織田信雄は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、織田信長の次男としてその生涯は激動の時代に翻弄され続けた。父・信長の巨大な影響力の下に生まれ、本能寺の変という未曾有の事変に遭遇し、その後は豊臣秀吉、徳川家康という天下人たちとの複雑な関係の中で、時に翻弄され、時にしたたかに立ち回り、結果として織田家の血脈を後世に伝えた。本報告書では、信雄の出自から晩年に至るまでの詳細な生涯を追い、その時々における彼の役割、決断、そしてそれらが歴史に与えた影響を、現存する史料に基づいて多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。彼の生涯は、単に「信長の息子」というだけでなく、戦国乱世を生き抜いた一人の武将としての苦悩と処世術、そして後世における多様な評価を内包しており、その複雑な人物像を解き明かすことは、戦国時代史理解の一助となるであろう。
織田信雄は、永禄元年(1558年)に尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷にて、織田信長の次男として生誕した 1 。幼名は茶筅丸といい、これは彼の髪型が茶筅に似ていたことに由来するとされる 2 。
その生涯において、信雄は幾度も名を変えている。北畠家への養子入りに伴い、元服して北畠具豊と名乗り 1 、後に北畠家の家督を継いで北畠信意と改めた 1 。その後、織田姓に復して信勝、そして信雄を名乗り、最終的には出家して常真と号した 2 。これらの名称の変遷は、北畠家養子、織田家当主格、豊臣政権下の大名、浪人、そして再興大名といった、彼の目まぐるしく変わる立場を象徴している。
信雄の家族関係は、戦国時代の武将としては比較的複雑である。
特筆すべきは、信雄の子孫の多さとその後の繁栄である。四男・信良の系統は上野小幡藩、後に出羽高畠藩、天童藩の大名となり、五男・高長の系統は大和宇陀松山藩、後に丹波柏原藩の大名として明治維新まで存続した 1 。信長の直系子孫が江戸時代を通じて大名家として複数存続したのは信雄の系統のみであり、その血筋は皇室にも繋がったとされる 6 。これは、信雄自身の政治的・軍事的な評価とは別に、結果として家名を後世に繋いだという点において、彼の生涯の特異な側面を示している。激動の戦国時代において、父や兄を非業の死で失い、自身も幾度となく危機に瀕しながらも、最終的に家名を後世に伝えたこの事実は、単なる「凡庸」や「暗愚」といった評価では説明しきれない、ある種の生命力や時流を読む能力、あるいは周囲に利用されつつも生き残る処世術に長けていた可能性を示唆している。
織田信雄家系図(簡略版)
Mermaidによる家系図
織田信雄の生涯における最初の大きな転機は、伊勢の名門国司である北畠家への養子入りであった。永禄12年(1569年)、父・織田信長は伊勢国への勢力拡大を目指し、北畠氏の本拠地である大河内城を攻撃した(大河内城の戦い) 1 。この戦いは膠着状態に陥ったが、和睦の条件として、当時12歳の信雄(茶筅丸)が北畠具房の養嗣子となることが決定された 2 。これは、信長による伊勢支配戦略の一環であり、信雄はいわばその尖兵として送り込まれた形であった 3 。同時に、北畠具教の娘である千代御前(雪姫)を正室として迎えている 2 。
元亀3年(1572年)頃に元服した信雄は、北畠具豊と名乗った 1 。そして天正3年(1575年)、北畠家の家督を継承し、名を北畠信意と改めた 1 。この際、それまでの北畠氏の本拠地であった大河内城を廃城とし、より支配に適した平城である田丸城を新たな居城とした 1 。しかし、天正8年(1580年)に田丸城が同朋衆の放火により全焼するという事件が発生し、信雄は伊勢・細頸の地に新たに松ヶ島城を築城し、そこを拠点とした 1 。
伊勢における信雄の立場を決定づけたのが、天正4年(1576年)の三瀬の変である。信長の命を受けた信雄は、養父であり伊勢国司であった北畠具教とその一族を謀殺し、北畠家を実質的に乗っ取った 3 。剣豪としても知られた具教に対し、事前に刀に細工を施すなど、その計画は周到かつ冷酷なものであった 3 。この事件により、信雄は伊勢における織田家の支配権を確立したが、その手法は非情なものであり、彼のその後の評価にも影響を与えたと考えられる。この北畠家乗っ取りは、信長の伊勢支配戦略の完遂を意味し、信雄はその実行者としての役割を忠実に、あるいは冷酷に果たしたと言える。
