細川藤賢(ほそかわ ふじかた)という武将の生涯を追うことは、単に一個人の伝記を辿る作業に留まらない。それは、室町幕府という「旧き秩序」が崩壊し、織田信長という「新しき実力」が台頭する時代の大きな転換点を、幕府の中枢に近い名門武士がいかに生き、いかなる決断を下したのかという、時代の縮図そのものを解明する試みである。彼の人生は、戦国乱世から天下統一へと向かう激動の渦中で、多くの武士が直面したであろう忠義と保身、名誉と実利の狭間での葛藤を、極めて象徴的な形で我々に示してくれる。
本報告書は、細川藤賢の生涯を、彼の出自である名門「細川典厩家」の歴史的背景から説き起こし、室町幕府の終焉と織田政権の台頭という歴史の分岐点における彼の行動と決断を、一次史料を基に深く分析・考察するものである。
まず、分析を進めるにあたり、極めて重要な前提を共有しておきたい。細川藤賢は、同時代に活躍し、同じく足利将軍家に仕えた細川藤孝(ふじたか、後の幽斎)としばしば混同される 1 。両者は名前の読みが似ているだけでなく、キャリアの初期において重なる部分も多い。しかし、その出自、歩んだ道、そして歴史に刻んだ足跡は全く異なる。この混同を避けるため、両者の違いを以下に整理する。
表1:細川藤賢と細川藤孝(幽斎)の比較
項目 |
細川藤賢(ふじかた) |
細川藤孝(ふじたか、幽斎) |
生没年 |
1517年 – 1590年 2 |
1534年 – 1610年 4 |
家系 |
細川京兆家の分家・典厩家当主 6 |
細川和泉上守護家の庶流・三淵氏の子で、後に細川元常の養子となる 4 |
主な主君 |
足利義輝 → 足利義昭 → 織田信長 → 豊臣秀吉 3 |
足利義輝 → 足利義昭 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康 9 |
キャリアの変遷 |
室町幕府の御供衆として将軍に近侍。幕府滅亡後は織田政権下の一員となる 3 。 |
幕臣から信長の家臣へと転身し、丹後一国を領する大名となる 9 。 |
本能寺の変後 |
豊臣秀吉に仕える 11 。 |
明智光秀の誘いを拒絶して剃髪。後に秀吉、家康に仕え、近世大名家の礎を築く 10 。 |
最終的な地位 |
織田・豊臣政権下の一武将 11 。 |
近世肥後熊本藩54万石の藩祖 8 。 |
特筆事項 |
幕府への忠節を重んじ、主君・義昭の挙兵を諫めつつも運命を共にしようとした 3 。 |
古今伝授を受けた当代随一の文化人であり、政治家としても時勢を巧みに読み解いた 1 。 |
この表が示すように、藤孝が時代の変化を巧みに乗りこなし、自らの才覚で大大名へと飛躍した「新人」であるとすれば、藤賢は旧来の秩序と価値観の中で自らの役割を全うし、堅実に家名を保った「旧人」であったと言える。本報告書では、この藤賢独自の人物像に光を当てることを目的とする。
本報告書が探求する中心的な問いは、以下の二点に集約される。
第一に、「彼はなぜ、主君・足利義昭の無謀な挙兵を、その非を説いて諫めながらも、最終的にはそれに従い、敗北の道を共にしたのか」。
第二に、「そしてなぜ、その義昭と袂を分かった後、敵将であったはずの織田信長に許され、その政権下で生き永らえることができたのか」。
これらの問いを解く鍵は、彼が背負った「典厩家」という家門の歴史と、当時の武士が共有していた「義理」という行動規範、そして信長という新たな天下人の合理的な統治戦略の中にこそ見出すことができる。
年号 |
西暦 |
藤賢の年齢 |
出来事 |
関連人物・補足 |
永正14年 |
1517年 |
1歳 |
誕生。父は細川典厩家の細川尹賢 2 。 |
兄に細川氏綱がいる。 |
享禄4年 |
1531年 |
15歳 |
大物崩れ。父・尹賢が細川高国と共に敗死 14 。 |
この後、名実ともに典厩家を継いだと考えられる。 |
天文9年 |
1540年 |
24歳 |
従五位下・右馬頭に叙任される 3 。 |
