最終更新日 2025-07-08

納富信景

肥前の驍将・納富信景 ― 龍造寺家を支えた文武両道の家老、その生涯と一族の軌跡

序論:龍造寺家と納富信景

日本の戦国時代、九州北西部・肥前国(現在の佐賀県・長崎県)に一大勢力を築き上げ、「五州二島の太守」とまで称された武将、龍造寺隆信 1 。その覇業は、主君の武威のみならず、鍋島直茂をはじめとする極めて有能な家臣団によって支えられていた。彼らは、下剋上によって主家・少弐氏を凌駕し、宿敵・大友氏を打ち破るという、龍造寺家の急激な勢力拡大の原動力となった。

この龍造寺家臣団の中枢にあって、国政と軍事の両面で重きをなした人物が納富信景(のうとみ のぶかげ)である。彼は龍造寺家の家老として数々の合戦で武功を挙げ、その名は「文武両道の名将」として伝えられている 3 。しかし、その輝かしい経歴とは裏腹に、彼の生涯、とりわけその最期については史料によって記述が異なり、多くの謎に包まれている。

本報告書は、現存する複数の史料群を横断的に分析し、納富信景という一人の武将の生涯を徹底的に再構築することを目的とする。彼の出自と一族の系譜、龍造寺家臣団における役割、具体的な戦歴、そして最大の謎であるその最期を巡る諸説を丹念に検証する。さらに、彼の死後、一族がたどった軌跡を追うことで、戦国武将・納富信景の歴史的意義を多角的に明らかにしたい。

第一章:納富氏の出自と系譜 ― 武門の源流と複雑な家族関係

納富信景個人の生涯を詳述するに先立ち、彼が属した「納富氏」という一族のルーツと、信景を中心とする複雑な家族関係を解明する。これらは、彼の人物像や行動原理を理解する上で不可欠な背景となる。

第一節:伊勢平氏を祖とする一族の伝承

納富氏の起源は、伊勢平氏、すなわち桓武平氏の血を引く武士の一族に遡るとされる 4 。伝承によれば、治承・寿永の乱の最終局面である壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が没落した際、一族は伊勢国を離れ、海路で筑前国姪浜(現在の福岡市西区)に上陸。その後、山を越えて肥前国小城一帯に土着したという 4 。一部の資料では、その祖を平清盛の弟である平教盛に結びつける説も示唆されている 5

戦国時代の武士が、自らの家格と権威を高めるために名門の出自を称することは珍しくない。しかし、この伝承は、納富氏が龍造寺家臣団の中でも、由緒ある家柄として認識されていたことを示している。彼らは龍造寺氏がまだ少弐氏の被官であった時代から仕えており、その古くからの主従関係が、一族の地位を確固たるものにしていたと考えられる 5

第二節:「納富」姓の由来に関する分析

「納富」という姓の由来については、いくつかの説が存在するが、その解釈は一族の特性を考察する上で重要な示唆を与える。

当初、佐賀県鹿島市に現存する「納富分」という地名に由来するという説が考えられていた。しかし、この地名は江戸時代以降の記録に見られるものであり、戦国時代に活躍した納富信景の存在とは時間的な前後関係が逆転してしまう 4 。また、納富氏は鹿島に移る前に小城一帯に居住していた事実もあり、地名由来説には矛盾が多いと指摘されている 4

より有力な説は、「納富」という言葉が文字通り「富を納める」という意味を持つことから、朝廷や国衙(地方行政機関)において、租税の徴収や財産の管理・貯蓄を担った「役職名」に由来するというものである 4 。この解釈は、納富一族が単に武勇を誇る戦闘集団であっただけでなく、古くから算術や文書作成、財政管理といった実務的な能力を備えた官僚的側面を持つ家系であった可能性を示唆する。この「文」の能力の伝統こそが、後に納富信景が「文武両道の名将」と評されるに至る歴史的土壌を形成したと考えられる。彼の才能は、一個人の資質に留まらず、一族が代々培ってきた特性の発露であったと見ることができるだろう。

第三節:信景をめぐる一族の構成

納富信景を中心とする一族の人間関係は、史料によって記述に揺れが見られ、非常に複雑な様相を呈している。

信景の父は納富栄房(みつふさ)といい、石見守を名乗り、後に入道して道周と号した 4 。信景自身は、左馬助や但馬守といった官途名を称している 3 。彼の兄弟や子供については、特に重要な人物の続柄に関して混乱が見られる。以下の表は、諸史料から読み取れる彼の近親者関係を整理したものである。

続柄

氏名(別名、官途名など)

備考

典拠

納富栄房(みつふさ、道周)

石見守。龍造寺隆信が家督を継いだ頃からの家老。

4

本人

納富信景(のぶかげ)

家房、家景。左馬助、但馬守。

3

納富家繁(いえしげ)

一時、信景の養子となる。

4

納富信門(のぶかど)

主君・隆信より「信」の字を賜う。

4

長男?

