本報告書は、戦国時代の武将、織田信行(おだ のぶゆき、別名:信勝 のぶかつ)について、現存する史料や近年の研究成果に基づき、その生涯、人物像、歴史的背景、関連史跡などを多角的に調査し、総合的にまとめることを目的とする。織田信長の弟としてその名は広く知られているものの、具体的な実像については断片的な情報に留まることが多い信行について、より深く掘り下げた理解を目指すものである。
織田信行は、兄・織田信長が尾張国統一を進める過程において、家督を巡って最も熾烈な争いを繰り広げた人物として歴史に名を残している。彼の存在と行動は、信長政権樹立初期の不安定さや、当時の織田家中に渦巻いていた複雑な権力構造を如実に示していると言えよう 1 。信行の動向は、単に兄弟間の個人的な確執に収まらず、当時の尾張国内における国人領主層の思惑や、守護・守護代体制が形骸化していく時代の大きなうねりの中で捉える必要がある。信秀の死後、織田弾正忠家が分裂の危機に瀕した際、信行は一部家臣団に擁立され、信長にとって最大の脅威として立ちはだかった。この対立の克服が、信長のその後の飛躍を理解する上で看過できない重要な意味を持つと考えられる。本報告書では、信行が歴史の表舞台で果たした役割の概略をまず述べ、その詳細な検討への導入としたい。
織田信行は、尾張国(現在の愛知県西部)の戦国大名であった織田信秀の子として生を受けた 1 。母は信秀の正室(継室ともされる)土田御前であり、織田信長の同母弟にあたる 1 。この同母弟という関係性は、後の家督争いにおいて、母・土田御前の信行への寵愛や、一部家臣団の期待と結びつき、複雑な影響を及ぼすことになる。
信行の生年は明確ではないが、天文5年(1536年)とする説が有力視されている 4 。これは、兄・信長の生年とされる天文3年(1534年)の2年後である 4 。幼少期については、父・信秀の拠点が勝幡城(現在の愛知県愛西市・稲沢市)から古渡城(現在の名古屋市中区)、那古野城(現在の名古屋市中区)へと移る中で、これらの城で過ごしたと推測される 6 。
兄弟姉妹に関しては、信秀の嫡出子は信長と信行の二人のみであったとする見解 1 や、弟の織田信包も土田御前の所生であるとする推測 1 が存在する。その他、異母兄に織田信広などがおり、同母姉妹には、後に浅井長政や柴田勝家に嫁いだお市の方、佐治信方や細川昭元に嫁いだお犬の方がいたとされる 1 。
一般的には「織田信行」の名で知られているが、同時代の信頼性の高い史料において「信行」という諱は確認されていない 1 。一次史料で確認できる実名は、「信勝(のぶかつ)」、「達成(たつなり、または、みちなり)」、「信成(のぶなり)」の三通りである 1 。
昭和44年(1969年)、歴史研究家の新井喜久夫氏は、花押や文書の内容などを詳細に検討した結果、「勘十郎信勝」として史料に登場する人物が、天文23年(1554年)に「勘十郎達成」として現れる人物と同一であり、さらに弘治3年(1557年)に「武蔵守信成」として文書を発給している人物とも同一であると比定した 1 。この説は、その後の多くの研究者によって支持されている。
これらの諱の変遷は、単なる名称の変更に留まらず、信行の政治的立場や権力基盤の変化、そして兄・信長との間の力関係の変動を反映した、戦略的な行動であった可能性が高い。実名を「信勝」から「達成」、そして「信成」へと変更した背景には、尾張守護代であった織田大和守家(清洲織田氏)の存在や、後に詳述する稲生の戦いにおける敗北といった、深刻な政治的理由があったと推測されている 1 。例えば、「達成」の「達」の字は、守護代織田大和守家の当主が用いた字(織田達定、織田達勝など)との関連が指摘されており、信行が自らの正統性や権威を高めるため、あるいは守護代家の役割を代行しようとした意図があった可能性が考えられる 8 。近年の学術的な論文や書籍においては、これらの経緯を踏まえ、「信行」ではなく「信勝」という表記が用いられることが多くなっている 1 。
