最終更新日 2025-07-12

細川興秋

細川興秋の生涯:歴史の記録と天草の伝承にみる二つの実像

序章:歴史の狭間に立つ悲劇の貴公子、細川興秋

細川興秋(ほそかわ おきあき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた武将である。その名は、父である豊前小倉藩初代藩主・細川忠興の威光と、母である明智光秀の娘・ガラシャ(玉)の悲劇的な生涯の影に隠れ、歴史の表舞台で大きく語られることは少ない。しかし、彼の人生を深く探ると、公式の記録が語る「死」と、肥後天草の地に根強く残る「生」という、二つの相克する物語が浮かび上がってくる。

公式記録によれば、興秋は父・忠興との確執の末に家を出奔し、大坂の陣で豊臣方に加担した。そして敗戦後、父の冷徹な命令によって元和元年(1615年)に自害を遂げたとされる。これは、家の秩序に背いた者を容赦なく切り捨てる、戦国の非情な論理が貫かれた結末である。

一方で、天草地方には全く異なる物語が語り継がれている。興秋の自害は偽装であり、父・忠興らの密かな手引きによって生き延び、天草の地で僧として後半生を送り、天寿を全うしたというのである。この伝承は、単なる願望や伝説に留まらず、近年発見された史料によって、にわかに歴史的信憑性を帯び始めた。

本報告書は、この細川興秋という一人の武将が持つ二つの生涯を、現存する公式史料と伝承史料の双方から徹底的に調査・分析するものである。父との複雑な関係、家督継承問題、そしてキリシタン信仰という時代的背景を深く掘り下げることを通じて、彼の行動原理と、歴史の記録の狭間に埋もれた実像に迫ることを目的とする。興秋の物語は、勝者の手によって編纂された歴史の裏に、いかに多くの「もう一つの人生」が存在しうるかを示唆する、日本史上でも稀有なミステリーと言えよう。

第一章:名門の次男として―その出自と宿命

細川興秋の生涯を理解するためには、まず彼が生まれ育った特異な家庭環境と、その人格形成に決定的な影響を与えた両親の存在を深く考察する必要がある。

1.1 生い立ちと血筋―栄光と影の始まり

細川興秋は、天正11年(1583年)あるいは天正12年(1584年)に、細川忠興の次男として生を受けた 1 。父・忠興は、室町幕府の管領家を祖とする名門・細川家の当主であり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、戦国の乱世を生き抜いた知勇兼備の武将である 3 。母は、本能寺の変で知られる明智光秀の三女・玉、後の細川ガラシャである 4 。この血筋は、興秋に武門の誉れと貴公子の地位を約束する一方で、彼の生涯に深い影を落とす宿命をもたらした。

特筆すべきは、興秋が生まれたとされる時期、母・玉は「逆臣・明智光秀の娘」として、丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市)に幽閉されていたことである 1 。父・忠興は、本能寺の変に際して光秀への加担を拒否し、玉を離縁こそしなかったものの、世間の目を憚り隔離せざるを得なかった。興秋は、このような母の苦境の中で生を受けたのであり、その出自には当初から複雑な陰影がつきまとっていた。

さらに、興秋の人生を方向づけるもう一つの重要な要素が、キリシタン信仰である。母・玉は後に受洗してガラシャとなり、熱心なキリスト教徒として知られるが、興秋もまた幼少期に母の手によって洗礼を受け、「ジョアン」という洗礼名を授かっている 3 。この信仰は、彼の精神的支柱となると同時に、後に父・忠興との深刻な対立を引き起こす根源ともなった。

1.2 父・細川忠興という巨大な存在―苛烈な性格と家庭環境

興秋の運命を語る上で、父・細川忠興の存在は決定的に重要である。忠興は、茶人・千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられるほどの当代随一の文化人であったが、その一方で、極めて猜疑心が強く、嫉妬深く、そして目的のためには手段を選ばない冷酷な人物として数々の逸話を残している 7