弟?

納富信純(のぶずみ)

治部大輔、信澄。神代長良との争いで謀殺される。信景の弟、または父・栄房の養子(西村家秀の弟)とする異説あり。

4

(信純の室)

陽泰院(ようたいいん)

信純の死後、鍋島直茂の後室となる。納富家と鍋島家の重要な結節点。

4

次男

(嫡男)

納富賢景(ともかげ)

初名は家輔、家景。龍造寺政家より偏諱を受け改名。沖田畷の戦いで戦死。

4

(賢景の室)

鍋島直茂の娘(天林)

鍋島家との二重の姻戚関係を形成。

4

(養子)

秀島茂景(ひでしま しげかげ)

秀島信純の養子となる。

4

(養子)

秀島家周(いえちか)

茂景の養子となる。沖田畷の戦いで戦死。

4

この関係図で特に注目すべきは、納富信純の位置づけと、陽泰院を介した鍋島家との関係である。信純が信景の子であれ弟であれ、その妻が後に龍造寺家の実権を握る鍋島直茂に再嫁したという事実は、龍造寺家内部の権力構造において、納富家が極めて重要な政治的位置を占めていたことを物語っている。また、嫡子・賢景も直茂の娘を娶っており、納富家と鍋島家は二重の姻戚関係で固く結ばれていたことがわかる。

第二章:龍造寺家の中枢へ ― 家老としての国政参画と軍事的役割

納富信景は、龍造寺隆信の治世において、家臣団の中核を担う存在へと登り詰めた。本章では、彼が家老として国政にどのように関与し、また軍事指揮官としていかなる役割を果たしたのかを明らかにする。

第一節:三家老の一人としての登用

天文17年(1548年)、水ケ江龍造寺氏から迎えられた龍造寺隆信が本家の家督を相続すると、彼は自らの権力基盤を確立すべく家臣団の再編に着手した。この時、納富信景は、小河信安、福地信重といった譜代の重臣と共に家老職に抜擢された 3

この人事に伴い、彼は主君・隆信から偏諱(名前の一字を与えること)を受け、それまでの「家房」や「家景」といった名から「信景」へと改名した 3 。これは、信景が隆信の側近中の側近として、その信頼を得たことの証左である。この三家老体制は、隆信政権の初期における国政の中枢であり、信景はその一角を担うことで、龍造寺家の政策決定に深く関与していくことになった 5

第二節:龍造寺軍団における軍事的位置づけ

信景の重要性は、国政のみならず軍事面においても際立っていた。九州大学に所蔵される史料には、龍造寺軍の合戦における陣立(軍勢の配置)を記した文書が残されており、そこから信景の軍団内での役割を具体的に読み取ることができる 9

  • **多久氏との戦いにおいて、**龍造寺軍は三方面作戦を展開。その中で本陣は、広橋信了を先陣、福地信重を二陣とし、納富信長(信景の一族か、あるいは信景本人を指す可能性もある)が旗本(本隊)を率いる構成となっていた。これは、彼が本陣の防衛と攻撃の中核を担う、極めて重要な部隊を任されていたことを示している。
  • **天正2年(1574年)の松浦攻めでは、**鍋島信房が率いる藤津衆や龍造寺長信が率いる多久衆などと共に、納富氏の部隊が四方を固める一角を構成していた。広域に展開する軍勢の中で、戦略上の要衝を任される存在であったことがわかる。
  • **島津氏の援軍を得て大友氏と対峙した際の陣立では、**鍋島直茂が総大将を務める軍勢の中で、信景は小川氏と共に「侍大将」として一軍を率いている。

これらの陣立書から一貫して見て取れるのは、納富信景(あるいは納富氏の部隊)が、常に龍造寺一門や鍋島直茂といった最高幹部に次ぐ、もしくは同格の戦略的位置を占めているという事実である。彼は、単に敵陣に突撃する先鋒部隊の将というよりも、戦局全体を見据え、本陣の守りを固めたり、強力な別動隊を指揮したりする、方面軍司令官クラスの役割を担っていた。この事実は、隆信や直茂といった龍造寺軍の首脳部から、信景に対して絶大な軍事的信頼が寄せられていたことを物語っている。家老としての政治的地位は、この揺るぎない軍事的能力と信頼関係によって裏打ちされており、信景が龍造寺政権にとって文武両面で不可欠な存在であったことを証明している。

