西暦(和暦) |
織田秀雄の動向 |
父・織田信雄の動向 |
天下人・関連人物の動向 |
1582年(天正10年) |
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本能寺の変後、清洲会議を経て尾張・伊賀・南伊勢約100万石を領有 1 。 |
6月:本能寺の変。織田信長・信忠、死去。6月:清洲会議。信忠の嫡男・三法師(後の秀信)が家督継承。 |
1583年(天正11年) |
織田信雄の長男として誕生。幼名は「三法師」 2 。 |
賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に与力し、弟・信孝を自刃に追い込む 1 。 |
4月:賤ヶ岳の戦い。柴田勝家、滅亡。 |
1584年(天正12年) |
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徳川家康と結び、秀吉と対立(小牧・長久手の戦い)。後に単独講和 1 。 |
小牧・長久手の戦い。 |
1590年(天正18年) |
父の改易に伴い、近江大溝城を与えられる 2 。 |
小田原征伐後、徳川家康旧領への国替を拒否し、改易。秋田へ流される 2 。 |
豊臣秀吉、天下を統一。 |
1592年(文禄元年) |
父の赦免に伴い、越前大野5万石の領主となる。居城は大野城 4 。 |
赦免され、秀吉の御相伴衆となる 3 。 |
文禄の役、始まる。 |
1598年(慶長3年) |
官位は従三位・参議。「大野宰相」と称される 2 。 |
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8月:豊臣秀吉、死去。 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い 。本人は東軍参加を望むも、父・信雄の意向で西軍に属す。戦後、改易 2 。 |
大坂城にあり、西軍寄りの立場を取る 6 。 |
9月:関ヶ原の戦い。東軍勝利。 |
1601年(慶長6年) |
改易後、江戸・浅草に閑居 2 。 |
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1602年(慶長7年) |
徳川秀忠の計らいにより、蔵米3000俵を支給される 2 。 |
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徳川家康、征夷大将軍に就任(1603年)。 |
1605年(慶長10年) |
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従兄・織田秀信、高野山にて死去。 |
1610年(慶長15年) |
8月8日、京都にて死去。享年28。子女なし。墓所は京都・大徳寺総見院 2 。 |
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1614年(慶長19年) |
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大坂冬の陣の直前、大坂城を脱出し徳川方に与する 10 。 |
大坂冬の陣。 |
1615年(元和元年) |
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大坂夏の陣後、家康より大和・上野に5万石を与えられ大名に復帰 10 。 |
大坂夏の陣。豊臣家、滅亡。 |
1630年(寛永7年) |
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京都にて死去。享年73 10 。 |
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日本の歴史上、最も劇的な変革期の一つである安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、織田信長という巨大な存在の血を引く者たちは、その出自ゆえに数奇な運命を辿った。本報告書が主題とする人物、織田秀雄(おだ ひでかつ、天正11年 - 慶長15年、1583年 - 1610年)もまた、その一人である 2 。彼の名は、一般には広く知られていない。しかし、その短い生涯は、信長の次男・織田信雄の嫡男として、織田宗家の嫡流という極めて重い宿命を背負い、豊臣政権から徳川幕藩体制へと移行する時代の荒波に翻弄された、一つの悲劇の象徴であった。
