戦国時代の尾張国にその名を刻む織田達勝(おだ たつかつ/みちかつ)は、織田信長の父・信秀の主君であり、尾張下四郡を支配した守護代として知られている。しかし、彼の存在はしばしば、信長という巨大な光の前に影を落とす「滅ぼされるべき旧勢力」として、一面的に語られがちである。本報告書は、こうした単純化された人物像を排し、達勝を室町幕府の守護・守護代制という旧来の権力秩序が崩壊し、実力主義という新たな秩序が胎動する、まさに時代の転換点を象徴する人物として再評価することを目的とする。
彼の治世は、主君による前任者の排除という血腥い内乱から始まり、その権力基盤は当初から脆弱であった。その統治下で、家臣に過ぎなかった織田弾正忠家の信秀が経済力と軍事力を背景に台頭し、主従の力関係は逆転していく。達勝は旧来の権威に固執し、この流れに抗おうと試みるが、彼の主君である守護・斯波義統までもが実力者である信秀と結びつくに至り、その立場は完全に形骸化する。
本報告書では、一次史料である『言継卿記』や各種古文書を丹念に読み解き、達勝の出自、権力継承の経緯、信秀との権力闘争の具体的な様相、そして守護・斯波氏との複雑な関係性を多角的に分析する。彼の生涯を追うことは、伝統的な権威が「実力」の前にいかにして無力化されていったのか、そのダイナミックな過程を明らかにすることに他ならない。意図せずして、達勝の治世は織田信秀・信長という「革命児」の揺りかごとなり、彼らが天下布武へと突き進むための土壌を整えるという、皮肉な歴史的役割を担うことになった。本報告は、この過渡期の中心に立った一人の武将の実像に迫るものである。
西暦(和暦) |
尾張の動向(達勝・信秀中心) |
周辺国の動向・中央情勢 |
主要人物 |
典拠史料 |
1511年(永正8年) |
織田信秀、生まれる(推定)。 |
足利義稙が将軍職に復帰(永正の錯乱後)。今川氏親が遠江守護に任命される。 |
織田信秀、斯波義達、今川氏親 |
28 |
1513年(永正10年) |
尾張守護・斯波義達、遠江遠征に反対した守護代・ 織田達定 を討ち、自害に追い込む。 織田達勝 、兄(養父)達定の跡を継ぎ、尾張下四郡守護代に就任。 |
斯波義達、遠江にて今川軍に敗北。 |
織田達勝、織田達定、斯波義達 |
16 |
1515年(永正12年) |
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斯波義達、引馬城の戦いで今川氏親に大敗し捕虜となる。剃髪させられ尾張へ送還、失脚。子の 斯波義統 (当時3歳)が家督を継ぐ。 |
斯波義達、斯波義統、今川氏親 |
21 |
1516年(永正13年) |
達勝 、妙興寺に寺領安堵の判物を発給。清洲三奉行が連署。 |
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織田達勝 |
4 |
1518年(永正15年) |
達勝 、円福寺に制札を発給。署名に「藤原達勝」と記す。 |
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織田達勝 |
4 |
1526-27年頃(大永6-7年) |
織田信秀 、父・信定から家督を継承。 |
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織田信秀、織田信定 |
17 |
1530年(享禄3年) |
達勝 、守護・斯波義統の代理として上洛するも、軍事目的でなく成果なく帰還。一族の反発を招き、権威が失墜。 |
細川晴元と三好元長の対立が激化し、京は不安定な情勢。 |
織田達勝、斯波義統、細川晴元 |
4 |
1532年(天文元年) |
達勝 、織田藤左衛門家と組み、 織田信秀 と交戦。後に和睦。 |
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織田達勝、織田信秀 |
5 |
1533年(天文2年) |
公家・山科言継が尾張に下向。 達勝 と 信秀 が共に接待し、蹴鞠の会に同席する。 |