忠興の異常なまでの独占欲と苛烈さを示す逸話は枚挙に暇がない。ある時、妻ガラシャの美しさに見とれた植木職人をその場で手討ちにした 9 。また、ガラシャがキリスト教に改宗したことに激怒し、同じくキリシタンであった侍女たちの鼻や耳を削いで追放したとも伝えられる 6 。その矛先は家臣や同族にも向けられた。本能寺の変後には妹婿であった一色義定を謀殺し、その際に激昂した妹に斬りつけられた鼻の傷は生涯消えなかったという 7 。さらに、当主の座を三男・忠利に譲った後でさえ、忠利の側近たちの働きぶりが気に入らないとして、彼らを呼びつけて次々と殺害したとされる 7

このような忠興の性格は、家庭内に絶え間ない緊張と恐怖をもたらした。興秋をはじめとする子供たちは、いつ爆発するとも知れない父の激情に怯えながら成長したであろうことは想像に難くない。しかし、忠興のこの苛烈さは、単なる個人的な気性の問題として片付けることはできない。彼の行動原理の根底には、常に「細川家の存続と安泰」という、戦国武将としての冷徹なまでの合理主義があった。彼の非情な決断は、すべてが細川家という組織を守るためのものであった。この視点に立つとき、後に興秋に対して下した「政治的負債としての処断」と、伝承が語る「家の血筋を秘密裏に存続させるための救済」という、一見して矛盾する二つの行為が、実は同じ「家のため」という論理の異なる側面として現れたものと理解できる。このパラドキシカルな父性こそが、興秋の悲劇的な生涯を読み解く上で最も重要な鍵となるのである。

1.3 キリシタン信仰の奔流の中で

興秋の人生は、日本のキリシタン信仰が最も劇的な変転を遂げた時代と重なっている。母ガラシャは、秀吉によるバテレン追放令の直後、夫の留守中に密かに受洗し、その信仰を深めていった 3 。彼女の信仰は、逆境の中にあった彼女に精神的な強さと平穏を与えたが、それは同時に夫・忠興との間に新たな亀裂を生むことになった 6

関ヶ原の戦いの直前、石田三成が諸大名の妻子を人質に取ろうとした際、ガラシャは人質となることを拒絶。キリスト教の教えで自害が禁じられていたため、家老の小笠原秀清に胸を突かせて壮絶な最期を遂げた 6 。この事件は、忠興に三成を討つという強烈な動機を与えた一方で、細川家の子供たちに母の信仰の強さとその悲劇的な結末を深く刻み込んだ。

父・忠興のキリスト教に対する態度は、複雑な変遷を辿る。当初は妻の信仰を黙認し、一説には自身も信者であった時期があったともされるが 14 、豊臣政権、そして徳川政権下で禁教政策が強化されると、一転して苛烈な弾圧者へと変貌した 15 。彼は細川家の安泰のため、領内のキリシタンを厳しく処罰し、棄教を強要した。その中には、細川家に仕える多くの家臣やその家族も含まれていた 16

このような状況下で、幼少期に洗礼を受けた興秋が自らの信仰をどう捉えていたかは、彼の行動を理解する上で極めて重要である。彼の人生は、個人的な信仰と、「家」の存続という政治的要請との間で引き裂かれた、近世初期のキリシタン武将が直面した典型的な苦悩を体現していた。父による棄教と弾圧は、興秋にとって、自らのアイデンティティそのものを揺るがす根源的な対立軸となり、後の彼の悲劇的な決断へと繋がっていくのである。

第二章:運命の分岐点―関ヶ原から出奔へ

青年期に達した興秋は、武将として家の将来を担うべく歩み始めるが、関ヶ原の戦いを境に、その運命は大きく揺らぎ始める。家督継承問題という細川家内部の力学が、彼を嫡流から弾き出し、やがて家との決別という道を選ばせることになる。

2.1 関ヶ原の戦い―初陣と武功

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、細川家は徳川家康率いる東軍に与した。当時15歳から17歳であった興秋は、父・忠興、兄・忠隆、そして叔父であり養父でもあった細川興元と共に初陣を飾る 1 。細川隊は、東軍の主力部隊の一つとして奮戦し、特に興秋の養父・興元が率いる部隊は、細川家中で最も多くの首級を挙げるなど、目覚ましい働きを見せた 17 。興秋自身も、この戦いで敵の首を一つ挙げるという武功を立てており 2 、この時点では、彼は細川家の将来を担う有望な若武者の一人として、その第一歩を順調に踏み出していた。