秀雄の生涯を理解するためには、彼が単なる一個人の歴史に留まらず、かつて天下に覇を唱えた織田宗家が、絶対的権力者の地位から、豊臣政権下の一大名、そして徳川幕府の管理下に置かれる一存在へと、その地位を変質させていく過程を凝縮した、生きた証左であったという視点が不可欠である。彼の人生の節目節目における選択、あるいは選択の余地のなかった状況は、偉大なる祖父・信長と、野心と挫折を繰り返した父・信雄という二つの巨大な影の下で、常に外的要因によって規定され続けた。
本報告書は、織田秀雄の誕生からその早すぎる死までを、関連する一次・二次史料を基に詳細に追跡し、彼の人生を動かした政治的背景、人物関係を深く掘り下げることで、歴史の主役ではなかった一人の貴公子の実像に迫ることを目的とする。なお、調査の過程で、昭和期に活動した同姓同名の詩人・児童文学作家「織田秀雄(おだ ひでお)」 14 、あるいは染色や民俗文様に関する著作を持つ別の「織田秀雄」 16 に関する情報が確認されたが、これらは本報告書の対象である安土桃山時代の武将とは全くの別人であり、明確に区別するものである。
織田秀雄は、天正11年(1583年)、織田信長の次男である織田信雄の長男として生を受けた 2 。父・信雄は、本能寺の変後、清洲会議を経て尾張・伊賀・南伊勢にまたがる広大な領地を相続し、一時は織田家の事実上の当主として大きな権勢を誇った人物である 1 。母は、伊勢国の名門国司であった北畠家の当主・北畠具教の娘、千代御前(雪姫)であった 2 。これにより、秀雄は父方から天下人・織田信長の、母方から伊勢の名門・北畠家の血を引く、まさに「貴種」としてこの世に生を受けた。その血筋は、平時であれば次代の織田家を担う者として、何不自由ない栄光の道を約束されていたはずであった。
秀雄に与えられた幼名は「三法師」であった 2 。この名は、歴史に関心を持つ者であれば、特別な響きをもって受け止められる。なぜなら、それは本能寺の変後の清洲会議において、羽柴秀吉らの画策により織田家の正式な家督継承者と定められた、秀雄の従兄・織田秀信(信長の嫡男・信忠の子)の幼名と全く同じであったからである 3 。
この命名が単なる偶然であるとは考えにくい。むしろ、そこには父・信雄の極めて強い政治的意図が込められていたと分析するのが妥当であろう。
清洲会議の決定において、信雄は家督そのものではなく、幼い三法師(秀信)の後見人の一人という地位に甘んじなければならなかった 1。この結果に強い不満を抱いていた信雄は、その後も一貫して織田家当主の座を意識し続け、時には徳川家康と結んで秀吉に戦いを挑む(小牧・長久手の戦い)など、自らが織田家の中心であるという自負を隠さなかった 3。
このような状況下で、信雄が自らの嫡男に、正統な家督継承者と目される甥と同じ「三法師」という名を与える行為は、秀信が持つ家督継承者としての唯一性を相対化し、「我が子・秀雄もまた、織田家の正統な後継者たる資格を持つ存在である」という、周囲に対する無言の、しかし極めて明確な政治的主張であったと解釈できる。それは、信長の血を引く二つの家系、すなわち嫡流である信忠の系統(秀信)と、次男である信雄の系統(秀雄)との間に横たわる、潜在的な対立と緊張関係を象徴する出来事であった。秀雄は、その誕生の瞬間から、父の野心と政治的野望をその身に背負わされる宿命にあったのである。
秀雄が物心つく幼少期は、父・信雄の人生が最も激しく揺れ動いた時期と完全に重なっている。小牧・長久手の戦いを経て、信雄は豊臣政権下で内大臣にまで昇り、一時は家康をも上回る序列に位置するなど、政権のナンバー2として栄華を極めた 8 。しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐後、秀吉から旧徳川領への国替を命じられると、これを拒否したために秀吉の逆鱗に触れ、全ての領地を没収(改易)され、秋田へと流罪に処されるという、まさに天国から地獄への転落を経験する 1 。この父の栄光と挫折の目まぐるしい変転は、幼い秀雄の心に計り知れない影響を与えたであろうことは想像に難くない。彼は、絶対的な権力者の庇護と、その気まぐれ一つで全てを失うという理不尽さの両方を、最も多感な時期に目の当たりにしたのである。
父・信雄の改易という織田宗家にとっての未曾有の危機の中、秀雄の運命は意外な展開を見せる。天正18年(1590年)、父が流罪となる一方で、わずか8歳の秀雄は豊臣秀吉から近江国大溝城(滋賀県高島市)を与えられ、その身分を保障されたのである 2 。これは異例の措置であり、秀吉の周到な計算に基づいていた。
さらに決定的だったのは、文禄元年(1592年)の出来事である。この年、父・信雄が赦免され、秀吉の話し相手である御相伴衆として大坂に呼び戻されるのに連動する形で、秀雄は越前国大野郡に五万石の領地を与えられ、大野城(別名・亀山城、福井県大野市)を居城とする大名として取り立てられた 4 。