13代将軍・足利義藤(義輝)より偏諱を受け「藤賢」と名乗る。 |
永禄8年 |
1565年 |
49歳 |
永禄の変。将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害される。藤賢は松永久秀に属す 3 。 |
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永禄11年 |
1568年 |
52歳 |
織田信長が足利義昭を奉じて上洛。藤賢は義昭に仕える 15 。 |
幕臣(御供衆)に復帰。 |
永禄12年 |
1569年 |
53歳 |
信長による二条御所造営の際、自邸の庭石「藤戸石」が信長の指揮で運び出される 3 。 |
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元亀3-4年 |
1572-73年 |
56-57歳 |
摂津中島城にて、細川昭元と共に三好・本願寺勢と戦い籠城する 18 。 |
中島城は元亀4年2月に落城。 |
天正元年 |
1573年 |
57歳 |
義昭が信長に対し挙兵(槇島城の戦い)。藤賢は挙兵を諫めるも、義昭に従う 3 。 |
義昭は追放され室町幕府は事実上滅亡。藤賢は信長に赦され、近江坂本城を任される 3 。 |
天正9年 |
1581年 |
65歳 |
京都御馬揃えに「旧公方衆」として参加 19 。 |
織田政権下での地位が公に示される。 |
天正10年 |
1582年 |
66歳 |
本能寺の変。変後は豊臣秀吉に仕える 3 。 |
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天正18年 |
1590年 |
74歳 |
7月23日、京都にて死去 3 。 |
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細川藤賢の行動原理を理解するためには、まず彼が属した「細川典厩家」が、室町幕府と細川本家の中でどのような位置を占めていたのかを知る必要がある。彼の家系は、単なる分家ではなく、幕府の中枢で特別な役割を担う名門であった。
細川氏は、清和源氏足利氏の支流であり、室町幕府において斯波氏、畠山氏と共に将軍を補佐する管領職を世襲した三管領の筆頭格であった 20 。特に本家である京兆家は、幕府内で絶大な権勢を誇り、時には将軍家をも凌ぐ力を持つに至った 8 。
細川典厩家は、この京兆家の最盛期を築いた管領・細川満元の三男である持賢(もちかた)を祖とする分家である 6 。当主が代々、右馬頭(うまのかみ)あるいは右馬助(うまのすけ)に任官したことから、その唐名(中国風の官職名)である「典厩」を家名とした 6 。典厩家は、阿波や讃岐といった分国を持つ他の分家とは異なり、基本的に特定の守護国を持たなかった。その代わり、京都に本拠を置き、京兆家の「内衆(うちしゅう)」、すなわち重臣団を束ねる役割や、幕府の膝元である摂津国西成郡(中島郡)の分郡守護を務めるなど、常に幕府と京兆家の中枢にあって、その権威と実務を支える重要な役割を担っていた 6 。その邸宅も京都の市中に広大な敷地を構えていたことが知られている 22 。
藤賢が生まれる少し前、細川氏は大きな内乱の時代を迎えていた。京兆家当主の細川政元が実子なくして暗殺された後、三人の養子、すなわち細川澄之、澄元、高国の間で家督を巡る激しい争いが勃発した。これが「両細川の乱」と呼ばれる、畿内を長期にわたって混乱させた内戦である 7 。
この内乱の過程で、細川典厩家もまた分裂の悲劇に見舞われる。本来の典厩家当主であった細川政賢は澄元を支持したが、対する高国は、政賢の従兄弟にあたる細川尹賢(ただかた)を新たな典厩家当主として擁立したのである 7 。これにより、典厩家は澄元方と高国方に分裂し、互いに争うこととなった。