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織田達勝、織田信秀、山科言継 |
33 |
1538年(天文7年) |
信秀 、今川氏豊から那古野城を攻略。 達勝 が城の普請を許可する形式の書状を発給。 |
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織田信秀、織田達勝、今川氏豊 |
29 |
1543年(天文12年) |
信秀 、内裏修理料として4,000貫文を朝廷に献上。 |
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織田信秀 |
29 |
1544年(天文13年) |
信秀 、美濃へ侵攻(加納口の戦い)。守護・ 斯波義統 は尾張国中に信秀への協力を命じる。 |
斎藤道三が信秀・朝倉孝景連合軍を撃退。 |
織田信秀、斯波義統、斎藤道三 |
41 |
1548年(天文17年) |
信秀 、三河で今川軍と戦う(第二次小豆坂の戦い)。美濃出兵の留守中、 達勝 が信秀の居城・古渡城を攻撃。両者の関係は完全に決裂。 |
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織田達勝、織田信秀 |
35 |
1549年(天文18年) |
信秀 、美濃の斎藤道三と和睦。信長と濃姫が政略結婚。 |
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織田信秀、織田信長、斎藤道三 |
3 |
不詳 |
達勝 、守護代職を養子の 織田信友 に譲り、歴史の表舞台から退場。 |
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織田達勝、織田信友 |
19 |
1552年(天文21年) |
織田信秀 、病没。信長が家督を継承。 |
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織田信秀、織田信長 |
28 |
1554年(天文23年) |
守護代・ 織田信友 、主君・ 斯波義統 を殺害。 |
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織田信友、斯波義統 |
41 |
1555年(弘治元年) |
織田信長 、主君殺しの罪を問い、 信友 を攻め滅ぼす。清洲織田大和守家は滅亡。 |
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織田信長、織田信友 |
1 |
織田達勝という人物を理解するためには、まず彼が属した「清洲織田氏(大和守家)」の歴史的背景と、彼自身の出自を明らかにする必要がある。彼の権威の源泉と、その限界は、この出自と家系の内に既に萌芽として存在していた。
織田氏の出自については、古くから複数の説が存在し、その起源は必ずしも明確ではない。後世に編纂された『続群書類従』や『寛政重修諸家譜』などでは、平清盛の孫である平資盛を祖とする平氏説が記されている 1 。しかし、これは室町時代以降に広まった「源氏の次は平氏が天下を取る」という源平交代思想に基づき、足利将軍家(源氏)に取って代わる信長の権威を正当化するために後付けされた創作である可能性が高いと指摘されている 2 。
一方で、達勝自身の認識を知る上で極めて重要な一次史料が存在する。永正15年(1518年)、達勝が春日井市の亀井山円福寺(勝獄山円福寺とも)に宛てて発給した制札(寺内での乱暴狼藉を禁じる高札)には、彼の署名が「藤原達勝」と明確に記されている 4 。これは、達勝自身が藤原氏を公式に名乗っていた動かぬ証拠である。さらに、後の天文18年(1549年)には織田信長が、またその弟である信勝も「藤原」姓を署名に用いた記録が残っており、この時期の織田一族が藤原氏を自認していたことは確実視される 3 。
