最終更新日 2025-06-14

織田信光

「織田信光」の画像

織田信長の影の立役者、織田信光の実像 ―武勇、謀略、そして謎の死―

序章:忘れられた枢要人物、織田信光

戦国時代の風雲児、織田信長の天下統一事業は、数多の英雄豪傑の活躍によって彩られている。しかし、その輝かしい歴史の序盤、信長が尾張一国すら掌握していなかった黎明期において、彼の運命を決定づけた一人の武将がいた。その名は織田信光(おだ のぶみつ)。信長の叔父にあたるこの人物は、一般的な知名度こそ高くないものの、その武勇と謀略によって、甥の天下取りへの道を切り拓いた紛れもない功労者である 1

信光の存在は、信長の尾張統一という偉業を語る上で欠かすことのできない「ミッシングリンク」と言える。彼は兄・信秀を支える猛将として武功を重ね、信秀の死後は若き信長の後見人としてその権力基盤を支え、そして主家を滅ぼすという大胆な謀略を成功させた。しかし、その功績の頂点にあったはずの彼は、突如として歴史の舞台から姿を消す。家臣による暗殺という、謎に満ちた最期であった 3

本報告書は、この織田信光という人物の生涯を、史料に基づき徹底的に掘り下げることを目的とする。彼の出自と立場、武将としての功績、そして最大の謎であるその死の真相に至るまでを多角的に分析し、信長初期の権力基盤確立の過程における信光の真の実像を明らかにしたい。彼の生涯を追うことは、すなわち、織田信長という巨星がいかにして尾張の片隅から飛翔し得たのか、その原点を解き明かすことに他ならない。

報告書に含める表①:織田信光 略年表

年号(西暦)

信光の年齢(数え)

主要な出来事

関連事項/場所

永正13年(1516)

1歳

織田信定の子として誕生 2

尾張国

天文4年(1535)

20歳

守山城にて松平清康の軍勢と対峙(守山崩れ) 4

守山城

天文11年(1542)

27歳

兄・信秀に従い、今川軍と交戦(第一次小豆坂の戦い)。「小豆坂七本槍」の一人に数えられる武功を挙げる 1

三河国小豆坂

天文21年(1552)

37歳

兄・信秀が死去。甥・信長が家督を相続 1

末森城

天文21年(1552)

37歳

萱津の戦い。信長と連合し、主家である清洲織田氏の軍勢を撃破する 6

尾張国萱津

天文24年(1555)

40歳

清洲城を謀略により奪取。主君・織田信友を討ち、城を信長に譲る 2

清洲城

天文24年(1555)

40歳

信長の旧居城であった那古野城主となる 4

那古野城

弘治元年(1555)

40歳

11月26日、居城・那古野城にて家臣・坂井孫八郎に暗殺される 2

那古野城

第一章:尾張の風雲児、その出自と立場

1-1. 織田弾正忠家の系譜と信光の誕生

織田信光は、永正13年(1516年)、尾張国(現在の愛知県西部)において、織田弾正忠家の当主・織田信定の子として生を受けた 2 。通称は孫三郎と伝わる 4 。父・信定は、尾張守護・斯波氏に仕える守護代・織田大和守家(清洲織田氏)の配下にあって、奉行職を務める三人の有力家臣「清洲三奉行」の一角を占める人物であった 9

信光の母は、同じく清洲三奉行の一家である織田藤左衛門家の当主・織田良頼の娘、いぬゐの方である 4 。この婚姻関係は、弾正忠家が単独で行動するだけでなく、他の有力な奉行家と連携することで、主家である清洲織田家内部での発言力を強化しようとしていた戦略の現れと考えられる。信光は、生まれながらにして尾張国内の複雑な政治力学の渦中に身を置いていたのである。

一門には、後に「尾張の虎」と称される6歳上の兄・信秀をはじめ、信康、信正、そして弟の信実、信次らがいた 1 。信光は、この有力な一門衆の一員として、兄・信秀の勢力拡大を支える重要な役割を担っていくこととなる。

