戦国時代の尾張国を語る上で、織田信長の天下統一への道程は中心的な主題となる。その物語において、尾張下四郡の守護代であった織田信友は、しばしば信長の前に立ちはだかり、そして打ち破られるべき旧時代の「最後の壁」として描かれる。彼は主君である尾張守護・斯波義統を弑逆し、その罪を問われて信長に討たれるという、典型的な「悪役」としての役割を運命づけられている 1 。
しかし、織田信友を単なる逆臣や敗者として片付けることは、戦国時代という社会構造の変革期の本質を見誤らせる。本報告書は、信友を、室町幕府から連なる守護・守護代体制という旧来の権力構造が、実力主義という下剋上の奔流によって崩壊していく過渡期を象徴する人物として再評価することを目的とする。彼の行動原理と、その破滅的な結末は、織田信長が尾張を手中に収めるための単なる一過程ではなく、尾張における中世的権威の終焉と、新たな戦国大名権力の確立を決定づけた画期的な出来事であった。
信友と信長の対立は、単なる一族内の個人的な勢力争いという側面を超え、より大きな構造的対立を内包していた。それは、室町幕府の任命に基づく伝統的・形式的な権威を拠り所とする「守護代」織田信友と、家臣筋でありながら経済力と軍事力で台頭した実力的権威を持つ「弾正忠家」織田信長との衝突であった 3 。信友の敗北は、尾張という一国において、名目上の権威が実力によって完全に凌駕された瞬間を象徴している。彼の生涯は、伝統的な権威に依存し、時代の変化に対応できずに自滅していった多くの中世的領主の悲劇の典型例と言えるだろう。信友の滅亡が、いかにして信長の飛躍の礎となったのか、その詳細な過程を以下に論じる。
表1:織田信友の生涯と関連する主要な出来事(年表)
西暦 (和暦) |
出来事 |
概要 |
1551年頃 (天文20年頃) |
織田信秀 死去 |
弾正忠家の当主信秀が死去し、信長が家督を継ぐ。信友はこれを機に弾正忠家の弱体化を画策し、信長の弟・信行を支持する 1 。 |
1552年 (天文21年) |
萱津の戦い |
信友方の坂井大膳が信長方に仕掛けた戦い。信長は叔父・信光の支援を得て勝利し、信友方の重臣・坂井甚介を討ち取る 5 。 |
1554年 (天文23年) |
信長暗殺計画 |
信友が信長の暗殺を計画するも、主君・斯波義統の家臣に密告され失敗。信長による清洲城下への焼き討ちを招く 1 。 |
1554年 (天文23年) |
斯波義統 殺害 |
密告に激怒した信友は、家老・坂井大膳と共謀し、主君である守護・斯波義統を清洲城内で殺害する 6 。 |
1554年 (天文23年) |
安食の戦い |
義統の子・義銀を保護した信長が、「主君殺しの逆賊」を討つという大義名分を掲げて出兵。信友方は大敗し、多くの重臣を失う 8 。 |
1555年 (天文24年) |
清洲城 陥落と自害 |
坂井大膳の策で信長の叔父・信光を調略しようとするが、逆に信光の謀略にかかり清洲城を奪われる。信友は討たれ、滅亡する 9 。 |
織田信友が活動した16世紀半ばの尾張国は、旧来の権威が失墜し、新たな権力が胎動する混乱の渦中にあった。その根源は、尾張国の名目上の支配者であった守護・斯波氏の凋落にある。斯波氏は足利一門として室町幕府三管領筆頭の家格を誇り、かつては越前、遠江、尾張の三国を領する有力守護大名であった 11 。しかし、度重なる当主の早逝や家督争い、そして応仁の乱を経てその勢力は著しく減衰した。越前は家臣であった朝倉氏に、遠江は隣国の駿河今川氏に奪われ、斯波氏の手元に残されたのは尾張一国のみとなっていた 11 。
室町時代の統治構造において、守護は幕政に参与するため京都に在住することが多く、領国の実務は「守護代」と呼ばれる家臣に委ねられるのが常であった 14 。この構造が、尾張における織田氏の権力基盤を築く土壌となった。斯波氏の権威が低下するにつれて、守護代である織田氏が領国の実権を掌握し、事実上の国主として振る舞うようになっていったのである 12 。
