細川之持は阿波細川家の守護大名。天文2年(1533年)没説が有力。弟・澄元の遺児晴元を支援し堺公方府を擁立。三好元長謀殺で晴元と決別し阿波へ帰国。彼の死後、阿波細川家は三好氏に実権を奪われ衰退した。
日本の戦国時代は、旧来の権威が失墜し、新たな実力者が台頭する「下剋上」の時代として知られる。その激動の渦中にありながら、これまで歴史の表舞台で十分に光を当てられてこなかった人物がいる。阿波国(現在の徳島県)の守護大名、細川之持(ほそかわ ゆきもち)である。
細川氏は、室町幕府の管領を世襲した京兆家(けいちょうけ)を宗家とし、幕政に絶大な影響力を誇った名門である。その中で、之持が率いた阿波細川家は、宗家を「上屋形(かみやかた)」と呼ぶのに対し、「下屋形(しもやかた)」あるいは「阿波屋形」と尊称され、将軍の諮問に応じる相伴衆(しょうばんしゅう)の家格を持つ、京兆家に次ぐ存在であった 1 。その権勢は四国に留まらず、畿内の政治情勢を左右するほどの軍事力と経済力を有していた。
しかし、細川之持という人物を深く探求しようとすると、二つの大きな歴史的謎に直面する。第一に、その没年である。『尊卑分脈』などの旧来の系図史料は永正9年(1512年)没とするが、同時代の公家の日記や軍記物には、それ以降も彼が活動したことを示唆する記録が多数存在する 2 。本稿では、より多くの一次史料に裏付けられた天文2年(1533年)没説を主軸に据える。この没年の違いは、彼を単なる夭折した当主と見るか、あるいは畿内の争乱に深く関与した重要人物と見るかを根本から覆す、決定的な意味を持つ。
第二に、その後継者である細川氏之(持隆)の出自の問題である。氏之は之持の実子なのか、それとも之持の弟・澄元の子、すなわち甥にあたるのか。この問いは、近年の研究で新たな説が提示されており、阿波細川家と宗家である京兆家との関係、ひいては戦国初期の細川氏内部の権力構造を理解する上で極めて重要な論点となる 3 。
本報告は、これらの謎を解き明かしつつ、細川之持の生涯を徹底的に再検証することを目的とする。彼の人生は、守護大名という旧秩序の体現者が、いかにして自らの被官であった三好氏のような新興勢力の台頭を許し、権力の過渡期を生き、そして翻弄されていったかを示す、戦国時代研究における絶好の事例である。之持の足跡を丹念に追うことは、三好長慶による「最初の天下」へと至る道を準備した、畿内政治史の深層を解明することに他ならない。
細川之持の生涯を理解するためには、まず彼が継承した阿波細川家の置かれた状況と、その絶頂期を築いた祖父・成之の存在を把握する必要がある。阿波細川家は、之持の代に至るまでに、相次ぐ当主の早世という構造的な脆弱性を抱えていた。
之持の祖父・細川成之(しげゆき)は、応仁の乱を戦い抜き、阿波・讃岐・三河の守護を兼ね、幕政においても重きをなした傑物であった 6 。彼は武人としてだけでなく、連歌師の尭恵(ぎょうえ)や猪苗代兼載(いなわしろ けんさい)らと交流し、『新撰菟玖波集』の撰集を後援するなど、東山文化を代表する一流の文化人でもあった 6 。その教養と人格は幕府や将軍家からも厚い信任を得ており、阿波細川家の権威を絶対的なものにしていた 7 。
しかし、この偉大な祖父の陰で、家督継承には不安がつきまとっていた。成之の嫡男であった政之は長享2年(1488年)に父に先立って早世。家督は成之の次男で、一度は備中守護家の養子となっていた義春(よしはる)が継いだ 10 。この義春こそが、之持の実父である 12 。だが、その義春もまた明応3年(1494年)に27歳という若さでこの世を去ってしまう 10 。
父・義春の死により、幼くして家督を継ぐことになったのが之持であった。当時、彼はまだ6歳前後であったと推定される 2 。通常であれば、幼主の登場は家の権威を揺るがしかねない危機であるが、この時はまだ祖父・成之が健在であった。隠居して道空と号していた成之は、孫の後見人として再び家政を執行し、その絶大な影響力によって阿波細川家の安定を維持した 2 。之持は、この偉大な祖父の後見の下で成長期を過ごしたのである。