これらの措置は、単なる温情ではない。豊臣秀吉による高度に計算された「織田家管理政策」の一環であった。
第一に、秀吉はかつての主家である織田家の権威を完全に否定することは、自らの権力の正統性を揺るがしかねないため避けたかった。しかし、信雄のように野心を持ち、かつて自らに敵対した人物を野放しにすることもできなかった。
第二に、父を罰し、その一方で幼い息子に恩恵を与えるという手法は、父子の間に心理的な楔を打ち込み、織田家の結束を弱体化させる効果があった。
第三に、秀雄を豊臣政権下の一大名として明確に位置づけることで、織田家の存続は秀吉自身の恩典によるものであると内外に強く印象づけた。秀雄はもはや「信長の孫」として自律的に存在するのではなく、「豊臣家臣・織田秀雄」として、秀吉が構築した新たな秩序の中に組み込まれたのである 6。これは、旧勢力を武力だけでなく恩賞によって巧みに無力化し、自らの権力基盤を盤石にするための、秀吉ならではの巧緻な政治的手法であった。
越前大野の領主となった秀雄は、その高い家格にふさわしく、従三位・参議という公卿に相当する高い官位に叙せられた 2 。参議は、唐名で「宰相」とも呼ばれるため、彼は「大野宰相」という名で知られるようになる 2 。五万石という石高の大名がこの官位を持つことは異例であり、秀吉がいかに織田家の血筋を形式上は優遇したかを示している。
しかし、この高い官位は、実質的な政治権力を伴うものではなかった。それは、豊臣政権という巨大な機構の中における、一種の名誉職としての性格が強かった。秀雄(ひいては織田家)が、手厚く遇されているように見えながらも、その実、政治の中枢からは遠ざけられ、厳重に管理されているという、彼の置かれた立場の「虚実」を象徴するものであった。
秀雄が越前大野の領主であった期間は、文禄元年(1592年)から関ヶ原の戦いで改易される慶長5年(1600年)までの約8年間である。しかし、この期間における彼の具体的な治績や領国経営に関する記録は、現存する資料群からはほとんど見出すことができない。これは、彼がまだ若年であったこと、そしてその統治期間が比較的短かったことに起因すると考えられる。
当時の越前大野は、秀雄が入封する以前、金森長近によって城郭の普請と城下町の建設が進められていた 19 。秀雄の統治は、この長近が築いた基盤を引き継ぐ形で行われたと推察される。しかし、彼が独自の政策を展開し、領内に大きな足跡を残す前に、天下の情勢は関ヶ原の戦いへと突き進み、彼の領主としてのキャリアは突如として断ち切られることとなった。当時の越前大野は、下表に示すように城主が目まぐるしく変わる不安定な土地であり、秀雄もまた、その激動の歴史の一幕を担ったに過ぎなかった。
表2:安土桃山期における越前大野城主の変遷
城主 |
在城期間(西暦) |
備考 |
金森長近 |
1575年 - 1586年 |
織田信長より入封。城と城下町を建設 5 。 |
青木一矩 |
1586年 - 1592年頃 |
豊臣政権下で入封 22 。 |
織田秀雄 |
1592年 - 1600年 |
豊臣秀吉より5万石で入封 5 。 |
(改易) |
1600年 - 1602年 |
関ヶ原の戦いの結果、領地没収。 |
土屋正明 |
1602年 - 1607年 |
結城秀康(徳川家康次男)の家臣として入城 5 。 |
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この国家的な動乱に際し、越前大野にいた織田秀雄は、自らの家と運命を左右する重大な決断を迫られた。複数の史料が示唆するところによれば、秀雄本人は東軍、すなわち徳川家康方に与することを望んでいたとされる 2 。
しかし、彼の個人的な意向が通ることはなかった。最終的に秀雄は、父・信雄の決定に従い、西軍に属することになる 2 。これは、彼の生涯において最も悲劇的かつ決定的な転換点であった。この決断の背景には、単なる父子の力関係を超えた、信雄の置かれた立場と政治的計算、そしてそれに翻弄される秀雄の無力な立場があった。
この時期、父・信雄は改易後に赦免され、大坂城にあって豊臣秀頼の後見役のような立場にあった 6 。特に、秀頼の母である淀殿は信雄の従妹にあたるという深い血縁関係にあり、豊臣家との結びつきは極めて強かった 11 。大坂城という西軍の本拠地に身を置いていた信雄にとって、西軍への参加は半ば不可避であったか、あるいは西軍勝利の暁には、豊臣政権内での織田家の完全な復権という甘い夢を描いていた可能性も否定できない。