しかし、その織田氏も一枚岩ではなかった。応仁の乱の過程で、守護代織田氏は二つに分裂する。尾張の南半(下四郡)を支配し、清洲城を拠点とする「織田大和守家」と、北半(上四郡)を支配し、岩倉城を拠点とする「織田伊勢守家」である 3 。この両家は、信友の時代に至るまで約80年間にわたり、尾張の覇権を巡って絶えず対立を続けていた 17 。
織田信友が属したのは、清洲城の織田大和守家であった。この家系は、形骸化したとはいえ尾張守護である斯波氏を直接擁立する立場にあり、形式的な正統性においては岩倉織田氏に対して優位にあった 9 。しかし、国内が二つの守護代家によって二分され、互いに牽制し合う状況は、尾張国内の権力闘争をより複雑化させ、結果として第三の勢力、すなわち大和守家の家臣筋である「織田弾正忠家」が台頭する隙を与えることになったのである。
このような複雑な情勢の中で清洲織田氏の当主となった信友だが、その出自と家督継承の経緯は、史料によって情報が錯綜しており、謎に包まれている。実父は織田達広(因幡守)であるとする説が有力視される一方で 1 、『寛政重修諸家譜』では伯父の織田敏定の養子になったと記され、また先代の守護代である織田達勝の養子として家督を継いだともされる 1 。諱も「信友」のほかに「広信」や「信豊」とも伝わっており、その経歴には不明な点が多い 1 。
さらに、彼が守護代の地位を継承した正確な時期も明らかではない 1 。この出自と継承過程の曖昧さは、単なる史料の欠如という問題に留まらない。それは、清洲織田氏の当主選定が、正統な血筋による円滑な継承ではなく、有力家臣団、特に後に実権を握る坂井大膳らの政治的力学によって左右される、脆弱なものであったことを示唆している。信友は、盤石な正統性を持つ後継者というより、むしろ家臣団にとって都合の良い「御輿」として擁立された可能性が高い。彼の権力基盤は、当主となった時点ですでに不安定であり、その後の悲劇的な運命を予兆していたと言えるだろう。
織田信友の権威を根底から揺るがしたのは、外部の敵ではなく、内部の家臣であった。清洲織田氏に仕える三人の奉行(清洲三奉行)の一家に過ぎなかった織田弾正忠家の当主・織田信秀は、その卓越した才覚で急速に勢力を拡大した 3 。信秀は、尾張の経済的中心地であった津島や熱田を勢力下に置き、その港から得られる莫大な津税を財源として強力な軍事力を築き上げた 4 。
信秀の力は、やがて主家である清洲織田氏を凌駕するに至る。彼は信友と対立と和睦を繰り返しながらも 1 、表向きは家臣としての立場を崩さなかった。しかし、その経済力と軍事力という「実力」は、もはや「守護代」という「名目」を圧倒しており、尾張国内のパワーバランスは根本的に覆されていたのである 4 。信友にとって、信秀は制御不能な、そして最も危険な家臣であった。
天文20年(1551年)頃、その織田信秀が病没すると、尾張の政治情勢は新たな局面を迎える 1 。信友はこの機を、弾正忠家の勢力を削ぎ、失われた主家の権威を取り戻す好機と捉えた。彼は、信秀の跡を継いだ「大うつけ」と評判の若き織田信長ではなく、その弟である織田信行(信勝)の家督相続を支持することで、弾正忠家の内部分裂を画策した 1 。これは、守旧的な権力者であった信友が見せた、数少ない能動的な政治戦略であった。信友は、信行を支援することで信長を牽制し、弾正忠家を内部から崩壊させようと試みたのである 23 。
しかし、信友自身の権力基盤もまた、砂上の楼閣であった。彼は、尾張守護である斯波義統を名目上の主君として清洲城に迎え入れ、その権威を借りることで自らの支配を正当化しようとした 9 。だが、その義統は信友の完全な傀儡であり、両者の間には深い不信感が渦巻いていた 25 。
さらに深刻だったのは、信友自身が家臣に実権を握られていたことである。「小守護代」あるいは「守護又代」と称された家老の坂井大膳や、河尻氏といった有力家臣が、清洲織田氏の家中を牛耳っていた 1 。信友は、守護代という立場にありながら、その意思決定は常に家臣団の意向に左右されるという、極めて不安定な状態にあった。