1-2. 錯綜する尾張の権力構造と政略結婚

信光が生きた時代の尾張は、極めて複雑な権力構造下にあった。名目上の支配者は守護の斯波氏であったが、その権威は失墜しており、実権は守護代である織田大和守家(清洲城主)と織田伊勢守家(岩倉城主)が握り、尾張を上四郡と下四郡に分割して統治していた 9 。信光が属する弾正忠家は、このうち清洲織田氏に仕える家臣という立場であった。

このような状況下で、弾正忠家は婚姻政策を巧みに利用して勢力の伸張を図っていた。信光自身も、その政略の一翼を担っている。彼の妻は、三河国の有力者であり、後に徳川家康の祖父となる松平清康と家督を巡って激しく対立した松平信定の娘であった 4 。この婚姻は、単なる一門の縁組に留まらず、織田弾正忠家の緻密な対外戦略の一環と見なすべきである。

特に注目されるのが、天文4年(1535年)に信光の居城・守山城前で発生した「守山崩れ」との関連性である。この事件では、尾張に侵攻した松平清康が、家臣の阿部正豊によって突如殺害されたが、その背景には清康と叔父・信定との深刻な家督争いがあったと指摘されている 14 。信光と信定の婚姻関係がこの重大事件と前後して結ばれた可能性は高く、織田家が三河の反清康派と連携し、共通の脅威であった清康の排除を画策したという構図が浮かび上がる。これは、信光が若くして兄・信秀の国境を越えた謀略に深く関与する、知略を備えた武将であったことを強く示唆している。

報告書に含める表②:織田信光 関係人物相関図

関係者

信光との関係

概要

【一門】

織田信定

織田弾正忠家当主。清洲三奉行の一人。

いぬゐの方

織田藤左衛門家の娘。

織田信秀

弾正忠家を継ぎ、尾張で勢力を拡大。信長の父。

織田信長

信秀の嫡男。信光の支援を受け尾張統一を果たす。

織田信勝(信行)

信長の弟。信長と家督を争う。

織田信康・信実・信次

兄弟

兄・信秀や甥・信長を支える一門衆。

【婚姻関係】

松平信定の娘

三河の有力者・松平信定の娘。政略結婚。

松平信定

松平清康と対立。信光との婚姻を通じて織田家と連携か。

【主家・敵対勢力】

織田信友

主君→討伐対象

尾張下四郡守護代。信光の主君であったが、後に信光に討たれる。

坂井大膳

敵対者(信友家老)

信友の実権を握る家老。信長と敵対し、信光を懐柔しようとするが失敗。

今川義元

敵対者

駿河・遠江・三河の大名。小豆坂の戦いで信秀・信光と戦う。

【家臣・その他】

坂井孫八郎

家臣・暗殺犯

信光の近臣。那古野城にて信光を殺害する。

佐々孫介

信長家臣

信長の命で坂井孫八郎を討伐したとされる武将。

第二章:武功と策略 ―信長登場前夜―

2-1. 「小豆坂の七本槍」― 猛将としての評価を確立した戦い

織田信光の名が、尾張国外にまで武勇をもって知れ渡る最初の契機となったのが、天文11年(1542年)に三河国小豆坂で繰り広げられた今川氏との合戦である 1 。当時、西三河への進出を強める織田信秀と、それを阻まんとする今川義元の軍勢が激突したこの戦いにおいて、信光は兄・信秀に従って出陣した。

信頼性の高い史料とされる『信長公記』の首巻には、この戦いの様子が記されている。今川軍の先鋒が小豆坂に兵を進めたのに対し、織田信秀は安祥城から駆けつけ、すでに戦闘を開始していた弟たち、すなわち信康、そして孫三郎信光、信実らと合流して共に戦ったとある 18 。この記述は、信光が兄や兄弟たちと共に、織田弾正忠家の中核戦力として最前線で戦っていたことを明確に示している。

