織田信長という戦国時代の巨星の輝きは、あまりにも強烈であるがゆえに、その影には数多の人物の生涯が埋もれている。その中でも、信長の「庶兄」という特異な立場にありながら、歴史の表舞台から忘れ去られがちな人物、それが織田信広である。本報告書は、彼が残した断片的な足跡を丹念に拾い集め、その波乱に満ちた生涯を再構築し、歴史における真の姿を明らかにすることを目的とする。
一般に信広は「織田信秀の長男だが側室の子ゆえに家督を継げず、一度は謀反を企てたものの、許されて信長に仕え、最後は伊勢長島攻めで戦死した」と要約されることが多い 1 。しかし、この簡潔な説明だけでは、彼の人生が織田家の、ひいては戦国中期の勢力図に与えた影響の大きさを見過ごすことになる。彼の生涯は、父の信頼、戦場での栄光と挫折、歴史を動かした人質交換、弟への謀反と赦免、そして天下統一事業への貢献と壮絶な最期という、まさに戦国乱世そのものを凝縮した物語なのである。
織田信広は、尾張の戦国大名・織田信秀の長男として生を受けた 2 。その正確な生年は不明であるが、天文3年(1534年)生まれの弟・信長よりも5、6歳は年長であったと推測されており、享禄年間(1528年~1532年頃)の生まれと見なされている 2 。
彼の運命を大きく左右したのは、その母親の出自であった。母は信秀の側室であり、その素性は詳しく伝わっていない 3 。『系図纂要』には母を「家女」と記すのみで、身分が低かったことが示唆されている 4 。これは、信秀の正室・土田御前から生まれた信長や信勝(信行)とは明確に区別される立場にあったことを意味する 5 。また、信頼性の高い史料である『信長公記』の記述から、後に家老の角田新五に攻められて自害した織田信時(秀俊)は、信広の同母弟であった可能性が研究者によって指摘されている 4 。信秀は政略のために多くの子を儲けたことで知られるが 5 、信広はその筆頭に位置する存在であった。
長男として生まれながらも、母の身分が低かったために、信広は織田弾正忠家の家督相続の対象から外されていた 1 。織田家の未来は、正室の子である信長が継ぐことが既定路線だったのである 3 。この「庶長子」という立場は、彼の生涯にわたり複雑な影を落とし続けることになる。
信広の存在は、織田家中の力学にも無視できない影響を与えていたと考えられる。彼は単に年嵩の兄というだけでなく、後述するように武勇に優れた実績ある武将であった 2 。父・信秀の死後、家督を継いだ信長は「大うつけ」と評され、その器量を疑問視する家臣も少なくなかった 9 。実際に、林秀貞や柴田勝家といった譜代の重臣たちは、品行方正な同母弟・信勝を擁立しようと画策する 10 。通常、家督争いは嫡男と正室から生まれた弟との間で語られるが、当時の織田家には、この対立軸とは別に「武功のある庶長子」という、もう一つの潜在的な求心力を持つ存在がいた。信勝派が信長を廃そうとする上で、この信広の存在をどのように扱おうとしたのか、あるいは信広自身がこの状況をどう捉えていたのかは定かではない。しかし、彼の存在そのものが、尾張統一前の織田家における権力闘争の隠れた変数として、情勢をより複雑にしていた可能性は否定できない。
庶子という立場ではあったが、信広の能力が軽んじられていたわけでは決してない。むしろ、その武勇は高く評価され、父・信秀の三河進出戦略において重要な役割を担った 4 。若くして父に従い各地を転戦した信広は、その実力を遺憾なく発揮する。
その信頼を最も象徴するのが、三河国・安祥城の城主への任命である 14 。安祥城は、松平氏や今川氏と対峙する織田家にとって、三河支配の橋頭堡となる最前線基地であった 16 。このような戦略的要衝を、信秀は若き信広に託したのである 2 。これは単なる名誉職ではなく、失敗が許されない極めて重い責任を伴う役目であり、信秀が信広の武将としての器量を高く買っていたことの何よりの証左と言えよう。