この「傀儡(信友)が傀儡(義統)を擁立する」という二重の権力構造の歪みこそが、清洲織田氏の致命的な弱点であった。権威の源泉であるはずの役職が、実質的な力を伴わない「名ばかり」のものとなり、権威の空洞化が連鎖していたのである。このような名目上の権威に依存する旧来の統治システムは、父・信秀から受け継いだ強固な実力を背景に、家臣団と直接的で強固な主従関係を築き上げた信長の前に、敗れ去る運命にあった。
表2:織田信友 関係人物一覧
人物名 |
所属・役職 |
信友との関係性 |
概要 |
織田信友 |
清洲織田氏(大和守家) 尾張下四郡守護代 |
(本人) |
清洲城主。守護・斯波義統を傀儡とするが、自身も家臣に実権を握られる。信長と対立し、最終的に滅亡 1 。 |
斯波義統 |
尾張守護 |
主君(傀儡) |
信友に擁立された名目上の尾張国主。信友の傀儡であることに不満を持ち、後に信長に内通。信友に殺害される 7 。 |
織田信長 |
織田弾正忠家 (清洲三奉行の一家) |
敵対 |
信友の家臣筋であったが、父・信秀の代から台頭。信友を滅ぼし、尾張統一を成し遂げる 27 。 |
織田信行(信勝) |
織田弾正忠家 |
支援対象 |
信長の弟。信友は信行の家督相続を支持し、弾正忠家の内紛を誘った。後に信長に誅殺される 1 。 |
織田信光 |
織田弾正忠家 |
敵対→偽りの同盟 |
信長の叔父。守山城主。当初は信長を支援。後に信友の調略に応じたと見せかけ、信長と共謀して信友を討つ 28 。 |
坂井大膳 |
清洲織田氏家臣 (小守護代) |
家臣(実力者) |
信友の家老。清洲織田氏の実権を握り、反信長政策を主導。信友滅亡後は今川氏へ逃亡 26 。 |
簗田弥次右衛門 |
斯波義統家臣 |
裏切者 |
斯波氏の家臣。信友の信長暗殺計画を信長に密告し、信友敗北のきっかけを作る 1 。 |
織田信秀の死後、尾張国内の緊張は一気に高まった。天文21年(1552年)、信長に仕えていた鳴海城主・山口教継が今川義元に寝返るなど、弾正忠家の支配には動揺が見られた 5 。この好機を逃さず、清洲方の実力者である坂井大膳は、信長方の松葉城と深田城を急襲し、城主を人質に取るという挙に出た 5 。
これに対し、信長は即座に行動を起こす。同年8月16日、叔父である守山城主・織田信光の援軍と合流し、萱津(現在の愛知県あま市)へと進軍した 5 。『信長公記』によれば、戦いは早朝に始まり、数時間にわたる激戦の末、信長軍が勝利を収めた。この戦いで、清洲方の勇将として知られた坂井甚介(大膳の弟)が、柴田勝家と中条家忠によって討ち取られている 5 。
萱津の戦いは、信友と信長の最初の本格的な直接対決であった。この敗北は、清洲織田氏の軍事的な権威を大きく失墜させると同時に、両者の敵対関係を後戻りできないものへと決定づけたのである 5 。
萱津の戦いで軍事的に劣勢となった信友と坂井大膳は、正攻法での勝利を諦め、信長の暗殺という手段に訴える 1 。しかし、この謀略は思わぬところから露見する。信友が傀儡として擁立していたはずの守護・斯波義統が、その計画を家臣の簗田弥次右衛門を通じて信長に密告したのである 1 。
この密告は、信友にとって致命的な打撃となった。信長は報復として清洲城下に火を放ち、信友を政治的、軍事的にさらに追い詰めていく 1 。だが、より重要なのは、なぜ主君であるはずの斯波義統が信友を裏切ったのか、その背景である。
その理由は、単に傀儡としての扱いに不満を抱いていたという政治的打算だけでは説明できない。より根深い動機として、信友の外交政策が斯波氏の宿怨に触れたという点が指摘されている。史料によれば、信友は信長に対抗するため、駿河の大名・今川義元と連携を図っていた 1 。この今川氏は、かつて斯波氏から遠江国を奪い、義統の父・義達を捕虜として屈辱を与えた宿敵であった 11 。
