飯原俊胤にとって、その選択肢は事実上、一つしかなかった。
俊胤は、主家である千葉氏の当主・千葉重胤(系図上は俊胤の兄)と共に、北条氏の命運を賭けた決戦の地、小田原城へと馳せ参じ、籠城軍の一翼を担った 2 。これは、当時の関東の国人領主として、主筋である北条氏に対して忠誠を尽くすという、旧来の秩序の中では当然の行動であった。一部の史料では、彼らは人質としての側面も持って入城したと記されている 8 。
俊胤ら主力が小田原城で籠城している間、豊臣軍は本隊とは別に別動隊を編成し、関東各地に点在する北条方の支城を次々と攻略していった。浅野長政らが率いる軍勢が、この房総方面の制圧を担当した 9 。
城主である俊胤を欠いた小見川城は、この豊臣軍の圧倒的な兵力の前に抗う術もなく、同年中に攻撃を受け落城した 1 。これにより、粟飯原氏は鎌倉時代から約400年にわたって維持してきた下総国における根拠地を、完全に失うこととなったのである。
約3ヶ月にわたる籠城戦の末、小田原城は開城し、戦国大名・後北条氏は滅亡した。この結果、北条方に与した千葉氏もまた、秀吉によって所領を没収され、改易処分となった。
小田原城を出た粟飯原俊胤もまた、主家と運命を共にし、武士としての所領と地位のすべてを失った 8 。ここに、桓武平氏の名門として、鎌倉・室町・戦国という激動の時代を生き抜いてきた下総の豪族・粟飯原氏は、在地領主としての歴史に幕を閉じたのである。
この一連の出来事は、単に粟飯原氏個人の判断ミスや軍事的な敗北として片付けられるものではない。彼が依拠していたのは、「関東公方―古河公方―後北条氏」と続く、関東という地域ブロックの自律的な政治秩序であった。しかし、豊臣秀吉という新たな中央集権的権力の出現は、その旧来の秩序そのものを破壊するものであった。宇都宮国綱のように、いち早く旧主を見限り秀吉に参陣した者は所領を安堵されたが 24 、俊胤は最後まで旧秩序への忠誠を貫いた。彼の没落は、時代の巨大な構造転換に乗り遅れた、あるいは乗ることを拒んだ、数多の関東武士たちが辿った運命の象徴であった。
武士としてのすべてを失った粟飯原俊胤の後半生は、複数の伝承が交錯し、謎に満ちている。しかし、それらの断片的な記録を繋ぎ合わせることで、時代の荒波を生き抜くための、驚くべき変身の軌跡が浮かび上がってくる。
小田原落城後の俊胤の足跡については、主に二つの説が伝えられており、それらは最終的に一つの結論へと収束していく。
これら二つの説は、最終的に「神職への転身」という点で合流する。浪人した後、あるいは千葉宗家を継承した後、俊胤は武家社会から離れ、江戸浅草に鎮座する鳥越神社の神主に招かれたというのである 3 。
この時、彼は正式に「鏑木」を名乗ったとされる。そして、俊胤の子である胤正(たねまさ)が鳥越神社の神主となり、もう一人の子・正胤(まさたね)は、同じく浅草にあった第六天神(現在の榊神社)の神主となって、それぞれ家を興したと伝えられている 4 。俊胤自身は、寛永16年(1639年)に江戸でその波乱の生涯を閉じたとされる 6 。
俊胤の後半生の軌跡は、まさに「武」の価値が絶対であった時代が終わり、それに代わる新たな価値観が模索された時代の象徴である。所領を失い、武士としての存在意義が失われた世界で、彼は「文」や「神」の世界に新たな活路を見出した。改姓や宗家継承の主張は、この劇的な転身を社会的に正当化し、成功に導くための戦略的な布石であったと考えられる。それは、物理的な力(武力)を、精神的・文化的な権威(神事・由緒)へと転換させる、非常に高度なサバイバル戦略であり、戦国から江戸へと移行する時代の社会階層の流動性と、家名を未来へ繋ごうとする人々の執念を力強く物語っている。
【表3】小田原征伐後の粟飯原俊胤に関する諸説比較
説 |
内容 |
根拠となる史料・伝承 |
考察 |
武田信吉 仕官説 |
徳川家康の五男・武田信吉に一時仕官するが、信吉の早世により浪人となる。 |
『東京カテドラル関口教会百年史』などの後世の記録 3 |
没落した武将が新たな有力者(徳川氏)に再仕官を試みる、典型的な行動パターンを示す。 |
千葉宗家 継承説 |
