戦国時代の歴史を彩る数多の武将の中で、織田信澄(おだ のぶずみ)ほど、その出自と人間関係において光と影の交錯を体現した人物は稀であろう。彼は、天下布武を掲げた織田信長の甥という輝かしい血筋に連なりながら、その信長に謀反の罪で誅殺された父・織田信勝(信行)の子という宿命を背負っていた 1 。さらに、彼の運命を決定的にしたのは、伯父である信長を本能寺で討った明智光秀の娘を妻としていたという事実である 3 。この複雑に絡み合った出自と縁戚関係は、彼の短い生涯に計り知れない影響を及ぼすこととなる。
信澄に対する同時代人の評価は、彼の人物像の多面性を如実に物語っている。奈良・興福寺の僧侶であった英俊は、自身の日記『多聞院日記』において、信澄を「一段の逸物(いちだんのいつぶつ)」、すなわち「並外れて優れた人物」と最大級の賛辞をもって評した 2 。一方で、日本で布教活動を行ったイエズス会の宣教師は、その年次報告書(『耶蘇会日本年報』)の中で、彼を「甚だ勇敢だが残酷(cruel)」と、二律背反的な言葉で記録している 4 。これらの評価は、信澄が単なる勇猛な武将という一面だけでは捉えきれない、複雑で奥行きのある人物であったことを示唆している。
本報告書は、これらの断片的な情報を、『信長公記』、『多聞院日記』、『兼見卿記』といった一次史料、および『フロイス日本史』や『寛政重修諸家譜』などの二次史料を駆使して統合・分析することで、織田信澄の生涯の軌跡、武将・領主としての実績、そして本能寺の変後に迎えた非業の死の真相に、多角的な視点から迫ることを目的とする。
織田信澄は、尾張の戦国大名・織田信秀の三男であり、信長の同母弟にあたる織田信勝(信行)の嫡男として生を受けた 4 。父・信勝は、父・信秀の死後、末森城(現在の名古屋市千種区)を拠点とし、兄・信長と尾張の支配権を巡って争うほどの有力な存在であった 9 。信澄の生年は、享年から逆算して弘治元年(1555年)とする説が有力であるが、複数の説が存在し、確定には至っていない 3 。
母については、『寛政重修諸家譜』などの系図類によれば高島局とされ、和田備前守の娘であったと伝えられている 8 。この「和田氏」が、信澄が後に本拠とすることになる近江国の国人であった可能性も指摘されており、もし事実であれば、彼の人生における近江との深い関わりを暗示するものである 13 。
信澄の運命は、物心つく前に大きく揺れ動く。父・信勝は、弘治2年(1556年)に信長に対して謀反を起こし、稲生の戦いで敗北する。この時は母・土田御前の取りなしによって赦免されるが、永禄元年(1558年)、再び信長打倒を画策したため、清洲城に呼び出され、信長によって謀殺された 4 。この時、信澄はわずか三歳であったとされ、彼は生まれながらにして「反逆者の子」という、生涯ついて回る重い十字架を背負うことになったのである 1 。
父は誅殺されたものの、信澄と弟たちは、祖母にあたる土田御前の嘆願もあってか、信長によって助命された 2 。そして信長は、彼らの養育を織田家筆頭家老である柴田勝家に命じた 4 。
この措置には、信長の冷徹な政治判断が見て取れる。柴田勝家は、かつて信勝の家老として信長に敵対した過去を持つが、稲生の戦いの後に降伏し、信勝の二度目の謀反を信長に密告した張本人でもあった 11 。信長は、父の栄光と没落、そして裏切りの全てを知る勝家の下に信澄を置くことで、織田家への絶対的な忠誠心を叩き込むことを意図したのかもしれない。信澄にとって勝家は、単なる養父ではなく、自らの宿命を体現する複雑な存在であった。
成長した信澄は、当初、父の罪を憚ってか、織田の姓ではなく、一族の津田姓を名乗った 19 。『寛政重修諸家譜』には永禄7年(1564年)に元服したとの記述があるが、後の史料との整合性から、これは誤りであると考えられている 4 。