信行の幼名は伝わっていないが、通称としては「勘十郎(かんじゅうろう)」が一貫して用いられていたことが、『信長公記』をはじめとする多くの基本史料で確認できる 4 。
官途名としては「武蔵守(むさしのかみ)」を名乗ったとされ 1 、さらに一時期においては、兄・信長に対抗し、自身が織田弾正忠家の正統な当主であることを主張する意図をもって「弾正忠(だんじょうのちゅう)」を自称したこともあった 4 。この「弾正忠」という官職の自称は、単なる名誉職の借用ではなく、父・信秀も名乗った織田弾正忠家の当主としての地位を内外に宣言する、極めて政治的な意味合いを持つ行為であった。信秀の死後、信長が家督を継いだとされる中で、信行も末森城と有力な家臣団を相続するなど一定の勢力を保持しており 1 、天文22年(1553年)に兄に無断で文書を発行し「弾正忠」を名乗ったことは 4 、信長による家督継承を公然と否定し、自らが正統な後継者であると主張する明確な意思表示であった。この行動は、林秀貞や柴田勝家といった、信長よりも信行を支持する家臣団の存在を背景にしていた可能性が高く、家督争いの本格的な開始を告げる狼煙であり、後の稲生の戦いへと繋がる直接的な原因の一つとなった。
以下に、織田信行の主要な呼称をまとめた表を示す。
表1:織田信行 諱・通称・官名一覧
呼称 |
読み |
時期・史料根拠 |
備考 |
勘十郎 |
かんじゅうろう |
(『信長公記』など同時代史料多数) |
通称。最も一般的に用いられた。 |
信勝 |
のぶかつ |
(同時代史料、『寛政重修諸家譜』など) |
初名、または信頼性の高い史料に見られる実名。近年の研究ではこの名が重視される。 |
達成 |
たつなり/みちなり |
(同時代史料、天文23年頃~) |
改名後。尾張守護代織田大和守家との関連が指摘される。 |
信成 |
のぶなり |
(同時代史料、弘治3年頃~) |
再度の改名後。稲生の戦い敗北後か。 |
信行 |
のぶゆき |
(江戸時代の『織田系図』など後代の系図類) |
一般的に広く知られる名前だが、同時代史料での確認は困難。 |
弾正忠 |
だんじょうのちゅう |
(天文22年頃の自称 1 ) |
織田弾正忠家の当主を主張する意図。 |
武蔵守 |
むさしのかみ |
(弘治3年頃の自称 1 ) |
官途名。稲生の戦い敗北後、「信成」と共に名乗ったか。 |
天文21年(1552年、一説には天文20年)、父である織田信秀が病没した 1 。信秀は尾張国内に広大な勢力基盤を築き上げたが、その死は織田弾正忠家にとって大きな転換期となり、家督相続を巡る不安定な状況を生み出した。
信秀の葬儀の際、信長が抹香を位牌に投げつけるという奇矯な行動をとったのに対し、信行は正装で礼儀正しく振る舞ったという逸話は『信長公記』などに記されており、広く知られている 1 。この対照的な態度は、家臣たちの間で信長に対する潜在的な不安を増幅させ、一方で信行への期待を高める一因となった可能性がある。この出来事は、単に兄弟の性格の違いを示すだけでなく、家督継承を巡る両者の立場や家臣団からの評価を象徴的に表しており、その後の深刻な対立を予兆させるものであったと言えよう。
信秀の死後、形式的には信長が家督を継いだとされるが、信行もまた父の晩年の居城であった末森城を相続し 1 、柴田勝家ら信秀以来の有力家臣も配下に加えられるなど 7 、織田家中で相当な権勢を有していた。これは実質的な分割相続に近い状態であり、信秀が明確な後継者指名を行わなかった、あるいはあえて曖昧な形を取ったことが、兄弟間の対立を助長した根本的な原因の一つと考えられる 8 。