兄・重胤の跡を継ぎ、千葉氏第32代当主となる。 |
『千葉氏余聞』などの系図類 4 |
武士としての実体を失った後、「血統の権威」を拠り所として家の存続を図る戦略。 |
鏑木氏 改姓説 |
姓を「粟飯原」から千葉氏重臣の「鏑木」に改める。 |
複数の系図、鳥越神社の伝承 3 |
新たな身分(神職)に転身するにあたり、由緒ある姓を名乗ることで権威付けを図った可能性。 |
神職 転身説 |
江戸浅草の鳥越神社・第六天神の神主に招かれ、子孫が世襲する。 |
『千葉氏余聞』、鳥越神社の社伝、鏑木家の系図 3 |
すべての説の帰結点。武士としての再生を断念し、神職として家名を存続させる道を選択したことを示す。 |
粟飯原俊胤の物語は、彼の死で終わらない。武士としての「粟飯原氏」は滅びたが、その血脈は「鏑木氏」として、全く異なる形で江戸、そして現代にまで受け継がれていくことになる。
俊胤の子とされる鏑木胤正が初代神主となって以降、鏑木家は江戸時代を通じて浅草・鳥越神社の神職を代々世襲した 4 。この地位は、単なる偶然によって得られたものではない。鳥越神社の社紋は「七曜紋」であり、これは千葉氏一族が篤く信仰した妙見菩薩の紋「九曜紋」と深い関連があるとされる 28 。鏑木家が「千葉一族の由緒ある家柄」であることが、神主としての地位を精神的な面から強く支えていたのである 28 。
鏑木家は、神職として徳川幕府とも良好な関係を築いていた。初代の胤正は、元和7年(1621年)に江戸城の大広間に召され、将軍への年賀の儀を務めたという記録も残っており、その社会的地位の高さがうかがえる 10 。
驚くべきことに、この鏑木家による鳥越神社の奉職は、江戸時代で途絶えることなく、明治、大正、昭和、そして平成、令和の現代に至るまで続いている 27 。粟飯原俊胤という一人の戦国武将から始まった血脈が、400年以上の時を超え、武士から神主へとその姿を変えながらも、連綿と受け継がれているのである。これは、数多の武家が歴史の彼方へと消えていった中で、極めて稀有な事例と言える。
この物語の結末は、日本の社会が近世へと移行する中で、「家の永続性」という概念そのものが大きく変化したことを象徴している。かつて家の存続とは、城や領地といった物理的な資産(有形資産)を守り抜くことであった。小田原征伐で、粟飯原氏はこのすべてを失った。しかし、彼らには「桓武平氏千葉一族・粟飯原氏」という、目には見えない由緒や家柄というブランド(無形文化資本)が残されていた。
俊胤の後半生の行動は、この無形資産を、神社の社家としての安定した地位という新たな資産に巧みに転換させるプロセスであった。その結果、彼の血脈は、武力による支配が終わった新しい時代の「家の残し方」を体現し、今日まで存続し得たのである。
粟飯原俊胤の生涯を追跡する旅は、一人の無名に近い武将の個人的な歴史に留まらず、日本の社会が中世から近世へと移行する時代の、巨大な地殻変動を映し出すものであった。
彼の人生は、名族としての出自と下総における権勢の確立(第一章、第二章)、関東の覇権をめぐる戦国末期の動乱への対応(第三章)、そして豊臣秀吉による天下統一という抗いがたい奔流に飲まれた没落(第四章)、最後に、武士としての死と神職としての再生という劇的な変身(第五章、第六章)という、時代の転換期を凝縮した軌跡を描いている。
歴史の教科書において、彼は北条氏と共に滅び去った数多の関東武士の一人として、名もなき存在として扱われるかもしれない。しかし、その後の「鏑木」への改姓と神職への転身という、他に類を見ないユニークな後半生は、歴史の敗者が如何にして新しい時代に適応し、そのアイデンティティを再構築し、家名を未来へと繋いでいったかを示す、極めて貴重なケーススタディである。
粟飯原俊胤の物語は、歴史は勝者によってのみ紡がれるのではなく、敗者が如何にして生き延び、その血と記憶を後世に伝えたかという視点からも、豊かに読み解けることを我々に教えてくれる。彼の生涯を徹底的に追跡することは、戦国という時代の終焉と、江戸という新しい時代の黎明を、一人の人間の生を通して、より深く、より人間的に理解することに繋がるのである。