父・信秀の期待に応え、信広は三河戦線の中心で奮闘する。天文17年(1548年)、今川・松平連合軍との間で三河の覇権を賭けて行われた第二次小豆坂の戦いにおいて、信広は織田軍の先鋒という大役を任された 2 。
『信長公記』によれば、信広率いる先鋒隊は小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で今川軍の先陣と激突した 2 。両軍は予期せぬ遭遇戦となり、信広勢は一時劣勢に立たされ、信秀の本陣近くまで後退を余儀なくされる 2 。しかし、本隊と合流して体勢を立て直すと猛然と反撃に転じ、今川勢を押し返した。だが、今川方の伏兵・岡部長教の活躍などもあり、織田軍は決定的な勝利を得ることができず、多大な損害を出して撤退した 2 。この敗戦後、信秀は安祥城まで兵を引き、信広を城主としてその守備を固めさせると、自身は本拠地である尾張の古渡城へと帰還した 2 。この一戦により、織田家の三河における立場は一層厳しいものとなり、最前線である安祥城の戦略的重要性は極限まで高まった。
翌天文18年(1549年)、今川義元は織田家の三河における拠点を完全に排除すべく、軍師・太原雪斎を総大将とする大軍を安祥城に差し向けた(第三次安城合戦) 2 。3月、雪斎と朝比奈泰能らが率いる駿河・遠江・三河の連合軍が城に押し寄せたが、信広は巧みな籠城戦を展開。深入りした松平方の先鋒大将・本多忠高(徳川四天王・本多忠勝の父)を討ち取るなど、寄せ手に大きな損害を与え、一度は撃退に成功する 2 。
しかし、雪斎の執念は凄まじかった。同年11月、彼は再び大軍を率いて安祥城を包囲。周辺の織田方拠点を次々と攻略して安祥城を完全に孤立させると、総攻撃を開始した 24 。信広は決死の覚悟で奮戦するも、衆寡敵せず、ついに城は落城。信広は今川軍の捕虜となった 2 。
この時、織田家には後の天下人・徳川家康、当時は松平家の嫡男・竹千代が人質としていた 3 。竹千代は本来、今川家へ人質として送られる途上、護送役であった田原城主・戸田氏の裏切りによって、金銭と引き換えに織田方へ売り渡されたという数奇な経緯を持つ少年であった 28 。
安祥城を攻略し信広を捕らえた太原雪斎は、この状況を最大限に利用する。彼は織田方に対し、捕らえた信広と人質である竹千代との交換を提案した 2 。信秀(あるいは既に家督を継いでいた信長)は、この提案を受け入れた 2 。この歴史的な人質交換は、現在の名古屋市南区に位置する笠寺観音(笠覆寺)で行われたと伝えられている 30 。
信広の捕縛とそれに続く人質交換は、単なる一武将の運命の転換点に留まらなかった。この出来事は、戦国中期の勢力図を大きく塗り替える戦略的な連鎖反応を引き起こしたのである。まず、織田家は三河進出の最重要拠点を失い、この地域からの完全な撤退を余儀なくされた。次に、当主である竹千代を今川方に握られた松平家は、名実ともに今川家の完全な支配下に組み込まれ、その独立性を失った 17 。そして最後に、これにより今川義元は背後の三河を完全に安定させ、西方の尾張攻略に全力を傾けるための盤石な基盤を築くことに成功した 21 。信広一人の捕縛という戦術的敗北が、結果的に11年後の桶狭間の戦いという、天下の趨勢を決する戦略的決戦の舞台を整える遠因となったのである。彼の個人的な悲劇は、日本の歴史が大きく動くための、一つの引き金として機能したと言えるだろう。
以下の年表は、この時期の主要人物たちの運命がいかに密接に絡み合っていたかを示している。
年号(西暦) |
織田家の動向(信秀・信広・信長) |
松平・徳川家の動向(広忠・家康) |
今川家の動向(義元・雪斎) |
天文11 (1542) |
第一次小豆坂の戦いで今川軍に勝利したとされる(『信長公記』) 22 。 |
12月、竹千代(家康)が岡崎城で誕生 27 。 |
第一次小豆坂の戦いで織田軍と交戦。 |
天文16 (1547) |