父・信秀の死後、直ちに兄弟間の対立が表面化したわけではなく、当初は協力して領地経営にあたっていた時期もあったとされる 4 。信行は父の生前から尾張国内で判物を発給するなど、一定の統治権を有していたことが史料から確認できる 1 。
天文20年(1551年)9月20日付で熱田神宮寺座主へ発給された判物では、信行は父・信秀と兄・信長の「先判の旨」に従う形で権益を保証しており、この時点では信長との間に一定の協調関係が存在したことが窺える 8 。歴史学者の柴裕之氏によれば、天文22年(1553年)7月の段階においても、信行方の家臣である柴田勝家が、信長と敵対関係にあった守護代の織田大和守家と交戦していることから、信長と信行は協力して弾正忠家の運営にあたっていたと考えられる 8 。
信秀の死は、織田弾正忠家にとって内外からの脅威が増大する状況を生み出した。尾張国内には依然として清洲織田氏(織田大和守家)などの対抗勢力が存在しており 11 、このような状況下で弾正忠家が内部分裂することは共倒れを意味するため、信長と信行はある程度の協調関係を維持する必要があったと言える。しかし、信行が父の生前から独自の判物を発給し、末森城と有力家臣団を相続したことは、彼が独自の権力基盤を確立しつつあったことを示しており 1 、信長もまた那古野城を拠点に勢力拡大を図っていた 11 。この協力関係は一時的なものに過ぎず、外部の脅威が一段落するか、あるいは内部の権力バランスが崩れた時点で、家督を巡る本格的な対立が表面化するのは時間の問題であった。熱田の権益を巡る両者の判物発給の競合などは、その不穏な兆候と言えるだろう 8 。
天文22年(1553年)頃から、信行は兄・信長の承認を得ずに独自の文書(例えば、熱田の東加藤家への判物など)を発行し始める 4 。さらに決定的な行動として、織田弾正忠家の当主が代々名乗ってきた「弾正忠」の官職を自ら名乗り、自身こそが織田家の正統な当主であると公然と主張し始めた 4 。
この時期、信行(当時は信勝)は諱を「達成」と改めている。前述の通り、この「達」の字は、尾張守護代であった織田大和守家の当主が用いた字との関連が指摘されており、信行が守護代家の権威を利用し、自らの正統性を高めようとした、あるいはその役割を代行しようとした可能性が考えられる 1 。
これらの行動は、信行が信長に対抗しうるだけの家臣団の支持と、自身の統治能力への一定の自信に裏打ちされた、計算された政治行動であったと見ることができる。信行は末森城を拠点とし、柴田勝家や林秀貞といった信秀以来の重臣を含む家臣団を擁しており 7 、父の生前から判物を発給していた経験は 1 、彼に統治者としての自覚と実績を与えていた可能性がある。母・土田御前の寵愛も、彼の精神的な支えとなり、行動を後押ししたかもしれない 3 。信長の「うつけ」ぶりに対する家中の不満が根強い中で、信行にとっては好機と映った可能性も否定できない 11 。これらの要因が複合的に作用し、信行は信長との全面対決を決断し、「弾正忠」自称という形でその意思を表明したと考えられる。これは、彼なりの勝算に基づいた行動であったと推測されるが、結果として信長との対立を決定的なものとし、織田家内部の家督争いを公然化させるものであった。
弘治2年(1556年)8月、織田信行は、兄・信長の筆頭家老であった林秀貞(通勝)、その弟の林美作守通具、そして自身の家老である柴田勝家らと密謀し、信長打倒のための兵を挙げた 2 。これらの重臣が信行を支持したことは、この家督争いが単なる兄弟喧嘩ではなく、織田弾正忠家の分裂を意味する深刻な事態であったことを示している。彼らの離反は、信長政権の基盤がいかに脆弱であったかを物語るものであった。