信澄が再び歴史の表舞台に登場するのは、元亀2年(1571年)、浅井氏の旧臣で佐和山城主であった磯野員昌の養嗣子となった時である 4 。これは、北近江の安定化を図るとともに、信澄を正式に織田一門の武将として活用しようとする信長の政治的配慮であった。しかし、この時点ではまだ正式な縁組ではなかった可能性が高い。天正2年(1574年)に信長が主催した茶会や、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取った際には、依然として童名の「御坊様」や「津田坊」と呼ばれているからである 4 。
信澄の武将としてのキャリアが本格的に始まるのは、天正3年(1575年)の越前一向一揆征伐への従軍からであり、これが彼の初陣であったと推測される。元服もこの頃に行われたと考えられる 4 。信長の徹底した実利主義と、個人の才能を見抜く眼力によって、信澄は「逆臣の子」という逆境から、織田政権の一翼を担う存在へと再生の道を歩み始めたのである。
父の死という暗い影を乗り越えた信澄は、伯父・信長の天下布武事業において、その才能を遺憾なく発揮し、織田一門の有力武将として目覚ましい飛躍を遂げる。
信澄の武将としてのキャリアは、輝かしい戦功によって彩られている。
天正3年(1575年)の越前一向一揆征伐では、初陣ながら柴田勝家、丹羽長秀らと共に鳥羽城を攻略し、500から600の一揆勢を討ち取るという武功を挙げた 4。翌天正4年(1576年)には、丹波攻略で苦戦する明智光秀の救援に赴いており、この時点で後の岳父となる光秀と軍事的な連携を取っていたことが記録されている 4。
天正6年(1578年)からは、織田家の最重要課題であった石山本願寺攻めに、嫡男・信忠が率いる軍団の一員として参陣 8 。同年、摂津の荒木村重が謀反を起こすと、その討伐戦にも加わった。信澄は茨木城への抑えとして配置された後、有岡城(伊丹城)が開城すると、逃亡した村重の一族を捕らえて京都へ護送するという、戦後処理の重要な役目も担っている 8 。さらに天正9年(1581年)には、信長・信忠親子による伊賀攻めにも随行しており 22 、織田軍の主要な軍事作戦のほとんどに参加していたことがわかる。
信澄の能力は、戦場での武勇に留まらなかった。天正6年(1578年)、養父の磯野員昌が信長の叱責を受けて高野山へ出奔すると、信澄はその所領であった近江国高島郡を与えられ、大溝城主となった 4 。
この大溝城は、信長の居城・安土城の琵琶湖を挟んだ対岸に位置し、湖上の水運と、京から北陸へ抜ける西近江路を扼する、極めて重要な戦略拠点であった 25 。城の縄張り(設計)は明智光秀が担当したと伝えられ、発掘調査では安土城と同型の瓦が出土しており、織田政権がいかにこの城を重視していたかがうかがえる 4 。信澄は城主として、城下町を整備し、商人らを移住させて町の発展に努めたほか、信長の比叡山焼き討ちで焼失した大善寺の別院を城下に再建するなど、優れた領主としての一面も見せている 4 。
逆臣の子という出自にもかかわらず、信澄は織田政権内で破格の待遇を受けていた。天正9年(1581年)に京都で行われた大規模な軍事パレードである「京都御馬揃え」において、信澄は10騎の兵を率いて参加した。これは、信長の嫡男・信忠(80騎)、次男・信雄(30騎)に次ぐ規模であり、叔父の織田信包や従兄弟の信孝と同格の扱いであった 4 。これは、彼が一門衆の中で序列第5位という、極めて高い地位にあったことを示している。
また、彼は軍事だけでなく、行政や外交の分野でも信長の側近として活動した。公家の吉田兼見が信長に謁見する際の取次役を務めたり 4 、安土城や大坂城の普請奉行を丹羽長秀らと共に務めるなど 8 、その多才ぶりを発揮している。信澄は、信長から家督を譲られた信忠が率いる、織田軍の中核をなす遊撃軍団の主要メンバーでもあり、信長の天下統一事業に不可欠な存在となっていた 39 。