ここに、阿波細川家の権力構造における一つの重要な力学が見て取れる。すなわち、成之という一個人の傑出した能力と長寿によって、家の安定が辛うじて保たれていたという事実である。彼の存在は、相次ぐ当主の早世という構造的欠陥を覆い隠す「大黒柱」であった 3 。裏を返せば、この大黒柱が失われた時、阿波細川家は深刻な権力基盤の揺らぎに直面する運命にあった。永正8年(1511年)、成之が78歳で大往生を遂げると 13 、その危惧は現実のものとなる。名実ともに当主となった之持は、祖父が遺した強大な権力と、同時にその死によって生じた巨大な権力の空白という、二つの遺産を同時に継承することになった。この権力の空白こそが、後に家臣である三好氏が台頭する土壌を育んだ遠因であり、阿波細川家の衰退は、三好氏の強さのみならず、成之の死によって始まった主家の指導力低下という内的要因に深く根差していたのである。
細川之持の歴史的評価を左右する最大の論点が、彼の没年である。伝統的な説と、近年の研究による新説とでは、その生涯の長さが20年以上も異なり、人物像は全く別のものとなる。
古くは『尊卑分脈』などの系図史料に基づき、之持は永正9年(1512年)1月21日に死去したとされてきた 2 。この説に従うならば、彼は祖父・成之が亡くなったわずか4ヶ月後に後を追うように亡くなったことになる 3 。この場合、之持は家督を継承したものの、ほとんど政治的な事績を残すことなく夭折した、影の薄い当主ということになる。阿波細川家の衰退は、成之、義春、そして之持と三代続いた当主の早世によってもたらされた、という分かりやすい構図が描かれる 3 。
しかし、この永正9年(1512年)没説には多くの疑問が呈されている。より信憑性の高い説として浮上しているのが、天文2年(1533年)2月23日に死去したとする説である 2 。この説を裏付ける史料は複数存在する。まず、軍記物である『細川両家記』や『応仁後記』には、享禄4年(1531年)に之持が弟・澄元の遺児である細川晴元を支援するため、8千の軍勢を率いて阿波から和泉国堺へ出陣したことが明確に記されている 2 。これは、1512年に亡くなっていたとすれば不可能な活動である。
さらに決定的なのが、同時代の公卿・鷲尾隆康の日記である『二水記』の記述である 14 。歴史学者の若松和三郎は、『二水記』天文元年(1532年)1月23日条に、当時堺にいた細川晴元に対し、三好元長による柳本甚次郎殺害事件について弁明した人物として、「讃州」と「彦九郎」(後の氏之)の二名が記されていることを指摘した 3 。「讃州」とは讃岐守の唐名であり、阿波細川家の当主が代々名乗った官途であった 1 。この時期、氏之はまだ若年であり、当主として「讃州」を名乗っていたとは考えにくい。したがって、この「讃州」こそが先代当主である之持本人に他ならない、と若松氏は論じた 3 。
この没年に関する論争は、単なる年代比定の問題に留まらない。それは、細川之持という人物の歴史的意義そのものを問い直す作業である。もし1512年に没していたならば、彼の人生は祖父・成之の死と共に終わり、その後の細川京兆家の内紛や堺公方府の樹立といった、戦国初期の畿内を揺るがした大事件とは無関係であったことになる。
しかし、1533年没説を採用するならば、彼の生涯は全く異なる光を帯びてくる。彼は単なる地方の守護大名ではなく、弟・澄元の死後、その遺児・晴元を強力に後援し、畿内の覇権争いに主体的に介入した中心人物の一人として再評価される。自ら大軍を率いて渡海し、敵対勢力を打ち破り、新たな政権の樹立に貢献し、さらにはその政権内部の対立によって袂を分かつという、激動の20年間を駆け抜けた政治家・武将としての姿が浮かび上がるのである。本報告は、このダイナミックな人物像を提示する天文2年(1533年)没説を基盤とし、彼の生涯を詳述していく。