藤賢の父である尹賢は、この高国方の中核として活躍し、高国が京兆家の家督を掌握すると、京兆家に最も近い有力一門としての地位を確立した 7 。しかし、その栄華は長くは続かなかった。享禄4年(1531年)、高国が澄元の子・晴元や三好元長らの反撃を受けて敗死した「大物崩れ」において、父・尹賢もまた主君・高国と運命を共にし、戦場で命を落としたのである 7 。
この父・尹賢の生き様は、藤賢の精神形成に決定的な影響を与えたと考えられる。尹賢は、京兆家の内紛という激動の中で、自らを当主としてくれた主君・高国のために最後まで戦い抜いた。この事実は、尹賢流の典厩家にとって、主家・主君への忠誠を絶対視し、運命を共にすることが家門の名誉であるという強固な価値観が形成されていたことを示唆している。幼少期から青年期にかけて、父のこのような生き様を見聞きして育った藤賢にとって、主君への奉公は単なる職務ではなく、家の誇りと直結する根源的な価値観となったであろう。彼の後の足利義昭に対する一見不可解な行動は、この父から受け継いだ家風と無関係ではない。
細川藤賢は、永正14年(1517年)、細川尹賢の子として生まれた 2 。彼には4歳年上の兄・氏綱がいたが、この氏綱は後に父の主君であった細川高国の養子となり、京兆家の家督を継承することになる 2 。
当初、藤賢は尹賢の弟の家系とされる別の分家(駿州家)を継ぐ予定であったという 3 。しかし、兄の氏綱が京兆家の後継者として処遇されたため、藤賢が父の跡を継いで典厩家の後継者となった。ただし、高国に実子が生まれれば氏綱が典厩家に戻る可能性も残されており、藤賢が名実ともに典厩家の当主となったのは、父・尹賢と高国が共に戦死した大物崩れの後であったと考えられている 3 。父と主君を一度に失うという悲劇の中から、藤賢は名門・典厩家の舵取りを担うことになったのである。
家督を継いだ藤賢は、父祖代々からの役割を引き継ぎ、室町幕府将軍の側近としてそのキャリアを歩み始める。彼の活動は、将軍権威が揺らぐ戦国乱世にあって、幕府を内側から支えることに捧げられた。
藤賢は、室町将軍に直接仕える「御供衆(おともしゅう)」の一員であった 3 。御供衆とは、将軍が御所で行う儀式や、御所外へ外出する御成(おなり)の際に供奉する、極めて格式の高い役職である 25 。彼らは単なる儀礼官僚ではなく、将軍の親衛隊としての軍事力も担っており、守護大名の力を牽制し、将軍権力を支えるための軍事的・政治的基盤となる存在であった 26 。
天文9年(1540年)、藤賢は24歳で従五位下・右馬頭に叙任される。そして、当時の第13代将軍・足利義藤(後の義輝)に仕え、その名前から一字(偏諱)を賜って「藤賢」と名乗った 3 。将軍の名前を拝領することは、君臣間の極めて密接な関係を示すものであり、藤賢が義輝から厚い信頼を寄せられていたことの証左である。
当時の公家・山科言継の日記である『言継卿記』には、永禄年間を通じて、将軍が出仕する場面や儀式に供奉する人物として、細川藤賢の名前がしばしば記録されている 16 。これらの一次史料は、彼が日常的に将軍の側で活動し、幕府の中枢で重要な役割を果たしていたことを具体的に示している。
しかし、永禄8年(1565年)5月、将軍・足利義輝が二条御所にて三好三人衆らによって暗殺されるという未曾有の事態が発生する(永禄の変)。主君を失った藤賢は、この混乱期に一時、畿内で勢力を誇っていた松永久秀に属した 3 。これは、幕府が機能不全に陥る中で、自らの家と地位を保つための現実的な選択であったと考えられる。
その後、義輝の弟であった一乗院覚慶が還俗して足利義昭と名乗り、越前の朝倉義景や尾張の織田信長らを頼って将軍家の再興を目指す。永禄11年(1568年)、信長に擁立された義昭が上洛を果たし、第15代将軍に就任すると、藤賢は再び幕臣として義昭に仕えることとなった 3 。彼は、滅びかけた足利将軍家の再興に、再びその身を投じたのである。