諸記録によれば、この戦いで織田軍は一時劣勢に立たされたものの、信光らの目覚ましい奮戦によって形勢を逆転させ、勝利を収めたと伝わる 5 。この時の功績により、信光は後世、「小豆坂七本槍」の一人としてその名を馳せることとなった 1 。この勇名は、彼の武将としてのキャリアにおける最初の金字塔であり、単なる一門衆に留まらない、傑出した武勇の持ち主であることを内外に証明するものであった。

2-2. 甥・信長の後見人として ― 萱津の戦いにおける決定的支援

天文21年(1552年)、大黒柱であった兄・信秀が病没し、甥の織田信長が家督を相続すると、信光の立場は新たな局面を迎える 1 。一説には、信秀は死に際して信光に若き信長の後見を託したとされ、信光は弾正忠家における最有力な重鎮として、甥の政権を支えることになった 1

この家督相続は、織田弾正忠家にとって大きな試練の始まりであった。信長の「うつけ」という評判もあり、家中の動揺は隠せない。この機に乗じ、主家である清洲織田家の実権を握る又代(守護代の代理)の坂井大膳が、信長に対して公然と牙を剥いた。同年8月、大膳は信長方の松葉城と深田城を攻撃し、城主らを人質に取るという挙に出る 1

この報せを受けた信長は、直ちに居城の那古野城から出陣する。この時、信長の命運を左右する決定的な行動を取ったのが、守山城主であった信光であった。彼は甥の危機に際して迅速に軍勢を率いて駆けつけ、庄内川の稲葉地で信長軍と合流したのである 6 。『信長公記』によれば、信長と信光は「一手になって」、すなわち同一の部隊として萱津へと進軍し、清洲方の軍勢と激突した 7

この萱津の戦いは、信長・信光連合軍の圧勝に終わる。この勝利は、若き信長の評価を尾張国内で一気に高める結果をもたらした 20 。しかし、その勝利の背後に信光の存在があったことを見過ごしてはならない。もし、この重大な局面で信光が日和見を決め込んだり、あるいは主家である清洲方についたりしていれば、家督を継いだばかりで権力基盤の脆弱な信長が、この時点で政治的に、あるいは軍事的に潰されていた可能性は極めて高い。信光の迅速かつ的確な支援は、信長に軍事的な勝利をもたらしただけでなく、「一門の長老たる叔父が支持する正統な後継者」という政治的な正当性を家中に示し、反対勢力を沈黙させる絶大な効果があった。信光のこの決断なくして、後の尾張統一はあり得なかったと言っても過言ではない。この戦いは、信光が信長を「次代の覇者」として公に承認した儀式であり、織田家の権力移行を決定づけた分水嶺であったと評価できる。

第三章:天下への布石 ―清洲城奪取の深層―

萱津の戦いにおける勝利は、若き信長の権威を高めたが、依然として主家である清洲織田氏との対立構造は解消されていなかった。この膠着状態を打破し、信長を尾張の支配者へと押し上げる決定的な転機を創出したのも、またしても織田信光であった。彼の武勇と、それを上回るほどの知略が遺憾なく発揮されたのが、清洲城の乗っ取りである。

3-1. 守護殺害という大義名分

謀略の幕開けは、敵方である清洲織田氏の内部から訪れた。天文23年(1554年)、坂井大膳が、長年傀儡としてきた尾張守護・斯波義統を殺害するという暴挙に出たのである 1 。守護は名目上の存在とはいえ、主君であることに変わりはない。この「主殺し」という大罪は、坂井大膳と、その主君である織田信友の立場を著しく悪化させた。

さらに、殺害された義統の子・斯波義銀が信長を頼って逃亡してきたことで、信長は千載一遇の好機を手にする 1 。すなわち、「主殺しの逆賊、織田信友を討つ」という、下剋上を正当化するためのこの上ない大義名分を得たのである。