天文2年(1533年)没説に立つことで、細川之持は1520年代から1530年代初頭にかけての畿内における最重要人物の一人として、その姿を現す。彼の活動の中心は、宗家である細川京兆家の家督を巡る「両細川の乱」と、その過程で樹立された「堺公方府」であった。
全ての混乱の発端は、管領・細川政元が実子なくして暗殺されたことにあった 15 。政元は三人の養子、すなわち公家出身の澄之、之持の弟である阿波細川家出身の澄元、そして野州家出身の高国を迎えていたが、彼の死後、この三者が壮絶な後継者争いを繰り広げた 16 。
当初、之持は弟・澄元を全面的に支援した。澄元は一時、高国を破り京を掌握するが、やがて勢力を盛り返した高国に敗れ、永正17年(1520年)に阿波で失意のうちに病死する 2 。弟を失った之持は、その遺志を継ぎ、澄元の遺児である細川晴元を新たな当主として擁立し、その後見役となった 2 。
阿波細川家の強大な軍事力と経済力を背景にした之持の支援は、若き晴元にとって不可欠であった。高国は時の将軍・足利義晴を奉じており、正統性の面で優位にあった。これに対抗するため、晴元派は阿波を拠点に力を蓄え、反撃の機会を窺った。そのクライマックスが、享禄4年(1531年)の戦いである。
この年、之持は自ら8千の兵を率いて阿波から和泉国堺に渡海し、晴元軍に合流した 2 。そして同年6月、摂津天王寺・大物(だいもつ)の地で、高国軍と雌雄を決する「大物崩れ」が勃発する 18 。この戦いで、晴元・之持軍は高国軍を壊滅させ、敗走した高国は潜伏先で発見され、自害に追い込まれた 18 。長年にわたる「両細川の乱」はここに終結し、細川晴元を首班とする新政権が誕生したのである。この勝利において、阿波からの大軍を率いて参戦した之持の功績は、決定的なものであった。
晴元・之持連合軍が細川高国と戦う上で、軍事力と並んで重要だったのが「大義名分」であった。高国は現職の将軍・足利義晴を擁しており、彼らはいわば「賊軍」の立場にあった。この不利を覆すため、彼らは対抗馬となる将軍候補を擁立する必要があった。そこで白羽の矢が立てられたのが、第11代将軍・足利義澄の子で、義晴の従兄弟にあたる足利義維(よしつな)であった 20 。
義維は、父・義澄が政争に敗れた後、阿波に下向し、長らく阿波細川家の庇護下にあった 20 。この義維を新たな「公方(将軍)」として奉じ、和泉国堺に拠点を置かせた。これが、室町幕府の京都政権とは別に存在した、いわゆる「堺公方府」である 2 。
この堺公方府において、細川之持は中心的な役割を担った。彼は単に義維を軍事的に支援するだけでなく、長年にわたり彼を養育し、保護してきた後見人そのものであった 22 。ユーザーが当初把握していた「平島公方と呼ばれた足利義維を養育した」という情報は、まさにこの堺公方府の成立過程における之持の重要な役割を指している。義維は後に阿波の平島(ひらしま)に居を構え、その子孫は「平島公方」として幕末まで続くことになるが 23 、その原点は之持による擁立にあった。
堺公方府の樹立は、単なる忠誠心の発露ではなかった。それは、戦国時代の権力闘争における極めて高度な政治戦略であった。自前の「将軍」を擁することで、晴元と之持は自らの戦いを「幕府内の反乱分子である高国を討つ」という正義の戦いとして位置づけることができた。これにより、各地の武士たちの支持を取り付けやすくなり、政治的・軍事的に有利な立場を築いたのである。この正統性構築プロジェクトの中心にいたのが、義維の後見人である之持であった。彼は単なる一地方の軍事司令官ではなく、新政権の正統性を担保する「キングメーカー」として、畿内政治の中枢に君臨したのである。