2.2 継承問題の勃発―嫡流からの転落

関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、細川家は戦功によって豊前国中津39万9000石(後に小倉城を築城)を与えられる大大名へと躍進した 15 。しかし、この栄光の裏で、細川家の内部では次代の家督をめぐる深刻な問題が進行していた。

戦後、長兄の忠隆が廃嫡されるという事件が起こる。その理由は、忠隆の妻・千世が、西軍の首魁・石田三成と親しかった前田利家の娘であったため、忠興が離縁を命じたところ、忠隆がこれを拒否したためであった 9 。本来であれば、嫡男が廃された以上、次男である興秋が後継者となるのが自然な筋道であった。事実、興秋は一時、中津城主にも任じられている 3

しかし、細川家の家督は、三男の忠利が継ぐことに決定された 3 。この不可解な決定の背景には、徳川政権との関係を最優先する父・忠興の冷徹な政治判断があった。忠利は、早くから江戸に人質として送られ、二代将軍・徳川秀忠の寵愛を受けていた 4 。忠興は、徳川幕府との強固な結びつきこそが細川家の安泰に繋がると考え、幕府の覚えがめでたい忠利を後継者に据えたのである。

一方で、興秋が後継者から外された理由として、彼のキリシタン信仰が大きく影響した可能性は無視できない。忠興は、幕府の禁教政策に呼応して領内でキリシタン弾圧を進めており、敬虔なキリシタンであった興秋を、家の将来を託す後継者として不適格と見なしたとしても不思議ではない 15 。興秋は、大名家の当主ではなく、弟である忠利の家臣という立場に置かれたことに、強い不満と屈辱を抱いた 4

2.3 出奔―家と父への決別

興秋の不満が爆発する直接的なきっかけとなったのが、慶長9年(1604年)に下された江戸への人質交代の命令であった 4 。それまで江戸にいた弟・忠利が一時帰国するのに伴い、代わりに興秋が人質として江戸へ赴くよう命じられたのである。これは、彼がもはや細川家の嫡流ではなく、単なる「駒」として扱われていることを明確に示すものであった。

この命令を屈辱と受け止めた興秋は、ついに実力行使に出る。江戸へ向かう道中の慶長10年(1605年)1月、京都において突如出奔し、建仁寺の塔頭である十如寺に駆け込み、剃髪して出家してしまったのである 4 。これは、細川家と父・忠興に対する、興秋の決然とした決別の意思表示であった。

この行動は、単なる若気の至りや衝動的な反発ではなかった。嫡流から外されたことへの深い絶望、自らの運命を翻弄する徳川幕府への反感、そしてキリシタンとしての信仰を守り、自らの生き方を模索しようとする強い意志が複雑に絡み合った末の、熟慮された抵抗であったと考えられる。この報に接した父・忠興は激怒したものの、完全に興秋を見捨てたわけではなく、京都・淀の商人である築山兵庫にその身柄の世話をさせている 4 。この一見矛盾した対応は、この時点で既に、興秋に対する忠興のアンビバレントな(両価的な)感情、すなわち家の秩序を乱す者への怒りと、実の子を見捨てきれない情との間で揺れ動く、複雑な父子関係を如実に示している。

第三章:大坂の陣―父と天下への反旗

細川家を出奔した興秋は、数年の雌伏期間を経て、歴史の転換点となる大坂の陣で再びその姿を現す。しかし、その立場はかつての東軍の武将ではなく、父と袂を分かち、徳川に弓を引く豊臣方の浪人衆の一人としてであった。

3.1 なぜ大坂城へ入ったのか―その動機

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係が決定的に決裂し、大坂冬の陣が勃発すると、興秋は豊臣方に与するため大坂城へ入城した 4 。彼が父や弟が属する徳川方ではなく、滅びゆく豊臣方を選んだ動機は、複合的なものであったと考えられる。

第一に、父・忠興と、自らを嫡流から排除した細川家への直接的な反発と復讐心があったことは間違いない 21 。父が仕える徳川に敵対することこそが、最も痛烈な意思表示であった。