信雄は伊勢国の統治において、いくつかの政策を実施している。天正3年(1575年)頃から伊勢国にしばしば徳政令を発布しており、国内の寺社に対する所領安堵状も多数発給している記録が残っている 1 。また、領国経営の基盤を固めるため、天正11年(1583年)と天正14年(1586年)の二度にわたり検地を実施し、知行制の統一を図った 1 。これらの検地は、単なる税収把握に留まらず、在地勢力の掌握を強化し、近世的な石高知行制の先駆けとも評価される先進的なものであった 1 。信長の楽市楽座や関所撤廃といった革新的な経済政策を踏襲したかについては明確な史料が不足しているが、父の政策に影響を受けていた可能性は否定できない 15 。これらの統治の試みは、信雄が単なる武将ではなく、領国経営にも意を用いていたことを示しているが、その独創性や実効性については更なる検証が必要である。
伊勢に隣接する伊賀国への侵攻は、信雄の軍事指揮官としての能力を試される出来事であった。
これらの伊勢及び伊賀での活動は、信雄が信長の伊勢支配戦略の遂行者として、また織田軍の指揮官として経験を積んだ時期であったと言える。しかし、その行動は常に父・信長の強大な影響下にあり、彼の自主性や真の力量が試されるのは、むしろ本能寺の変以降のことであった。
天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において明智光秀が謀反を起こし、織田信長が横死するという衝撃的な事件が発生した(本能寺の変) 7 。同時に、信長の嫡男であり、織田家の家督を継いでいた兄・織田信忠も二条御所で自刃し、織田家は一日にしてその柱を二本失うこととなった 7 。当時、信雄は伊勢国に滞在しており、この訃報が彼のもとに届いたのは数日後のことであった 7 。父と兄の突然の死は、信雄の運命を大きく揺るがし、織田家の後継者問題という新たな火種を生むことになる。なお、本能寺の変直後に安土城が焼失した件について、宣教師ルイス・フロイスは信雄が安土城に入り、明智の残党を炙り出すために放火したところ天守まで延焼させたと記録しているが 1 、これには異論も多く、信雄の判断力の欠如を示す逸話として語られる一方で、慎重な検証が求められる。この一件が事実であれば、その後の信雄の求心力低下に繋がった可能性も否定できない。
信長・信忠父子の死後、織田家の後継者問題と遺領の再分配を決定するため、同年6月27日に尾張国清洲城において、いわゆる清洲会議が開催された 24 。この会議には、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興といった織田家の宿老たちが参加した 24 。信雄は信長の次男として、弟の信孝と共に後継者候補として名前が挙がったが、会議に直接参加して発言する立場にはなかった 24 。
会議の結果、織田家の家督は信忠の嫡男である三法師(後の織田秀信)が継承し、信雄と信孝がその後見人となることが決定された 24 。領地再分配においては、信雄は新たに尾張国を相続することとなった 1 。しかし、会議の主導権は、山崎の戦いで明智光秀を討伐した秀吉が握っており、信雄は自身の意向を十分に反映させることができず、存在感は希薄であったとも評される 24 。秀吉は幼少の三法師を擁立することで、事実上織田家の実権を掌握する足がかりを築いたのであった。信長の次男という血筋を持ちながらも、宿老たちの政治力、特に秀吉の巧みな戦略の前に、信雄は翻弄されることとなる。
清洲会議後、織田家内部では羽柴秀吉と筆頭家老であった柴田勝家との対立が先鋭化していった。信長の三男である織田信孝は柴田勝家と結び、秀吉に対抗する姿勢を鮮明にした。一方、信雄は兄・信忠の仇討ちを果たした秀吉の勢いを認め、秀吉方に与することを選択した 7 。
天正11年(1583年)、両者の対立は賤ヶ岳の戦いとして武力衝突に至る。この戦いで秀吉軍は柴田勝家軍を破り、勝利を収めた 7 。この勝利により、秀吉の織田家における地位は不動のものとなった。
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉と結んだ信雄は、兄でありながら敵対した弟・信孝の処遇に直面する。信孝は岐阜城に籠城していたが、信雄はこれを包囲した 1 。最終的に信孝は降伏し、尾張国内海(現在の愛知県南知多町)の大御堂寺(野間大坊)に移された後、信雄の命により自害させられた 1 。この信孝の自害については、秀吉の強い意向が働いていたとされ、信雄は実質的にその実行者としての役割を担った形となった 9 。信雄自身の具体的な戦功は史料上明確ではないが、弟を死に追いやったという事実は、織田家内部の分裂を決定的なものとし、結果として秀吉の台頭を一層助長することになった。