大物崩れで宿敵・高国を滅ぼし、盤石に見えた晴元政権であったが、その内部には発足当初から致命的な亀裂が存在した。それは、政権を支える二大功臣、すなわち阿波の被官で軍事の天才であった三好元長(みよし もとなが)と、晴元の寵臣として急速に台頭した木沢長政(きざわ ながまさ)との深刻な対立であった 26 。
三好元長は、之持の祖父・成之の代から細川家に仕えた三好之長の孫であり、阿波細川家の最強の武力装置であった 29 。彼は晴元擁立の最大の功労者であり、その軍事的能力は誰もが認めるところであった。一方の木沢長政は、もともと畠山氏の家臣でありながら晴元に取り入り、その側近として権勢を振るうようになった策謀家であった 26 。
阿波細川家の当主であり、元長の直接の主君でもある之持は、当然ながら元長と連携した 2 。これにより、政権内部には「晴元・木沢派」対「之持・元長派」という危険な対立構造が生まれた。晴元は、自らを凌ぐほどの声望と軍事力を持つ元長の存在を次第に疎ましく思うようになる 32 。
享禄5年(1532年)、この対立はついに破局を迎える。晴元と木沢長政は、元長を排除するため、恐るべき謀略を実行する。彼らは、当時強大な宗教勢力であった石山本願寺の一向一揆を煽動し、元長を攻撃させたのである 18 。背景には、元長が熱心な法華宗徒であり、一向宗と宗派上の対立関係にあったことが利用された 34 。堺で一向一揆の大軍に包囲された元長は、奮戦空しく自害に追い込まれた 36 。
主君である晴元が、自らの政権樹立に最も貢献した忠臣を、宗教勢力を利用して謀殺するという前代未聞の事態に、之持は激怒し、深く失望した。甥の非情な仕打ちに嫌気が差した彼は、晴元政権と完全に決別し、本国の阿波へと帰国してしまう 2 。
この決断は、戦国史における一つの転換点であった。短期的には、晴元は邪魔な元長を排除し、権力を独占したかに見えた。しかし、長期的に見れば、それは自らの政権の土台を破壊する自殺行為に等しかった。第一に、最強の軍事指導者であった元長を失ったことで、晴元政権は軍事的に著しく弱体化した。第二に、最大の同盟者であった叔父・之持と阿波細川家を敵に回したことで、政権の基盤そのものが揺らいだ。
そして何よりも致命的だったのは、この時わずか10歳であった元長の嫡男、三好長慶(ながよし)の心に、父の仇である晴元への消しがたい復讐心を植え付けたことである 34 。之持と晴元の決別は、単なる一族内の不和ではなかった。それは、勝利者連合の崩壊を意味し、三好氏が主家・細川氏から独立した道を歩み始める契機となった。晴元は、自らの猜疑心によって、自らの権力を支える忠誠の絆を断ち切り、未来の破壊者をその手で生み出してしまったのである。
細川之持の晩年からその死後にかけて、阿波細川家と被官・三好氏との力関係は劇的に、そして不可逆的に変化していく。それは、守護大名という旧来の権力が、実効支配を強める被官によって蚕食されていく「下剋上」の典型的なプロセスであった。
阿波細川家の権力の源泉は、阿波・讃岐両国の支配と、瀬戸内海の制海権にあった 1 。瀬戸内海は、畿内と西国を結ぶ経済・軍事の大動脈であり、これを掌握することは畿内での政治活動に不可欠な兵站線と富を確保することを意味した 39 。藍や塩などの阿波の特産物を京阪神市場に供給する水運ルートは、莫大な利益を生み出し、それが阿波細川家の軍事力を支えていた 41 。
しかし、この領国経営の現実に目を向けると、権力の空洞化が進行していたことがわかる。応仁の乱以降、細川成之や之持といった当主たちは、幕政への参与や畿内での戦闘のため、領国である阿波を離れて在京することが常態化していた 42 。その結果、阿波本国の統治は、守護代(しゅごだい)である三好氏に事実上委任されることになった 20 。