第二に、家を出た興秋にとって、大坂の陣は自らの武名を再び世に問い、新たな道を切り開くための絶好の機会であった。関ヶ原の戦い以降、改易された大名家に仕えていた多くの武士が浪人となり、一旗揚げる場を求めて大坂城に集結していた 22 。名門・細川家の次男であり、武将としての素養も備えた興秋が、彼らと同じように再起を賭けて参陣したことは自然な流れであった。

第三に、そして見過ごせないのが、キリシタンとしての動機である。当時、豊臣方が勝利すればキリスト教の布教を公に認めるという噂が流れ、それを信じた多くのキリシタン武将や信徒が大坂城に馳せ参じていた 22 。敬虔なキリシタンであった興秋もまた、信仰のために戦うという大義をこの戦に見出し、参陣を決意した可能性は極めて高い。

3.2 武将としての最後の輝き

大坂城に入った興秋は、一人の武将としてその能力を存分に発揮した。慶長20年(1615年)の夏の陣では、豊臣方の主力を担った毛利勝永らと共に、道明寺の戦いや、最終決戦となった天王寺・岡山の戦いで奮戦した 4 。その勇猛な戦いぶりは敵味方に広く知れ渡り、彼の武名は再び高まった。この活躍は、興秋が単なる家に不満を抱く若者ではなく、戦場において優れた判断力と武勇を発揮できる、確かな器量を持った武将であったことの何よりの証明であった。

3.3 公式記録上の最期―自害と消された墓

しかし、興秋の奮戦も虚しく、豊臣方は徳川の大軍の前に敗れ、大坂城は落城した。興秋は辛くも戦場を離脱し、京都・伏見の稲荷山にあった細川家家老・松井康之の菩提寺、東林院に身を潜めた 4

ここで、彼の運命を決定づける父・忠興の非情な決断が下される。徳川家康は、忠興のこれまでの忠節に免じて興秋を赦免しようと、助命の意向を示した。しかし、忠興はこれを「家の掟に背いた者を許すことはできぬ」として断固拒絶し、あろうことか自らの手で息子に切腹を命じたのである 3

元和元年(1615年)6月6日、興秋は父の命令を受け入れ、東林院において自害を遂げた。享年33歳であった 4

この公式記録上の最期には、しかし、不可解な点がいくつも存在する。介錯は松井家の家臣が務めたとされるが、通常、重罪人の場合は晒されるはずの首が、公の場に晒されることはなかった。さらに、彼が自害し、葬られたはずの墓はどこにも現存せず、その正確な場所を示す記録もない。それどころか、自害の現場となった東林院という寺院そのものの所在地すら、現在では不明確になっている 2

この公式記録における不可解な「曖昧さ」は、あたかも誰かが意図的に興秋の死の痕跡を消し去ろうとしたかのようにも見える。そして、この歴史の空白こそが、後に語られるもう一つの物語、すなわち興秋生存説が生まれる豊かな土壌となったのである。

第四章:もう一つの生涯―天草に生きたという伝承

公式記録では元和元年にその生涯を閉じたとされる細川興秋。しかし、九州・天草地方には、彼がその後も生き続け、全く異なる人生を送ったとする、驚くべき伝承が色濃く残されている。この伝承は、近年発見された史料によって裏付けられ、今や単なる伝説の域を超えた、有力な歴史的仮説として注目を集めている。

4.1 生存説の核心―自害偽装工作

生存説の核心は、伏見・東林院での自害が、実は周到に計画された偽装工作であったという点にある 3 。この説によれば、父・忠興は、徳川幕府に対しては家の掟を貫く非情な父を演じ、興秋に自害を命じた。しかし、その裏では重臣の松井氏らと連携し、密かに興秋を逃亡させる手はずを整えていたというのである。

この一見矛盾した行動を可能にしたのが、第一章で述べた忠興のパラドキシカルな性格、すなわち「家のため」ならばいかなる手段も厭わないという徹底した合理主義である。天下に示す「公の顔」としては、徳川に反旗を翻した息子を処断し、細川家の忠誠心に疑いのないことを示さねばならなかった。しかし、「私的な顔」としては、自らの血を引く息子を絶やすに忍びず、家の血筋を秘密裏にでも存続させようとした。この二面性こそが、前代未聞の自害偽装工作を成し遂げた原動力であったと解釈できる。それは忠興の個人的な情愛だけでなく、万が一徳川の世が揺らいだ際の保険として、豊臣方に与した血筋を温存しておくという、大名家としての高度なリスク管理の一環であった可能性も否定できない。