この事実は、単なる出自の表明以上の意味を持つ。制札は寺社という公的な空間の秩序を保証する文書であり、その発給者の権威を示すものであった。当時、既に家臣筋である弾正忠家の台頭により、守護代としての実権が揺らぎ始めていた達勝にとって、伝統的な権威の象徴である「藤原」という姓を明記することは、自らの正統性を再確認し、内外に誇示する政治的な意図があったと考えられる。実力が揺らぐ中で、伝統的な権威に依拠しようとする旧来の支配者の思考様式が、この「藤原達勝」という署名に凝縮されているのである。
なお、織田氏の発祥の地は越前国織田荘(現在の福井県越前町)の劔神社とされ、その神官であった藤原氏の一族が、越前守護の斯波氏に仕え、尾張へ移った際に地名を取って「織田」を名乗ったとする説が有力である 3 。また、この地が古代には忌部氏と縁の深い土地であったことから、忌部氏を祖とする説も存在する 1 。
達勝が生きた時代の尾張国は、守護代である織田氏自身が二つに分裂し、内紛を繰り返す複雑な状況にあった。応仁の乱以降、織田氏は尾張を南北に二分して統治する体制を敷いた。尾張下四郡(海東、海西、愛知、知多)を支配し、清洲城を本拠としたのが、達勝が属する「清洲織田氏(大和守家)」である。一方、尾張上四郡(丹羽、羽栗、中島、春日井)を支配し、岩倉城を本拠としたのが「岩倉織田氏(伊勢守家)」であった 9 。
Mermaidによる 構造図
系譜上、嫡流とされたのは岩倉伊勢守家であり、清洲大和守家は本来分家筋であったが、尾張守護である斯波氏を清洲城に奉じることで、その権威を背景に勢力を拡大していった 1 。この両家の長年にわたる対立は、尾張国内の政治情勢を不安定にし、結果として、彼らの家臣筋である織田弾正忠家(信秀の家)のような新興勢力が力を蓄え、台頭する隙間を生み出す重要な要因となったのである 14 。
織田達勝の直接の家族関係は、史料によって記述が異なり、複雑な様相を呈している。
織田達勝の守護代就任は、平穏な世襲によるものではなかった。それは、主君である守護・斯波義達と、先代守護代であり達勝の兄(養父)でもある織田達定との間で行われた、血腥い内乱の直接的な結果であった。この特異な権力継承の経緯こそが、達勝の治世全体を規定する脆弱な権力基盤の根源となった。
達勝の時代の尾張守護であった斯波義達は、かつて斯波氏が領国としていた遠江国(現在の静岡県西部)を、駿河国の今川氏親に奪われていた。足利将軍家の一門という名門意識の高い義達は、この失地回復に並々ならぬ執念を燃やし、尾張の国力を傾けて遠江への出兵を繰り返す野心的な人物であった 21 。
これに対し、守護代として尾張の国政を預かっていた織田達定は、この遠江遠征を現実的な視点から批判した。彼にとって、この戦は「尾張を疲弊させるだけで何の利益もない」無謀な軍事行動であり、守護としての本分である尾張国内の安定を疎かにするものと映った 22 。この国策を巡る根本的な方針の対立は、やがて修復不可能な亀裂となり、守護と守護代という主従関係を根底から揺るがす事態へと発展した。
永正10年(1513年)、再三の遠征中止の諫言にも耳を貸さない斯波義達に対し、織田達定はついに反旗を翻した。しかし、守護と守護代の直接対決は、守護である義達の勝利に終わる。反乱に敗れた達定は、自害に追い込まれた 16 。この尾張国内を揺るがした「永正の内乱」の結果、空席となった守護代の地位に据えられたのが、達定の弟(または養子)であった織田達勝その人であった 5 。
この権力継承の経緯は、達勝のその後の政治的立場に決定的な制約を課すことになった。彼の権力は、自らの武功や人望によって勝ち取られたものではなく、兄を死に追いやった主君・斯波義達の武力と意向に完全に依存して成立したものであった。主君に逆らった兄の「負の遺産」を背負い、主君の武力を背景に守護代となった達勝が、他の織田一族や有力な家臣たちに対して、強力なリーダーシップを発揮することは極めて困難であった。彼の権力基盤は、発足したその瞬間から、構造的な脆弱性を内包していたのである。この弱さが、後の織田信秀による下剋上を許容する最大の土壌となった。
内乱の末に成立した達勝の新体制は、その権力基盤の脆弱性を補うため、有力家臣による合議制的な性格を帯びていた。それが「清洲三奉行」体制である。これは、織田因幡守家、織田藤左衛門家、そして後に信長を輩出する織田弾正忠家の三家が奉行として守護代の政務を補佐する仕組みであった 10 。この体制は、達定の死によって動揺した大和守家の権力を安定させ、新たな統治秩序を構築する必要性から整備されたものと考えられる 10 。