3-2. 欺瞞の臣従 ― 坂井大膳の誘いと信長との密約

一方、守護殺害に踏み切った坂井大膳も、自らの立場が危ういことを自覚していた。萱津の戦いで多くの家臣を失い、軍事的に弱体化していた彼は、信長陣営の最有力者である信光に接近し、その切り崩しを図った 21 。大膳は信光に対し、「信友と並ぶ両守護代になってほしい」と破格の条件を提示して協力を求めた 2

信光は、この誘いに乗るふりをして、大膳を完全に信用させる。その周到さは、『信長公記』に「表裏あるまじき」と記した誓約書である「七枚起請」を大膳に送ったと記録されているほどである 21 。しかし、これは全て欺瞞であった。その水面下で、信光は甥の信長と恐るべき密約を交わしていたのである 2

その密約の内容は、当時の信光の立場がいかに強大であったかを物語っている。それは、「清洲城の乗っ取りが成功した暁には、信長が新たな本拠として清洲城に入り、信光は信長の旧居城であった那古野城を譲り受ける。さらに、尾張下四郡を川を境として二分し、信長と信光が二郡ずつを分割統治する」というものであった 2 。これは単なる恩賞ではない。尾張統一事業における、信光が信長の対等な「共同経営者」であることを示す、事実上の権力分割の合意であった。

3-3. 謀略の完遂と尾張半国の掌握

天文24年(1555年)4月19日、計画は実行に移された。信光は坂井大膳の招きに応じ、守山城から清洲城の南櫓へと入る 21 。翌20日、礼に訪れようとした坂井大膳は城内の不穏な空気を察知してかろうじて脱出し、駿河の今川義元の下へと逃亡した 2 。そして信光は、守護・斯波義統殺害の罪を問い、主君であった織田信友を謀殺。尾張下四郡の支配拠点である清洲城を、一滴の血も流さずに完全に制圧したのである 4

謀略の成功後、信光は密約通り、清洲城を信長に明け渡した。信長はついに、尾張支配の中心地を手中に収めた。そして信光は、信長から譲られた那古野城に入り、その城主となった 2 。この一連の動きにより、信長・信光連合は尾張国の南半国を完全に掌握し、信長の天下への道が大きく開かれることとなった。この清洲城奪取は、信光の武勇、知略、そして政治力が完璧に融合した、彼のキャリアの頂点を示す出来事であった。しかし、この栄光の裏で成立した信長との「二頭体制」こそが、彼の悲劇的な最期を招く伏線となるのである。

第四章:絶頂からの暗転 ―那古野城主の悲劇―

清洲城を甥の信長に譲り、自らは那古野城主として尾張半国の共同統治者となった織田信光。その権勢はまさに絶頂にあった。しかし、その栄光はあまりにも短く、脆いものであった。清洲城奪取からわずか7ヶ月後、彼は突如としてこの世を去る。その死は、織田家の権力構造を根底から揺るがし、今日に至るまで多くの謎を投げかけている。

4-1. 束の間の栄光と、その死を巡る記録

弘治元年(1555年、10月に改元)11月26日、信光は居城である那古野城内において、不慮の死を遂げた 2 。享年41歳 2 。複数の史料が一致して伝えるところによれば、その死因は自然死ではなく、近臣であった坂井孫八郎による殺害であった 1

尾張統一の最大の功労者であり、信長の最も信頼すべき後ろ盾であったはずの叔父の突然の死は、織田家中に大きな衝撃を与えたであろう。信光の死後、彼が治めていた那古野城は、一時的に信長の筆頭家老である林秀貞の居城となった後、やがて廃城の道をたどることになる 25

4-2. 『甫庵信長記』が描く情痴説の検討

信光暗殺の動機として、後世に広く知られるようになったのが、江戸時代初期に儒学者・小瀬甫庵が著した『甫庵信長記』に記された説である。同書によれば、暗殺の実行犯である坂井孫八郎は、信光の夫人(北の方)と密通関係にあり、その不義が露見することを恐れて主君である信光を殺害した、という筋書きである 2