三好氏は、在地領主として阿波の国人衆を束ね、徴税や軍事動員の実行部隊として機能した。彼らは日々、領国経営の実務に携わる中で、富と兵力を直接その手に蓄積していったのである 44 。名目上の支配者である細川氏が京で華やかな政治闘争を繰り広げている間、実質的な支配者としての三好氏が阿波で着実に力をつけていた。つまり、細川氏が「公権力(de jure)」を保持する一方で、三好氏は「実効支配力(de facto)」を掌握するという、主従の権力逆転現象が生じていたのである。
享禄5年(1532年)に三好元長が非業の死を遂げ、之持が晴元と決別して阿波に帰国した時、彼はこの厳しい現実に直面することになった。名目上は彼が阿波の国主であったが、その地では、元長の跡を継いだ若き三好長慶が、父の死を乗り越えて家臣団をまとめ、新たな当主として急速にその地歩を固めつつあった 38 。之持は、自らの城下で、自らの家臣が自分を凌ぐ実力者へと成長していく様を、目の当たりにすることになったのである。
之持の死後、阿波細川家の家督を継いだのは、細川氏之(うじゆき)、またの名を持隆(もちたか)という人物であった 3 。しかし、この氏之の出自を巡っては、戦国史研究において重要な論争が存在する。この論争の中心にいるのが、歴史学者の馬部隆弘氏である 5 。
伝統的な系図では、氏之は之持の実子とされてきた 3 。しかし、馬部氏はこの通説に疑義を呈し、氏之は之持の子ではなく、之持の弟・澄元の子、すなわち細川晴元の実の弟であるという新説を提唱した 3 。この二つの説は、阿波細川家の権力継承のあり方を全く異なるものとして描き出す。
項目 |
伝統説(之持の子) |
馬部説(澄元の子、晴元の弟) |
根拠史料 |
『尊卑分脈』などの後代に編纂された系図類 3 。 |
『細川両家記』享禄5年条に氏之を「晴元御舎弟」と記す記述 5 。『二水記』などの同時代史料の分析 3 。 |
提唱者 |
伝統的歴史学。 |
馬部隆弘氏ら、近年の研究者 3 。 |
権力継承の構図 |
父から子への単純な世襲。阿波細川家は独立した家系として存続。 |
京兆家当主の晴元が、実弟を分家である阿波細川家の当主に送り込んだ形。阿波細川家が京兆家の強い影響下に置かれたことを示唆する。 |
歴史的意味合い |
氏之と晴元の関係は「叔父と甥」。氏之の行動原理は、阿波細川家当主としての自立性が基本となる。 |
氏之と晴元の関係は「実の兄弟」。両者の連携はより強固なものとなるはずだが、後の氏之の死は、兄弟間の関係をも超える権力闘争の非情さを示すことになる。 |
馬部説が正しければ、永正9年(1512年)に之持が死去した後、阿波細川家は一時的に当主が不在となり、その空席を埋めるために、京兆家を継いだ晴元が自らの弟である氏之を送り込んだ、ということになる。これは、分家である阿波細川家に対する宗家・京兆家の影響力が、従来考えられていた以上に強かったことを意味する。そして、後に三好氏がこの氏之を殺害する事件は、単なる家臣による主殺し(下剋上)に留まらず、京兆家当主・晴元の実弟を殺害するという、より深刻な政治的意味合いを帯びることになる。この出自問題は、戦国期細川氏の権力構造を解き明かす上で、避けて通れない鍵なのである。
晴元と決別し、複雑な思いで阿波に帰国した細川之持は、天文2年(1533年)2月23日にその波乱の生涯を終えた 2 。彼の死は、阿波細川家にとって決定的な転換点となった。祖父・成之が築き、之持が辛うじて維持してきた名門の権威は、もはや風前の灯火であった。
家督を継いだ氏之(持隆)は、父(あるいは伯父)が残した困難な政治状況を引き継がねばならなかった。名目上の主君である京兆家の細川晴元は、かつて三好元長を謀殺した張本人であり、全面的に信頼できる相手ではない。一方で、足元にいる最大の家臣・三好長慶は、父の仇である晴元への復讐心を燃やし、着々と畿内で勢力を拡大していた 45 。氏之は、この両者の間で危険な綱渡りを強いられた。