信行方は、信長の直轄領であった篠木三郷(現在の愛知県春日井市)を横領するなど、敵対行動を明確にした 13 。これに対し信長は、庄内川南岸の名塚村(現在の名古屋市西区)に砦を築き、佐久間大学盛重を守将として配置し、信行勢の襲来に備えた 17 。
信行を支持した家臣たちの背景には、信長の奇矯な振る舞いに対する根強い不信感や、品行方正で家臣からの人望も厚いとされた信行への期待があったとされる 16 。林秀貞は信秀の代からの筆頭家老であり、織田家中で大きな影響力を持ち 13 、柴田勝家も信秀に仕え、信行の家老を務める有力武将であった 7 。これらの重臣が信長ではなく信行を選んだのは、信長の「うつけ」という評判やそれまでの統治に対する不安から、信行を擁立することでより安定した織田家の統治が実現できると考えたためであろう。信行が「折り目正しい秀才型」 7 、「礼儀正しく有能」 20 と評価されていたことも、その期待を裏付けている。
弘治2年(1556年)8月24日、折からの雨の中、両軍は稲生原(現在の名古屋市西区)で激突した 17 。兵力においては、信長軍が約700であったのに対し、信行軍(柴田勢約1000、林美作守勢約700)は約1700と、信行方が優勢であった 13 。
信長は、当時一般的であった二間半(約4.5メートル)の槍に対し、三間半(約6.3メートル)という格段に長い槍を足軽に持たせるという革新的な戦術を用いた 17 。戦闘は序盤から熾烈を極め、信長自身も馬を駆って槍を振るい、敵将である林美作守通具を討ち取るという目覚ましい活躍を見せた 17 。柴田勝家も勇猛果敢に戦ったが、信長の叱咤激励や森可成ら信長方諸将の奮戦により、信行軍は次第に劣勢となり、ついに敗走した 17 。『武功夜話』には「雨中二刻半、火花をちらし取り合い」と記されており、その激戦の様子が伝えられている 17 。
兵力で劣勢であった信長が勝利を収めることができた要因としては、第一に長槍戦術のような革新的な試みが有効に機能したこと、第二に信長自身の卓越した指揮能力と戦場での勇猛さが味方の士気を大いに高めたこと、第三に信行自身が末森城に籠って直接指揮を執らなかったことによる信行方の指揮系統の乱れや士気の差などが複合的に作用した結果と考えられる 8 。信長の「怒声」で柴田軍が怯んだという逸話も 18 、信長のカリスマ性や戦場での威圧感が戦況に影響を与えた可能性を示唆している。
稲生の戦いに敗れた信行は末森城へ、林秀貞らは那古野城へとそれぞれ籠城した 17 。信長は末森城下に火を放ち、城を包囲するなどして圧力をかけた 10 。
この危機的状況において、信長と信行の生母である土田御前が介入し、信長の家臣であった村井貞勝や島田秀満らを通じて、信行とその家臣たちの助命を嘆願した 17 。信長は、実母の強い願いを聞き入れ、「稲生の事は雨水の如く流れ去り申した」と述べ、信行、柴田勝家、林秀貞らを赦免した 17 。
信長にとって、一度裏切った弟を赦免することは必ずしも本意ではなかった可能性が高い。しかし、母への配慮や、柴田勝家や林秀貞といった織田家にとって重要な家臣たちを完全に敵に回すことの不利を考慮した、極めて政治的な判断であったと言えるだろう。だが、この赦免が結果的に信行の再度の謀反を招き、信長のより非情な決断へと繋がることになる。
稲生の戦いから1年余りが経過した弘治3年(1557年、一説には永禄元年、1558年)、信行は再び信長に対する謀反を企てた 2 。この際、尾張上四郡を支配していた岩倉城の織田信安(伊勢守信賢)と結託したとも伝えられている 17 。