この情痴説は、政治的な事件を個人的なスキャンダルに落とし込むもので、物語として非常に劇的であり、分かりやすい。しかし、この説の信憑性には大きな疑問符が付く。小瀬甫庵の著作は、史実の正確性よりも、儒教的な価値観に基づいた教訓や物語としての面白さを優先する傾向が強いことが知られている 29 。あまりにも都合の良いタイミングで起きたこの政治的事件に対し、個人的な痴情のもつれという「分かりやすい」理由付けをすることで、背後にあるであろう複雑な政治的暗闘を単純化、あるいは覆い隠してしまった可能性は否定できない。

4-3. 『信長公記』が示唆する「天罰」と「御果報」の二重性

一方で、信長の側近であった太田牛一による、より一次史料に近い価値を持つ『信長公記』の記述は、はるかに複雑で示唆に富んでいる。牛一は、信光の死をまず「不慮の仕合せ(予期せぬ不運な出来事)」と客観的に記す 21 。そして、当時の世間の人々がこの事件を「(清洲城奪取の際に坂井大膳に送った)誓紙を破ったことへの天罰だ」と噂し合ったことを紹介している 21 。これは、主君・信友を裏切ったことへの因果応報という、道徳的な視点からの解釈である。

しかし、牛一の筆はそこで止まらない。彼は続けて、この事件の本質を突く、決定的な一文を付け加えている。「併せて、上総介(信長)政道御果報の故なり(しかし同時に、これは信長の政治にとっては幸運なことであった)」 21

この一文は、単なる噂話や道徳論とは全く次元が異なる、冷徹な政治的現実を指摘している。信長の側近であった牛一は、信光の死が、結果として信長の権力掌握を決定的なものにしたという、否定しようのない事実を認識していた。彼は、表向きの噂(天罰説)と、政治的な裏の真実(信長にとっての幸運)をあえて並記することで、この事件が持つ多層的な意味を、後世の読者に突きつけているのである。歴史研究においては、物語性の高い情痴説に安易に依拠するのではなく、この牛一の記述を基点として、なぜ信光の死が信長にとって「御果報」であったのかを徹底的に分析する必要がある。

第五章:誰が信光を殺したのか ―暗殺黒幕説の徹底考察―

織田信光の死が、単なる家臣の暴走や情痴のもつれによるものではないとすれば、その背後には誰かの意図があったと考えるのが自然である。この暗殺劇によって最も利益を得た人物こそが、黒幕である可能性が高い。史料の断片を繋ぎ合わせると、二人の容疑者が浮かび上がる。甥であり、共同統治者であった織田信長。そして、信長と家督を争っていた弟の織田信勝である。

5-1. 信長黒幕説:最も有力視される説の論理と状況証拠

信光暗殺の黒幕として、最も有力視されているのが織田信長その人である。この説を支える論理と状況証拠は、極めて説得力が高い。

第一に、最も重要なのは動機である。清洲城奪取の密約において、信光は「尾張下四郡の半国」という広大な領地を要求し、信長と対等の共同統治者となった 2 。武勇と知略に優れ、強大な権力を持つ叔父・信光の存在は、尾張一国を完全に自らの支配下に置き、権力を一元化しようとする信長にとって、最大の障害であったことは間違いない 2 。信光を排除し、彼が治める那古野城と尾張東部二郡を併合することは、信長の権力基盤を飛躍的に強化する上で、最も合理的かつ効果的な手段であった。

第二に、史料的な裏付けである。『信長公記』が記す「上総介政道御果報の故なり(信長の政治にとっては幸運であった)」という一文は、この説を強力に補強する 21 。信長の側近であった太田牛一が、信光の死を信長の利益と明確に結びつけて記述している事実は、織田家中の人々がこの事件の政治的意味を正しく理解していたことを示唆している。

第三に、事件後の不自然な処理である。暗殺の実行犯である坂井孫八郎は、事件直後に信長の命令を受けたとされる佐々孫介によって、速やかに討ち取られている 33 。これは、真相を知る人物を消すための「口封じ」として、極めて典型的な手口である。