信澄の地位をさらに盤石なものとしたのが、信長の命令による明智光秀の娘との婚姻であった。天正2年(1574年)頃、信澄は光秀の娘(四女または五女とされる)を正室に迎えた 3 。この縁組は、信長が最も信頼する宿老である光秀と、将来を嘱望する甥の信澄とを結びつけることで、織田政権の中枢をより強固にしようとする政略的な意図があった 6 。この結婚は、信澄の栄光を象徴するものであったが、皮肉にも、彼の運命を本能寺の変の悲劇へと直結させる最大の要因となってしまったのである。
信澄の目覚ましい活躍は、彼が単なる血縁者ではなく、信長にとって織田家の将来を託すに足る「逸物」であったことを証明している。その経歴は、織田家の後継者である信忠を支える最も信頼できる存在として位置づけられていたことを示唆しており、彼は信長後の政権を担う次世代のリーダーの一人と目されていた可能性が極めて高い。
順風満帆に見えた信澄の人生は、天正10年(1582年)6月2日、伯父・信長と岳父・光秀によって引き起こされた歴史的大事件「本能寺の変」によって、一転して悲劇的な結末を迎える。
本能寺の変の直前、信澄は織田信孝を総大将とする四国征伐軍の副将として、丹羽長秀らと共に大坂に在陣していた 19 。信孝は住吉に、信澄は当時織田家が築城中であった大坂城(旧石山本願寺跡)に入り、渡海に備えていた 3 。この時、信澄は丹羽長秀と共に大坂の管理を任されており、「大坂城代」ともいうべき重要な立場にあった 4 。
6月2日早朝、京都で本能寺の変が勃発し、信長と、二条新御所にいた後継者の信忠が自害したという衝撃的な報せは、瞬く間に畿内を大混乱に陥れた。情報が錯綜する中、明智光秀の娘婿である信澄に、真っ先に謀反加担の嫌疑がかけられた。当時三河にいた松平家忠の日記『家忠日記』や、奈良にいた英俊の『多聞院日記』には、「明智と信澄が共謀した」という噂が変の直後から記録されており、この風聞がいかに早く、そして広く流布したかがわかる 5 。
現代の研究では、信澄が事前に謀反を知っていた、あるいは加担したという証拠は一切見つかっておらず、これは完全な濡れ衣であったと結論づけられている 19 。しかし、かつて父・信勝が信長を裏切ったという過去の事実と、今まさに岳父・光秀が信長を討ったという現在の事実が重なり、彼が疑われるには十分すぎる状況証拠が揃ってしまっていたのである。
6月5日、四国方面軍の総大将であった織田信孝と、宿老の丹羽長秀は、信澄が光秀に呼応して蜂起することを恐れ、先手を打って大坂城の信澄を攻撃することを決断した 4 。
その最期の様子については、史料によって描写が異なる。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信澄は信孝の軍勢が大坂城に入るのを拒んで抵抗した。そこで信孝は、城内にいた丹羽長秀と共謀し、長秀が偽って敗走するふりをして信澄を油断させた。その隙に信孝の兵が城内に突入し、塔に籠もった信澄を攻撃して討ち取ったとされている 52 。
一方、日本の諸記録では、信澄は大坂城の千貫櫓に立てこもり防戦したが、衆寡敵せず、最後は丹羽長秀の家臣・上田重安によって討ち取られたと記されている 4 。
信澄の死後、その首は、共に討たれた重臣の堀田弥次右衛門、渡邊与右衛門らのものと共に、堺の北の町外れで梟首にされた 4 。その享年は25歳、26歳、あるいは28歳など、諸説が伝えられている 3 。
信澄の死は、単なる混乱の中での悲劇ではなかった。その背景には、信長亡き後の織田家を巡る、冷徹な政治力学が存在した。
第一に、総大将であった織田信孝の焦りと野心がある。彼が率いていた四国方面軍は各地からの寄せ集めであり、本能寺の変の報を受けると兵の逃亡が相次ぎ、軍事的にはほぼ無力化していた 45 。この状況下で、光秀討伐の主導権を握るためには、自らの断固たる意志と行動力を示す必要があった。信澄を「光秀の味方」として討つことは、信孝にとって手っ取り早く功績を上げ、自身の求心力を高めるための格好の政治的パフォーマンスであった。『イエズス会日本年鑑』には、信澄を殺害したことで信孝が「勇気と信用を獲得し、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼を訪れ、主君として認めるに至った」と記されており、この行動が政治的に計算されたものであったことを示唆している 45 。