しかし、この二度目の謀反計画は、かつて信行に味方し、信長に赦免された柴田勝家によって信長に密告された 13 。『信長公記』によれば、この頃の信行は若衆の一人であった津々木蔵人を重用し、柴田勝家をはじめとする旧臣たちを軽んじるようになっていたという 1 。さらに、信行は勝家の暗殺までも津々木蔵人と話し合っていたとされ 1 、これが勝家が信行を見限る決定的な理由の一つとなったと考えられる。柴田勝家の密告は、単なる保身や信長への忠誠心の変化だけでなく、信行自身の家臣団統制の失敗と、勝家との個人的な信頼関係の破綻が複合的に作用した結果であったと言えよう。
柴田勝家からの密告を受けた信長は、病に罹ったと偽り、信行を清洲城に見舞いに誘い出すという策を講じた 2 。弘治3年(または永禄元年)11月2日、信行は母・土田御前や柴田勝家に勧められる形で、警戒しつつも清洲城へと赴いた 2 。
清洲城の北櫓(あるいは天守の一室とも)に通された信行は、そこで待ち構えていた河尻秀隆や池田恒興といった信長の腹心たちによって殺害(謀殺)された 17 。享年は21歳前後と推定される 6 。大河ドラマ「麒麟がくる」では、信長が信行に毒入りの水を飲むよう迫り、飲めなかった信行を殺害するという脚色がなされたが 4 、史実においては、周到に準備された暗殺であったと考えられている。
信行の謀殺は、信長が肉親の情を断ち切り、織田家の統一と自身の権力確立のためには非情な手段も辞さないという冷徹な決断を下したことを示す象徴的な事件である。一度は母の嘆願で赦免した弟を、今度は自らの手で謀殺するという行為は、信長にとって大きな葛藤があったはずだが、信行の再度の謀反は、織田家内部の不安定要因をこれ以上放置できないという現実を信長に突きつけた。この事件を通じて、信長は家中の反対勢力を粛清し、自身の権力基盤をより強固なものとすることに成功した 18 。これは、後の桶狭間の戦いのような大きな飛躍のための重要な布石となったと言えるだろう。
織田信行の人物像を伝える史料は限られているものの、いくつかの逸話からその性格や能力の一端を窺い知ることができる。
最もよく知られているのは、父・織田信秀の葬儀における振る舞いである。兄・信長が型破りな行動で周囲を驚かせたのに対し、信行は正装で礼儀に則った厳粛な態度で臨んだと伝えられている 1 。このエピソードは、信行の品行方正さや、伝統的な武家の規範を重んじる性格を示していると言えよう。
また、政秀寺の僧侶であった沢彦宗恩が天文24年(1555年)に残した言葉によれば、信行は百舌鳥(もず)を用いた珍しい鷹狩りを好み、その腕前は獲物を決して逃すことがないほど見事なものであったという 1 。これは、信行が武芸の一環としての鷹狩りに長けていたこと、そして趣味嗜好の一端を示すものである。
信仰心も篤かったようで、美濃国(現在の岐阜県南部)の白山社に仏像の光背を寄進した記録が残っており 1 、父・信秀から受け継いだ白山信仰を大切にしていたと考えられる 1 。熱田神宮にも菅原道真の画像を寄進している 1 。
幼い頃より父・信秀の姿を見て「いつかは父上のように立派な武将になりたい」という志を抱き、学問や武芸の鍛錬に励んだとされる 6 。兄・信長とは幼少期には共に武芸を競い合ったものの、常に信長の突出した才覚の後塵を拝することになったとも記されている 6 。これらの断片的な情報からは、伝統的な価値観の中で武将としての成長を目指した、真面目で実直な人物像が浮かび上がってくる。信行の「品行方正さ」や「鷹狩りの名手」といった評価は、伝統的な武家の価値観においては模範的であり、これが家臣団の一部から信長よりも当主として期待される要因となった。しかし、それは同時に、信長の型破りな革新性とは対照的な、旧体制への親和性を示しており、激動の戦国時代を生き抜く上では、ある種の限界を内包していた可能性も示唆される。