これらの動機、史料的根拠、そして状況証拠を総合すると、信長が自らの覇業のために、昨日までの最大の功労者であった叔父の暗殺を指示したという結論が、極めて高い蓋然性をもって浮かび上がってくる。

5-2. 信勝(信行)黒幕説:対立軸から見るもう一つの可能性

一方で、もう一人の黒幕候補として、信長の弟・信勝(信行)を挙げる説も存在する。

当時、信勝は筆頭家老の林秀貞や猛将・柴田勝家らに擁立され、兄・信長と公然と家督を争っていた 35 。信長派の重鎮であり、その権威を支える大黒柱であった信光を排除することは、信勝派が信長を打倒する上で大きな利益となる。事実、信光が死んだ翌年の弘治2年(1556年)には、信勝派は挙兵し、信長と稲生の戦いで激突している 28 。信長方の重石であった信光が取り除かれたことが、信勝派の決起を直接的に促したという見方も可能である。

しかし、この説にはいくつかの疑問点が残る。信勝派が、信光の近臣である坂井孫八郎を動かし、これほど周到な暗殺計画を実行するほどの力を有していたかは定かではない。また、なぜ暗殺犯を信長の家臣である佐々孫介が討ち取ったのか、という点の説明も困難である。

5-3. 史料的見地からの総合的評価と、歴史の闇

信勝黒幕説は、当時の対立構造から見れば論理的に成り立ちうるものの、それを裏付ける直接的な証拠は皆無に等しい。対照的に、信長黒幕説は『信長公記』の決定的な記述と、暗殺後の状況証拠に支えられており、歴史的事実としての確度は格段に高いと言わざるを得ない。

結論として、信光の暗殺は、断定こそできないものの、「信長の尾張統一事業における、最初の、そして最も冷徹な権力闘争の一環であった」と評価するのが最も合理的である。この事件は、単なる犯人捜しに留まらず、織田信長という人物が持つ、目的のためには手段を選ばない非情なまでの合理性と、戦国時代の権力闘争の本質を我々に突きつける。信光の死は、信長の天下への道が、決して清廉な理想だけで築かれたものではなく、血族さえも犠牲にする冷徹な計算の上に成り立っていたことを示す、最初の象徴的な事件であった。

第六章:信光の死がもたらしたもの ―歴史的影響と子孫の行方―

織田信光の突然の死は、織田弾正忠家の内部構造と、その後の歴史の展開に決定的な影響を及ぼした。彼の死によって一つの時代が終わり、信長による新たな権力体制が急速に構築されていくことになる。

6-1. 織田家中の権力再編と信長の尾張統一加速

信光の死がもたらした最大の帰結は、織田弾正忠家における「二頭体制」の崩壊である。清洲城奪取の功績によって尾張半国の支配権を得た信光は、信長にとって唯一対等に近い立場にある存在であった。その彼が消えたことで、権力は完全に信長へと一元化された。

信光が有していた那古野城と、彼が統治することになっていた尾張東部二郡は、事実上すべて信長の支配下に入った。これにより、信長の経済的・軍事的基盤は飛躍的に強化され、尾張統一事業は一気に加速する。信光という内なる最大の懸念材料が消えたことで、信長は弟・信勝との対決(稲生の戦い)、そして尾張上四郡を支配する岩倉織田氏との対決に、全力を注ぐことが可能となったのである。

6-2. 子・信成、信昌の生涯と信光家の存続

信光本人は非情な手段で排除されたが、その子らが粛清されることはなかった。これは、信光の旧勢力を円満に自らの体制下に吸収しようとする、信長の高度な政治判断の現れである。

長男の織田信成(津田信成とも)は、信長の家臣として仕えるだけでなく、信長の娘である小幡殿を妻として迎えている 36 。これは、信光の嫡男を自らの娘婿とすることで、信光旧臣たちの不満を和らげ、その忠誠心を自身に向けさせようとする巧みな政略結婚であった。