義統にとって、家臣である信友がその宿敵・今川氏と手を結ぶことは、自らの権威を脅かす以上に、一族の誇りを踏みにじる許しがたい背信行為であった。このため、同じ織田一族である信長に内通し、信友を排除することは、義統にとって「より大きな裏切り」に対する対抗策であり、一族の復讐という側面も持つ、彼なりの合理的な選択だったのである。信友は、自らの権力基盤の脆弱さと、傀儡としていた主君の心情を見誤っていた。
自らの信長暗殺計画が、傀儡であったはずの主君・斯波義統によって密告されたことを知った織田信友と坂井大膳は、激怒のあまり、報復として義統そのものの殺害を決意する 7 。この決断は、追い詰められた末の短絡的かつ感情的な行動であり、長期的な戦略的展望を完全に欠いた致命的な失策であった。
天文23年(1554年)7月12日、好機は訪れた。義統の嫡男・斯波義銀(当時の名は岩龍丸)が、家臣の大部分を率いて川狩りに出かけ、清洲城内の守護屋敷の警備が手薄になった 31 。この隙を突き、信友と大膳は兵を率いて守護屋敷を急襲。屋敷に残っていたわずかな家臣たちは奮戦したものの、多勢に無勢であり、義統は抵抗も虚しく自害に追い込まれた 6 。享年42であった 31 。
この主君殺害という暴挙は、信友に破滅的な結果をもたらした。父を殺された斯波義銀は、すぐさま那古野城の織田信長のもとへ逃亡し、その保護を求めた 2 。これにより、信長はそれまでの織田一族内の私闘という構図を完全に覆し、「主君を殺した大逆人・織田信友を討伐する」という、尾張国内の誰もが否定できない絶対的な大義名分を手に入れたのである 33 。
信長の行動は迅速であった。同年7月18日、義統の初七日に、信長は斯波義銀を奉じて弔い合戦の兵を挙げた 34 。信友方の軍勢は、安食(あじき)、あるいは『信長公記』の記述から清洲城下の中市場であったともされる場所でこれを迎え撃った 8 。しかし、士気と大義名分で勝る信長軍の前に清洲勢は大敗を喫し、家老の河尻左馬丞や織田三位といった多くの重臣を失った 8 。
『信長公記』によれば、この戦いにおいて柴田勝家が率いる信長軍は長槍を効果的に用いたのに対し、清洲勢の槍は短く、戦術的にも劣勢であったことが示唆されている 34 。この敗北により、清洲織田氏の軍事力は事実上壊滅し、信友の滅亡は時間の問題となった。
斯波義統の殺害は、信友にとって権力闘争における最後の、そして最悪の一手であった。彼の権力の正当性は、あくまで「守護・斯波氏の代理人(守護代)」という立場に依存していた。その守護を自らの手で殺害することは、自身の存在基盤そのものを否定するに等しい、致命的な自己矛盾であった。この行為によって、彼は単なる「織田一族の内紛の当事者」から「天下の大罪を犯した逆賊」へと転落し、信長に尾張統一の正当性を自ら与えるという、最大の皮肉な結果を招いたのである。
安食の戦いで大敗し、有力な家臣のほとんどを失った織田信友と坂井大膳は、もはや打つ手がなく、絶望的な状況に追い込まれていた。ここで大膳が最後の策として頼ったのが、信長の叔父であり、これまで信長を支えてきた有力な後見人、守山城主の織田信光であった 26 。大膳は、信光を味方に引き入れるべく調略を仕掛けた。その条件は、信光を信友と並ぶ共同の守護代とし、尾張下四郡を二つに分割してその半分を譲るという破格のものであった 29 。
信光はこの誘いを承諾したかのように見せかけ、清洲城に入城した 29 。信友と大膳は、信長の有力な片腕を切り崩したと安堵したかもしれない。しかし、これは全て信長と信光が事前に仕組んだ巧妙な謀略であった。信光は、大膳からの調略の誘いをすぐに信長に報告し、それに乗ったふりをして清洲城に潜入し、内部から城を乗っ取るという計画を立てていたのである 28 。この事実は、信友・大膳方の戦略的思考の浅薄さと、信長・信光方のそれを上回る戦略性の差を如実に物語っている。