稲生の戦いで敗北した後、永禄元年(1558年)頃の信行は、家臣団との関係において大きな問題を抱えていたことが『信長公記』に記されている。具体的には、若衆の一人で衆道(男性同性愛)の関係にもあったとされる津々木蔵人(つづき くらんど)を極端に重用し、一方で柴田勝家をはじめとする父の代からの旧臣たちを蔑ろにしたという 1 。
この依怙贔屓は家中に深刻な亀裂を生み、津々木蔵人の一派が横柄な振る舞いを見せるようになっても、信行はこれを諫めるどころか、むしろ疎ましい存在となり始めていた柴田勝家の暗殺までも蔵人と話し合うようになったとされている 1 。この旧臣軽視と特定人物の寵愛が、結果的に柴田勝家の離反と信長への密告を招き、信行自身の命運を決定づける致命的な要因となった 1 。
信行による津々木蔵人の重用と旧臣軽視は、稲生の戦いでの敗北による権威失墜や焦りから生じた、側近政治への傾倒であった可能性が考えられる。権力基盤が揺らいだ際に、信頼できる側近を重用して権力の再構築を図ることは、歴史上の権力者に見られる行動パターンの一つである。しかし、柴田勝家のような、父の代からの功臣であり、一度は自分を支持してくれた有力な武将を軽んじ、さらには暗殺まで企てるというのは、極めて稚拙な人事であり、政治判断の大きな誤りと言わざるを得ない。これは、信行が敗北の経験から学ぶことができず、むしろ猜疑心を強め、視野狭窄に陥っていた可能性を示唆しており、結果として最も頼りにすべき旧臣の信頼を失い、自滅への道を歩むことになった。
織田信行は、兄・信長の初期の統治にとって、無視できない大きな脅威であったと歴史学的に評価されている 1 。
歴史学者の谷口克広氏は、稲生の戦いにおいて、主将自らが前線で戦った信長と、末森城に籠もったまま直接指揮を執らなかった信行とでは、勝負にならなかったと厳しく評している 8 。また、信秀の葬儀における信長の奇行に関する村岡幹生氏の推測(信秀への不満の現れ)については否定的な見解を示している 1 。
柴裕之氏は、信行(当時は信勝)が諱を「達成」と改めたことや、「弾正忠」を称したことの政治的背景を詳細に分析し、信長との対立関係の深まりを論じている 8 。柴氏はまた、信行に関連する史料の一覧を作成するなど、基礎的な研究にも貢献している 1 。
村岡幹生氏は、信秀死後の織田弾正忠家の家督は、むしろ信行が主流を継承したのではないかという大胆な見解を示し、信行による判物発給などからその権勢の大きさを考察している 8 。
近年の研究においては、信行を単に「信長の悲劇の弟」として捉えるだけでなく、彼自身が独自の政治的立場と行動原理を持った一人の武将として再評価しようとする動きが見られる。彼の存在と行動は、信長初期の権力形成過程における重要な対抗勢力としての側面をより客観的に捉える上で不可欠である。信行の歴史的評価は、兄・信長の圧倒的な存在感と比較される中で、長らく「悲劇の弟」「敗者」という側面に焦点が当てられがちであった。しかし、近年の研究は、彼が独自の政治的意図を持ち、一定の勢力と統治能力を有していた可能性を示唆しており、信長初期の権力形成過程における重要な対抗勢力としての側面をより客観的に捉えようとする傾向にある。信行が信秀から末森城と有力家臣を相続したという事実は、彼が弾正忠家内で正統な後継者候補の一人と目されていたことを裏付けており 1 、彼の行動を単なる「謀反」として片付けるのではなく、当時の織田家の権力構造、家臣団の動向、そして信行自身の政治的野心といった複数の要因が絡み合った結果として理解する必要がある。