第三章:歴戦の武将 ― 肥前統一戦における武功と葛藤

「文武両道の名将」という評価は、数々の実戦経験によって裏付けられている。本章では、信景が参加した具体的な合戦を追い、彼の武将としての一面と、同時に一人の在地領主として直面した現実的な課題を浮き彫りにする。

第一節:龍造寺家勢力拡大期の戦功

龍造寺隆信が肥前統一へと突き進む過程で、納富信景は数多くの合戦に従軍し、その武功を記録に残している。

  • 八戸城攻め(弘治3年/1557年): 隆信は、約束を反故にしたとして神代氏配下の八戸氏の討伐を決意。信景は、隆信の弟である龍造寺信周や一族の龍造寺家就らと共に、八戸城攻撃を命じられた。これは、信景が初期の段階から龍造寺軍の中核として作戦行動に参加していたことを示す事例である 10
  • 江上家攻め(永禄元年/1558年): 肥前の有力国人である江上武種を攻めた際、信景は戦功を挙げたと明確に記録されている 3 。この戦いは、龍造寺家が肥前東部における支配権を確立する上で重要な一歩であった。
  • 今山合戦(元亀元年/1570年): 宿敵・大友宗麟が数万の大軍を率いて佐賀に侵攻した、龍造寺家の存亡をかけた決戦である。この時、龍造寺軍はわずか五千余。信景は、佐賀城の南大門方面の守りを固める部隊を率いており、防衛の要を担っていたことがわかる 11
  • 黒土原合戦: この合戦の詳細は不明な点が多いが、戦後、信景の手の者によって戦死者百余名の遺体が集められ、丁重に埋葬されたという逸話が残る 12 。これは「千人塚」として伝わっており、彼の武勇だけでなく、敵味方の区別なく死者を弔う指揮官としての人格の一端を窺わせる。

第二節:所領を巡る神代氏との水利権闘争

信景の武将としての側面をより深く理解するためには、龍造寺家全体の合戦だけでなく、彼自身の所領で起きた紛争に目を向ける必要がある。

永禄9年(1566年)、肥前一帯が深刻な干ばつに見舞われた。この時、龍造寺氏と敵対関係にあった山内(やまんち)の領主・神代長良は、信景の所領である千布(ちふ、現在の佐賀市金立町千布)へ流れる農業用水を密かに堰き止めるという挙に出た 4 。これは、敵対勢力である納富氏の経済基盤を揺るがすための兵糧攻めであった。

水という生命線を断たれたことで、両者の間には激しい水争いが発生した。当初、納富勢は劣勢に立たされたが、信景はこれに屈しなかった。彼は自ら六百の兵を率いると、夜陰に乗じて千布土生島にあった神代長良の館を強襲。不意を突かれた長良は畑瀬城へと逃れたが、信景の追撃は激しく、ついに長良は筑前へと落ち延びていった 13

この水利権を巡る争いは、戦国時代の紛争が、必ずしも領土拡大という政治的・軍事的な目的のみで行われたわけではないことを示す好例である。水や食糧といった、人々の生活と生存に直結する資源を巡る争いは、より切実で熾烈なものであった。このエピソードは、信景が龍造寺家の家老として国政に関与するというマクロな視点での活動と並行して、自らの所領と領民の生活を守る一人の在地領主(国人)として、ミクロなレベルでの死活問題に直面していたことを鮮やかに描き出している。彼の人物像は、龍造寺家臣団の一員という側面と、千布を本拠とする納富家の当主という、二つの多層的な立場から捉えることで、より立体的に理解することができるのである。

第四章:晩年と最期 ― 沖田畷の戦いを巡る史料の相克

本報告書の核心部分として、納富信景の晩年と、その最期に関する矛盾した史料群を比較検討し、なぜそのような情報の相克が生まれたのか、その歴史的背景を考察する。

第一節:家督相続と隠居

天正8年(1580年)頃、龍造寺氏が肥前・筑後・肥後半国などを支配下に置き、その勢力が頂点に達した時期に、納富信景は家老職を辞し、家督を嫡子である賢景に譲ったとされる 3 。これは、信景が第一線を退き、世代交代を図ったことを示している。しかし、これが政治の舞台からの完全な引退を意味したのか、それとも後見役として影響力を保持し続けたのかは、この時点では定かではない。