本能寺の変後の信雄の動向は、信長の次男という血筋の「正統性」を持ちながらも、それを支える実力や政治力がなければ、より力のある者に利用され、翻弄されるという戦国時代の非情な現実を体現している。清洲会議での受動的な立場、そして弟・信孝との争いにおける秀吉の利用は、信雄が自らの力で時局を動かす主体とはなり得なかったことを示している。
賤ヶ岳の戦いを経て織田家内での実権を急速に掌握していく羽柴秀吉に対し、織田信雄は不満を募らせていた。信長の次男としての自負、そして秀吉がかつては父の家臣であったという認識が、両者の間に亀裂を生じさせた。
小牧・長久手の戦いの後、信雄は秀吉に臣従し、豊臣政権下で一定の地位を保つこととなる。
順調に豊臣政権下での地位を築いているかに見えた信雄であったが、小田原征伐後に突如としてその運命は暗転する。
配流生活を送っていた信雄であったが、再び歴史の表舞台に姿を現す機会が訪れる。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが勃発する。この一大決戦における織田信雄の動向は、史料によって記述が異なり、やや曖昧さが残る。
西軍に与したとする説が有力であり 1 、『藩翰譜』によれば、石田三成から豊臣秀頼の命令として西軍への加勢と徳川家康討伐の誘いを受け、成功の暁には旧領である尾張一国を与えるとの約束に一度は喜んだものの、軍資金が約束と異なったことや嫡男・秀雄の諌言もあり、逡巡している間に本戦が終結したとされる 1 。また、『慶長年中卜斎記』では、信雄は伊勢赤堀に布陣して東軍の飛脚を捕らえていたと記され 1 、『時慶卿記』には西軍に応じて尾張に入った後、東軍に転じたとの記述もある 1 。
関ヶ原の戦いにおける信雄の立場がどうであれ、戦後処理において彼は改易され、所領を失い、大坂城下で隠遁生活を送ることとなった 1 。
雌伏の時を経ていた信雄に、再び歴史の表舞台に立つ機会が訪れるのが大坂の陣である。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際には、豊臣方からその血筋と名声を利用され、大将として大坂城への入城を誘われた。しかし、信雄は既に徳川家康と内通しており、この誘いを拒否した 1 。この行動が家康に評価され、知行地の給付を約束されるに至った 1 。
そして元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、家康は信雄に大和国宇陀松山藩5万石 1 (あるいは上野国甘楽郡と大和国宇陀郡合わせて5万石 1 )を与え、大名として復帰させた。家康にとって、旧主信長の子である信雄を生かし、織田家の権威を一定程度利用する(あるいは無害化する)という戦略的判断があった可能性が考えられる。信雄の血筋は、成立間もない徳川政権の正統性を間接的に補強する要素ともなり得た。
その後、信雄の子である信良は上野小幡藩を、高長は丹波柏原藩をそれぞれ継承し、織田家の血脈は江戸時代を通じて大名家として存続することになった 1 。
大名として復帰した後の信雄は、政治の第一線からは退き、主に京都に居住して悠々自適の晩年を送った 1 。若い頃から嗜んでいた茶道や鷹狩りに興じ、特に能楽においては名手として知られ、その実力は高く評価されていた 1 。過去の政治的野心を抑え、文化活動に勤しむことで、徳川政権下での安定した地位を確保したと言える。これは彼の「適応能力」の現れとも解釈できる。
寛永7年(1630年)5月9日(史料により6月10日とも 2 )、信雄は京都において73歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。墓所は群馬県甘楽町の崇福寺 1 、京都市北区の大徳寺総見院 1 など複数伝えられている。戒名は徳源院殿実巖常真大居士である 4 。
織田信雄という人物に対する評価は、同時代から後世に至るまで毀誉褒貶が激しく、一面的に捉えることは難しい。