第二に、宿老・丹羽長秀の立場である。織田家の重鎮として、長秀には混乱を収拾し、一刻も早く光秀を討伐する責任があった。最も有利な位置にいながら軍が機能不全に陥る中で、疑わしい要素を排除し、軍の統制を維持することは最優先課題であった 49 。また、中国地方から猛スピードで帰還しつつある羽柴秀吉との連携を円滑に進める上でも、光秀の娘婿という内部の不確定要素は障害と判断された可能性がある。
そして第三に、最も重要な点として、信澄が潜在的な後継者候補であったことが挙げられる。彼は「一段の逸物」と評される器量を持ち、一門内での序列も高かった。信長・信忠亡き後の織田家において、信孝や信雄にとって、彼は紛れもなく有力な政敵であり、後継者争いのライバルであった 55 。この混乱に乗じて、将来の脅威となりうる人物を排除するという、非情な政治判断が働いた可能性は極めて高い。
信澄の死は、本能寺の変という第一幕に続く、織田家内部の権力闘争という「第二幕」の始まりを告げる号砲であった。それは、信長個人の絶大なカリスマによってかろうじて維持されていた織田政権の脆弱性を露呈させ、権力の空白が生じた途端、信頼関係がいかに脆く崩れ去り、血縁と猜疑心、そして権力欲が剥き出しになるかという、戦国の非情な現実を体現した象徴的な出来事であった。
織田信澄という武将は、同時代の複数の史料によって、異なる角度から光を当てられている。それらを比較検討することで、彼の多面的な人物像が浮かび上がってくる。
信澄を最も高く評価した言葉が、興福寺多聞院の僧侶・英俊が記した『多聞院日記』に見える「一段の逸物」である 5 。この評価がなされたのは、信澄が殺害された直後の天正10年(1582年)6月5日の条であり、その死を惜しむ文脈で記されている。英俊は、信澄の武将としての活躍だけでなく、近江大溝城主としての領地経営、特に比叡山焼き討ちで荒廃した寺社の復興に尽力した善政や、信長の側近として公家や寺社との交渉にあたる際の洗練された立ち居振る舞いを間近で見ていた可能性が高い。この評価は、信澄が単なる武勇に優れた武人ではなく、政治・行政能力にも長けた、バランスの取れた教養人、すなわち「器量人」であったことを強く示唆している。
一方、イエズス会の宣教師が本国に送った『1582年度日本年報』では、信澄の性格を「甚だ勇敢だが残酷」と評している 4 。この評価は、主に彼の軍事行動に対するものであろう。「勇敢」とは、越前一向一揆討伐や石山合戦など、数々の戦場で示した勇猛さを指す。対して「残酷」とは、敵対勢力に対して一切の容赦を見せなかった側面を指していると考えられる。特に、一向一揆との戦いでは、信長の徹底した殲滅方針に従い、苛烈な戦いぶりを見せたことが、宣教師たちの目にはそのように映ったのであろう。これは、信長の天下布武を遂行する上で求められた非情さを受け継いだ、戦国武将としてのリアリズムの現れと解釈できる。
信澄の人物像を理解する上で、彼を取り巻く主要人物との関係性は欠かせない。
これらの多角的な評価と複雑な人間関係は、信澄が一人の人間として、また一人の武将として、いかに多くの矛盾と可能性を内包していたかを示している。
史料名 |
評価の記述 |
評価者 |
評価の文脈・背景 |
考察 |
『多聞院日記』 |
「一段逸物」 |
興福寺多聞院 英俊 |
信澄が信孝・長秀によって大坂で殺害された直後の記録 5 。 |
僧侶の立場から、武勇だけでなく、領主としての善政や教養、人格を含めた総合的な器量を高く評価したもの。その死を惜しむ気持ちが表れている。 |