第二節:定説 ― 沖田畷における主君との殉死

信景の最期について、最も多くの史料が伝える説は、主君・龍造寺隆信と運命を共にしたというものである。

天正12年3月24日(1584年5月4日)、龍造寺隆信は、島津家久・有馬晴信の連合軍と島原半島の沖田畷で激突した。この戦いで龍造寺軍は大敗を喫し、総大将の隆信をはじめ、龍造寺四天王と呼ばれる成松信勝、江里口信常、円城寺信胤、百武賢兼ら多数の重臣が討死した。この定説によれば、隠居していたはずの納富信景もこの戦いに従軍しており、嫡子の賢景と共に、主君の後を追うように戦場で命を落としたとされる 3

この説は、忠臣が主君と生死を共にするという、武士の美学に合致した劇的な結末である。嫡子・賢景の戦死が確実視されていることから、父である信景も共に参陣し、戦死したと考えるのは自然な推論であり、後世の軍記物語などで広く受け入れられてきた。

第三節:異説 ― 沖田畷不参加と龍造寺家残存勢力の輔佐

一方で、この定説とは真っ向から対立する記述を残す史料も存在する。

ある史料は、「沖田畷の戦いには参戦せず龍造寺政家の元でこれを補佐した」と明確に記している 5 。また、別の史料にも「沖田畷の戦い後も衰退する龍造寺家を支え続けた」という一節が見られる 14

これらの記述は、信景が沖田畷の悲劇を生き延び、父・隆信の跡を継いだ若き当主・龍造寺政家を支える宿老として、なおも政治的役割を果たしていた可能性を示唆する。すでに家督を譲り隠居の身であったことを考えれば、決戦に際しては若年の当主・政家の後見役として佐賀城に留まり、万一の事態に備えていたというシナリオも十分に考えられる。

第四節:史料の矛盾から読み解く龍造寺家終焉期の混乱

納富信景の最期を巡る二つの異なる言説は、単なる記録ミスや記憶違いとして片付けるべきではない。この情報の錯綜自体が、沖田畷の敗戦によって引き起こされた龍造寺家の権力構造の激変と、その後の政治的混乱を映し出す鏡と捉えることができる。

まず、「戦死説」が持つ意味を考える。信景が主君・隆信と「共に死んだ」という物語は、龍造寺家の栄光と悲劇を一体のものとして記憶させ、旧体制への絶対的な忠誠を象徴する。これは、『北肥戦誌』に代表されるような、英雄的な武将の生き様をドラマティックに描く軍記物語の語り口と非常に親和性が高い。

次に、「生存説」が持つ意味を考察する。信景が「生き残り、政家を補佐した」という物語は、隆信亡き後の龍造寺家の正統性が、信景のような宿老によってしっかりと支えられていたことを強調する。これは、沖田畷の敗戦後、龍造寺家の実権を次第に掌握していく鍋島直茂の台頭を相対化し、あくまで龍造寺家が主体であったと主張したい立場、あるいはそうした歴史叙述が求められた時代の視点を反映している可能性がある。

結論として、どちらが歴史的事実であったかを現代の我々が確定することは困難である。しかし、重要なのは、この言説の分岐そのものが、龍造寺家から鍋島家へと権力が移行していく過渡期における、家臣団の動揺や立場の違い、そして歴史を誰がどのように語り継ぐかという「記憶の政治学」を物語っているという点である。納富信景の最期を巡る謎は、肥前国衆の歴史における一大転換点を象徴する、極めて示唆に富んだ事例なのである。

第五章:信景の子孫と納富一族のその後 ― 戦国から近代への道程

納富信景個人の生涯は戦国乱世と共に幕を閉じるが、彼が築いた一族の歴史はそこで終わらない。本章では、信景の子孫たちが江戸時代、そして近代という新たな時代をいかに生き抜いたかを追跡し、一族の歴史的意義を考察する。

第一節:嫡流の断絶と名跡の再興

沖田畷の戦いで、信景の嫡男であり家督を継いでいた納富賢景が嗣子(跡継ぎ)なく戦死したため、信景の直系嫡流はここで一時的に断絶した 4 。しかし、納富家の功績と家格は龍造寺家中で高く評価されており、その断絶は惜しまれた。