次男の織田信昌は、信光の弟(信昌から見れば叔父)である織田信実の養子となり、こちらも信長に仕えた。彼は伊勢長島一向一揆との戦いなどで武功を挙げたが、天正2年(1574年)の第三次長島攻めの際に若くして戦死している 37

このように、信光の家系は、信長の冷徹な政治力学の中で、その形を変えながらも存続を許された。信長は、脅威となる人物そのものは排除するが、その一族まで根絶やしにするのではなく、自らの支配体制に組み込むことで勢力を拡大していくという手法を、この時点で既に確立していたことがわかる。

6-3. 後世における評価 ―功臣としての記憶

謎に満ちた最期によって歴史の表舞台から早々に退場した信光であるが、その功績は完全に忘れ去られたわけではなかった。京都の建勲神社には、信長の天下統一に貢献した家臣たちを顕彰する「織田信長公三十六功臣」の肖像画が掲げられているが、信光はその一人として、柴田勝家や羽柴秀吉、丹羽長秀といった錚々たる顔ぶれと共に名を連ねている 4

この事実は、彼の死の真相がどうであれ、信長の覇業の礎を築いた紛れもない大功臣として、後世においてもしっかりと記憶され、評価されていたことを示している。

信光の生涯は、戦国時代における「功臣」の危うさを象徴しているとも言える。主君の危機を救い、勢力拡大に最大の貢献をした人物が、その功績と実力の大きさゆえに、新たな権力者となった主君にとって最大の脅威となり、排除される。この悲劇的な構図は、後の佐久間信盛の追放や明智光秀の謀反といった、織田家中で繰り返される主君と功臣の間の深刻な緊張関係の、まさに原型であった。信光の死は、信長政権が内包する、功績を挙げた者ほど危険に晒されるという構造的な力学を、最も早い段階で示した事件だったのである。

結論:織田信光再評価

本報告書を通じて明らかになった織田信光の実像は、単に「武勇に優れた信長の叔父」という紋切り型の人物像を遥かに超えるものである。彼は、兄・信秀の時代から織田弾正忠家の屋台骨を支える猛将であり、甥・信長の家督相続時にはその政治生命を救った決断力ある後見人であり、そして尾張の勢力図を塗り替えた清洲城奪取を主導した冷徹な謀将であった。

特に、萱津の戦いにおける迅速な支援と、清洲城奪取における大胆な謀略は、信長の初期の成功に不可欠なものであった。信光の存在と、その時々の決断なくして、若き信長が尾張の群雄の中から抜け出すことは不可能であったろう。彼は、信長の天下への道を切り拓いた、真の立役者であった。

同時に、彼の死は、情痴のもつれといった個人的な逸話としてではなく、信長の尾張統一という大事業の過程で起きた、極めて政治的な事件として捉え直されねばならない。史料を丹念に読み解く限り、その死が信長による冷徹な政治的決断の結果であった可能性は極めて高く、信光は自らが切り拓いたその道の途上で、最初の犠牲者となったのである。

歴史の主役の輝かしい功績の影には、しばしば信光のような「影の立役者」の存在がある。彼らの生涯は、時に主役以上に、その時代の権力闘争の非情さや政治力学の複雑さを雄弁に物語っている。織田信光という、忘れられがちな枢要人物の生涯を再評価することは、戦国という時代の深層を理解する上で、不可欠な作業であると言えよう。

引用文献

  1. 織田信光 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/oda-nobumitsu/
  2. 信長の叔父・織田信光はなぜ、暗殺されたのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4511
  3. 1月7日、今日は【織田信光、忌日(1556)】[SHIRAHAMA KEY TERRACE HOTEL SEAMORE ホテルシーモア] - じゃらんnet https://www.jalan.net/yad348385/blog/entry0001636769.html
  4. 織田信光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%85%89
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  6. 織田信長公三十六功臣 | 建勲神社 https://kenkun-jinja.org/nmv36/
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