『イエズス会日本年報』 |
「甚だ勇敢だが残酷」 |
ルイス・フロイスら宣教師 |
信澄の武将としての性格評 4 。 |
戦場での勇猛さと、敵対勢力(特に一向一揆)に対する殲滅戦に見られる非情さを客観的に記述。戦国武将としての現実的な側面を捉えている。 |
『信長公記』 |
(直接的な評価はない) |
太田牛一 |
越前攻めでの戦功、荒木村重討伐での役割、京都御馬揃えでの序列など、客観的な事実を記録 22 。 |
信長の側近として、軍事・行政の両面で重要な役割を担い、一門衆の中でも破格の待遇を受けていた事実が示され、信長の信頼が厚かったことがうかがえる。 |
『フロイス日本史』 |
(信孝の入城を拒み抵抗) |
ルイス・フロイス |
本能寺の変後の大坂城での攻防の記録 52 。 |
謀反の嫌疑をかけられた際、ただちに屈服せず、自らの潔白を信じて抵抗した様子が描かれており、武将としての気概を持っていたことがわかる。 |
織田信澄は非業の死を遂げたが、その血脈は意外な形で存続した。父の死後、幼かった長男の昌澄(まさずみ)は、かつて信澄に仕え、その恩義を感じていた藤堂高虎によって密かに保護された 59 。
成長した昌澄は、高虎の斡旋で豊臣秀頼に仕え、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では豊臣方として奮戦し、かつての恩人である高虎の軍勢と戦うという数奇な運命を辿る。大坂城落城後、昌澄は自害を試みるが、その武勇を惜しんだ高虎が徳川家康・秀忠親子にとりなし、助命された 59 。
その後、昌澄は徳川家に召し出され、近江国甲賀郡内に2000石を与えられる交代寄合の旗本となった。父・信澄が築いた大溝城に近い土地で家名を再興し、その家系は幕末まで続いたのである 6 。父が政治の激動の中で散ったのとは対照的に、息子がかつての家臣の情によって救われ、新たな時代を生き抜いた事実は、戦国の世の終焉と、武士の間の複雑な人間関係を象徴している。
歴史に「もしも」は禁物であるが、織田信澄の生涯を思うとき、その仮定をせずにはいられない。もし彼が本能寺の変を生き延び、光秀との共謀の嫌疑を晴らすことができていたならば、その後の歴史は大きく変わっていた可能性がある 62 。
信長・信忠亡き後の織田家の主導権を巡って開かれた清洲会議では、羽柴秀吉と柴田勝家が激しく対立した。信澄がもしこの場にいたならば、どう行動しただろうか。彼は織田一門としての高い序列、近江の要衝を抑える領主としての実力、そして「一段の逸物」と評された器量を持っていた。彼が秀吉、勝家のどちらか一方に与すれば、その勢力バランスは大きく傾いたであろう。あるいは、信孝や信雄といった他の織田一門を糾合し、宿老たちに対抗する第三極を形成したかもしれない。いずれにせよ、彼が信長後の権力闘争において、極めて重要なキーパーソンとなったことは想像に難くない。
織田信澄の生涯は、まさに光と影、栄光と悲劇の物語であった。彼は「逆臣の子」という最大のハンディキャップを、自らの「器量」と伯父・信長の慧眼によって乗り越え、織田政権の中枢にまで登りつめた。それは、個人の能力が血の宿命を克服する、戦国乱世ならではの成功譚であった。
しかし、その成功は、伯父の死と岳父の謀反という、自らのあずかり知らぬところで発生した歴史の巨大な地殻変動によって、あまりにもあっけなく粉砕された。彼の死は、個人の才能や忠誠心だけでは抗うことのできない、「血縁」という名の呪縛と、「時運」という名の非情さがいかに強大であるかを物語っている。
織田信澄は、戦国時代が生んだ数多の悲劇の武将の一人である。しかし、その生涯を詳細に追うことは、織田政権の権力構造、その強さと脆さ、そして崩壊に至る過程を理解する上で、不可欠な視点を提供してくれる。彼は、運命に翻弄されながらも、確かに一時代を駆け抜けた「一段の逸物」として、歴史に記憶されるべき人物である。