当初、氏之は三好氏に対して好意的な立場を取っていたとされる 5 。しかし、長慶の力が畿内を席巻し、主君である晴元をも脅かす存在になると、状況は一変する。天文21年(1552年)、ついに悲劇が起こる。三好長慶の弟で、阿波の統治を任されていた三好実休(じっきゅう)が突如として氏之に反旗を翻し、その居城を攻撃したのである 4 。追い詰められた氏之は、見性寺にて自害を遂げた 4 。享年37または38であった 4 。
この事件の直接的な原因については、氏之が長慶に対抗するため、平島公方・足利義栄を擁して上洛を企てた説や、逆に阿波国内での実休の増長を恐れて暗殺を謀った説など諸説あるが、確たる史料はない 5 。しかし、その背景にある大きな流れは明白である。それは、もはや主家を凌駕する力を持った三好氏にとって、旧来の主君である細川氏は、自らの権力行使の足枷でしかなくなったという事実である。
氏之の死をもって、守護大名・阿波細川家は事実上滅亡した。氏之の幼い息子・真之(さねゆき)が三好氏によって傀儡の当主として擁立されたが、阿波・讃岐の実権は完全に三好氏の手に帰した 50 。守護が守護代に討たれるという、下剋上の典型が、ここに完遂されたのである。この結末は、決して突発的な裏切りではなく、之持の時代に始まった権力構造の地殻変動が、必然的にもたらした帰結であった。之持と晴元の決別が阿波細川家を孤立させ、之持の死が権威の最後の砦を崩し、そして氏之の代で、名実ともに逆転した権力関係が暴力によって最終的に清算されたのである。
細川之持の生涯を、天文2年(1533年)没説に基づいて再構築する時、我々の前に現れるのは、室町時代の旧秩序と戦国時代の新秩序が激しく衝突する、まさにその断層の上に生きた一人の武将の姿である。彼は、守護大名という伝統的権威の継承者でありながら、その行動は結果として、自らを含む旧勢力を解体し、新たな権力構造を準備する役割を果たした。
之持の人生は、戦国時代を象徴する現象である「下剋上」の、極めて鮮明なケーススタディを提供する。彼の祖父・成之の時代に絶頂を極めた阿波細川家の権勢は、瀬戸内海の交易支配と、幕政における高い家格に支えられていた。しかし、当主が畿内の政争に深く関与すればするほど、本国・阿波の支配は守護代である三好氏の手に委ねられ、実効支配権が家臣へと移っていくという構造的矛盾を内包していた。
この矛盾を決定的にしたのは、之持の甥であり主君でもあった細川晴元との関係である。之持は、晴元政権の樹立に決定的な貢献をしながらも、晴元が功臣・三好元長を謀殺したことに義憤を感じ、袂を分かった。この決断は、一人の武将としての矜持を示すものであったかもしれないが、政治的には阿波細川家を畿内の権力中枢から孤立させ、その運命を決定づける一因となった。それは、自らの権力基盤であった京兆家との連携を断ち、強大化する被官・三好氏を単独で抑えなければならないという、極めて困難な状況を自ら招き入れたことを意味する。
最終的に、之持の死後、後を継いだ氏之が三好実休によって滅ぼされたのは、この長年にわたる権力移動のプロセスの論理的帰結であった。それは、名目上の権威が、蓄積された実力によって覆される瞬間であり、戦国という時代の非情な本質を物語っている。
細川之持は、歴史の転換期に生きた悲劇の当主であったと言えるかもしれない。しかし、彼の存在なくして、堺公方府の成立も、三好元長の悲劇も、そしてその後の三好長慶の台頭も、十全に理解することはできない。彼は、意図せずして、織田信長に先立つ「最初の天下人」三好長慶が登場する舞台を整えた、重要なキーパーソンであった。その生涯は、下剋上という時代の奔流がいかにして旧来の名門を飲み込み、新たな時代を切り拓いていったかを、雄弁に物語っているのである。