4.2 決定的史料『細川忠利書状』の衝撃

長らく口伝や状況証拠に頼っていた生存説は、ある一通の書状の発見によって、その様相を一変させる。それは、熊本県立美術館が所蔵する「長岡与五郎宛 元和七年五月廿一日付 細川忠利書状」である 25

この書状は、興秋が自害したとされる年から6年後の元和7年(1621年)に、細川家の家督を継いだ実弟・忠利が、「長岡与五郎殿」、すなわち細川興秋(与五郎は興秋の通称)に宛てて送ったものである。その内容は、興秋が患っていた病が名医の治療によって快方に向かったことを喜ぶものであり、彼が湯治を望んでいるが、「人質」の身であるため自由に動けないことへの配慮などが記されている 26

この書状が持つ歴史的価値は計り知れない。

第一に、藩主である実弟が実兄に宛てた書状であることから、興秋が1621年時点で生存していたことの動かぬ証拠となる。

第二に、「人質として之有る」という記述は、興秋の生存が単なる逃亡生活ではなく、細川藩による厳重な監視・保護下にあったことを示している。これは、興秋の隠蔽が、父・忠興、当主・忠利、そして家臣たちが関与した、藩ぐるみの極秘計画であったことを物語っている。

第三に、家督を巡って対立したはずの弟が兄の身を案じている様子は、家の論理の下で、兄弟としての情や家族としての絆が完全に断ち切られていたわけではなかったことを示唆している。

この『細川忠利書状』の存在は、興秋生存説を単なる「伝承」から、具体的な証拠に裏打ちされた「歴史的仮説」へと昇華させた決定的な史料と言える。

4.3 潜伏の足跡―豊前から天草へ

『忠利書状』やその他の伝承を繋ぎ合わせることで、自害偽装後の興秋の足跡を再構築することができる 2

偽装工作の後、興秋はまず父・忠興の領国である豊前国へ送られた。そして、田川郡香春にあった不可思議寺の住職「宗順」として、約17年間にわたって潜伏生活を送ったとされる 2 。この時期、イエズス会の報告書には、小倉近郊で迫害されていた中浦ジュリアン神父を匿った「徳の高い高貴な仏僧」の存在が記録されており、これが興秋であった可能性が指摘されている 2

寛永9年(1632年)、細川家が豊前小倉から肥後熊本へ移封されると、興秋もそれに伴って移動する。彼はまず肥後北部の山鹿にあった泉福寺に身を寄せ、その後、最終的な隠棲の地として天草の御領村へ渡った 2 。ここで彼は僧「泰月」あるいは「宗専」を名乗り、自らが持参した薬師如来像を本尊とする長興寺を建立したと伝えられている 3

4.4 天草・島原の乱と興秋の役割

寛永14年(1637年)、キリシタンへの弾圧と過酷な年貢の取り立てに耐えかねた農民たちが蜂起し、天草・島原の乱が勃発する。この時、興秋の人生は新たな転換点を迎えた。

天草の伝承によれば、興秋は、自らの武将としての経験と権威を活かし、御領地区の住民たちに一揆へ加担しないよう説得して回ったという 2 。大坂の陣で豊臣方に味方した「反逆者」であり、敬虔なキリシタンでもあった興秋は、一揆勢にとって象徴的な指導者となり得たはずである。しかし、彼は正反対の行動をとった。これは、大坂の陣での敗北を通じて、武力抵抗の無益さと、それがもたらす悲惨さを誰よりも痛感していたからであろう。彼の説得の結果、御領地区の住民は乱に加わらず、多くの命が救われたとされている。

この行動は、かつて父と天下に反旗を翻した「反逆者」が、今度は地域社会の安寧を守る「守護者」へと精神的に成熟を遂げたことを示している。それは、彼の波乱に満ちた生涯の、集大成ともいえる行動であった。