人質として送られてきた竹千代を接収 27 。 |
父・広忠、今川に援軍を求め、竹千代を人質に送るが、途中で裏切られ織田家へ 27 。 |
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天文17 (1548) |
第二次小豆坂の戦い。信広は先鋒を務めるが、織田軍は敗北。信広は安祥城の守備につく 2 。 |
父・広忠、今川軍と共に織田軍と戦い勝利。 |
太原雪斎を大将に三河へ出兵。第二次小豆坂の戦いで勝利 21 。 |
天文18 (1549) |
11月、安祥城が落城し、信広は捕虜となる。竹千代との人質交換に応じる 2 。 |
3月、父・広忠が死去 27 。11月、信広との人質交換が成立し、今川家の人質として駿府へ送られる 17 。 |
11月、太原雪斎が安祥城を攻略し、信広を捕縛。人質交換を成功させる 26 。 |
天文20 (1551) |
3月、父・信秀が死去。信長が家督を継承 35 。 |
駿府で人質生活を送る。 |
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弘治2 (1556) |
信長、弟・信勝(信行)と稲生の戦いで勝利。 |
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弘治3 (1557) |
信長、再び謀反を企てた信勝を謀殺 36 。 |
築山殿と結婚 27 。 |
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永禄3 (1560) |
5月、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る。 |
義元の先鋒として大高城へ兵糧入れを成功させる。義元討死後、岡崎城へ帰還し独立 27 。 |
5月、大軍を率いて尾張に侵攻するも、桶狭間で信長に討たれる 27 。 |
人質交換によって尾張へ帰還した信広であったが、その武将としての威信は大きく傷ついていた。三河における織田家の橋頭堡を失陥させた責任は重く、彼の立場は微妙なものとなっていた。天文20年(1551年)に父・信秀が没すると、家督は弟の信長が継承した 35 。しかし、信長の「うつけ」とまで呼ばれた奇矯な振る舞いは家臣団の不安を煽り、家中は信長派と、その弟・信勝を支持する派閥とで分裂し、緊張が高まっていた 10 。このような織田家の内紛と、自身の失墜した権威への焦りが、信広を生涯一度きりの過ちへと駆り立てる土壌となった。
弘治2年(1556年)頃、信広は美濃国主・斎藤義龍と密かに手を結んだ 38 。義龍は、父であり信長の舅でもあった斎藤道三を長良川の戦いで討ち取って以来、信長とは険悪な関係にあった 40 。
両者が企てた謀反の計画は、周到なものであった。『信長公記』にも記されているように、義龍が美濃から兵を出して尾張国境を侵し、信長が迎撃のために出陣した隙を狙って、信広が手薄になった本拠・清洲城を乗っ取る。そして、美濃勢と信広の軍で信長を挟み撃ちにする、という算段であった 8 。これは、信長が常に自ら先陣を切るという行動パターンを逆手に取った、巧妙な計略であった。
しかし、この清洲城乗っ取り計画は、実行に移される前に信長に察知されてしまう。結果、信広は清洲城下に兵を進めることさえできずに降伏し、謀反は未遂に終わった 38 。主君に対する反逆は、戦国時代において死罪に値する大罪である。にもかかわらず、信長は兄・信広を処断せず、赦免するという異例の措置をとった 41 。これは、同じく謀反を起こした実の弟・信勝を、一度は許しながらも二度目の企てに際しては容赦なく謀殺した 36 ことと比べると、際立って寛大な処遇であった。