同時代の評価として最も辛辣なものは、宣教師ルイス・フロイスによるものであろう。「暗愚」「痴愚」といった言葉で酷評されているが 1 、これには信雄が一度キリスト教に改宗しながら棄教したことや、フロイスが直接見聞していない情報に基づいている可能性も考慮に入れる必要がある 1 。一方で、後世には「ポンコツ武将」と揶揄されることもあるが、同時に「愛される武将」といった親しみを込めた評価も見られる 3 。『勢州軍記』には、自身の名木を誤って伐採した家臣を激怒のあまり誅殺したという逸話が記されており、短気で感情的な一面があったことがうかがえる 1 。
武将としての信雄は、第一次天正伊賀の乱における無許可での出兵と大敗 2 、小牧・長久手の戦いにおける徳川家康との連携不足や単独講和 3 など、戦略的判断の甘さや軽率な行動が散見される 2 。これらの失敗は、彼の軍事指揮官としての限界を示していると言える。
政治家としては、伊勢・尾張における検地の実施など領国経営に一定の手腕を見せたこと 1 、また豊臣秀吉と徳川家康の和睦を仲介したことなど 2 、外交面での活動も見られる。しかし、小田原征伐後の移封を拒否して改易されるなど 2 、天下人である秀吉の意図を読み違え、政局を乗り切るには力不足であった面も否定できない。
信雄の性格については、「空気が読めない」と評されるような軽率な行動が多かったと指摘されている 3 。一方で、趣味としては茶道や鷹狩りを嗜み 1 、特に能楽においては卓越した技能を持ち、名手として知られていた。秀吉が主催した天覧能ではその演技が絶賛されたという記録も残っており 1 、文化的素養の高さがうかがえる。
信雄の生涯を評価する上で特筆すべきは、彼が織田信長の息子たちの中で唯一、その直系子孫を江戸時代を通じて複数の大名家として存続させたという事実である 1 。これは、彼の処世術、困難な状況への適応能力、あるいは周囲の有力者からのある種の「許容」や戦略的判断が複合的に作用した結果と言えるかもしれない。彼の生涯は、一見すると失策が多く「凡庸」あるいは「暗愚」と評価されがちであるが 1 、戦国乱世から江戸初期という激動の時代を70年以上生き抜き、改易されながらも最終的に大名として復帰し、子孫を繁栄させたという事実は、単なる「凡庸さ」では説明できない。むしろ、その「凡庸さ」や「暗愚」と見られる振る舞いが、結果的に彼を天下人たちの深刻な脅威とは見なさせず、生き残る要因の一つとなった可能性も考えられる。突出した才能や野心を見せなかったことが、かえって彼を危険視させず、最終的な生存に繋がったのではないか。彼の生涯は、英雄的な成功物語ではないが、激動期を生き抜くための一つの処世術を示している。
織田信雄の生涯は、父・織田信長という巨大な存在の影にありながらも、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を生き抜いた一人の武将の軌跡として、非常に興味深い事例である。北畠家への養子入り、伊勢・伊賀の平定、本能寺の変後の織田家の内訌、豊臣秀吉との対立と協調、そして徳川家康の下での再興と、彼の人生は常に大きな歴史のうねりの中にあった。
武将として、あるいは政治家としての能力には限界が見られた場面も少なくない。第一次伊賀攻めの失敗、小牧・長久手の戦いにおける単独講和、小田原征伐後の移封拒否による改易など、判断の甘さや状況認識の誤りが散見される。これらの出来事は、彼が「暗愚」あるいは「凡庸」と評される一因となった。
しかしながら、信雄を単に無能な武将として切り捨てることはできない。彼は能楽に長け、茶道や鷹狩りを嗜む文化人としての一面も持ち合わせていた。そして何よりも、信長の息子たちの中で唯一、その血脈を複数の大名家として江戸時代を通じて存続させたという事実は特筆に値する。これは、彼が持つある種の生命力、あるいは時勢を読み、有力者に取り入りながらも生き残るという、戦国乱世における処世術の表れであったのかもしれない。
信長の次男という出自は、彼にとって栄光であると同時に重荷でもあった。父の威光を利用できた場面もあれば、逆にその期待に応えられず苦悩した場面もあったであろう。秀吉や家康といった天下人たちとの関わりの中で、彼は時に翻弄され、時に利用され、そして時には彼らから手を差し伸べられた。
織田信雄の生涯は、英雄譚として語られることは少ないかもしれない。しかし、彼の生き様は、強大な力を持つ者たちに囲まれながらも、自らの家と血筋を守り抜こうとした人間の姿を映し出している。その意味で、織田信雄は戦国乱世から泰平の世へと移行する過渡期を生きた、複雑で多面的な人物として、今後も研究・評価されていくべき存在であると言えるだろう。
年代 |
出来事 |
典拠 |
永禄元年 (1558) |
尾張国にて生誕。幼名、茶筅丸。 |