4.5 天草に残る物証と記憶

天草には、興秋の生存を裏付ける数多くの物証と記憶が今なお残されている。

五和町御領にある芳證寺(長興寺を合併)の墓地には、興秋のものとされる墓が二種類存在する。一つは江戸時代後期に子孫の長岡氏が再建した高さ2メートルを超える堂々たる墓碑であり、もう一つはその傍らに佇む古い三基の無縫塔(僧侶の墓)で、中央が興秋の墓と伝えられている 15。

また、興秋直筆とされる『長興寺薬師如来縁起』や、彼の系譜を記した『池田家文書』といった古文書も現存する 26 。さらに、細川家の家紋である「九曜紋」が入った化粧箱や金庫などの遺品も残されており 3 、これらは伝承に物理的な裏付けを与え、物語をより確かなものにしている。

表:細川興秋の二つの生涯(年表比較)

公式記録と生存説、二つの異なるタイムラインを比較することで、興秋の生涯の特異性がより明確になる。

年代 (西暦)

公式記録上の出来事 (根拠史料)

生存説に基づく出来事 (根拠史料)

天正11-12年 (1583-84)

誕生 1

誕生 2

慶長5年 (1600)

関ヶ原合戦に東軍で参陣、武功を挙げる 1

関ヶ原合戦に東軍で参陣、武功を挙げる 1

慶長10年 (1605)

継承問題に不満を持ち、江戸行きを拒否し出奔、京都で出家 4

継承問題に不満を持ち、江戸行きを拒否し出奔、京都で出家 4

元和元年 (1615)

大坂の陣で豊臣方として敗戦後、父・忠興の命により伏見東林院で自害 4

自害を偽装。父・忠興の手配で豊前国香春の不可思議寺へ潜伏 2

元和7年 (1621)

(記録なし)

豊前で潜伏中、弟・忠利から病気見舞いの書状を受け取る 25

寛永12年頃 (c.1635)

(記録なし)

細川家の肥後移封後、天草御領へ移り住み、僧「宗専」となる 2

寛永14-15年 (1637-38)

(記録なし)

天草・島原の乱に際し、地域住民に不参加を説得し、命を救う 25

寛永19年 (1642)

(記録なし)

6月15日、天草にて病没。享年60。長興寺に葬られる 3

第五章:結論―歴史に埋もれた実像を求めて

細川興秋の生涯を巡る二つの物語を検証した結果、我々は歴史の記録の多層性と、その背後に隠された人間の複雑な真実に到達する。

5.1 二つの物語の統合

公式記録が語る興秋の「死」は、徳川幕府という新たな支配体制に対して、細川家がその忠誠心と家中の規律の厳格さを示すために必要とされた、「表向きの政治的処分」であった可能性が極めて高い。家康からの助命をあえて断り、自らの手で息子を処断するという父・忠興の態度は、この政治的パフォーマンスを完璧なものにした。墓所や死の状況が曖昧であることは、むしろこの処分が「見せるため」のものであり、その裏で別のシナリオが進行していたことを示唆している。

一方で、天草に伝わる生存説は、決定的史料である『細川忠利書状』によって、単なる願望や伝説の域を遥かに超えた、強力な信憑性を持つ歴史的事実として浮かび上がる。この書状は、興秋の生存のみならず、彼の隠蔽が細川藩ぐるみで行われた組織的な計画であったことを明らかにした。天草に残る数々の物証と、地域に深く根差した伝承は、その後の彼の足跡を補完し、この「もう一つの生涯」に豊かな色彩とリアリティを与えている。

5.2 細川興秋という人物の再評価

これらの分析を通じて、細川興秋の人物像は新たな光を当てられる。彼は単に「父に背いた不肖の息子」でも、「運命に翻弄された悲劇の貴公子」でもない。

彼の生涯は、近世初期の日本において、個人の信仰と「家」の論理との間で引き裂かれたキリシタン武将の苦悩そのものであった。彼の出奔や大坂方への加担は、父への反発だけでなく、自らの信仰とアイデンティティを守るための必死の抵抗であった。そして、天草での後半生は、彼がその葛藤を乗り越え、武力による抵抗ではなく、地域社会を守り導くという形で自らの存在価値を見出した、精神的な成熟の過程であったと評価できる。彼は、名門の次男としてのプライド、戦場で武功を挙げるほどの武将としての器量、そして敬虔なキリシタンとしての信念を併せ持ち、時代の大きな奔流の中で、最後まで自らの生き方を貫こうとした、複雑で人間味あふれる人物であった。