義昭を将軍の座に就けた信長は、その権威を天下に示すため、京都に壮麗な二条御所(義昭の居城)の造営を開始した 28 。この城普請の過程で、信長と藤賢の関係、そして旧来の権威と新たな実力者の力関係を象徴する、非常に興味深い逸話が残されている。
信長は、この二条御所の庭を飾るにふさわしい名石として、藤賢が上京の邸宅に所有していた「藤戸石」という名高い庭石に目をつけた 3 。そして、これを御所へ運び出すよう命じたのである。特筆すべきは、信長がこの石の運搬作業を自ら現場で指揮したという点である 3 。
この出来事は、単なる城普請の一幕として片付けることはできない。それは、旧来の権威(足利将軍家)と、それを支えてきた名門幕臣(細川典厩家)の象徴物(名石「藤戸石」)を、新興の実力者(織田信長)が自らの手で「接収」し、新たな権威の礎として「再配置」する様を劇的に描き出している。藤賢にとって「藤戸石」は、単なる庭石ではなく、代々受け継がれてきた典厩家の格式と誇りの象徴であった。その要求を、将軍のためという大義名分の下に突きつけられた藤賢は、拒否することができなかった。彼は、自らの家の誇りの一部が、信長の圧倒的な威光の前に屈し、その支配の道具として利用されていく現実を、ただ見守るしかなかったのである。この逸話は、当初は協力関係にあった信長と義昭、そして旧幕臣たちの間に横たわる、協力しつつも緊張をはらんだ力関係を如実に示しており、やがて訪れる両者の決裂を暗示する象徴的な事件であったと言えよう。
足利義昭政権下で、藤賢は幕府の柱石として奮闘する。しかし、義昭と信長の関係が悪化するにつれ、彼は忠義を尽くすべき主君と、抗うことのできない実力者の狭間で、困難な選択を迫られることになる。
義昭と信長の関係がまだ良好であった元亀年間、藤賢は軍事指揮官として重要な役割を果たしていた。彼は、本拠地である摂津国中島城(堀城とも呼ばれる)において、細川京兆家の正統な後継者と目される細川昭元(信良)と共に、反信長・反義昭を掲げる三好勢力と対峙していた 18 。
元亀3年(1572年)から翌年にかけて、この中島城は、三好義継、三好三人衆、松永久秀、そして石山本願寺といった畿内の一大勢力が結集した大軍によって包囲されるという絶体絶命の危機に陥る 18 。しかし、藤賢と昭元は巧みな籠城戦を展開し、この大軍を相手に半年以上も持ちこたえた。この粘り強い抵抗は、三好勢力の軍事行動を摂津に釘付けにし、彼らが京都へ上洛するのを大幅に遅らせるという、戦略的に極めて大きな意味を持っていた 18 。
この中島城での奮戦は、藤賢が単なる儀礼を司る文官ではなく、幕府の軍事を支える有能な指揮官であったことを明確に証明している。織田信長自身も、この籠城戦を高く評価し、落城の報に際しては「おしき事(惜しいこと)」と悔やみ、昭元に同情の意を示している書状が残っている 18 。この戦いは、義昭・信長連合政権の維持に大きく貢献したものであり、藤賢と義昭との間には、単なる主従関係を超えた、共に死線を越えた「戦友」としての強い絆が育まれたと考えられる。後に義昭が無謀な挙兵に踏み切った際、藤賢が主君を見捨てることができなかった背景には、この中島城での苦難を共にした経験が、深く影響していたと推察される。
しかし、両者の蜜月は長くは続かなかった。天正元年(1573年)、信長が将軍の権限を著しく制限する「殿中御掟」を突きつけたことなどから、信長と義昭の対立は決定的となる。追いつめられた義昭は、武田信玄ら反信長勢力と呼応し、自ら信長討伐の兵を挙げようと画策し始めた 30 。
この時、藤賢は義昭に対し、挙兵はあまりに無謀であり、勝ち目はないと強く諫めたと伝えられている 3 。これは、中島城の戦いなどを通じて織田軍の圧倒的な軍事力を身をもって知っていた藤賢にとって、当然の冷静な政治判断であった。彼は、主君の感情的な暴走を止めようと、家臣としての忠義を尽くしたのである。
だが、義昭は藤賢の諫言に耳を貸さず、同年7月、宇治川に浮かぶ要害・槇島城に籠城して、ついに信長に対して挙兵した 30 。