末森城(現在の名古屋市千種区城山町に所在)は、天文17年(1548年)に織田信行の父である織田信秀が、従来の居城であった古渡城から拠点を移す形で築城した平山城である 10 。この築城は、東方の三河国松平氏や駿河国今川氏といった勢力からの侵攻に備える目的があり、実弟の織田信光が守る守山城と連携して東方防御線を構成するものであった 10 。
信秀の死後、信行(当時は信勝)がこの末森城を相続し、居城とした 1 。城には母・土田御前や妹のお市の方、お犬の方も共に居住していたと伝えられている 7 。信行は篤い白山信仰の持ち主であったため、城中に加賀国の白山比咩神社から分霊を迎え、白山社として祀った。これが現在の城山八幡宮の創建に関わる一つの起源とされている 10 。
稲生の戦いにおいては、敗れた信行がこの末森城に籠城し、信長軍によって城下が焼き払われるという事態に至ったが、母・土田御前の介入により落城は免れた 10 。信行が謀殺された後、末森城は一時的に廃城となったとされるが、後の小牧・長久手の戦いの際に織田信雄によって再整備され、軍事拠点として使用されたという説もある 10 。
現在、城跡は城山八幡宮の境内となっており、往時を偲ばせる空堀などの遺構が残存している 12 。信行の具体的な領地経営や石高に関する詳細な史料は乏しいものの、父・信秀から城と有力家臣団を譲り受けていたことから、一定の経済基盤と統治権を有していたことは間違いないであろう 1 。末森城は、信行にとって単なる居城ではなく、父・信秀から受け継いだ権力の象徴であり、兄・信長に対抗するための政治的・軍事的拠点であった。城内に白山社を祀った行為も、自身の信仰を示すと同時に、領民や家臣に対する求心力を高める意図があった可能性が考えられる。
桃巌寺(とうがんじ、現在の名古屋市千種区に所在)は、父である織田信秀の菩提を弔うため、織田信行が建立した寺院である 4 。寺名は、信秀の法名「桃巌道見大禅定門」にちなんで名付けられたと伝えられている 4 。
境内には、信秀と共に信行の名が刻まれた墓石が存在し、そこには信行の重臣であった柴田勝家の名も刻まれているという 4 。信行を裏切り、その死に深く関与したとされる柴田勝家の名が、信行と共に同じ墓石に刻まれている点は、歴史の複雑さを感じさせる。信秀の霊廟は元々末森城の西北山麓にあったが、現在は桃巌寺内に移されている 10 。
信行による桃巌寺建立は、父・信秀への追慕の念を示すと同時に、自らが信秀の正統な後継者であることをアピールする宗教的・政治的な行為であった側面も否定できない。柴田勝家の名が墓石にあることについては、稲生の戦い以前の主従関係を反映しているのか、あるいは後世の何らかの複雑な経緯によるものか、さらなる検討を要するが、この墓石の存在は、信行と勝家の関係の変遷、そして当時の武家の死生観や追悼のあり方を考える上で興味深い史料と言えるだろう。
稲生の戦いの古戦場跡は、現在の名古屋市西区稲生町周辺とされている 17 。現地には現在、庚申塚が建てられており、この戦いで命を落とした戦死者を供養するためのお堂や供養塔が建立されている 17 。『信長公記』によれば、この戦いでは織田信長軍と織田信行軍の両軍を合わせて約1700名が戦ったと記載されており、実際の戦場は庚申塚周辺の広範囲に及んだと推測される 18 。
周辺地域は名古屋都心部に近いことから市街地化が進んでいるが、稲生の戦いで信長が築かせたとされる名塚砦跡(名塚白山神社付近)など、関連する史跡も点在している 17 。
稲生の戦いは、織田家の家督争いの帰趨を決定づけ、信長が織田家中を掌握し、その後の尾張統一へと大きく前進する重要な契機となった戦いであった 18 。稲生原古戦場跡は、信長のその後の飛躍の原点の一つであり、信行にとっては夢潰えた場所である。この戦いの結果が、その後の尾張の勢力図を塗り替え、ひいては日本の歴史にも間接的に大きな影響を与えたと言えるだろう。