5.3 結び

細川興秋の物語は、歴史がしばしば勝者や権力者の視点から記述され、その影に無数の「語られざる人生」が埋もれていることを我々に強く示唆する。彼の二つの生涯を追う営みは、公式記録の行間を読み解き、記録された歴史と語り継がれた記憶の双方に真摯に耳を傾けるという、歴史学の根源的な作業の重要性を改めて教えてくれる。興秋の実像を求める旅は、歴史の深淵を覗き込み、そこに息づく人間の真実を探求する、終わりなき知的探求そのものなのである。

引用文献

  1. 細川興秋 (ほそかわ おきあき) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12037183528.html
  2. 試論:細川興秋公の大坂の陣以後 https://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-21-17.pdf
  3. 細川興秋 - 天草探見 http://www.amakusatanken.net/hosokawaokiaki.html
  4. 細川興秋の紹介 - 大坂の陣絵巻 https://tikugo.com/osaka/busho/hosokawa/b-hosokawa-aki.html
  5. 細川興秋 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%88%88%E7%A7%8B
  6. 妻を愛しすぎた男、細川忠興の屈折した愛情 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/17554/
  7. 細川忠興 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
  8. 細川忠興は本当にヤンデレなのか - note https://note.com/55_avis/n/n57cbc95970f0
  9. 【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2021/08/05/180000
  10. 人生逆境だらけ! それでも心は負けなかった細川(ガラシャ)さんの場合【オンナ今昔物語2】 https://www.lettuceclub.net/news/article/218004/
  11. 細川ガラシャ 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/40515/
  12. 細川忠興とガラシャの壮絶夫婦物語 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/hosokawa-tadaoki-garasha/
  13. 東軍 細川忠興/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41110/
  14. 【細川氏のキリシタン取り締まり】 - ADEAC https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht050480
  15. 「細川興秋の生涯」略伝について|髙田重孝 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/n0f995e73d37e
  16. 豊前藩主・細川忠興のキリシタン迫害と殺害(殉教)1614年(慶長19)から1632年(寛永9)まで18年間の記録|髙田重孝 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/n24bcdca743bc
  17. 細川興元の関ヶ原|是ことり(ここ ことり) - note https://note.com/55_avis/n/n97cc23ddc2a7
  18. 細川興秋はなぜ豊臣方に身を投じたのか?【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/9273
  19. 細川忠興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
  20. 細川興秋はなぜ豊臣方に身を投じたのか?【後編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/9434
  21. 第12話 小倉の歴史を大きく左右した合戦・大坂夏の陣 - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2020/03/story12-osakanatunojin/
  22. 大坂の陣の裏に潜む様々な対立軸・社会問題 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=TJY2KSPkXvQ
  23. 大坂の陣でなぜ全国の大名たちは誰一人として豊臣方に味方しなかったのか⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/34055
  24. 大坂の陣の背景① 日本を分断した豊臣と徳川の権力関係「早わかり歴史授業78 徳川家康シリーズ46」日本史 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=uILFL_ck3vM&pp=ygUWI-OBiuiUteWFpeOCt-ODquODvOOCug%3D%3D
  25. 感想文紹介「細川興秋400年目の真実」|髙田重孝 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/nb518a8706caf
  26. 細川興秋生存の証拠・細川忠利書状 元和七年(1621年)5月21日付け・長岡与五郎(細川興秋)殿宛て - note https://note.com/shigetaka_takada/n/nf6019872d21b
  27. 天草五和町御領の伝承『細川興秋と專福庵』に関する調査報告 髙田重孝 長崎鼻キリシタン寺跡 https://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-21-20.pdf
  28. 長岡興就 http://www.amakusatanken.net/nagaok.html
  29. 著書紹介「細川興秋の真実」髙田重孝著 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/ndef4c0430177
  30. 細川興秋の天草・島原の乱の時期の避難場所についての考察|髙田重孝 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/ne671212d0624