一方で、越前大野にいた秀雄の立場は全く異なっていた。彼の領地は、東軍の主力である加賀の前田利長と隣接しており、北陸の情勢を肌で感じていた。彼が東軍参加を望んだのは、地理的条件や周辺の力関係を冷静に分析した上での、極めて現実的かつ合理的な判断であった可能性が高い。
だが、当時の封建社会、特に織田宗家という家意識の強い一族において、分家の領主である息子が、宗家当主である父の決定に逆らうことは事実上不可能であった。秀雄の運命は、彼自身の合理的な判断によってではなく、遠く離れた大坂にいる父の、結果として致命的な誤りとなる政治的賭けによって、一方的に決定づけられてしまったのである。自己の判断と家の論理が食い違った時、後者が優先され、個人が破滅へと追いやられる。これこそが、秀雄の人生における最大の悲劇であった。
西軍に与した秀雄は、北陸方面における西軍部隊の一翼を担ったと考えられる 24 。具体的な動向については記録が乏しく、その活動の詳細は不明な点が多い。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』には「前田利長とともに西軍の加賀大聖寺城を攻める」との記述があるが 14 、利長は東軍の主力であり、これは情報の錯綜と考えられる。実際には、同じく西軍に属した越前の諸将、敦賀の大谷吉継や東郷の丹羽長正らと連携して行動したと見るのが自然であろう 7 。しかし、彼が最前線で大きな戦闘に参加したという明確な記録は見当たらず、北陸戦線そのものが主戦場から外れていたこともあり、戦局に大きな影響を与えるには至らなかった。
慶長5年9月15日、関ヶ原の本戦はわずか一日で東軍の圧勝に終わった。この敗北により、西軍に与した大名はことごとく厳しい処分を受けることとなる。織田秀雄も例外ではなく、越前大野五万石の領地は全て没収された 2 。父・信雄の代に一度失われ、秀雄の代で辛うじて回復した織田宗家の所領は、わずか8年で再び失われた。父の誤った判断の代償は、あまりにも大きなものであった。
関ヶ原の戦後、全ての領地と大名としての地位を失った秀雄は、新たな天下人となった徳川家康の命により、江戸へ移ることを余儀なくされた。彼の身柄は、武蔵国浅草に置かれ、そこで閑居したと記録されている 2 。これは、事実上の軟禁状態に他ならず、徳川氏の厳重な監視下に置かれたことを意味する。かつての主家の嫡流であり、高い家格を持つ秀雄の存在は、成立期にあった徳川幕府にとって潜在的な政治リスクであった。彼が反幕府勢力の旗印として担がれることを防ぐため、幕府は彼をその膝元である江戸に留め置く必要があったのである。当時の浅草は、江戸の中でも開発が進む地域であったが、秀雄にとってそこでの生活は、政治の舞台から完全に隔絶された、雌伏の日々であったに違いない 26 。
失意の日々を送る秀雄に、一つの転機が訪れる。慶長7年(1602年)、二代将軍・徳川秀忠の「好意」により、蔵米三千俵が支給されることになったのである 2 。これは、旗本としては中堅クラスに相当する禄高であり、彼の生活を保障するには十分なものであった。
しかし、この措置を単なる徳川方の温情と見るのは表層的であろう。むしろ、これは徳川幕府による計算され尽くした「名家懐柔・管理政策」の巧みな一例であった。
幕府にとって、秀雄をただ困窮させることは得策ではなかった。それは彼に不満を抱かせ、何らかの政治的行動に走らせる危険性を孕むからである。そこで、生活を十分に保障するという形で恩を売り、彼の敵愾心を和らげる。同時に、その扶持を江戸で与えることで、彼の行動を完全に幕府の管理下に置き続ける。
この「アメとムチ」ならぬ「アメと管理」の手法は、武力で敵を制圧するだけでなく、旧勢力の権威を認めつつも巧みに体制内に取り込み、骨抜きにしていくという、江戸幕府の統治スタイルの典型であった。秀雄は、その存在そのものが、徳川の天下が盤石であり、かつての敵対者に対してすら寛大であるということを示すための、生きた象徴として利用された側面があったと言える 6。
江戸での雌伏の生活は、長くは続かなかった。慶長15年(1610年)8月8日、織田秀雄は京都において、父・信雄に先立ってその短い生涯を閉じた 2 。享年わずか28。死因については記録がなく不明である。
彼には正室も子女もいなかったため、信長の次男・信雄の嫡流は、ここに絶えることとなった 2 。秀雄の死後、織田信雄系の家督は、弟の信良や高長らによって継承され、江戸時代を通じて大名家(上野小幡藩、大和宇陀松山藩など)として存続していくことになる 9 。父・信雄自身は、大坂の陣で巧みに徳川方に与し、戦後に大名として復帰、73歳の天寿を全うした 10 。皮肉にも、関ヶ原で父の判断に従った息子は夭折し、その父は時代の変転を巧みに乗りこなし生き永らえたのである。