織田信行の子としては、津田信澄(つだ のぶすみ、幼名:坊丸)が歴史に名を残している 1 。父・信行が兄・信長によって謀殺された後も、信澄は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育されたと伝えられている 26 。
信澄は後に信長に仕え、織田一門として厚遇された。近江国(現在の滋賀県)の磯野員昌の養嗣子となったり、大溝城主(現在の滋賀県高島市)に任じられたりするなど、信長の側近としても活動した 27 。また、後に本能寺の変を引き起こす明智光秀の娘を妻として迎えている 27 。織田家における一門衆の中での序列は第5位と、信長の嫡子や弟に次ぐ高い地位にあったとされ 27 、これは信長からの信頼の厚さを示すものであった。
信長が謀反を起こした弟・信行の子である信澄を助命し、さらに厚遇した背景には、単に血縁者に対する一定の温情があったというだけでなく、信澄自身の能力への評価や、明智光秀との縁組を通じた有力家臣との関係強化といった、複数の要因が考えられる。これは信長の複雑な人間性と、実利を重んじる冷徹な政治家としての一面を示していると言えるだろう。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が京都の本能寺において信長を襲撃するという未曾有の事変(本能寺の変)が発生すると、信澄の運命は暗転する。当時、信澄は四国方面への遠征軍の副将として大坂に滞在していたが、舅である明智光秀の娘婿であったことから、光秀の謀反への関与を強く疑われた 26 。
本能寺の変直後の混乱の中、信長の三男である織田信孝と、宿老の丹羽長秀によって、信澄は大坂城千貫櫓において襲撃され、弁明の機会も与えられぬまま討ち取られてしまった 26 。享年は27歳(または25歳、28歳とも)という若さであった。津田信澄の死は、本能寺の変という未曾有の混乱期において、疑心暗鬼が生んだ悲劇であり、血縁や縁戚関係が時に命取りになる戦国時代の非情さを示す事例である。彼の死は、信行の血筋が織田家の中枢で再び大きな力を持つことを阻んだとも言えるだろう。
織田信行の生涯は、兄・織田信長との熾烈な家督争いに終始し、志半ばにして若くして非業の死を遂げるという、悲劇的なものであった。しかし、彼の存在と行動は、初期の織田信長政権の確立過程において、避けては通れない重要な試練であり、信長が尾張を統一し、やがて天下統一へと飛躍する上で、結果的にその権力基盤を強化する一因となったと言えるだろう。
品行方正で家臣からの人望もあったとされる信行が、なぜ信長に敗れたのか。その背景には、信長の既成概念に囚われない革新的な思考や大胆な行動力、そして何よりも時代の変化に鋭敏に対応する能力の差があったと考えられる。信行の敗北と死は、織田弾正忠家における旧来の価値観や勢力(信行を支持した一部の家臣や、母・土田御前の影響力など)が、信長の新しいリーダーシップと実力主義の前に後退していく過程を象徴している。ある意味で、信行の存在は、信長が乗り越えるべき「古い織田家」の象徴であったとも言えるかもしれない。
信行に関する史料は断片的であり、その人物像や統治の実態については未だ不明な点も多い。しかし、本報告書で検討してきたように、彼は単なる「信長の弟」という受動的な存在に留まらず、独自の政治的野心と行動力を持ち、一時は兄・信長を脅かすほどの勢力を築いた戦国武将の一人として再評価されるべきである。
彼の短い生涯と悲劇的な結末は、戦国乱世の厳しさ、兄弟骨肉の争いの非情さ、そして歴史の偶然性と必然性が複雑に絡み合う様を、現代の我々に強く示唆している。信行の研究は、織田信長の人物像や初期の織田政権の性格を理解する上でも、引き続き重要な意味を持つと言えよう。