2 |
永禄12年 (1569) |
大河内城の戦いの和睦条件で伊勢北畠氏の養子となる。 |
2 |
元亀2年 (1571) |
北畠具教の娘・千代御前を正室に迎える。 |
2 |
元亀3年 (1572)頃 |
岐阜城にて元服、北畠具豊と名乗る。 |
1 |
天正3年 (1575) |
北畠家の家督を継承し、北畠信意と改名。田丸城を居城とする。左近衛権中将に任官。 |
1 |
天正4年 (1576) |
三瀬の変。北畠具教らを謀殺し、北畠家を掌握。 |
3 |
天正7年 (1579) |
第一次天正伊賀の乱。信長に無断で伊賀に侵攻し大敗。 |
2 |
天正8年 (1580) |
田丸城焼失。松ヶ島城を築城。 |
1 |
天正9年 (1581) |
第二次天正伊賀の乱。総大将として伊賀を平定。 |
17 |
天正10年 (1582) |
本能寺の変。父・信長、兄・信忠が死去。清洲会議にて尾張国を相続、三法師の後見人となる。 |
7 |
天正11年 (1583) |
賤ヶ岳の戦い。秀吉に与し、弟・信孝を自害に追い込む。 |
1 |
天正12年 (1584) |
小牧・長久手の戦い。家康と結び秀吉と戦うが、単独で講和。 |
3 |
天正18年 (1590) |
小田原征伐に従軍。戦後、移封を拒否し改易、配流。出家し常真と号す。 |
2 |
文禄元年 (1592) |
家康の仲介で赦免。秀吉の御伽衆となり、大和に知行を得る。 |
2 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い。西軍に与したとも、東軍に内応したとも言われる。戦後、改易され浪人。 |
1 |
元和元年 (1615) |
大坂の陣後、家康より大和宇陀松山藩5万石を与えられ大名に復帰。 |
1 |
寛永7年 (1630) |
京都にて死去。享年73。 |
1 |
年代 |
官位 |
関連事項・背景 |
典拠 |
天正2年 (1574) |
従五位下侍従 (源信意として) |
信長が上洛した際、信忠と共に叙爵を願い出たことによる。 |
1 |
天正3年 (1575) |
正五位下 |
同月中に北畠家の家督(伊勢国司)を相続したことによる昇進。 |
1 |
天正3年 (1575) |
左近衛権中将 |
信長が権大納言と右近衛大将を兼ねることに伴い、信忠が秋田城介に、信意(信雄)が左近衛権中将に任じられた。 |
1 |
天正13年 (1585) |
権大納言、正三位 |
羽柴秀吉の推挙による。秀吉自身も直後に内大臣となり、信雄の昇格は秀吉の天下人としての地位確立の一環。 |
1 |
天正14年 (1586) |
従二位 |
秀吉と家康の和睦に尽力したことなどが背景か。 |
1 |
天正15年 (1587) |
正二位 |
長女・小姫を秀吉の養女としてもらい受けたことなどが背景か。 |
1 |
天正15年 (1587) |
内大臣 |
秀吉の武家関白制において、秀長や家康をも上回る序列2位の地位。 |
1 |
時期 |
居城 |
理由・背景 |
典拠 |
永禄12年 (1569)以降 |
大河内城 |
北畠具教との和睦条件で北畠氏の養嗣子となり入城。元亀2年(1571年)に居を移す。 |
1 |
天正3年 (1575) |
田丸城 |
大河内城を廃し、より西の平地にある田丸城を居城とする。 |
1 |
天正8年 (1580) |
松ヶ島城 |
田丸城が同朋衆の放火により全焼したため、伊勢・細頸の地に新たに築城し居城とする。 |
1 |
天正10年 (1582)以降 |
清洲城 |
清洲会議で尾張一国を与えられたため本拠地を移す。天正大地震で長島城などが倒壊後、清洲城を大改修して居城とする。 |
1 |
天正19年 (1591)以降 |
伊予道後(石手寺) |
家康の尽力により赦免後、伊予国に移住し石手寺に寓居。 |
1 |
文禄元年 (1592)以降 |
大坂天満の屋敷 |
秀吉の御伽衆に加えられ、大和国内に知行を得た後、大坂に屋敷を構える。 |
1 |
元和元年 (1615)以降 |
京都北野邸 |
大坂の陣後、家康から大久保長安の旧邸を与えられ、晩年はここで過ごす。 |
1 |
元和元年 (1615)以降 |
(宇陀松山藩) |
幕府から大和国宇陀郡などに5万石を与えられ宇陀松山藩主となるが、自身は赴任せず京都北野邸で過ごす。 |
1 |
元和元年 (1615)以降 |
(小幡藩) |
嫡男らが死去していたため三男・信良を名代とし、上野国に2万石を分知(小幡藩)。自身は赴任せず。 |
1 |