その結果、龍造寺一門であり、須古(すこ)城主であった龍造寺信周(隆信の叔父)の子・長昭(ながあき)が賢景の養子として家名を継ぎ、納富家は再興されることとなった 4 。これは、功臣の家が断絶することを防ぐため、主家が一門から養子を入れて家名を存続させるという、戦国時代から江戸時代初期にかけてしばしば見られた措置である。納富家が、主家にとってそれだけの価値を持つ重要な家柄であったことを示している。

第二節:佐賀藩体制下の「納富鍋島家」

龍造寺氏に代わり、鍋島氏が肥前の支配者として佐賀藩を立藩すると、納富家も新たな体制に適応していく。彼らは、佐賀藩の上級家臣である「着座」の家格を与えられ、藩政に参与するエリート層として存続した 7

さらに後には、藩主・鍋島氏から姓を賜り、「納富鍋島家」として、藩内でも特別な地位を認められるに至った 15 。この家系は江戸時代を通じて続き、幕末には、納富鍋島家の当主であった鍋島市佑(いちすけ)が、藩主・鍋島直正を支える家老として藩政改革などで活躍した記録が残っている 4 。これは、納富家が旧主・龍造寺家への忠義の記憶を保ちつつも、新時代の支配者である鍋島家への順応に成功し、激動の時代を乗り越えて名門としての地位を維持したことを物語っている。

第三節:多様化する一族の道と近代への意外な貢献

一方で、信景の血を引くすべての一族が佐賀藩士として続いたわけではない。龍造寺隆信の死後、一族の納富安俊は筑前国の高祖城主・原田隆種に仕えて大老にまで出世したが、原田家が滅亡すると武士を捨てて帰農し、庄屋になったという 5 。このように、主家の盛衰と共に運命を翻弄され、異なる道を歩んだ者もいた。

しかし、納富一族の歴史の中で最も特筆すべきは、近代日本への意外な形での貢献であろう。明治時代、小城藩士・柴田花守の子として生まれ、後に佐賀本藩の納富家の養子となった納富介次郎(かいじろう)という人物が登場する 5

彼は画家としての素養を持ち、明治6年(1873年)にウィーン万国博覧会が開催された際、岩倉使節団に随行。博覧会のテーマであった英語の「design」に対応する日本語が存在しないことに直面し、その場で「図案」という訳語を創出したと伝えられている 5 。この言葉は、日本の近代デザインの幕開けを象徴するものとなった。さらに介次郎は、帰国後、現在の佐賀県立有田工業高等学校をはじめ、石川県、富山県、香川県に工業学校を設立し、初代校長を務めるなど、日本の産業教育の発展に絶大な功績を残した 4

この納富介次郎の登場によって、納富信景から始まる一族の物語は、単なる武家の盛衰史を超え、日本の近代化に寄与する文化史・産業史へと昇華される。信景が体現した「文武両道」の精神は、数世紀の時を経て、武力(武)から、産業と芸術を融合させる新しい「知」(文)の形へと結実したと解釈できる。戦国武将の血脈が、近代日本のデザインと工業教育の礎を築いたという事実は、歴史の連続性とダイナミズムを示す、稀有な事例と言えるだろう。

結論:納富信景の人物像と歴史的評価の再構築

本報告書を通じて行った分析の結果、戦国武将・納富信景の人物像は、以下の三つの側面から再構築することができる。第一に、彼は龍造寺隆信の覇業を支えた「文武両道」の忠臣であり、国政を担う家老としての行政能力と、数々の合戦を戦い抜いた有能な軍事指揮官としての能力を兼ね備えていた。

第二に、彼は龍造寺家臣団の一員であると同時に、自らの所領経営に心を砕き、領民の生活を守るために敵対勢力と直接対峙することも厭わない、独立性の高い在地領主としての顔を持っていた。

第三に、彼の最期を巡る史料の矛盾は、単なる記録の不備ではなく、沖田畷の敗戦という決定的事件を契機とした、龍造寺家内部の権力構造の崩壊と、その後の鍋島体制への移行という、肥前国の歴史における一大転換点を象徴する出来事として捉えるべきである。

納富信景の歴史的意義は、戦場での武功そのものに留まらない。彼の最大の功績は、主家交代という激動の時代を乗り越え、近世を通じて佐賀藩の重臣として、さらには近代日本の文化形成にまで影響を及ぼす一族の礎を築いたことにある。彼は、戦国乱世に生きた一人の武将でありながら、その血脈と家名を通じて後世にまで続く確かな遺産(レガシー)を残した人物として、再評価されるべきであろう。

引用文献

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