実際に、永正13年(1516年)に達勝が一宮市の妙興寺に対して発給した寺領安堵の判物には、これら三奉行が連署しており、この体制が初期の達勝政権を支える重要な柱として機能していたことがわかる 4 。しかし、これは同時に、守護代の権力が単独で国政を執行できず、有力家臣団の合意と協力に依存せざるを得なかったことの証左でもあった。三奉行の一人に過ぎなかった弾正忠家が、やがてこの枠組みを突き破り、主家を凌駕していくことになるのである。
織田達勝の治世は、家臣である織田弾正忠家の当主、信定・信秀父子の台頭と権力闘争の歴史でもあった。旧来の権威に依拠する達勝と、経済力という新たな力を背景に伸張する信秀。両者の力関係の変化は、戦国時代における下剋上の典型的な様相を呈しており、本報告書の中核をなす部分である。
織田弾正忠家の飛躍は、信秀の父・信定の時代にその礎が築かれた。信定は、伊勢湾に面した日本有数の貿易港であった津島湊を掌握し、その経済的利権を独占することで、一族の財政基盤を確立した 11 。家督を継いだ信秀は、この強固な経済力を背景に、さらに陸上・海上交通の要衝である熱田をも支配下に収め、その勢力を飛躍的に拡大させた 11 。
信秀の特筆すべき点は、その富を単なる蓄財に終わらせず、政治的・軍事的な力へと巧みに転換させたことにある。彼は、その莫大な財力をもって、荒廃していた内裏の修理費用として4,000貫文(現代の価値で数億円に相当するともいわれる)を朝廷に献上するなど、中央権力への積極的な働きかけを行った 29 。その見返りとして、朝廷から「三河守」という正式な官位を授けられるなど、自らの社会的地位を向上させ、支配の正統性を箔付けしていったのである 29 。
これは、守護代という伝統的な職階に安住していた達勝とは対照的な動きであった。信秀は、主君である達勝を介さず、より高次の権威である朝廷と直接結びつくことで、家臣という立場を超えた存在へと自らを高めていった。土地の領有を基盤とする旧来の封建的権力に対し、商業と流通の支配という新たな富の源泉を握った者が優位に立つ。信秀の台頭は、まさに戦国時代の社会経済構造の変化を象見するものであり、達勝の権威はこの経済力の差によって、実質的に侵食されていった。
達勝と信秀の関係は、単純な敵対関係ではなかった。天文元年(1532年)頃、達勝は同じ三奉行の一家である織田藤左衛門家と結び、急速に力をつける信秀と武力衝突に及んでいる。しかし、この戦いは決着がつかず、両者は和睦した 5 。主君と家臣が対等な立場で戦い、和を結ぶという事実そのものが、既に両者の力関係が逆転しつつあったことを物語っている 32 。
この複雑な関係を如実に示すのが、公家・山科言継の日記である『言継卿記』の記述である。武力衝突の翌年にあたる天文2年(1533年)7月、言継が尾張に下向した際、達勝と信秀は共に彼を接待し、連日開かれた蹴鞠の会にも同席している 30 。
なぜ武力衝突の直後に、二人は公家の前で協調して見せたのか。これは、彼らの関係が「建前」と「本音」の二重構造であったことを示している。公家を接待するという儀礼的な公式の場においては、達勝は依然として「尾張下四郡守護代」という主であり、信秀もまた「その家臣」としての立場を演じる必要があった。しかし、その裏では力関係の逆転が進行していた。言継への進物を見ると、信秀が多額の金銭を贈っているのに対し、達勝からの進物は太刀や馬といった伝統的な品物であり、経済力では信秀が圧倒していたことが窺える 33 。実質的な接待の主導権は、経済力を背景に信秀が握っていた可能性が高い。この時期の達勝と信秀の関係は、公式な主従関係という「建前」と、実力伯仲あるいは逆転という「本音」が並存する、極めて緊張感の高いものであり、『言継卿記』は、この過渡期の権力構造を映し出す貴重な一次史料と言える。