ここで藤賢は、人生最大の岐路に立たされる。自らの諫言が容れられなかったにもかかわらず、彼は主君・義昭に従い、共に戦ったとされる 3 。しかし、この点については史料の記述に注意が必要である。『信長公記』など、槇島城の戦いを詳細に記した一次史料に近い記録には、城に籠もった主要な将として、義昭の側近である三淵藤英や城主の真木島昭光らの名前は挙がるものの、細川藤賢の名は明確には見当たらない 30 。彼が城内で具体的にどのような役割を果たしたのか、あるいは城外で後方支援などに回っていたのかは、現存する史料からは断定できない。
しかし、重要なのは、彼が義昭を見捨てて信長に寝返るという選択をしなかったという事実である。この「諫言」と「(結果としての)従軍」という一見矛盾した行動こそ、当時の武士が理想とした行動規範、すなわち「義理」の体現であった。この時代の武士にとって、家臣が尽くすべき第一の「義」は、主君の間違いを正すために命懸けで忠告すること(諫言)であった。しかし、ひとたび主君が決断を下した以上は、その結果がどうであれ、私心を捨てて従い、運命を共にすることが最終的な「義」とされた。私利私欲や保身のために主君を見捨てることは、武士として最も恥ずべき「不義理」であり、「面目」を失う行為だったのである 32 。
特に、父・尹賢が主君と運命を共にした家風を持つ藤賢にとって、危機に陥った主君を見捨てて敵方に走るという選択肢は、そもそも存在しなかったであろう。彼の行動は、現代的な合理主義から見れば矛盾に満ちているかもしれないが、室町武士の価値観に照らせば、それは極めて原理原則に忠実な、一貫した忠義の発露だったのである。
槇島城は織田軍の圧倒的な兵力の前にわずか一日で降伏。将軍・足利義昭は京から追放され、ここに室町幕府は事実上滅亡した 30 。主君と運命を共にしようとした藤賢もまた、本来であれば厳しい処断を免れないはずであった。しかし、彼のその後の処遇は、信長の意外な一面と、新たな時代における統治のあり方を示している。
義昭に従った幕臣たちの運命は分かれた。義昭の側近中の側近であった三淵藤英は、最後まで降伏を拒み続け、後に自刃に追い込まれた 30 。一方で、同じく義昭に従った藤賢は、信長から罪を赦され、そればかりか近江国の要衝である坂本城を任されるという破格の処遇を受けた 3 。
この信長の判断の背景には、彼の合理的な統治戦略があった。信長は、旧来の権威や秩序を破壊する一方で、それらが持つ利用価値を冷静に見極める支配者でもあった。彼は室町幕府を武力で解体したが、幕府が長年培ってきた権威や、京都を治めるために必要なノウハウまで全てを否定したわけではない。藤賢のような、将軍に近侍した「旧公方衆(きゅうくぼうしゅう)」は、朝廷との交渉術、複雑な儀礼や有職故実の知識、そして何よりも名門としての格式といった、信長自身やその叩き上げの家臣団が持たない無形の資産を有していた 26 。
信長は、藤賢を処断するよりも、生かして自らの体制に組み込む方が、旧幕府勢力を懐柔し、京都支配や対朝廷政策を円滑に進める上で遥かに有益であると判断したのである。これは、信長が茶の湯という文化的な道具を利用して堺の豪商たちを懐柔したのと同様の 37 、極めてプラグマティックな人材活用術であった。藤賢の赦免は、単なる温情ではなく、旧秩序から新秩序への移行を円滑にするための、計算された政治的判断だったのである。
藤賢が織田政権下でどのような立場にあったかを明確に示すのが、天正9年(1581年)2月に京都で催された大規模な軍事パレード、いわゆる「京都御馬揃え」である 19 。この馬揃えは、信長が正親町天皇の叡覧を仰ぎ、自らの権勢を天下に誇示するために行った一大イベントであった。