天文24年(1555年)4月20日、計画は実行に移された。清洲城内に入っていた信光は、突如として信友に襲いかかった 10 。この時、坂井大膳は異変を察知し、かろうじて城を脱出、そのまま駿河の今川義元のもとへと逃亡した 26 。
完全に孤立無援となった信友に、もはや抵抗する術はなかった。彼は「主君殺し」という大罪の咎により、信光の手によって討ち取られた(あるいは自害させられた)と記録されている 1 。この事件により、尾張下四郡に長らく君臨した守護代・清洲織田大和守家は、歴史の舞台から完全に姿を消した。
当主である信友の死と、反信長派の首謀者であった坂井大膳の逃亡により、清洲織田家の家臣団は事実上瓦解した。大膳は今川氏に亡命した後の消息は不明であり、歴史の表舞台から消え去った 26 。河尻左馬丞や織田三位といった他の重臣たちも、安食の戦いなどで既に討死しており、清洲織田氏を支えた支配者層は一掃された 8 。
信友の滅亡は、単に一個の武家の断絶に留まるものではなかった。それは、尾張国において室町時代から続いてきた旧来の支配体制が、その頂点にいた守護代家の消滅をもって、名実ともに終焉を迎えたことを意味していた。そして、その跡には、新たな時代の支配者である織田信長が、揺るぎない地位を確立することになるのである。
織田信友の滅亡は、織田信長にとって、尾張統一事業を完成させる上で決定的な意味を持つ出来事であった。信友を討ち果たしたことで、信長は二つの極めて重要な資産を手に入れた。
第一に、尾張国の政治・経済・交通の中心地であった清洲城とその城下町である 38 。清洲は鎌倉街道と伊勢街道が交わる交通の要衝であり、尾張における支配の拠点として比類なき価値を持っていた 39 。信長はこの清洲城を新たな本拠とすることで、尾張全域に号令する物理的な基盤を確立した 27 。
第二に、守護・斯波義銀を擁立し、その仇討ちを果たしたことによる、尾張支配の絶対的な「正当性」である 2 。これ以降、信長は単なる一族内の抗争に勝利した実力者ではなく、「主君の無念を晴らし、尾張の秩序を回復した公的な支配者」としての地位を内外に示すことが可能となった。信友は、自らの破滅的な行動によって、皮肉にも信長の天下への道を舗装する最大の貢献者となったのである。
織田信友の生涯を振り返ると、その行動は終始一貫して場当たり的であり、長期的な戦略性に欠けていたと言わざるを得ない。彼は、主家である清洲織田氏の権威が、家臣である弾正忠家の実力によって侵食されていくという時代の大きな変化を直視できなかった。家臣団の統制に失敗し、坂井大膳のような実力者に実権を握られ 1 、ライバルである弾正忠家の内紛に介入しては失敗し 1 、軍事的に敗れると安易な暗殺計画に走り、そして追い詰められた末に主君殺害という自己破滅的な最悪の選択肢に手を染めた。
彼の姿は、血筋や役職といった伝統的な権威に依存し、実力主義という新たな時代の潮流に適応できずに自滅していった、多くの中世的領主の典型例として評価できる。彼は、下剋上という時代の精神を体現した信長とは、まさに対極に位置する存在であった。
『信長公記』をはじめとする主要な歴史史料において、織田信友は一貫して信長の引き立て役、あるいは乗り越えられるべき障害として描かれている 8 。彼の人物像や内面、戦略思考に関する詳細な記述は乏しく、その評価は常に信長を中心とした歴史観の中で形成されてきた。信友に関する学術的な専門論文も乏しく、その研究は信長研究の一部として扱われることがほとんどである 1 。
しかし、本報告書で論じたように、信友を単なる歴史の敗者として切り捨てることはできない。彼の存在と、彼が引き起こした一連の事件、そしてその滅亡がなければ、信長がこれほど速やかに、そして圧倒的な正当性をもって尾張を統一することは不可能であった。信友の悲劇的な生涯は、室町幕府の権威が崩壊し、戦国大名が誕生する時代の転換期のダイナミズムと、その中で旧勢力が淘汰されていく過程を理解する上で、不可欠な事例研究と言えるだろう。彼は、自らの滅亡をもって、尾張に中世の終わりと戦国の夜明けを告げたのである。