両者の間に保たれていた precarious な均衡は、天文17年(1548年)に完全に崩壊する。この年、信秀は美濃の斎藤道三と戦うため、主力を率いて尾張を留守にした。この好機を捉え、達勝は信秀の居城である古渡城に軍勢を差し向け、攻撃を仕掛けたのである 35 。
それまで両者は、対立しつつも対外的には協力関係を保っていたが、この事件によってその関係は修復不可能なまでに決裂した 35 。この達勝の行動の背景には、これ以上信秀の勢力拡大を座視すれば、自らの守護代としての地位が完全に失われるという強い危機感があったことは想像に難くない。また、信秀と敵対していた斎藤道三が、信秀の背後を乱すべく達勝に調略を仕掛けた可能性も指摘されている 35 。
この達勝の攻撃は失敗に終わるが、信秀にとっては重大な転機となった。東に今川、北に斎藤、そして国内には主君・達勝という三方の敵に囲まれるという絶体絶命の状況に陥った信秀は、この危機を打開するため、宿敵であった斎藤道三との和睦へと大きく舵を切る。その結果として結ばれたのが、信長と道三の娘・濃姫との政略結婚であった 11 。
達勝の権威が名目的なものとなっていたことを示す事象は、他にも見られる。享禄3年(1530年)、達勝は守護・斯波義統の代理として上洛したが、これは当時混乱していた中央政局に介入するような軍事行動ではなく、儀礼的なものであった。そのため、何ら実利を得ることなく帰還し、尾張の国人たちの反発を招いて権威を失墜させた 4 。実利を伴わない名目だけの行動が、もはや国人たちの支持を得られない時代になっていたのである。
対照的に信秀は、那古野城を攻略して拠点とし、着実に支配領域を拡大した 29 。天文7年(1538年)の那古野城普請に際して、達勝が信秀に許可を与える形式の書状が残されているが、これは実力で城を奪った信秀の行動を、達勝が事後承諾したに過ぎない 30 。守護代の許可という形式を踏ませることで、達勝はかろうじて主君としての体面を保ったが、その権威がもはや形式的なものとなっていたことを如実に物語っている。
近年の研究では、この時期の達勝の権力は「信長を輩出する勝幡織田氏の支配を権威づける存在になっていた」と指摘されている 40 。つまり、達勝は実権を失い、下剋上によって台頭した信秀の支配の正統性を、旧来の権威によって補完・追認するための、名目上の君主へと転落していたのである。
達勝と信秀の対立は、単なる守護代と家臣の二者間の問題ではなかった。彼らの共通の主君である尾張守護・斯波義統の政治的判断が、尾張のパワーバランスに決定的な影響を与え、達勝の立場を一層弱体化させることになった。
斯波義統は、父・義達が今川氏との戦いに敗れて失脚した後、わずか3歳で斯波家の家督を継いだ 41 。そのため、当初は守護代である織田達勝・信友親子によって擁立され、その権威を飾るための傀儡君主でしかなかった 41 。達勝・信友は、守護である義統を「お飾り」として清洲城に奉じることで、対立する岩倉織田氏や、台頭著しい弾正忠家の信秀に対し、自らこそが斯波氏の正統な代理人であるという権威を示そうとしたのである 41 。
しかし、成長した義統は単なる傀儡に甘んじることなく、自らの権威を回復すべく、独自の政治戦略を展開し始める。彼は、尾張国内で圧倒的な実力を示し始めた信秀を高く評価し、積極的に支援するようになった 21 。
その象徴的な出来事が、天文13年(1544年)の信秀による美濃侵攻である。この時、義統は守護として尾張国中に信秀への協力を命令し、本来であれば弾正忠家よりも格上である岩倉織田伊勢守家をも、信秀の指揮下に入るよう動員した 41 。これは、守護・義統が、家臣筋である信秀を自らの軍事的な「執行者」として公式に認めたことを意味する。
この義統の行動は、一見すると不可解に見えるが、その背後には巧みな政治的計算があった。義統にとって、自分を意のままに操ろうとする守護代の達勝・信友は、自らの権力を阻害する直接的な脅威であった。一方で、信秀は家臣筋でありながら、その実力は守護代を凌駕している。義統は、この信秀の実力を利用して、守護代・達勝を牽制し、形骸化していた自らの守護としての権威を回復しようとしたのである。これは、家臣が主君を凌駕する「下剋上」とは逆に、主君がより実力のある家臣と結んで、形骸化した直臣(守護代)を排除しようとする、いわば「逆・下剋上」ともいえる戦略であった。