織田秀雄の短い生涯は、二つの都、京都と江戸にその痕跡を留めている。一つは織田宗家の血筋としての公的な墓所、もう一つは彼の夭折を悼む人々の私的な祈りが込められた供養塔である。この二つの史跡は、彼の人生が持つ二面性を象徴している。
秀雄の公式な墓所は、京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺の塔頭、総見院にある 2 。総見院は、天正11年(1583年)、豊臣秀吉が本能寺の変で斃れた織田信長の一周忌に際し、その菩提を弔うために建立した、織田家にとって最も重要な菩提寺である 28 。
その格式高い寺院の墓域において、秀雄の墓とされる五輪塔は、祖父・信長、そして父・信雄の墓と隣り合って静かに佇んでいる 30 。具体的には、中央の信長の墓の左隣に父・信雄の墓、そしてそのさらに左隣に秀雄の墓が配置されている 31 。
この墓所の配置が持つ意味は極めて大きい。関ヶ原の戦いで敗れ改易され、政治的には不遇な生涯を終えたにもかかわらず、彼は死後、織田一族の中において紛れもなく信雄の嫡男、すなわち織田宗家の正統な血筋を継ぐ者として扱われているのである。彼の貴い血統は、生前の彼の運命とは関わりなく、一族によって尊重され、祖父と父の眠る聖域にその場所を与えられた。これは、彼の公的な立場、すなわち「織田家の貴公子」としての側面を後世に伝えるものである。
秀雄の記憶を伝えるもう一つの重要な史跡が、東京都文京区向丘に存在する曹洞宗の寺院、金龍山大円寺にある 2 。この寺の墓域には、秀雄の供養塔が残されている。
この供養塔は、単なる石塔ではない。塔には慶長15年(1610年)という彼の没年が刻まれ、さらにその上部には「烏八臼(うはっきゅう)」と呼ばれる、極めて特異な合字が彫られているのである 34 。烏・八・臼の三つの文字を組み合わせたこの呪符的な文字は、滅罪成仏や吉祥成就を願う強い祈りが込められたものとされ、室町末期から江戸時代にかけて、特に曹洞宗や浄土宗の墓塔に見られることがある 34 。
この大円寺にある秀雄の供養塔は、現存する東京都内の「烏八臼」が刻まれた石塔の中で、紀年銘が確認できる最古の事例として、文化史的・民俗学的に極めて高い価値を持つ 34。
この供養塔を建立したのが誰であったかは、記録がなく定かではない 35 。しかし、その存在は、若くして不遇の死を遂げた秀雄の魂が救われ、安らかに成仏することを強く願った人々がいたことを物語っている。それは、改易後に彼が閑居した江戸で、彼に仕え、その生活を支えた家臣や縁者であったかもしれない。京都・総見院の墓が、彼の「公的」な血統の証明であるとすれば、江戸・大円寺の供養塔は、彼という個人を偲び、その冥福を祈った人々の「私的」な情愛の結晶と言えるだろう。
織田秀雄の28年の生涯を丹念に追うと、そこに浮かび上がるのは、自らの意志や能力によって運命を切り拓いた英雄の姿ではない。彼の人生は、誕生の瞬間から死の刹那まで、常に「織田信長の孫」「織田信雄の子」という、自ら選んだわけではない出自と、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人たちの巨大な政治的思惑によって規定され続けた、極めて受動的なものであった。
彼の人生における最大の悲劇は、関ヶ原の戦いに際して、自らが合理的と判断したであろう道(東軍参加)を、遠く離れた父の政治的判断という「家の論理」によって覆され、結果として破滅に至った点にある。これは、個人の意志や合理性よりも、「家」の存続や当主の決定が絶対的な価値を持つ、封建社会の非情な宿命を象徴している。彼は、父の野心のために生まれ、父の誤算のために没落した。
改易後、徳川幕府から与えられた蔵米三千俵の扶持は、温情であると同時に、彼の存在を無力化し管理下に置くための巧妙な政治的装置であった。彼は、徳川の天下が盤石であることを示すための、生きた記念碑として飼われた側面も否定できない。
しかし、歴史における彼の価値は、その悲劇性や受動性の中にこそ見出される。織田秀雄は、歴史の主役ではなかった。だが、彼のような人物の生涯を詳細に光を当てることで、歴史の大きな物語の陰に隠された、権力移行期のダイナミズム、勝者による旧勢力の巧みな統治術、そして偉大な血筋に生まれながらも時代に翻弄されざるを得なかった人間の、生々しい苦悩と実像が鮮やかに浮かび上がってくる。
京都・大徳寺総見院に祖父・父と並んで眠る彼の墓は、その血統の貴さを物語り、東京・大円寺の供養塔に刻まれた「烏八臼」は、彼の夭折を悼んだ人々の祈りを今に伝える。織田秀雄は、華やかな戦国史の片隅に咲き、時代の嵐の中で静かに散っていった一輪の花であった。そのはかない存在は、歴史が勝者だけの物語ではないことを、我々に静かに、しかし強く語りかけている。