信長が信広を許し、一方で信勝を殺害したという処遇の差異は、単なる兄弟間の感情論では説明できない。そこには、極めて合理的で冷徹な政治判断が介在していたと考えられる。第一に、両者の織田家内における脅威度の違いが挙げられる。信勝は母・土田御前の寵愛を一身に受け 5 、林秀貞や柴田勝家といった織田家譜代の最有力家臣を味方につけていた 10 。彼の反乱は、織田家そのものを内側から二つに引き裂く、致命的な脅威であった。対して信広の反乱は、外部勢力である斎藤義龍との連携が前提であり、計画が露見した時点で彼に同調する織田家中の有力者は限られていた可能性が高い。信長にとって、家臣団を巻き込む深刻な内部分裂を引き起こす信勝の方が、はるかに危険な存在と映ったのである。
第二に、両者の利用価値の有無である。信広は三河戦線で実績を積んだ有能な武将であり、その軍事的能力は信長も認めるところであった 2 。一度の過ちを許し、改めて忠誠を誓わせれば、貴重な戦力として再び活用できる。事実、赦免後の信広は信長のために忠実に働いている。一方、信勝は一度赦免されたにもかかわらず、再び謀反を企てた 42 。信長から見れば、もはや「利用価値よりも再発のリスクが上回る存在」と判断されても致し方なかった。信長の兄弟に対する処遇は、感情ではなく「脅威度」と「利用価値」という二つの軸で冷静に判断された結果であった。これは、信長の非情なまでのリアリズムを象Cる象徴的な事例と言えるだろう。
一度の過ちを許された信広は、過去を清算し、弟・信長に二心なく仕える道を選んだ。この赦免以降、彼は織田一門(連枝衆)の中で最年長の重鎮として、まとめ役的な存在になったと伝えられている 2 。信長の嫡男・信忠をはじめとする子供たちがまだ幼かった時期、父・信秀の直系男子としては一番の年長者である信広の存在は、急拡大する織田家の一族を束ねる上で、精神的な支柱としての役割を果たしたと考えられる。
信広の新たな役割は、武将としてだけではなかった。永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、信広もこの上洛戦に従軍する 2 。その後、彼は京都に常駐し、信長の庶兄という特別な立場を活かして、将軍・足利義昭や朝廷の公家衆との折衝役という重要な任務を担った 2 。この頃から、彼は「津田信広」と名乗り、大隅守の官位(受領名)を称するようになる 2 。
彼の京都での活動は、当時の公家・吉田兼見の日記である『兼見卿記』にも記されている。それによれば、信広(津田三郎五郎)は兼見と親しく交流し、互いの邸宅を何度も訪問するなど、公家社会との間に深い人脈を築いていたことがうかがえる 2 。この人脈と立場は、元亀4年(天正元年/1573年)に信長と将軍・義昭の関係が決定的に決裂した際に真価を発揮する。信長が義昭の籠る二条御所を包囲した際、信広は信長の名代として、佐久間信盛や細川藤孝といった重臣と共に和睦交渉の使者となり、義昭と直接対面して事態の収拾にあたったのである 2 。
信広がこの時期に「織田」ではなく「津田」という姓を用いたことは、彼の役割の変化を象徴している。「津田」は織田一族が用いた姓の一つであり 43 、これを用いることで、個人的な「織田家の兄」としてではなく、信長政権を代表する外交官としての公的な立場を内外に示したと考えられる。かつて三河の戦場で武勇を馳せた武辺者は、老練な政治家・外交官へと、その役割を見事に転換させていたのである。
信長は、赦免した兄・信広を深く信頼し、織田政権の中枢に組み込むための布石を打った。それが、信広の娘(深光院、または桂峯院)を自身の養女とした上で、織田家筆頭家老の一人である丹羽長秀に嫁がせた政略結婚である 2 。