義統と信秀の接近は、達勝・信友の権威の源泉であった「守護の代理」という立場を根底から覆すものであった。主君である守護からも見放された達勝は、尾張国内で完全に孤立していくことになる。斯波義統と織田達勝(およびその後継者信友)の対立は、ここに決定的となった 41 。
この対立は、後に信友が斯波義統を殺害するという悲劇的な結末を迎える。そして、この主君殺しという大罪が、織田信長に「主君の仇討ち」という、誰もが認めざるを得ない絶好の口実を与えることになり、清洲織田大和守家の滅亡を招く直接的な引き金となったのである 41 。
主君からも見放され、家臣に実権を奪われた織田達勝は、静かに歴史の表舞台から姿を消していく。彼の最期と、彼が率いた清洲織田大和守家の終焉は、下剋上の時代の非情さを物語っている。
史料を紐解くと、織田達勝は永正10年(1513年)に守護代に就任して以降、天文17年(1548年)の古渡城攻撃に至るまで、少なくとも35年以上にわたってその地位にあったことが確認できる 5 。これは戦国時代において、極めて長期間の治世であった。
しかし、その最期は謎に包まれている。いつ、どのような経緯で養子の織田信友に守護代職を譲ったのか、それを記した確かな史料は見つかっていない 18 。信秀との権力闘争に敗れ、守護・斯波義統からも見限られた結果、実質的に隠居に追い込まれたと推測されるのが自然であろう。
彼の没年や墓所の所在もまた不明である 1 。その生涯の終わりが歴史の中に埋もれているという事実は、彼の権力が晩年には完全に失われ、歴史を記録する人々の関心からも忘れ去られた存在となっていたことを象徴している。
達勝の跡を継いだ養子・織田信友の末路は、さらに悲劇的であった。彼もまた、家臣である坂井大膳らに家中の主導権を握られ、傀儡的な守護代に過ぎなかった 18 。
信秀の死後、その後継者である信長との対立を深めた信友は、信長の弟・信勝(信行)を擁立して対抗しようと試みるが、萱津の戦いで敗北を喫する 18 。追い詰められた信友は、天文23年(1554年)、自らの最後の権威の源泉であったはずの主君・斯波義統を、信長と通じていると疑い、殺害するという暴挙に出る 41 。
この主君殺しという大罪は、信長に「主君の仇討ち」という、誰もが反論できない大義名分を与えた。弘治元年(1555年)、信長は叔父の織田信光と協力して清洲城を攻め、信友を討ち果たした 1 。ここに、応仁の乱以来、尾張南部の支配者として君臨してきた守護代・清洲織田大和守家は、完全に歴史の舞台から姿を消したのである。
織田達勝の生涯を詳細に検討した結果、彼は単なる「織田信長に滅ぼされた旧勢力の当主」という評価に留まる人物ではないことが明らかになった。彼は、守護・守護代制という室町時代以来の伝統的権威が、経済力と軍事力という「実力」の前に無力化していく時代の大きな転換点に立ち、その旧秩序を最後まで体現しようとした、過渡期を象徴する人物として再評価されるべきである。
彼の治世は、主君による前任者の粛清という不安定な状況から始まり、その権力基盤は当初から脆弱であった。その統治下で、彼は家臣である織田信秀の台頭を許し、主従の力関係は逆転した。さらに、自らの権威の源泉であるはずの守護・斯波義統にまで離反され、内憂外患の中で徐々にその権力を侵食されていった。彼の生涯は、まさに旧秩序が崩壊していく過程そのものであった。
しかし、歴史の皮肉は、彼の政治的失敗と権威への固執が、結果として新たな時代を準備したことにある。達勝が旧来の枠組みの中で権力維持に苦慮している間に、家臣である信秀は尾張国内で自由に勢力を拡大し、強固な経済的・軍事的基盤を築き上げた。そして、その遺産は子・信長に引き継がれ、尾張統一、ひいては天下布武へと突き進むための揺るぎない土台となったのである。
したがって、織田達勝は、下剋上の時代の「敗者」であると同時に、新たな時代を準備した「触媒」として、日本戦国史において重要な位置を占める人物であると結論付けられる。彼の生涯は、権力の本質が「伝統」から「実力」へと移行する、時代の大きなうねりを映し出す鏡と言えよう。