この晴れがましい舞台に、藤賢は「旧公方衆」の筆頭格として、公家衆や織田家の方面軍司令官らと共に堂々と参列している 19 。この事実は、彼がもはや敵方ではなく、織田政権を構成する正式な一員として公に認められていたことを意味する。彼は追放された旧主・義昭とは完全に袂を分かち、新たな天下人である信長への臣従を現実として受け入れ、その政権下で新たな役割を見出していたのである。藤賢の存在は、信長政権が旧幕府の権威を一部継承し、取り込むことで成り立っていたことを象徴していた。
織田信長の下で生き残った藤賢は、その後も時代の大きなうねりを見届けることとなる。彼の晩年と、彼が守り抜いた典厩家のその後の足跡は、戦国乱世を生き抜いた多くの名門庶流が辿った典型的な道筋を示している。
天正10年(1582年)、本能寺の変によって信長が横死すると、天下の情勢は再び流動化する。この政変後の動乱を制し、新たな天下人となったのは羽柴(豊臣)秀吉であった。藤賢は、信長に仕えた他の多くの旧公方衆や武将たちと同様に、この新たな権力者である秀吉に仕えたとされている 3 。これは、特定の主君への忠節を貫くという価値観が、もはや絶対ではなくなり、天下を治める実力者に仕えることが武士の存続の道であるという、新たな時代の潮流に適応した結果であった。
彼は、室町幕府の成立からその崩壊、そして織田、豊臣による天下統一事業という、日本の歴史が大きく転換する時代をその目で見届けた。そして天正18年(1590年)7月23日、京都にて74歳の生涯を閉じた 3 。
藤賢が守った細川典厩家の家名は、彼の死後も途絶えることはなかった。藤賢の子である細川元賢(もとかた)の代から、典厩家は加賀百万石の藩主・前田家に仕官し、加賀藩士としてその家名を幕末まで伝えた 11 。
これは、戦国時代に独立した勢力や幕府の直臣として存在した名門の一族が、江戸時代の幕藩体制下において、有力な大名家の家臣団に組み込まれていくという、典型的なパターンの一つである。かつては幕府の中枢で権勢を誇った典厩家もまた、近世という新たな社会秩序の中で、一藩の家臣としてその歴史を刻んでいくことになった。藤賢が、主君への義理を尽くしながらも最終的に信長に降ることで家名を存続させた決断は、結果として子孫の道を切り拓くことになったのである。
細川藤賢の生涯を丹念に追うことで、我々は歴史の教科書に名を残す英雄たちの物語とは異なる、もう一つの戦国時代の姿を垣間見ることができる。彼の歴史的評価は、時代の転換点を生きた「誠実な旧人」という言葉に集約されよう。
藤賢は、同族の細川藤孝(幽斎)のように、自らの才覚で時代を切り拓き、新たな秩序の創造者となる「新人」ではなかった。むしろ彼は、滅びゆく室町幕府の価値観、すなわち主君への「義理」と武士としての「面目」を、不器用なまでに最後まで貫こうとした「旧人」であった。彼の行動原理は、個人の野心や才覚よりも、代々受け継いできた家柄と幕臣としての職分、そして武士として当然守るべきとされた行動規範に深く根差していた。
彼の生き様は、戦国時代における「忠誠」という概念の多義性と複雑さをも我々に教えてくれる。もし、足利義昭の幕臣たちが皆、藤賢のように、諫言はすれども最後まで主君に従うという道を選んでいたら。あるいは逆に、もし全ての幕臣が藤孝のように、早々に義昭を見限り、実力者である信長に乗り換えていたら。そのどちらであっても、室町幕府の終焉と織田政権の成立の過程は、大きく異なった様相を呈していたかもしれない。藤賢は、その中間ともいえる、最も古典的な武士の理想像に近い選択をした人物として、この時代の分岐点を理解するための重要な指標となる存在である。
結論として、細川藤賢は歴史の表舞台で華々しい功績を挙げた英雄ではない。しかし、彼の生涯は、名門の矜持を背負い、武士としての忠義を貫き、そして時代の激流に翻弄されながらも、自らの信条に従って懸命に生き抜いた一人の人間の、確かな軌跡を示している。彼の人生を深く掘り下げることは、戦国という時代の複雑な人間模様と、そこに生きた人々の価値観の深淵を理解する上で、不可欠な作業なのである。