この縁組は、複数の政治的意図を持つ高度な戦略であった。第一に、謀反の過去を持つ信広を、信長の姪の父、そして重臣・長秀の舅という立場に置くことで、彼を名実ともに織田政権の中枢に復帰させた。第二に、譜代の重臣である長秀を、信長の一門に準ずる存在として遇することで、その忠誠心をさらに強固なものにした。事実、信長は長秀を「友であり、兄弟である」と呼ぶほど信頼しており 46 、この縁組によって両者の関係はさらに緊密になった。信広は、この織田家臣団の結束を強化するための政略において、重要な結節点としての役割を果たしたのである。これは、信長が信広の価値を再認識し、全幅の信頼を寄せていたことの何よりの証左と言えるだろう 46 。
天正2年(1574年)7月、信長は過去二度にわたる苦戦の雪辱を果たすべく、伊勢長島の一向一揆に対する総攻撃を開始した 48 。これは、織田軍の総力を結集した徹底的な殲滅作戦であり、信広もこの最後の戦いに従軍した。彼は、羽柴秀長、丹羽長秀、水野信元といった錚々たる武将たちと共に中央の陣に加わり、一揆勢の重要拠点である篠橋砦の攻撃部隊に配属された 2 。
織田軍は陸路と水路から長島を完全に包囲し、外部との連絡を遮断した上での兵糧攻めという非情な戦術をとった 49 。食料が尽き、飢餓に苦しんだ一揆勢は次々と降伏、あるいは討ち取られ、篠橋や大鳥居といった主要な砦は8月までに陥落した 4 。
9月29日、追い詰められた長島願証寺の門徒たちはついに降伏を申し入れ、船での退去許可を求めた。信長は表向きこれを認めたが、彼らが船に乗り込み退去しようとした瞬間、待ち構えていた鉄砲隊に一斉射撃を命じた 35 。
この騙し討ちに遭い、死を覚悟した一揆勢の中から、特に気骨のある700人から800人ほどが、凄まじい反撃に転じた 2 。『信長公記』やルイス・フロイスの『日本史』が伝えるところによれば、彼らは裸で刀一本を手に、死に物狂いで織田軍の陣へ突撃した 2 。この予期せぬ決死の反撃は、警備が手薄になっていた織田軍の一部を突き崩し、戦場は再び大混乱に陥った。
織田信広は、この凄惨な乱戦の渦中で、同じく信長の弟である織田秀成ら、多くの織田一族と共に討ち死にした 2 。享年は42、3歳頃であったと伝えられている 2 。
信広の死は、信長の一向一揆に対する徹底した殲滅政策の苛烈さを象徴する出来事であった。目的のためには手段を選ばず、降伏者さえも騙し討ちにする非情な戦術は、最終的に味方であるはずの肉親の命までも代償として奪う結果となった。
武将として戦国の世に生まれ、父の代から三河の最前線で戦い続け、一度は敵の捕虜となる屈辱を味わい、弟に謀反を起こしながらも許され、最後は弟の天下統一事業の一翼を担い、その最も凄惨な戦場で命を落とす。信広の生涯は、戦国乱世の厳しさと、織田家が天下へと駆け上がる過程で支払われた数多の犠牲を、その一身に体現していると言えるだろう。
織田信広の生涯は、単に「信長の兄」という一言では到底片付けられない、複雑で多層的なものであった。彼は、父・信秀の信頼が厚い有能な武将として三河平定の先鋒を務め、その後の歴史を大きく左右する人質交換の当事者として、若き日の徳川家康の運命と深く交差した。一度は弟・信長に刃を向けた謀反人でありながら、赦免された後は忠実な一門の長老として、また老練な外交官として信長政権を支え、その最期は信長の覇業の光と影を象徴する壮絶な戦死であった。
彼の存在は、信長の天下取りへの道を映し出す「鏡」であったと言えるかもしれない。信広の三河での挫折は織田家の苦難を、彼の謀反に対する赦免は信長の現実主義的な人材登用術を、そして彼の壮絶な死は信長の覇業が内包する非情さを、それぞれ鮮明に映し出している。信広は決して歴史の主役ではなかった。しかし、彼の存在と、その波乱に満ちた生涯を抜きにしては、織田信長や徳川家康の物語、ひいては戦国時代の大きな歴史の流れを正確に理解することはできない。
彼の血筋は、娘が嫁いだ丹羽家などを通じて、遠く後世にまで伝えられた。一説には、その血脈は現在の皇室にも繋がっているとされ、歴史の壮大さを感じさせる 2 。歴史の影に生きた一人の武将の生涯は、京都市上京区の阿弥陀寺に立つ墓所のもとで 2 、今なお静かに、しかし雄弁に戦国の実像を我々に語りかけているのである。